≪ 2006年10月 | トップ | 2006年12月 ≫

2006年11月30日

【4年次対象ゼミ】

今日は、バリ舞踊を学ぶ日本人についての卒業論文と、アチェ舞踊に関する卒業研究について中間報告をしてもらいました。2人とも外語祭では実際にインドネシア舞踊サークルのメンバーとして活躍してくれました。とくにアチェ舞踊に関する卒業研究を制作している学生は、日本でもまだ珍しいアチェ舞踊の上演を成功させてくれました。その意味で、実践的な卒論・卒研のテーマだと思います。

来週は、卒論・卒研提出前最終報告会の前編です。全員参加の日となります。
再来週は、全員参加の、卒論・卒研提出前最終報告会の後編です。ゼミのあと、少し時間をとって、MSWordの使い方(とくにタブの使い方など)を説明します。卒論作成に役立ててください。

以下、いくつかのコメントです。

バリ舞踊を学ぶ日本人については、バリで集めてきた聞き取り調査のデータや、これから日本でおこなう聞き取り調査のデータがあるので、必要な材料は十分にあると思います。ただ、データをそのまま出すのではなく、そこから、当事者も気付いていないような、バリ舞踊が日本人を引きつける理由を分析することが必要でしょう。複数の人から聞き取り調査をおこなっていますから、たとえば、性別とか年齢とか経歴とかいった条件で、共通性があるのかないのかをあぶり出すことによって、新たな発見を導き出してください。

また、第1章では、続く章で言及される専門用語(トペンとかレゴンとか言った用語)についての予備知識を提供する場として、必要最低限の知識を整理して提示するとよいでしょう。

アチェ舞踊に関する卒業研究については、大学の後輩にアチェ舞踊を伝えるという目標を見失わないようにすれば、内容は自ずと整理されてくると思います。章として独立する必要のない項目は、他の章の中に統合するとよいでしょう。逆に、外語祭でも上演した踊りsamanについては、踊り方や衣装の着方など、もっと具体的な記述を増やしてください。

【2006年度の記録】

12月4日(月)から始まる週の授業では、授業時間中の10分ほどを使って、授業評価アンケートをおこないます。これは全学的な取り組みとして、授業の実施についての評価をおこなうためのアンケートです。成績にまったく関係がありません。授業時間が少し減りますが、よろしく協力を願います。

2006年11月29日

【地域基礎】

今日は、インドネシアからInstitut Teknologi Bandung(ITB)とInstitut Teknologi Sepuluh Nopember(ITS)の学長お二人が本学を訪問されたため、授業の開始が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。お二人にはこの授業の様子をすこしばかり見ていただきました。

今日の地域基礎では、まず、「スカルノ時代のインドネシア」と「インドネシアの民主改革時代」の発表で出された質問のうち回答できていなかったものへの回答をおこない、そのあと、「ジャワの社会と文化~ワヤン~」の発表をしてもらいました。ワヤンの副題がありましたが、当日配布された追加資料ではバティックについても調べてきてもらいました。

今週の発表は一人だけです。外語祭が終わって最初の授業で、たまった疲れが出たのか、欠席が目立ちましたが、来週からは、平常通り2人の発表です。「アチェの社会と文化」と「ミナンカバウの社会と文化」の二つを予定しています。

以下、今日の発表へのコメントです。

ワヤンの起源については不明がことが多いのですが、ワヤンについてのもっとも古い記録は、907年に書かれたバリトゥン王のクトゥ銅板碑文です。これには、『ビーマ・クマーラ』のワヤンが行われたと記されています。ただし、どのようなワヤンであったのかは不明です。1028~35年頃に宮廷詩人カンワが作った叙事詩『アルジュナ・ウィワーハ』(アルジュナの結婚)には、「彫られた皮が動いたりしゃべったりしているのを知っているにもかかわらず、ワヤンを見る人は、涙を流したり、悲しんだり、心を乱したりする」と書かれており、11世紀の前半にはワヤン・クリが存在したことがわかります。

バティックには、さまざまな模様があることが魅力となっています。タンバルというのは、タンバルという種類の模様があるのではなく、いろいろな模様をパッチワーク状につぎはぎした様式のことです。勘違いしやすいので、注意してください。タンバル模様の例を示しておきます。
batik-tambal.jpg

2006年11月28日

【3年次対象ゼミ】

今週は、外語祭が終わって最初のゼミとなりました。外語祭の前に指示してあったように、青山の論文(青山 亨 「インドネシアにおけるリベラル派イスラームの新思潮―ウリル・アブシャル・アブダラのコンパス紙論説をめぐって―」『東京外大東南アジア学』 9:24-41, 2004.)のレジュメを提出してもらい、そのうちの、第1節と第2節の内容を検討しました。

そのあと、ネットを使って東京外国語大学で利用可能なオンライン・データベースの使い方を説明しました。

とくに、イスラーム関連の卒論を考えている人には、Encyclopaedia of IslamEncyclopedia of ReligionEncyclopedia of Islam and the Muslim Worldなどが役に立つと思います。

来週は、青山論文の残りのレジュメを検討します。

以下、今週のゼミのポイントです。

第1節では、1998年の総選挙で「イスラームと政治の結合が再び始まった」とあります。これには次のような背景があります。スカルノ政権期におこなわれた1955年の第1回総選挙では50以上の政党が参加し、インドネシア国民党、インドネシア共産党とならんで、マシュミ党とナフダトゥル・ウラマ党の2つのイスラーム系政党が主要政党として支持を集めました。この時の争点の一つは、イスラーム系政党が主張するイスラームの国教化でしたが、イスラーム系政党は多数派を占めることができず、政局は混乱しました。スハルト政権期になると、最終的にゴルカル、インドネシア民主党、開発統一党の3政党に整理統合されてしまいました。イスラーム系の開発統一党も党綱領にパンチャシラ(国家五原則)を採用することを余儀なくされ、政治の宗教の分離が図られました。このような時期を経て、再び、イスラームを旗印とする複数の政党が総選挙に参加できるようになり、国民の一定の支持を得るようになったという意味で、イスラームと政治の結合が再び始まったと述べているわけです。

第1節では、クルアーンを逐語的に理解する立場に対して原理主義という用語を使っています。この用語は、もともとキリスト教の中でも聖書の無謬性を信じ、逐語的解釈を行う立場を指す語Fundamentalismの訳です(根本主義と訳されることもある)。キリスト教での用語であったという背景もあり、イスラームについては、イスラーム主義という用語を使う人もいます。いずれにしても、神によって与えられた言葉を理解するときに、現在の常識では考えられないことであっても、そのまま受け入れるか(逐語的解釈)、理性をつかって、現在の文脈で理解できる形に解釈しなおすかによって、聖典に対する考え方が大きくわかれます。前者の立場をここでは原理主義と呼んでいます。

関連する事柄については「イスラムの諸相」の講義での質問に対する回答でも触れているので、参考にしてください。

第2節で触れている2002年のバリの爆破事件当時の雰囲気は、『インドネシア現地レポート2002』の中の第18回「バリの暗黒の土曜日」第22回「ラマダン」第23回「バリを再訪して」で触れていますので、を参考にしてください。

2006年11月21日

【ブログについて】

ブログを扱ってみて感じたことは、現存するブログの仕様、たとえばMovableType、は最大公約数的なユーザを満足させる仕様であって、特定の分野に特化したユーザ集団のニーズを満足させるにはほど遠いということだ。ブログの仕様が限定されているから、使っていないが、ブログの仕様が拡大することによって、ブログが使える道具となるような状況というのは、まだまだたくさんあるように思う。

たとえば、こんな使い方がある。私の学生の一人がフィールドワークの記録をブログで行っている。初めて聞かされたときには、驚いたが(邪道という人もいるだろうが)、考えてみれば、日々の活動をパソコンで記録している研究者は、若い人であれば、もう大多数であろう。ネットにつながる環境でパソコンを使っている研究者であれば、そこから、ブログにフィールドワークの記録をするところまでは、ほんの一歩である。もともとログを書くための道具なのだから、ブログと日々のフィールドの記録をすることには親和性がある。

ネットにつながる環境でしか使えないが、他方で、万一パソコンが壊れても、データがサーバに残っているというのも、付加価値的なメリットだろう。

ちょっとした手書きの図とか、ノートに張っておきたい資料なども、デジカメで撮って、ブログ上にアップしてしまえば、すべてのデータの一元的な管理が可能だ。メモ帳代わりにデジカメを使うということも、すでに多くの研究者にとっては当たり前になっているはずだから、これも問題はない。ビデオでさえも、SDカードに記録できるモデルを使えば、即パソコン経由でブログにアップできる。

ここでジレンマなのは、こうして記録したフィールドワークの記録は、誰にでも公開できる性質のものではない、ということである。しかし、現在のブログの仕様では、公開しないと、時系列で表示できない。これでは、データの整理が困難である。ここで欲しいのは、閲覧者を制限する機能である。また、ブログを使えば、フィールドワークの記録が、指導教員や同僚とも共有でき、ただちに、助言をもらったり、共同でデータの分析をおこなったりすることも、できそうだが、このためにも、閲覧者を制限する機能が不可欠となる。

ブログは発展途上の仕様である。どの仕様がベストかは、ユーザのニーズによって決まり、唯一の正解はない。しかし、あるユーザ集団にとって有益な仕様を作り出すことができたら、それなりにmarketableなブログになることは、容易に想像できる。

2006年11月19日

【2006年度の記録】

11月22日(水)から26日(日)まで外語祭が開催されるため、この期間の授業は休講となります。また、21日(火)とは27日(月)も準備と後片付けのため休講となります。外語祭の詳細は外語祭公式サイトを見てください。

インドネシア語専攻でもさまざまな企画をおこないます。

1年生は、料理店を出し、インドネシア料理を提供いたします。

2年生は、21日にインドネシア語劇「スクレニ、バリの娘」を上演します。順調な仕上がりです。ぜひ多くの方に見ていただきたく思います。午後3時から午後4時40分まで、研究講義棟1階マルチメディアホール(101)にて。

また、インドネシア語専攻の有志を中心に、インドネシアの舞踊を上演します。今年は、アチェの踊りを加え、多彩な踊りを楽しむことができます。

【追記】「スクレニ、バリの娘」を紹介する文章を以下に掲載しました。

■2006年度インドネシア語劇パンフレットに掲載した文章です。■

今年のインドネシア語専攻の語劇は『スクレニ、バリの娘』です。この作品の原作は20世紀前半のバリを代表する小説家A.A.パンジ・ティスナによる同名のインドネシア語の小説です。パンジ・ディスナは1908年、オランダ植民地支配のもとにあったバリ島北部のブレレンの王家の息子として生まれました。当時、ブレレンの都シンガラジャは海外からの定期客船が立ち寄るバリ島の表玄関としてにぎわっていました。本作の舞台背景には作者が生まれ育ったブレレンでの経験が生かされています。

ジャワ島で西欧式の教育をうけたパンジ・ディスナは当時の若者たちを捉えた民族主義運動の影響を受け、自らも小学校の創設など教育分野での改革運動を進めようとしますが、植民地政庁の干渉で挫折し、文学者としての道を選びます。彼の最初の長編小説が1935年に刊行された『バリ島の人買い―ニ・ラウィット―』(日本語訳あり)で、本作『スクレニ、バリの娘』は翌1936年に刊行された長編第2作にあたります。

この作品の基調となっているのはカルマ、私たちの仏教で言う業です。カルマ(業)とは行為の意味で、人は自らが成した行為(善くも悪くも)の結果を自ら引き受けなければならないことを表しています。作品の中の登場人物たちがどのような結末を迎えるかにこのことがよく示されているように思われます。皆さんもパンジ・ディスナが作品の中にこめたメッセージをぜひ汲み取ってください。

この語劇の上演に至るまでにはインドネシア語専攻2年生全員の一致団結した力が発揮されました。長編の原作を脚色されたのは、本学のインドネシア人特任教員のウントゥン先生です。おかげで素晴らしい脚本ができあがりました。ご観覧の皆様にも善きカルマの実が結ばれんことをお祈りします。

(青山 亨、インドネシア語専攻教員)

2006年11月17日

【ジャワ文化概説】

今日のジャワ文化概説では、先週に引き続いて、ヒンドゥー叙事詩「ラーマーヤナ」について講義をおこないました。

前半は、先週に続いて、9世紀に建立されたプランバナン寺院の浮き彫りをスライドで紹介しながら、ラーマーヤナの物語をたどりました。このなかで、いくつかの注意点をあげています。

1. 言葉の力。言葉、とくに神やバラモンや王によって発せられた言葉は、必ず実行または実現されなければならないという物語的約束があります。これが未来についての言葉であれば予言、相手を傷つける言葉であれば呪いということになります。ラーマーヤナでは、発せられた言葉によって登場人物の行動が規定される場面があり、物語の展開の鍵をにぎることになります。

2. 森と都の対比。森は危険な所として描かれています。森は野獣や化け物が徘徊するところであり、普通の人間が入るところではありません。森に入っていく人間は、猟師のような特別な職業をもつ人か、修行者のように自らの意思で文明の生活を捨てた人々です。森の化け物は、マラリアのような伝染病がはびこっていた古代においては、目には見えなくても現実に人間を危険にさらす存在を、物語的に表現したものだと言えるでしょう。

3. 肉体に出入りする霊。古代インド的生命観では、地上に肉体をもって存在する生き物は、死ぬと、その肉体から霊が抜け出し、新たな生命形態を得ると考えられていました。これが輪廻転生の考え方です。しかし、ジャワでは、生まれ変わるという側面よりも、もともと天界にいた存在が、何かの理由で(罪に対する罰として)地上に肉体をもった存在として生まれ変わり、それが死ぬことによって、霊を捉えていた肉体を脱して、本来の姿に戻って天界へと帰還するという側面が強調されています。この、死による肉体からの霊の解放と、天界への帰還を、ジャワやバリではモクサと呼んでいます。

プランバナン寺院の浮き彫りを紹介したあと、現在のワヤン・クリ(人形影絵芝居)やワヤン・オラン(人間が演じる芝居)やラーマーヤナ・バレーを紹介し、ジャワでは1000年以上の年月を経ても、ラーマーヤナの基本的な構造やディテールが維持され、イスラームが多数派をしめるようになっても、民衆の間で愛好されていることを示しました。

最後に、バリのケチャッのビデオを紹介し、スグリウォ(スグリーヴァ)に破れたスバリ(ヴァーリン)がモクサする場面を示して、プランバナン寺院の浮き彫りに見られるモクサの概念が現在も生き続けていることを説明しました。

来週が外語祭のため、休講です。次回の講義は、再来週になります。タイのラーマキエンなど、大陸部でのラーマーヤナの展開に触れる予定です。

【インドネシア語読解】

今日はD班によるKOMAPS紙の記事の発表がありました。

読解の方は、p.16の11行目の「...akar induknya.」まで終わりました。次回は、この続きから始めます。第2章にはいるので、十分に予習をしてきてください。

来週は外語祭のため1回お休み、次回は再来週になります。2年生は11月21日に語劇「スクレニ、バリの娘」を上演します。がんばってください。

今週のポイントは、mungkinの意味と、tidak A, melainkan Bの構文です。

【ポイント1】
mungkinを「おそらく、たぶん」と覚えている人が多いようですが、これは、正しくありません。というのは、このように覚えているとtidak mungkinという表現がわからなくなってしまうからです。

mungkinはまず「可能である」と理解しておきましょう。可能だから、「おそらく」という意味も出てくるわけです。これだと、tidak mungkinは「不可能である」という意味であることはすぐにわかりますね。今風に言えば「ありえねー」でしょうか。kemungkinanはむろん「可能性」となります。

【ポイント2】
tidak A, melainkan Bは、「Aではなく、そうではなくて、Bだ」という意味です。最終的に強調されるのはBの部分だと理解しておきましょう。

【2006年度の記録】

最近のKOMPAS紙の記事から読解授業を受けている2年生が翻訳したものです(一部手を加えてあります)。

ブッシュ訪問は利益をもたらすべし

マカッサル、パルそしてメダンでデモが起きた

11月20日月曜日のアメリカ合衆国ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領のインドネシア西ジャワ州ボゴール大統領別邸への訪問はインドネシアにとって、経済部門を含めて、利益を与えうるものにしなければならない。それゆえに、ブッシュを友人として敬意を持って迎えることが期待される。

ユスフ・カラ副大統領によってこのように言われたと引用しつつ、ストリソノ・バヒル国民信託党党首は、1時間半ほどジャカルタのディポヌゴロ通りの住まいで水曜日に副大統領と面談したあと、報道陣に答えた。

彼によると、経済分野で意図されている利益の一つは、リアウ諸島州ナツナ地域のナツナDアルファ地区における石油天然ガスの探査に関連する議論されるべき話題であり、その株価はインドネシアに利益をもたらすことである。インドネシア国民の権益がさらによくなり、最優先されるべく、カック・ウチュ(ユスフ・カラの愛称)はナツナ地区の問題に関わっている、とストリソノ氏は述べた。

ストリスノ氏によれば、利益を得るためにブッシュ大統領の訪問は友人として尊敬されなければならない、と副大統領は述べたということである。

国会副議長スタルジョ・スルヨグリヒトノ(闘争民主党所属)は、昨日、国会の建物で、ブッシュの訪問の安全確保について過剰にならないようにと、警告を発した。彼は、安全確保のコントロールはインドネシア警察が握り続けることを期待している。

昨日、国会第10委員会のムスタファ・カマルはジャカルタで、来る11月20日のボゴールへのブッシュの訪問に関連して、教育活動が犠牲にならいように政府に求めている。


ボゴール市は、ブッシュが訪問するあたりにボゴール大統領別邸周辺にある30の学校において教育活動を休みにすることを計画している。

その一方で、インドネシア外国船乗組員企業連合総代表のウブン・スブル・クスリンはジャカルタで、アメリカによって作られたテロリストに擾乱されている国家のリストにインドネシアが入っているという問題がブッシュと話されることを期待している。彼によると、そのリストのために、外国船で働いている何千のインドネシア人船乗りを下船させることになるという。

昨日までにブッシュの訪問に反抗したデモがマカッサル、パル、そしてメダン続いていた。メダンでムハマディアの中央指導部総代ディン・シャムスディンは、アメリカにイラクとアフガニスタンから軍隊を撤退するように求めた。

2006年11月16日

【インドネシア語専攻で勉強する人のために】

参考文献一覧は、卒論・卒研(以下、卒論)でもっとも大切な要素の一つです。参考文献一覧は、著者がどれだけの資料を利用して卒論を書いたかの証明でもあり、その卒論の内容の正確さを吟味するときの手がかりでもあり、その卒論を読んでさらに研究を進めたい人への道しるべとなるからです。

参考文献一覧には、卒論の本文中の引用と照応して、引用の典拠を示すための参考文献一覧と、あるテーマについて参考とすべき文献を集めた参考文献一覧の2種類があります。両者は微妙に異なりますが、ここでは卒論で使われる前者の書き方について説明します。

1. 文献の種類別の記載方法
参考文献の書き方は、細かく見ればそれだけで1冊の本になるほど、複雑ですが、基本にもどれば、次の3種類をおさえておけば、ほとんど間に合います。

1. 本まるごと
2. 論文集形式の本に収められた1つの論文
3. 雑誌に収められた1つの論文

1には、一人の著者が書いた本(単著)、複数の著者が書いた本(共著)、編者が編集した本などがあります。

2には、「論文集」と銘打っていなくても、『講座 東南アジア史』の中の一つの章だとか、『もっと知りたいインドネシア』の中の一つの章だとかが該当します。

3で雑誌というのは、定期刊行物(periodical)のことです。1と2が、ある決まった時点で刊行されるのに対して、定期刊行物は年に1回(年刊)、年に4回(季刊)、月に1回(月刊)といった風に、定期的に刊行されるという特徴があります。したがって、雑誌にはたいてい「巻」とか「号」といった番号がつきます。通例、1年間に複数回刊行される雑誌の場合、1年分をまとめて「巻」と呼び、そのなかの1部を「号」と呼びます。たとえば、35巻4号というのは、その雑誌が発刊してから35年目にはいってから4番目の号という意味である可能性が高いです。大学の紀要は(たいてい年刊の)雑誌に該当します。

1、2、3に共通していることは、いずれも、著者(または編者)の名前がはっきりしているという点にあります。この点で、新聞の記事などとは異なります。

卒論の参考文献では、各項目の最初は必ず、著者(編者)の氏名、出版年が最初に来ます。なぜなら、この二つの要素が見出しになって、配列されるからです。この後の要素は、1か2か3で異なります。

【1の場合】
中村廣治朗. 1997. 『イスラームと近代』(叢書 現代の宗教13)岩波書店.

佐藤百合・編. 2001. 『インドネシア資料データ―スハルト政権崩壊からメガワティ政権誕生まで―』アジア経済研究所.

【2の場合】
青山 亨. 2001. 「東ジャワの統一王権―アイルランガ政権からクディリ王国へ―」『東南アジア古代国家の成立と展開』(岩波講座 東南アジア史2)岩波書店. pp.141-167.

【3の場合】
青山 亨. 2004. 「インドネシアにおけるリベラル派イスラームの新思潮―ウリル・アブシャル・アブダラのコンバス紙論説をめぐって―」『東京外大 東南アジア学』9: 24-42.

最後の例は、9巻の24ページから42ページまでという意味です。9巻の2号なら「9(2):24-42」と表記します。

なお、同じ著書が同じ年に2つ以上の文献を出しているときは、年の部分を「2003a」「2003b」のようにアルファベットを付けて区別します。

2. 文献の配列方法
当然のことですが、文献一覧に載せる文献は一つではありません。本文で参照された文献を素早く見つけ出すためには文献の配列に工夫する必要があります。日本語の文献が中心の場合はあいうえお順で、英語やインドネシア語などの文献が中心の場合はアルファベット順で配列します。両者がまじっている場合には、二つに分けてください。

日本語の文献は、次の例のように、著者の苗字、著者が組織の場合は組織名の読み仮名のあいうえお順に配列します。同一著者の文献が複数ある場合は、出版年の古い順から新しい順に配列します。

アルフォンス・デュプロン 1992 『サンティヤゴ巡礼の世界』原書房でゅぷろんで配列(あるふぉんすではない)
日本観光協会 2006 『数字で見る観光―2006年度版』 創成社にほんかんこうきょうかいで配列
山下晋司編 1996 『観光人類学』新曜社やましたしんじで配列
以上、簡単ですが、基本的な用例ですから、参考にしてください。

最後になりましたが、参考文献一覧の書き方は、細部になると、自分で書き方を決める必要が出てくる場合があります。そのとき、大事なことは、一度決めた書き方は最初から最後まで変えないという、一貫性です。不明な点があれば、コメントをしてください。

卒論の本文の中で文献を参照する方法は別のページで説明しています。

【4年次対象ゼミ】

今日は4年生全員が顔をあわせる全員集合のゼミでした。それぞれの進捗状況を報告してもらいました。時間的余裕も限られてきているので、これからは、自分の能力と手元にある資料で、残った時間のなかでどれだけのことができるかを見極めて、卒論・卒研の作成をすすめていくことが大事でしょう。

参考文献一覧の書き方は、学習の補助のカテゴリーの参考文献一覧の書き方に記しておいたので参考にしてください。

次週は外語祭のため休講です。次回のゼミは11月30日になります。12月7日と14日は、提出前最終報告会になるので、それまでにしっかりと取り組んでください。

【ブログについて】

シックスアパートのサイトには、Blog on Businessというタイトルで、ブログの応用事例の紹介がおこなわれている。その中に、大学での活用事例が紹介されている。たとえば、

1. 青山学院大学国際政治経済学部の事例
2. 中部大学・経営情報学部経営情報学科の事例

1の事例は、学部広報の発展形である。いくつかのブログを組み合わせて、ウェブ上に広報を作るというアイデアである。従来の広報のような情報発信型と、教員の意見発信型を組み合わせているのが特徴。実際の運用の状況は同学部SIPEC BLOGの案内ページから見ることができる。

2の事例は、一つのゼミを対象としたブログである。事例では工学系の使い方をしているが、ゼミ生のレポートや論文を公開して、ゼミの中で共有するという発想は使えそうだ。

2006年11月15日

【ブログについて】

ブログの使い方について、前から気になっていたこととして、ある個人にとって、ひとつのブログでは足るはずがない、ということがある。

たしかに、ブログには、カテゴリーに分けてエントリーを自動的に分類する機能がある。しかし、たとえば、個人の趣味にかかわるカテゴリーと、仕事にかかわるカテゴリーとでは、たいていの場合、ひとつのブログにうまくおさまりきらないだろう。

要するに、一人の個人には複数の顔があるという基本的な事実が厳然として存在するということである。そのそれぞれについて、ウェブ上で情報発信をするとなれば、当然、複数のサイトが必要になる。このことは、htmlをしこしこと書き込んで作っていたウェブサイトでも同様に言えることなのだが、ウェブサイトの場合、作成と維持の労力が大きいことから、自ずと、一つのサイトのテーマを絞り込まざるを得なかったように思う。しかし、ブログの場合は、このような抑制があまり利いていないように思われる。その背景には、あまりにも投稿が簡単にでき、しかも、カテゴリー分けという機能があるために、なんでもかんでも書き込んでおけばブログが勝手に仕分けてくれるという(一面では安易な)依存意識がうまれやすいことがあるだろう。

しかし、より根本的な問題は、ブログによる個人情報の発信という側面が強調されるあまり、その個人のプロフィールに含まれている複数性という側面が十分に認識されていなかったことにあると思われる。会社のサーバ上で走るブログに載せた記事が元で社員が解雇された例を最近よく耳にするのも、根元的には、ひとつのサイトですべての用を足すことはできない、というウェブによる情報発信のあり方を表しているのだろう。

ひとつのサイトでは足らない、しかし、複数のサイトを運営する労力はかけられない、このジレンマも、大学のサーバでブログが広まらない要因の一つだろう。大学のサーバである以上、教育や研究という公的部分が前面にでざるを得ないし、私的な部分はひっこめざるをえない。うまくいきそうな分野として思い浮かぶのは、映画の鑑賞と表象文化の分析といった、趣味と研究が幸福に調和できそうな分野ぐらいだろうか。

【地域基礎】

今日の地域基礎では、まず、先週できなかった「インドネシアのイスラーム」での質問への回答をおこない、そのあと、先週欠席でできなかった「民主改革時代のインドネシア」と「バリの社会と文化」の発表をおこないました。

以下、今日の発表へのコメントです。

1988年にスハルト政権が倒れると、民主改革(Reformasi)の時代が始まりました。この時代は、短期間のうちにハビビ、ワヒド、メガワティ、ヨドヨノと4人の大統領が登場する政治的混迷の時代でもありました。しかし、その中にも、大統領の権限の縮小と直接選挙制、中央政府の権限の地方への移譲、国軍と警察の分離といった大きな改革が進められました。こういった大きな方向性を見失わないことが大切だと思います。

バリの社会と文化については、参考にした典拠のためと思いますが、バリ・ヒンドゥーの起源について、誤った考えに基づいているようです。まず、イスラーム勢力による1478年のマジャパヒト王朝の崩壊は根拠がありません。マジャパヒト王朝は16世紀の初めまでは存続していました。次に、マジャパヒト王朝の崩壊にともなってマジャパヒトの王族たちがバリへ避難し、ジャワ的なヒンドゥーを持ち込んだという記述も誤りです。バリはすでに14世紀のマジャパヒトの征服によって、ジャワ的なヒンドゥー世界の一部になったと考えるべきと思います。さらに、このときに初めてバリはヒンドゥーを受け入れたのではなく、これ以前から、ジャワとは独立してインド文明の影響下にあっと考えられます。

バリの古代史には確かに不明な点が多いのですが、とくにネットの情報には注意をはらっておく必要があるでしょう。

【3年次対象ゼミ】

11月28日に読むウリルの論説のインドネシア語原文です。

Ulil Abshar-Abdalla. Menyegarkan Kembali Pemahaman Islam. Kompas 2002-11-18.
  クリック→Menyegarkan_Kembali_Pemahaman_Islam.doc

2006年11月14日

【3年次対象ゼミ】

今日は、10月30日に80歳で死去したC.Geertz "The Religion of Java"Chicago: University of Chicago Press. 1976.のレジュメの報告がありました。

予定していた青山の論文については、次回以降、輪読するためのレジュメ分担を決めました。また、次回は、共同研究室のパソコンを使って文献検索をする方法を説明します。次週は外語祭の期間なので、次回のゼミは再来週に開催です。

以下は、今日のレジュメに対するコメントです。

この本は、信仰の様態を基準として、ジャワ社会の階層をアバンガン、サントリ、プリヤイの3類型に分類して論じています。現在では、ギアツの3類型よりも、これにオラン・クチル(庶民)を加え、正統的なイスラーム信仰の強さを軸とした、サントリ=アバンガンの軸と、社会における地位の高さを軸としたプリヤイ=オラン・クチル(庶民)の軸の組み合わせでジャワ社会を理解するようになっています。

また、アバンガンの特徴として取り上げられている共食儀礼スラマタンについて、ギアツは様々な種類があると記述していますが、むしろ、さまざまな伝統的儀礼があり、それらに共通する要素としてスラマタンが見られると理解する方が適切であると思います。

このように、ギアツの分析にはいくつもの修正が必要ですが、アバンガン、サントリ、プリヤイという分析枠を初めて提示したという点で、この本の先駆的価値はゆるがないでしょう。ギアツの研究に対する批判・反論についてはさらに調べてみてください。また、イスラーム関連の概念については、事典などで調べる必要があります。

スルタンのもとでの社会状況に関心があるのであれば、オランダ語、ジャワ語文献も必須ですが、卒論レベルであれば、まず、インドネシア語、日本語、英語で読める文献に限定できるテーマの設定が必要でしょう。オランダ植民地時代のイギリス人が書いた見聞録を中心にするなどの方策が考えられます。

2006年11月10日

【ジャワ文化概説】

今日のジャワ文化概説では、ヒンドゥー叙事詩「ラーマーヤナ」に入りました。前回、配布した「ラーマーヤナの概要」に基づいて、登場人物の関係を整理したあと、物語の粗筋をスライドを使いながら説明しました。今週はシーターがラーヴァナに誘拐される場面までです。来週はこの続きを説明したあと、現在のジャワやバリなどでラーマーヤナがどのように受け入れられているかを見ていきます。

授業で見せたスライドをPDF形式で載せたので、欠席した人は見ておいてください。今日は7ページの最後まで進みました。出席した人も参考にしてください。

  • 題名:プランバナン寺院浮き彫りに見るラーマーヤナ
  • ファイル形式:PDF 1272KB
  • ファイル名:ramayana_in_prambanan.pdf
  • 右をクリックしてダウンロード→ramayana_in_prambanan.pdf

【インドネシア語読解】

今日はOrang dan Bambu Jepangのp.15, para.8の途中、tak terdapat pada orang Amerika.まで訳が終わりました。説明が終わっていないので、来週はこの部分の説明と、次の文の訳から始めます。次週のBBCニュースの訳はD班の担当です。

【補足】
pegawai yang diangkatnya [...], ternyata kemudian pindah ke perusahaan lainという文のdiangkatnyaは、「昇進させてもらった」と訳すとよいでしょう。「もらった」というところにdi-形の意図を含めています。なお、「採用させてもらった」であれば、diterimaまたはdiambilになるところです。

【2006年度の記録】

最近のBBC Indonesia.comのニュースから読解授業を受けている2年生が翻訳したものです(一部手を加えてあります)。

オーストラリア・インドネシア、条約に合意

オーストラリアとインドネシアはテロと国境を越えた犯罪を撲滅する試みを含む新しい安全条約に合意した。 

この合意は来週調印されるものと予想されている。この合意で、両国は主権や領土保全を脅かすようなあらゆる活動を支持しないことを義務付けられる。

インドネシア外務省のスポークスマン、デスラ・プルチャヤ氏は、二国間条約が、治安活動を含む、インドネシアとオーストラリアで過去に行われた、または今後行われる活動や条約を包括するものになるであろうと述べている。

デスラ氏は、特に1999年以来非常に激しい“浮き沈み”を経験してきた、調印する二国間の関係を描いた。

この条約があることで、外務省のスポークスマンの言葉のように、主権、領土保全、そして内政不干渉に関わる原則的要素が明文化される。

BBC Indonesia.com
Diperbaharui pada: 08 November, 2006 - Published 15:42 GMT

http://www.bbc.co.uk/indonesian/news/story/2006/11/061108_aussiepact.shtml

【注記】
X menjadi payung bagi A dan Bは「XはAやBを包括する」と訳します。payungは傘、Xというその傘の下にAやBがおさまって、雨風をしのぐ、というイメージです。もともと英語圏の表現だったのをインドネシア語に移し替えたのだと思われます。

2006年11月 9日

【4年次対象ゼミ】

今日のゼミでは、コモンズをテーマにする卒論とアジア経済危機と発展の構図をテーマにする卒論について中間報告をしてもらいました。いずれも興味深いテーマだと思います。

以下にコメントを述べます。

コモンズについての卒論では、南西太平洋熱帯海域において、最近まであるいは現在も基本的に自給自足に近い経済を維持している伝統的村落共同体に対象を絞ることをまず明らかにしました。事例としては、カリマンタン、パプア・ニューギニア、ソロモン諸島での調査資料を用います。第1章では、コモンズの考え方の基本を述べ、第2章では、共同体の日常生活レベルでの資源の利用をめぐる慣習を、分析し、第3章では、貨幣経済を背景とした外部者による資源の利用をめぐって生じる慣習の適用方法を分析し、第4章では、そこから抽出される南西太平洋熱帯海域におけるコモンズの利用をめぐる慣習のあり方を整理する、という方向でまとまりそうです。

アジア経済危機については、危機の背景、危機の発生と各国の対応、IMFによる危機克服政策の功罪、危機後の経済回復の状況、そして将来の危機を回避するための施策、といった流れで構成することになりそうです。先行研究は多いテーマですが、自分なりに資料をあつめ、分析して書くという作業が、のちのち役に立つことでしょう。参照した先行研究は出典を明らかにすること、また、参照した文章を丸写しするのではなく、自分の言葉で再構成することが大事です。

来週11月16日は、全員による中間報告を行います。

【ブログについて】

今回、これまで気になっていた部分を大幅に手直しした。主なポイントは、上段のいわゆるパンくずリストをウェブ本体のスタイルにあわせたこと、アーカイブ関連のページをすべて2コラム形式に統一したこと、トップページの構成を変えて、中心部分に、カテゴリー別に最新3エントリーのタイトルを載せるようにしたこと、これにともなって、サイドバーの内容を見直し、最新のエントリーやリンクを削除して、単純にしたこと、などである。

CSSの書き方が前よりもわかってきたことが役に立った。授業関係お知らせのブログとしては、まだ微調整の必要はあるが、一応、この段階で完成としたい。

2006年11月 7日

【3年次対象ゼミ】

11月14日には次の論文を読みます。

青山 亨 「インドネシアにおけるリベラル派イスラームの新思潮―ウリル・アブシャル・アブダラのコンパス紙論説をめぐって―」『東京外大東南アジア学』 9:24-41, 2004.

下のリンクをクリックしてPDFファイルをダウンロードし、プリントアウトしておいてください。
  liberal_islam.pdf

【3年次対象ゼミ】

今日は、橋本和也著『観光人類学の戦略―文化の売り方・売られ方』(世界思想社、2001)とタウフィック・アブドゥルラ編『インドネシアのイスラム』(めこん、1985)のレジュメの報告をしてもらいました。

観光人類学のレジュメはよくできていたと思います。著者は観光と巡礼を類似の形態をもつが別のジャンルに属することとみなしていますが、発表者は観光と巡礼をもっと重なるものと考えているようです。このような問題意識は大切にしてください。インドネシアの場合では、メッカへの巡礼は、ジャワ島内のワリ・ソンゴの聖廟への巡礼があります。これらのデータをもとに、自分なりの分析を行うことが可能でしょう。

『インドネシアのイスラム』は1985年に出版されたものなので、現状とはかならずしもあわないことに気をつけてください。また、イスラーム関係の本の中で出てくる基本的な概念は、イスラム関係の辞書などできちんと調べておく必要があります。以下のものが代表的です。

『岩波イスラーム辞典』(岩波書店)
『新イスラム事典』(平凡社)

プサントレンとマドゥラサでの教育を調べたいのであれば、先行研究がいくつか出ているので、これからよく読んでいく必要があるでしょう。

来週は、今日、時間がなくてできなかったレジュメの報告のあと、青山のイスラーム関連の論文を読みます。また、学内のパソコンからオンラインの電子図書の使い方を説明する予定です。

11月16日には4年生との合同飲み会です。楽しみにしてください。

【地域基礎】

今日は、先週できなかった「スハルト時代のインドネシア」についての質疑応答と、「インドネシアのイスラーム」の発表をしてもらいました。

来週は、今日欠席でできなかった「民主改革時代のインドネシア」、そして「バリの社会と文化」を予定しています。

以下、今日の発表へのコメントです。

まず、スハルト政権、冷戦時代のなかで反共を明確に打ち出したので、軍事独裁政権でありながら、日本や欧米から十分な支援を受けることができました。海外から支援と投資をもとに、経済開発を推進し、食糧自給や工業化に一定の成功を収めました。これが、国内での支持を維持することができた理由です。しかし、経済が発展して都市中間層が伸びてくると、一部の権力者に利権が集中する構造に対する反発が生まれてきました。冷戦の終結で軍事独裁政権に対する国際的な支持も理由を失い、国内では支持基盤が弱まるなかで、1988年の金融危機を引き金としてスハルトは退陣に追い込まれたわけです。

インドネシアのイスラームの発表はよくまとまっていたと思いますが、調べてきた資料について、具体的なイメージをもてるように努力するとよいでしょう。インドネシアのイスラーム教徒のなかで、赤ん坊が生まれたときと成長する過程で行われるときの儀礼については、宿題として来週までに調べてきてください。

【ブログについて】

本学が提供するMovableTypeによるブログの活用法についてなんどか検討してみたが、行き着いた結論を述べてみたい。

ちなみに、はてなでは大学でのブログの活用について参考になる議論がおこなわれている。コミュニティ形成の困難さ、認証の必要性、など共通した問題提起がある。

私自身の考えは以下の5項目にまとめてみた。

1. 活用するための基本的な方針は、仕様の制限を拡張するよりは、敷居の高さを低めることとする。つまり、知識のある中級・上級ユーザに便利な機能を増やすよりは、まず第一に、初歩のユーザが使いやすい環境を整えることである。

2. そのために、ブログのウェブサイト構築機能に焦点をおく。ブログのコミュニティ形成機能・双方向コミュニケーション機能(コメント、トラックバック、RSSなどによる)は2次的なものとして、当面の目標とはしない。ウェブ構築機能のねらい目としては、CMS以下、HTML以上、を目標とする。つまり、最小限のウェブサイトを簡単に構築できることが目標である。

3. ウェブサイト構築を支援するために、大学教員のニーズに適したテンプレートを準備し、提供する。実は、現状では、この部分が一番欠けており、一番必要とされる部分であると思われる。MovableTypeのデフォルトのテンプレートでは、教員のニーズを満たさないし、フリーや市販のテンプレートにも大学教員のニーズに特化したものは見当たらない。となれば、大学の情報化支援室なりが、テンプレートを揃えて、教員に提供することが望ましい。

私自身最近、本学の多文化コミュニティ教育支援室の学生活動FAQ用のブログを作成したが、このテンプレートは、本学が購入した商業製品のテンプレートをさらに改造したものである。学生向けFAQの構築などは、ブログがもっとも得意とする分野のひとつだと思うので、試してみたい人の参考になれば幸いである。なお、テンプレートの提供には、StyleCatcherなどが使えるようであれば、なおのこと初心者には便利であろう。

4. 初歩のユーザに対象を絞ると述べたが、現在の仕様では欠けている検索結果表示ページのテンプレート設定や、複数ユーザの投稿の許可などといった大学教員にとって不可欠な機能は、吟味したうえで、積極的に使えるようにすべきであろう。

5. なお、以上の記述は教員ユーザを念頭においている。事務サイドにとってはCMSレベルの機能が必要であるかもしれない。これについては、専門の方の検討をお願いしたい。

2006年11月 3日

【ブログについて】

ブログに手直しを加えてみた。今回の手直しでは、ウェブサイトとの一体性をさらに強めること(タイトルからブログを削除した)、授業関連の内容に焦点をおくこと(研究のカテゴリーを削除)、カテゴリーの配列を本来意図していた配列にすること(別のエントリーで説明した方法を使っている)、などがポイントである。まだ、不満足なところはあるが、ブログとウェブサイトとの間をシームレスにつなぎ、ウェブサイト内の授業関係のお知らせ部分を分担させるという最大のポイントは達成されたと思う。研究のカテゴリーについては、後日あらためて充実を図るつもりだが、更新頻度が高くないこと、定型化が難しいことを考えると、ことさらにブログを使わなくてもよいだろうと考えている。ようするに、htmlでこつこつと書くこととブログを使うことは当分の間は共存していくだろう、というのが現時点での見通しである。

【ブログについて】

前編では、大学のブログが十分に活用されていない要因を分析してみた。後編では、活用されるための方策について考えてみたい。

むろん、前編で述べた個別的な不具合を解消することも必要なのだが、それ以前に考えておかなければならない、もっと基本的な問題があるように思われる。それは、そもそも何のためにブログというシステムを使うのかという問題である。

大学のブログを使う目的は、すでに前編で述べた。問題は、その目的を達成するために、利用者はブログというシステムに何を期待しているのか、ということである。この期待が満たされない限り、利用者はブログを継続して利用しようと言う気にはならないであろう。

結論から言うと、教員や学生がネットでつながっており、ネット上でウェブを使って情報をやりとりするという仕組みがすでに情報インフラとしてできあがっていることを前提とした場合、ブログに期待される機能とは、最近広まってきた表現で言うところのCMS(Contents Management System)であろう。簡単に言えば、ウェブ上に簡単にサイトを構築し、テキスト、画像、音声、映像などのデータをやりとりできる仕組みということになる。

具体的に言えば、以下のような機能が最低でも欲しいところである。
1. 簡単な作業でレイアウトが完成し、ウェブサイトが構築できる。レイアウトはあとでも改変が可能。
2. テキストに適当なラベルをつけて、ウェブ上から投稿すると、システムが自動的にウェブサイト上にテキストを表示する。
3. テキストだけではなく、時間割のような表や図なども、ウェブページに簡単に表示することができる。
4. 固定した静的なページも簡単に作れる。
5. 特定のページにアクセス制限を掛けることができる。
6. システムの管理をグループでおこなうことができる。
本学のブログを見ると、1や2はある程度実現しているが、それ以外の機能は不十分である。

客観的にみて、MovableType本体だけを見た場合、大学の教員が求めるCMSの機能を満たしているとは言えない。これは、MovableTypeがもともと日記、日誌、ジャーナル的な情報発信のために開発されてきたことを考えれば当然だろう。Movable Typeという言葉が「活字」という意味なのは示唆的である。

利用者が求めているものは、結局、ブログという技術なのではなく、ウェブ上でのコンテンツの簡単な管理手段だと言ってよいだろう。したがって、MovableTypeで使われている技術を核にして、大学のウェブサイトとして望まれるCMSの機能を付けたようなシステムへと発展していくことが、理想的な姿だと思う。実際、このようなCMSは市販のパッケージとして存在する。

今回はウェブサイト構築手段としてのブログを評価したので、コメント、トラックバック、pingなどの双方向のコミュニケーションについてはまったく触れなかった。複数のブログが、これらの技術によってつながって、開かれたコミュニティを作り上げるというのが、ブログの社会的な側面であり、ブログというテクノロジーの背後にある理念であろう。この点から言えば、本学のブログ導入に際して、大学側からほとんどサポートがなされていないというのは、諸般の理由があるのだろうが、ブログ本来のやり方ではないと言えるだろう。

今回のMovableTypeとの出会いは、ブログの根底にこれまで使ってきたxhtmlやcssがあることを確認できたよい機会となったし、ウェブ上での新しい技術についていろいろと考えさせられるよい機会にもなった。次のステップとして、コメントやトラックバックなどを活用した、学生と教員との間のコミュニケーションの手段となるのかどうか、試行錯誤を重ねてみたいと思う。

【ブログについて】

システム・メニューの情報によると本学のMovableTypeシステムには73のブログが作られている。ブログ上のページに以下のリストを打ち込んでやると、このシステム上のブログの名称、説明、リンクが表示されるので、ざっと見てみたのだが、ほとんどが試験的に作られたものばかりで、実際に利用されているのはほんの一握りである。

<MTBlogs>
<a href="<$MTBlogURL$>"><$MTBlogName$></a><br />
<$MTBlogDescription$><br />
</MTBlogs>
ブログと言えば、ネット上では十分に認知されたテクノロジーだし、試験的にでもブログを作ってみようという人は、それなりの期待をもって(強制的にではなく)ブログを開設したと予想されるのだが、なぜブログは十分に活用されていないのだろうか。

結論から言えば、(民間プロバイダのではなく)大学のブログを使う目的と、大学が提供しているブログの仕様との間にミスマッチがある、というのが最大の理由だと思われる。

まず、ブログが十分に活用されていない理由を考えるためには、まず利用者を二つのパターンを分けてみたい。

第1のグループ かつてウェブサイトに挑戦してみたものの敷居が高くて断念した人たちが、ブログなら簡単と聞いて、試してみたが、やはり理解できない、使いにくいといった理由であきらめた。

第2のグループ ウェブサイトをすでに運用しおり、それなりの知識をもっている人が、新しいテクノロジーということでとりあえず試してみたが、継続して利用するメリットを見いだせなかった。

さて、大学に特化したブログの活用目的として考えられるのは、授業および研究(事務関連もあるがここでは省略)に関連する情報提供ということになろう。たとえば、1)学生に対する授業に関する連絡、関連情報の提供、配布資料のダウンロード可能なファイルによる提供、2)研究テーマに関連する思いつきのメモ、進捗状況の心覚え、完結した研究成果の報告、論文自体のダウンロード可能なファイルによる提供、研究会・シンポの広報、などが考えられる。

では、第1と第2のグループは、これらの目的のためにブログを使おうとして、どういう問題に行き当たるのか。

第1のグループは、なんとかブログを立ち上げても、基本的に、デフォルトの状態のままで使うことになる。このグループにとっては、まずブログでエントリーを書くことの作法を把握するのが、一つの山になるだろう。たとえば、ブログのエントリーは、作成日時順に配列され、投稿者の名と作成日時が自動的にスタンプされて表示されてしまう。このような文章作法は、日記や日誌(文字通りログ)に最適であるが、授業の連絡や、研究の報告には必ずしも重要なものではない。無視すればいいような物だが、視覚的にかなり雑音になることは確かだと思われる。

次に、カテゴリーの配列が、デフォルトの状態では、思うようにいかないのも難点である。講義ごとにカテゴリーを分けて、授業の連絡をするのに使えるのではと予想して使ってみた多くの人が、ここで失望するのではないだろうか。同じく、エントリーの中ではなく、固定したページ、たとえば、サイドバーの中で外部のウェブページとリンクを張るというのは、多くの人が希望することだと思われるが、そのためには、テンプレートを書き換えなければならず、かなり敷居が高い作業となる。

そして、最後になるが、デフォルトの状態では、どのページも代わり映えが無いうえに、誰のブログを見ても似たり寄ったりという、きわめて味気ない、画一的な状態への違和感がやがて生じてくるはずである。この印象は、ホームページビルダーのようなソフトにお任せでウェブサイトを作っていた人ほど強いかもしれない。

一方、第2のグループの場合は、上記の問題は多かれ少なかれ(手間はかかるが)乗り越えることができる。別のテンプレートを導入して置き換えることによって、レイアウトやスタイルは大きく変えることが可能であるし、カテゴリーの配列なども、テンプレートに手を加えることで解決することができる。

しかしながら、このグループにとっては、システム上の制限が重い足かせになっているように思われる。まず、グループ管理がブログ開設者の権限でできないという制限がある。たとえば、あるコースに参加する教員が共同してブログを運用しようとしても、ブログの開設者には、投稿の権限を他の教員に与えることができないので、そのたびに、システムの管理者に依頼しなければならない。

次に、アクセス制限を掛けるような仕組みが備わっていないことがある。特定のアカウントからのみアクセスできるような仕組みがあれば、たとえば、一つのゼミの参加者だけが利用できる空間が作れるのだが、システム自体が完全に外に開いているので、学生の個人情報に関わるデータの取り扱いには気を使う必要がある。

これらの制限もMovableTypeの改良によって解消される可能性もあるが、ユーザの数が限られた大学のサーバでは、簡単にバージョンアップすることも難しいであろう。現に、MovableTypeはすでに3.3になっているが、本学のシステムは3.2である。このような制限が残るのであれば、第2グループの人々は、いずれ学外のプロバイダが提供するブログへ移っていくことになろう。

ここまで、ミスマッチの要因をさぐってみたが、それでは、大学のブログが活用されるためには、どのような対策をとればよいだろうか?続きは後編で述べたい。

2006年11月 2日

【4年次対象ゼミ】

今日のゼミでは、ジャワの舞踊をテーマにした卒研とジャカルタでのゴミ処理をテーマにした卒論の中間発表をしてもらいました。

以下、簡単なコメントです。


舞踊に関しては、はじめの部分で、ジャワの舞踊に、古典と創作があること、古典にはジョグジャカルタ様式とスラカルタ様式があること、を説明し、創作については映像資料はあるが、文献資料が乏しいこと、また、古典については主としてジョグジャカルタ様式の説明をおこなっていることを、きちんと述べておくことが必要です。卒論にしても卒研にしても、自分の論証の限界をきちんと明示することで、読む人は、この論文を読むことでどこまでが明らかになり、どこからが明らかでないのかを知ることができます。ここから、次の研究への足がかりが生まれるわけです。

途上国のゴミ処理の問題は、これからますます大きくなります。2番目の論文は、その意味で大変に重要な意味をもっていますし、政策提言的な論文にしようとする意欲も素晴らしいと思います。しかし、そのためには、机上の空論にならないように、現状を分析することと、提言を具体的に組み立てることと、という二つのステップが必要でしょう。現状の分析においては、個々の現象をきちんと概念化し、相互の関係をしっかりと見極めること、提言の具体化においては、理想を先行させるのではなく、たとえばインドネシアの社会において実行可能な施策を考えることが大切です。

【2006年度の記録】

ガジャマダ大学のスギオノ先生をゲストにお迎えして、地球規模の平和教育についての、インドネシアと日本をインターネットで結んだ講演が開かれます(英語)。東南アジア、とくに東ティモール、アチェの紛争解決、平和構築に関心のある学生は参加してみてください。

日時:11月8日(水)と9日(木)の午後2時30分から6時30分まで。
場所:東京外国語大学研究講義棟205。

詳しくは下のワード・ファイルを開いてください。
GCNov06.doc

2006年11月 1日

【リレー講義】

2006年10月24日に、総合文化講座が開講している宗教学のリレー講義『世界に現れる「神」』の1コマを担当し、「インドネシアの神・神々・カミ」というテーマで講義をおこないました。

この時に提出してもらったレスポンス・ペーパーの質問・コメントの一部に対する回答をしたに載せました。質問・コメントの文章は受講生から寄せられたよく似た複数の質問・コメントから要約してあります。また、2004年度の授業で出された質問に対する回答も参考にしてください。


質問1

一神教であるイスラームにとって土着の宗教を信仰することはイスラームの教義に反することではありませんか。もし、これを許すのであれば、それはイスラームの普及を目指すがために、一神教という宗教の本質を人為的に曲げた、偽善的な行為なのではないでしょうか。

回答1

ジャワの宮廷儀礼や民間儀礼を見ると、本当にこれでもイスラームだろうかという疑問をもつことは多々あります。実際、イスラームの正統的な教理を信奉をする人たちの中には、このような土着的信仰を非イスラーム的なものとして排除しようとする人たちがいます。このような立場からすると、ジャワの土着的な信仰を許容することは、ご指摘のとおり、イスラームの教えに反することになります。ジャワの人たちもけっしてこの問題に無自覚なわけではありません。

しかし、イスラームと土着的信仰との共存というのはジャワだけの現象ではないということにも留意しておく必要があります。おそらく、歴史的にみた場合、土着的信仰への寛容的な姿勢があったからこそ、ここまでイスラームが広まり、多くの民族に受け入れられたといってようでしょう。このような現象は、クリスマスを受け入れたキリスト教にもあてはまることです。これを偽善的とみるか、現実的とみるかは、見る人の立場によると思います。

最後に、注意してほしいのは、精霊の存在自体はイスラームにおいては否定されていないということです。精霊もまた神によって造られた被造物として認められています。「アラジンと魔法のランプ」に出てくるジンなどは精霊の一種です。したがって、人々が土着の信仰にしたがって精霊の存在を信じているというだけでは、問題にはならないでしょう。しかし、神への信仰をさしおいて精霊に対して信仰をおこなうとなると問題になります。

インドネシアの映画やテレビ番組には、悪霊を信仰し、その力で成功しようとする人物が出てくるドラマがたくさんあるのですが、きまって最後は正しいイスラームの信仰によって滅ぼされてしまいます。こういうところに、誤った信仰と正しい信仰を区別しようとする意思が維持されているように思います。


質問2

インドネシアではイスラームは土着の宗教と結びついて独自の展開を見せています。このような宗教の現地化は他の宗教や他の地域でも起こったことなのでしょうか。

回答2

回答1でも触れましたが、宗教の現地化という現象は、他の宗教や他の地域でも普遍的に起こっている現象です。たとえば、キリスト教のクリスマスは、もともとキリスト教とは無関係な冬至の儀礼を取り込んだものです。また、ジャワのイスラーム信徒がよくおこなうスラマタンは、他の地域のイスラーム教徒によっても行われています。歴史的に見た場合、イスラームが広まっていく過程には、このような土着の宗教に対する一定の寛容性があったと思われます。この意味で、ある地域のイスラーム化はイスラームの現地化と表裏一体の現象であるといってよいでしょう。


質問3

インドネシアの精霊の中では女性の活躍が大きいことが意外でした。理由はなんでしょうか?

回答3

ジャワでは、南海を支配する精霊の女王ラトゥ・キドゥルに対する信仰が強く生きています。もともとジャワを初めとする東南アジアでは、伝統的に社会における女性の地位が高いことで知られています。たとえば、財産や地位の相続は男系と女系の双方に継承されます。こうしてみると、ラトゥ・キドゥルの活躍は、男性優位とされるイスラームに対するジャワ文化からの抵抗の表現なのかもしれません。


質問4

タイラーは諸宗教の形態を進化論的に説明しましたが、これが現在の宗教問題(最近のローマ教皇の発言など)にも根本的に影響を与えているのでしょうか?

回答4

イギリスの文化人類学者タイラー(1832-1917)は、宗教の原初的形態はアニミズム(精霊信仰)であるとみなし、そこから段階的に唯一神仰へと宗教は進化したと考えました。彼の進化論的な見方は今では受け入れられていませんが、宗教の基本に「霊的なものへの信仰」があるとするアニミズムの概念は現在でも有効です。

ところで、現在の宗教問題というのはキリスト教とイスラームの関係について尋ねられているのだと思いますが、この問題は、タイラーの進化論的見解に由来するとは考えられません。なぜなら、イスラームもキリスト教と同じ唯一神信仰であるうえに、発生した時期はキリスト教よりもあとになるからです。進化論を単純に適用すると、キリスト教からイスラームが進化したことになってしまいますし、これはキリスト教徒の望むところではありません。実際、キリスト教の教理には「三位一体」説のように唯一神信仰の原則からすると逸脱する部分を含んでおり、イスラーム教徒から批判されてきています。したがって、現在のキリスト教とイスラームの関係をタイラーの進化論的見解の影響で説明することは無理でしょう。

今年9月12日に出されて問題となったローマ教皇ベネディクト16世の発言の背景には、キリスト教とイスラームの間にある信仰についての理解の違いがあると思われます。図式的に単純化して言えば、キリスト教は、神への信仰と人間の理性のあいだにバランスをとるべきだとするのに対して、イスラームは神への信仰に重きを置くという違いです。ベネディクト16世は、イスラームに(しばしば)見られる人間の理性への軽視が、テロという信仰の名の下での暴力を許しているのではないか、という疑問を呈したのだと思います。

教皇の講演全文英訳を読むことができます。また、教皇の発言とその意味については、「ローマ教皇のイスラーム発言の背景」の解説が役に立ちます。


質問5

ジャワには聖者信仰があるということですが、どのような人々が聖者になるのですか?

回答5

ジャワの聖者信仰の対象としては、ジャワの中部・東部の北海岸に聖墓があるワリ・ソンゴ(九聖人)と呼ばれる人たちが有名です。ほとんどはジャワの外からやってきた人ですが、カリ・ジョゴのようにジャワ出身の聖者もいます。いずれも、ジャワにイスラームを伝道した人物として知られています。このように、生前から地元の民衆から慕われたイスラームの学識者の中から聖者と呼ばれる人物が現れたようです。

聖者信仰はイスラーム世界に広く見られる現象です。とくに12世紀以降は神秘主義教団が各地に成立し、民衆の間に聖者信仰が広まりました。ジャワに限らず東南アジアへのイスラームの伝播には、この神秘主義教団の影響が大きかったとされています。

          

カテゴリー

過去のお知らせの記録

新規エントリーの投稿
[権限をもつユーザのみ]