新聞に広告が出ていた「ジャカルタ本の祭典」(Pest Buku Jakarta 2002)の会場に足を伸ばしてみた。人口一千万を超す巨大都市ジャカルタでおこるさまざまな出来事の中から個人の関心に即したことを見つけ出すのは簡単ではない。今回の催しも、もし短期の滞在であったり、地方での滞在であったら、気付くとことさえなかったかもし れない。ジャカルタ長期駐在の恩恵の一つである。
会場で入手した案内によると、このジャカルタ本の祭典はインドネシア出版社連合(Ikatan PenerbitIndonesia)ジャカルタ支部の主催で1994年から毎年開かれている。6月22日から30日にかけてブン・カルノ競技場(注)の中にある屋内スタジアムを会場に開かれた今年の祭典では、108の出版社、書店、団体が展示ブースを設け、図書・雑誌・新聞の展示、即売をおこなった。ちょうど初日がジャカルタ市475周年記念日にあたり、会場外の駐車場には行商人が店を出したりと、ちょっとしたお祭の雰囲 気である。期間中の割り引きを目当てにした学生たちや家族連れも多かった。
訪れた日は平日だったが、人の入りは予想外に多く、過去の状況との比較はできないが、経済不安のなかで健闘していると言ってよいと思う。家族連れには子どもの絵本・学習書、料理などの家庭実用書のブースが人気があり、コンピュータ、ビジネスなどの英語の入門書(古い版を安く売っている)のブースには若い人たちが群がっている。硬いところではフーコーの『知の考古学』や毛沢東の『矛盾論』のインドネシア語訳などが目に入り、かつてとは違う知的関心の広がりを感じた。私自身が購入した本は、けっきょく老舗のバライ・プスタカやジャンバタン、大手のグラメディア、中堅のオボルなどに集中することになり、目新しい出版社の発掘にいたらなかったのは残念だった。出版の活発さに見合うだけの底辺の広がりがないと言えるだろう。ただ、バライ・プスタカがアチェ語、ランプン語などの地方語辞典シリーズを昨年から出していたのはうれしい発見だった。地方自治拡大の流れと関連しているのだろう。逆に、インドネシアを代表する作家プラムディヤの作品を一手に出版しているハスタ・ミトラが出展していなかったのは気になるところである。スハルト政権期に発禁になっていた彼の作品は、今ではどこの書店でも並べられているが、出版社が表に出てくるのにはまだ差し障りがあるのかもしれない。
最後に、インドネシアらしさが出ていると思うのは宗教書関連のブースが多いことである。キリスト教系のブースもがんばっているが、やはり目立つのは一部のイスラーム系ブースで、CDによる説教集とか、CD-ROMによるクルアーン(コーラン)学習教材とかマルチメディア出版物を前面に出して、文字通りにぎやかな展示をおこなっていた。インドネシアのイスラーム団体の中でも戦闘的行動をとることで知られるラスカル・ジハドのブースもあったが、男性たちがムスリムの服装を身につけている以外は、とくに他のブースと異なる殺気立った雰囲気でもなかった。外島における宗教対立はひとつの事実として見つめなければならいが、ジャカルタというコスモポリタンな都市は、宗教の違いというだけで対立が生じるほど単純な環境ではない、ということだけは言えるだろう。数日間の催しではあったが、インドネシアの出版事情だけではなく、インドネシアの小さな縮図を見ることができたように思う。
注 スナヤン競技場の名で知られていたが、ワヒド政権期に初代大統領スカルノの愛 称を付けた現在の名前に変わった。
ジャカルタ475周年を祝う町内会の横断幕 横断幕をスパンドゥック(spanduk、オランダ語より)と呼ぶが、インドネシアのいたるところであらゆる機会に出現する |
ジャカルタ市内の巨大スーパー どうしても梅干と納豆という向きは別として(日本食品スーパーが別にあります)、無いものはない、ある物はいくらでもあると いうジャカルタの消費生活の一端をよく示している |
米の話、二題。言うまでもないことだが、インドネシアは、赤道域に位置する太平洋の多島世界である。ところで、赤道域では恒常的に東風が吹いているため、太陽に暖められた海面の水は、風に押されて太平洋の西側に溜まっている。この暖かい水が盛んに蒸発して雲を作り、雨をもたらすわけである。ところが、何かの理由で風が弱まると、暖かい海水は東の方へと移動し、太平洋の東側の海面温度が上昇する。これがエルニーニョと呼ばれる現象で、その仕組みがわかってきたのはここ20年ほどのことである。実は、このエルニーニョがインドネシアにとって重要な意味をもつ。
米を主食とする人口2億のインドネシアにとって米の安定供給は最重要課題の一つである。新品種の導入などの政策が実り、1980年代中頃には米の自給自足を達成したものの、現在では米の生産量の増加は頭打ちになっており、輸入して不足を補っているのが現状である。このように、ただでさえ不足がちのところに、エルニーニョが発生すると、雲を作る暖水が東へ移動してしまうため、インドネシアは雨不足となり米の生産量が落ち込んでしまう。したがって、エルニーニョの発生が予想されると、米の輸入量を確保しておく必要があるのである。雨不足はまた山火事の多発にもつながる。風が吹けば桶屋が儲かるではないが、太平洋の風もまたインドネシアの生活に影響している(注)。
さて、スーパーの店頭をのぞいてみると、インドネシア産の米と並んで確かにベトナム、タイ、意外なところではアメリカなどからの輸入米がならんでいる。アメリカ産の米袋に漢字で大きく「錦」と書いてあるが、これは品種と関連しているのだろう。おもしろいのは、インドネシア産の米袋にも日本の文字が書かれていることである。日本人のお客に買ってもらうことを狙ったとは思えないし(日本人よりももっと数の多い韓国人を相手にした方が算盤勘定にあう)、インドネシア人が日本語に堪能なわけでもない。可能性としては、日本製品の人気にあやかった便乗宣伝と考えるべきだろう。つまり、日本の文字は読まれるためにあるのではなく、商品の質を保証するシンボルマークというか呪文のようなものなのだと考えた方がよい。
実のところ、私たちは、古代の遺跡で文字が見つかると、その文字を使用する集団がその地域に定住していたとか、その文字が広く通用していたとか解釈するわけだが、スーパーの米袋はまた別の解釈が可能なことを示している。インドネシアのスーパーの遺跡を発掘した未来の考古学者は米袋の日本文字をどう解釈するだろうか。
注)7月3日のスアラ・プンバルアン紙によると、旱魃対策のためにインドネシア政府は30億ルピア(4300万円)を投じて人工降雨を試みるとのことである。
タイ産の米 「タイの香り米」とインドネシア語で書かれている 同様の文句を書いた別のタイ米を食べてみたが、期待したほどの味ではなかった |
「オランダ婦人印」の米袋 稲束を握るオランダ女性という奇妙な絵が印刷してあり、さらに、拙い日本の文字で「いちばんよいこめ」と書かれている |
インドネシアの文化を海外に代表するものと言えば、バリのケチャ、ジャワのワヤンが頭に浮かぶだろう。それに比べると映画の取扱いはちょっと微妙だ。当たり前に作っただけではインドネシアの映画であることの意義を理解してもらいにくい。またその反対に、第三世界の映画という手垢のついた見方もいまだ底流にある。発展途上国の映画人が作り上げた貴重な芸術作品を先進国の映画ファンが賛美するという構図である。しかし、日本から海外に発信される文化の筆頭がマンガ・アニメ・ゲームとなった21世紀に、インドネシアの文化をいつまでもケチャとワヤンに限定してしまうのも、インドネシアの映画を一部の映画ファンの独占物にするのも、どちらも実にもったいない話だ。
実のところ、インドネシア映画界は長らく低迷していた。90年代にテレビが本格的に普及するなか、映画人は大挙してテレビに流れた。インドネシアでテレビ・ドラマをシネトロン(sinetron)と呼んでいるのは、映画の代替としてのテレビ・ドラマという、作り手と視聴者の郷愁のような意識を反映していると思う。映画館はハリウッドや香港のアクション(その多くはB級)映画で席巻され、たまに上演されるインドネシア映画は低予算の見るに耐えない娯楽映画になってしまった。その一方、国内ではほとんど見る客もいない芸術映画が、海外からの資金援助で作製され、海外の国際映画祭で喝采を浴びるという、産業としての映画界はとても貧弱な状態だったのである。97年に始まる金融危機はこの傾向にさらに拍車をかけた。
しかし、2000年代になって新しい波が現れたように思える。数こそ少ないが観客を大動員できる国産映画が現れ始めたのだ。小学生の女の子の大活躍を描くミュージカル調『シェリナの冒険』(2000年)が100万人、ホラー映画『ジュランクン』(2001年)が120万人の観客を集めた。そして、今年2月中旬に公開されて観客動員数約200万人を記録したインドネシア映画史上始まって以来の大ヒット作『チンタに何があったのか?』(Ada Apa denganCinta?)の出現である。「チンタ」というのはインドネシア語で愛という意味だが、ディアン・サストロワルドヨが演じる主人公の高校女子学生の名である。彼女の映画出演はこれで3作めだが、前作『囁く砂』で海外の主演女優賞をとっており(注1)、早くも第二のクリスティン・ハキムの声もかかっている(注2)。監督にルディ・スジャルノ、プロドューサーにミラ・ルスマナとリリ・イリザを据える。
この映画は、革新的なテーマを描いたわけではない。簡単に言えば、成長のなかで経験していなければならない恋愛と友情の桎梏である。日本では青春物の一言で片付けられる分野だ。葛藤には苦味があるが、やがては甘く解決する。深刻を求める向きには軽すぎるかもしれない。この映画の革新的なところはむしろパッケージとしての映画という、映画の作り方にある。映像、音響、演技、演出、脚本のどれをとっても水準の高い作品だ。商品の品質と満足感という、都市の消費者が金を出して購入する商品に当然のようにもとめるもの、それが、きちんと提供されていることが、この作品のヒットにつながったのだと思える。
そして、映画の公開とあわせてサウンドトラックのCD、映画のVCDを発売したのもインドネシアではまだ珍しい企画である(注3)。さらに、これはまったく初めての試みと思われるが、映画のシナリオを書籍として販売したうえに、インターネット上にウェッブサイトまで開設して情報提供をおこなった(注4)。芸術派―観客は来なくても俺は俺の映画を作る―からすればとんでもない話かもしれないが、多くのアイデアを投入し、単なる模倣におわらない高水準のパッケージを作ったことはきちんと評価すべきだ。映画というのは産業である。成長する産業とは、主流の顧客を対象とした商品を生産する企業を中軸としながらも、ニッチ市場を獲得する企業も活躍できる健全な競争原理が働いている産業のことだとすれば、『チンタ』はインドネシア映画界の活性化へ向けての新たな一歩だろう。
この映画の製作陣の要として注目したいのがリリ・リザである。彼は大ヒット作『シェリナの冒険』を監督して名を挙げたが、マルチ・メディア時代の映画作家と言ってよい。まだテレビ放送が新しいインドネシアでは1970年生まれの監督を「テレビ世代」と呼ぶには早過ぎるが、映画監督としてデビューするまではビデオ・クリップの作製にも携わってきた人だから、テレビ的発想の中から生まれてきた映画人と言ってよいだろう。『チンタ』がトータルなパッケージとして企画されたのにはプロドューサーとしての彼の感覚が働いているように思われる。
その一方で、今年6月に公開された彼の監督としての最新作『エリアナ、エリアナ』(Eliana,Elina)では、カメラをもって被写体を撮る、という映画の原点に戻った作品を観客に突きつけた。しかも、フィルムではなくビデオで撮影したものを映画フィルムに転換するというデジタル時代を意識した新しさをもちこんでいる点、映画人としての戦略をよく考えている人である。ジャカルタの裏側を背景に娘と母の葛藤という普遍的テーマを描いたこの作品、一見の価値がある(注5)。今、インドネシア映画界の新しい波が沸き立つのを目のあたりにできたのは幸いであった。
注1:今年の第15回シンガポール国際映画祭最優秀主演女優賞などを受賞。
注2:インドネシア映画界を代表する女優。今年のカンヌ映画祭の審査委員にも選ばれた。
注3:VCDはVideoCDの略。インドネシア映画としては初めてDVD化するという話もある。
注4:現在は閉鎖された。
注5:新人ラチェル・マリヤムとベテランのジャジャン・ヌルが演じたこの作品は第15回シンガポール国際映画祭新人賞を受賞。
ジャカルタ日本人学校 小中あわせて生徒数が800名を越える 体育祭でインドネシアの踊りを披露する小学1年生たち |
『チンタに何があった?』のさまざまな形 左からVCD、CD、シナリオ |
前回のインドネシアNOWでVidoe CD(VCD)に触れたが、日本ではあまり知られていない規格なので、今回はすこし技術的な話になるが、状況を整理しておきたい。
その前に一言述べておかなければならいのは、インドネシアではビデオ・テープがほとんど普及していないことである(注1)。皆無というわけではなく、電器店を注意深く見て回ればVHS用のビデオ・プレーヤもテープも見つかるが、売り方にまったく力が入っていない。その代わりに、日本では(DVDが普及する以前)VHS規格のビデオ・テープが支えてきた販売用やレンタル用のビデオは、インドネシアではVide CDが担っているのである。似たような状況は他の東南アジア諸国でも見られる。
VCDは日本ではなじみのない規格であるが、大雑把な言い方をすれば、パソコンが扱えるムービーのファイルをCD-ROMに焼きこんだものである。外観は音楽用のAudio CDと同じ直径12cmのディスクで、内部には拡張子datが付いたファイルが入っている。パソコンの規格だから、どの国のどのVCDを買ってきて、どの国のどのパソコンにかけても再生が可能なところが強みである。画質はVHS程度、音声はステレオ2チャンネルなので、体感的には普通のビデオテープを見ているのと差はない。音声2チャンネルの片方に歌手の声、もう一方に伴奏を入れたカラオケVCDも人気がある。テレビで見たければ、VCDプレーヤ(もちろんAudioCDも再生できる)が50万ルピア程度(約7000円)から買えるので、買ってきてテレビにつないでやればよい。
ところで、テレビ放送のシステムにも規格があり、大きく分けて、NTSC、PAL、SECAMの3種類が世界中で使われている。日本はアメリカ、台湾、韓国、フィリピンなどと同じくNTSCを使っているから、日本で使われているテレビはNTSC受信専用となっている。一方、インドネシアや東南アジアのほとんどの国はPALを使っている。それでは、台湾で買ったNTSCで記録されたVCDをインドネシアのVCDプレーヤとテレビで見ることができるだろうか。答えは「できる」だが、その理由は二重である。第一に、現在インドネシアで売られているVCDプレーヤは、、PALかNTSCのいずれで記録されたVCDディスクも再生可能で、しかもテレビに送り出す信号もPALかNTSCかを選択できるようになっていること。第二に、海外の衛星放送の受信が盛んなためか(インドネシアNOW第10回参照)、インドネシアで使われているテレビの多くがマルチ・システム対応となっていることである。
かくしてインドネシアのVHSの空白はVCDによって埋められた。VCDが出現した時期は、パソコンにCD-ROMドライブが附属するようになった頃だろうから、ほぼここ10年のあいだに普及したと考えて良いだろう。今では、道端でこそ怪しげな海賊版が出まわっているが、まっとうな店ではアメリカ、香港、インドなどの映画や日本のアニメのオリジナル版VCD(映画はインドネシア語字幕付き、アニメは吹き替え)がずらりと並んでいて、VCD産業の成長を物語っている(注2)。しかし、日本にVCDが普及することはありえないだろう。VHSを超えるだけの画質と音質を持たないことに加えて、容量がCD-ROM分しかないのでAudioCDと同じく最大74分しか入らず、まともに映画を入れるには少なくとも2枚必要という問題を抱えているからだ。日本はVCDを経験しないままDVDの時代へと移行しつつあるわけで、グローバル化の権化のようなコンピュータ技術にしてこのような地域差がある点は興味深い。
しかし、VCDがビデオ市場を制覇したインドネシアでも、今年はいよいよDVD元年である。正式のインドネシア版DVDディスクの販売にあわせて電器店でもDVDプレーヤの宣伝を始めた(130万ルピア、約19,000円位から)。このDVDディスクは、外観こそCDと同じ12cmのディスクに記録されているが、記録面を2層にすることと圧縮技術によって録画時間を伸ばし、音声も6チャンネルになった新しい規格だ。つまりVCDはVHSの単なる置き換えに過ぎないが、DVDは初めから映画館の体験を家庭に持ちこむことを目指した全く新しい規格ということになる。逆に言うと、DVDの真価を生かすためにはプレーヤだけを買ってもあまり意味は無く、スピーカ、アンプからテレビまでそれなりの性能のものを揃えなければならない。この点の損得勘定が購買の焦点となる。
インドネシアではすでにビデオ・テープからディスクにビデオ商品の媒体が移行してしまっているが、このことがDVDの普及のネックになるような気がする。VCDに慣れた消費者にとって、VCDからDVDに乗り換えることのメリットはすぐには見えてこない。店頭のパッケージを見る限りDVDディスクはVCDディスクそっくりなのに、価格は倍以上違う。たとえば、アメリカ映画のオリジナル版はVCDだと59,000ルピア(約840円)位だが、DVDだと165,000ルピア(約2360円)もし、日本とそれほど大きな差はない(注3)。これだけのものを買って、さらに、性能を実感するためにはハードにも投資が必要となると、インドネシアでDVDが普及するのはまだまだ先のことだろう。
先述の放送システムの違いはDVDでも同様にあるが、これもマルチ・システム対応のDVDプレーヤを使うことによって対応できる。ただし、NTSCのディスクはNTSCの信号として、PALのディスクはPALの信号として出力する機種が多いが、インドネシアのテレビはマルチ・システム方式が多いからこれでも支障ないわけだ(注4)。実際、アメリカ映画のDVDディスクの中には正規版であるにもかかわらずNTSCになっているものが平気で売られている。
ところで、VCDにはない特徴として、DVDにはリージョン・コードが組み込まれている。これは、世界を1から6までのリージョン(地域)に分け、アメリカは1、日本は2、インドネシアなどの東南アジア諸国(および韓国、台湾、香港)は3というふうにコードを割り振り、たとえば、コード2の地域で売られているDVDプレーヤは、同じくコード2のDVDディスクしか再生できないようにするというものだ。したがって、インドネシア向きに正規販売されているリージョン・コード3のDVDディスクをお土産に日本に買って帰っても、日本のプレーヤでは再生できないことになる(注5)。実は、インドネシアでも正規版と並行して大量の輸入版(そして海賊版)が売られており、これらの中にはリージョン・コード3以外のものがたくさん含まれている。それでは、インドネシアの消費者はどうしているのかというと、ちゃんとリージョン・フリーなるDVDプレーヤが堂々と売られているのである。この手のプレーヤの売買自体は違法ではないが、まさに魚心あれば水心ありの世界だ。
カセットやAudio CDがどこでも通じる音楽と比べて、ビデオは、PALとNTSCの問題に加えて、新しいくリージョン・コードの問題が付け加わり、外国人の利用者にとっては一筋縄にはいかない状況にある。インドネシアのVCD、DVDを日本で見るには幾ばくかの投資は避けて通れないようだ。
注1)なぜかは不明である。かつてベータ規格のビデオテープがインドネシアに広まったことがあり、その後ベータがVHSに敗退したことがビデオ市場全体の沈滞につながったのではと想像している。ちなみに、ビデオ・テープのもう一つの効能は家庭でのテレビ番組の録画だが、これもあまり行われていないようである。このためか、新聞の番組欄はまったくお座なりで、おまけに、よく間違っている(放送局が勝手に変更すると言ってもよいが)。
注2)インドネシア映画界にとってオリジナル版VCD市場の立ち上げは今後の死活問題と思われる。「チンタに何があった?」のVCDにはブロマイドが入っていて、主人公チンタが「チンタは悲しい。オリジナル版があるのに、どうしてまだ海賊版VCDを買う人が多いのかしら。友達にも言ってあげてね」と語りかけている。
注3)VCDだと一日1000ルピア程度からレンタルもできる。ジャカルタの映画館の入場料が30,000ルピア(約430円)だから、これはずいぶん経済的である。
注4)NTSC専用テレビで見るためには別途、PAL/NTSC変換装置が必要である。
注5)パソコン用のDVDドライブにもリージョン・コードが組み込まれている。
ジャカルタのビルに出現した七夕 竹に結び付けられたお願いはみなインドネシ ア語 |
冷たい霧を吹き出す冷風発生器 初めて見たが効果的 ジャカルタ北部のアンチョルにあるドゥニア・ファンタシ(夢の国)にて |
今年の8月17日はインドネシアの57回目の独立記念日だった。1997年以来の長期的な経済の低迷に加えて、57回という中途半端な年のせいもあろうが、スハルト政権最盛期に見られたような国を挙げての祝賀行事(それだけ当時は国家による国民動員がすざまじかったということだが)は影を潜め、予想外におとなしい記念日であった。国民の多数にとっては、いまさら独立を祝ったところで生活は苦しくなるばかりで白々しいというのが実感のようだ。とはいえ、この日がインドネシアという国家の出発を記念する大事な祝日であることに変わりはない。祝日の前後数週間にわたって家々や街路には大小さまざまな形でインドネシアの国旗がはためいている。
インドネシアの旗は縦・横が2対3、真ん中の水平線から上半分が赤、下半分が白である。正式の名称である「サン・サカ・プティ・メラ(Sang SakaPutih Merah)」も 「赤と白の聖なる宝」という意味で、文字通り紅白旗だ(注1)。赤と白の組み合わせというところが肝心で、実際、独立記念日が近づくと無数の旗がひらめくだけではなく、デパートの飾りからファッションまで、いたるところに赤と白の組み合わせが花のように咲きこぼれる。紅白旗はすでに独立前から民族主義者たちによって使われていたが(注2)、今日の象徴的地位が確立したのは、なんと言っても1945年8月17日にスカルノ邸でおこなわれた独立宣言の発布の際に紅白旗が掲揚されたことにある。回想録を読むと、スカルノの妻が赤と白の二枚の布を縫い合わせて作った旗を即席の竹 の旗ざおに掲げるという、厳粛だが簡素なものだったようだ。
現在、独立記念日におこなわれている公式の記念式典はこの1945年の歴史的出来事の再現に他ならない(注3)。午前10時、大統領官邸ではインドネシアを代表する青年(掲揚式では男性)が大統領から国旗を受け取り、国歌の演奏と共に掲揚する。そして、午後5時、国旗を降納し、インドネシアを代表する別の青年(降納式のときは女性)が大統領に返還する。首都ジャカルタでこの儀式がおこなわれているとき、地方の州でもこれと同じことが知事公邸で繰り返されているのである。国旗の掲揚・降納は国民統合を演出する定番の道具立てだが、ここでは、一つの国家が始まるという歴史的瞬間の記憶を新たにするための手段として使われてもいるのである。ただ、変わったのはそれを見る人々の印象であろう。かつては国家建設の熱い希望の象徴であった紅白旗は、やがて国家の強権の象徴となり、今は現実と理想の乖離を示す皮肉の証 として見つめられているようだ。
歴史というのは歴史の本として書かれるだけではない。歴史は様々な形で記憶されるのである。記念日も歴史を記憶する一つの方法であるし、記念碑のたぐいもそうである。首都ジャカルタを象徴する高さ132メートルの独立記念塔モナス(Monas)は、その寸法の中にも1945年8月17日という数字が組み込まれている(注4)。さらに、通りの名称もまた記憶の方法である。インドネシアでは住所の表示は通りの名前によるから、すべての通りに名前が付けられていおり、その多くに歴史的人物や王国の名前が使われている。もっとも有名な名前には限りがあるので、いきおい同じ名前があちこちで使われることになる。たとえば、独立戦争の英雄スディルマン将軍の名前などはどこの町にいっても見かける常連だ。ジャカルタ連絡事務所の周辺にもセノパティ通り(マタラム王国の建国者)、エルランガ通り(クディリ王国の王)などがある。事務所が面するクルタナガラ通りは13世紀後半のジャワのシンガサリ王国の王の名なのだが、この程度の名前だと一般の人には憶えてもらうのが難しいようだ。細い路地というわけではないのだが、タクシーに乗って行き先を告げるたびにこちらが道順を説明してやる必要がある。歴史の記憶とは、人間は忘却するという自明の現象に対するささやかな抵抗にすぎないのかもしれない。
注1:偶然だが、縦・横の比を別にするとモナコの国旗と同一である。モナコの方は縦・横の比が4対5。
注2:歴史的には、13世紀末の東ジャワの碑文に紅白旗の使用が記録されている。
注3:1968年の独立記念式典までは1945年に使われた旗が実際に使われていた。
注4:MonasはMonumenNasionalの略称。スカルノの発案で建設が始まり1972年に完成した。お椀型の下部構造があり、その高さが17メートル、屋上の一辺が45メートル、内部の室内の高さが8メートルとなっているのが、独立記念日の日付を象徴する。
火を吹く大道芸人 観客から1000ルピア(15円)ほどを集めては場所を移動していく クルタナガラ通りにて |
独立記念日の前後には連絡事務所の庭にも紅白旗がひるがえる 街路にも旗が飾られているのが見える |
先の第15回とは日付が前後するが、8月の初めに休暇を兼ねてバリ島を家族と訪れた。4月にインドネシアに来て以来、初めてジャカルタを出る機会である。短期間とは言え、ジャカルタの喧騒とはほど遠い落ち着きが身にしみるありがたい時間を過ごせた。
一つの島のほぼ全体が観光の対象となっているという点では、バリほど「観光立島」という表現がふさわしい土地はないだろう。しかも、すでに語り尽くされたことだ が、その見所が半端でない。賑やかなクタやレギアン、落ち着いたサヌル、超のつく高級リゾートのヌサ・ドゥア、芸能と芸術の村ウブットなどいくつものリゾートが存在する。芸能は毎晩入れ替わりで鑑賞できるし、絵画や彫刻を専門にするアトリエを訪れることもできる。ブサキ寺院を初めとする無数のヒンドゥー寺院では毎日のように祭礼がおこなわれる一方で、道端のここかしこで神々に捧げ物をする庶民がいる。さらに、ダイビング・スポットもあればキンタマニから眺める雄大なカルデラの風景もある。ウブッドのしゃれたカフェからジンバランの砂浜での豪快な海鮮バーベキューまでグルメも満足させる。要するに、自然と文化のいずれの分野で観光客の様々な要求を受け入れる懐の深さがあるのだ。
バリを訪れて不思議に感じることは、これだけ有名な観光地であるにも関わらず、観光と伝統的な文化が共存しており、落ち着きを感じることである。確かにクタやウブッドなどの観光名所に行けば観光客の姿がいたるところで目に入るし、観光関連の産業に多くの人々の生活が直接的あるいは間接的に依存していることは確かである。しかし、その一方で普通のバリの生活も淡々と営まれており、そのおかげで観光のせわしさの中に島全体が埋没することから救われている。このようなことが可能な理由としては、バリ社会の歴史的な深みとバリ人の柔軟で進取な気性を第一に挙げるべきだろう。バリの「伝統文化」はバリ人が外からの影響に対応しながら積極的に作り上げてきたものなのだ。しかし、ここではもう一つ別の要素を指摘しておきたい。それは、島の規模の問題である。
実際、日本の島を念頭に浮かべてバリに来るとずいぶん面食らう。地図で見ると小さくまとまった島という印象を受けるが、実のところバリは面積5,633平方キロの広さに標高3142メートルの最高峰アグン山をいただき、312万人が生活する大型の島である。日本では大きな方の沖縄島でも1,199平方キロの面積に130万人の人口であり、それ以下の島々では1,000平方キロにさえ達していない。別の喩えを使うと、愛媛県(5,675平方キロ)にほぼ相当する地域に愛媛県の人口(150万人)の2倍が住んでいるような島を想像してもらえばよい。これだけの広さの中に観光スポットが分散していれば、落ち着きを保つこともできるだろう。バリには年間130万人を超える観光客が訪れるが(注1)、試みに、島民の人口に対する観光客の数を計算してみると、130万人/312万人=0.41人という数値が出る。つまり、バリ人1人に対して観光客0.41人ということである。これは多数のバリ人が少数の観光客を相手にしていると理解することもできれば、少数の観光客が多数のバリ人を支えていると理解することもできよう。しかし、バリの落ち着きという先ほどの印象からすれば、観光客の数よりもはるかにバリ人の数が上回っていることが、観光客の流入に対するバリ社会の余裕の源泉であると理解したい(注2)。観光立島を唱えるのはやさしいが、バリのような例は稀有である。そ れはまた、バリの恵まれた規模の条件に拠るところが大きいのであろう。
注1:そのうちの20%が日本からの観光客である。
注2:ちなみに、鹿児島県内で観光地として知られる島々では、観光客の数ではなく来訪者の数であるが、屋久島で290,800/13,426=21.7人、奄美大島で618,800/73,643=8.4人、与論島で79,000/6,210=12.7人となり、来訪者の数が島民の数を圧倒していることがわかる。出典『シマダス』日本離島センター。
色鮮やかなダブル・アウトリガーのカヌー バリ、サヌルにて |
盆栽のある風景 バリ、サヌルにて |
すでに前月のこととなってしまったが、「9月11日」から一年が経った。テロリズムとの戦い、という一点での国際世論の合意は難しくはないとしても、誰が誰を何の基準でテロリストと判定するかは難しい問題である。いわんやイスラーム対非イスラームの対決といった単純な図式に還元できる問題ではない。しかしながら、インドネシアもムスリム・テロリストを抱える国としてアメリカに名指しで批判されている身なのである(注1)。確かにインドネシアはムスリムが多数派の国だ。しかし、イスラームと一言で言っても、インドネシアのイスラーム社会の中には多様な潮流があり、武力の行使も辞さない勢力は圧倒的に少数派である。アメリカは「9月11日」の一周年を前にして、テロの危険があるとして、インドネシアにあるアメリカ大使館を一時閉鎖したが、これはインドネシア人にとってあてつけがましい動きに感じられたように思う。アメリカ側は、テロの明瞭な危険を察知したと述べているが、インドネシア側からすればイスラームに対する過剰な警戒感と見えるのである。
それでは、インドネシアの多数派のイスラームとはどのようなイスラームなのだろうか。ここでは、少し異なった角度から眺めてみたい。それは、テレビに代表される広告の作られ方である。つとに言われていることだが、インドネシアは、人口2億人のうち9割がムスリムとしても、軽く1億8千万人となり、世界最大のイスラーム国である。しかし、他のイスラーム国の視点からインドネシアの広告を眺めると驚愕の世界となる。典型的な例は、シャンプーの広告だ。髪の毛に付ける商品だから当然、髪の毛が見えないと話にならない。ところで、イスラームの聖典クルアーンは、ムスリムに対して「アウラ」(包み隠しておくべき体の部分)を隠しなさいと命じている(注2)。それでは、包み隠すべき部分とは具体的にどこかという問題となるが、女性の場合には、ふつう手首から先と顔以外はアウラと理解されている。したがって、髪の毛は隠すべき部分なわけだが、インドネシアのテレビ広告では、漆黒の長く豊かな髪の毛が画面一杯に広がるのである。例えば、日本でも有名なあるブランドのシャンプーの広告は、女優ディアン・サストロワルドヨ(インドネシアNOW第13回参照)を起用して、「強い女性、アジア、カンフー」という映画『グリーン・デスティニー』以来の流行の要素をきっちり押えた上で、華麗に技を決める女性の黒髪が波のように流れる様子を洗練された映像でアピールしている。
このような広告を、インドネシアの西洋化、あるいは、脱イスラーム化を示していると理解するのは誤りである。インドネシアでは伝統的に髪の毛は女性の誇りであり、イスラームの伝来にかかわらず女性の多数派は髪を包み隠そうとはしなかったというのが事実に近い(写真を参照)。つまり、髪を隠さなくとも正しいムスリムであると認識されてきたのである。シャンプーの広告はイスラームの戒律に対するインドネシア人の最大公約数的な理解を反映している見るべきであろう。実際のところ、イスラームの戒律は広告の中で無視されているどころか、その作り方に敏感に反映している。このことが一番よく分かるのは飲食物の宣伝である。イスラームでは豚を食べることが禁じられているので、加工食品の宣伝の場合、豚成分が含まれていないことが肝要となる(注3)。たとえば、うまみ調味料のある宣伝では、家族団欒の食事風景が描かれるが、その中心に坐っているのが、敬虔なイスラーム教徒が愛用する帽子をかぶった長老風の男性である。これは、明らかに昨年の味の素事件を意識して、うまみ調味料がイスラームの戒律に触れていないことをアピールしたものだ(注4)。一般に食材、とくにラーメンなどの中華食材の宣伝では中華料理には豚肉が付き物という先入観を意識して、「ハラル」(イスラームの戒律で認められていること)であることがしつこく強調される。逆に、その存在のないことが特徴的なのがビールなどの酒類の広告だ。インドネシアではビンタンという至極まっとうな味のビールが生産されており、スーパーの店頭でも売られているのだが、イスラームは酒を悪魔の業として禁 じているから、広告は出せないのだろう(注5)。
広告は社会の一側面にすぎない。とくに都市中間層の消費者を対象とし、彼らの嗜好を反映していることは否定できない。また、政権や圧力集団のイデオロギーによって操作されやすいことも確かだ。しかし、その一方で、広告はその社会の鏡、それも現実に忠実な鏡というよりは、社会が見たいと思う姿を映し出すうぬぼれ鏡でもある。そして、この鏡は、社会がどのようなイメージまでを許容しているかを示す尺度にもなっている。商品が売れなければ広告の意味はないのだから、視聴者が本気で拒絶するような広告は作れない。その意味で、広告は、インドネシアの多数派のイスラームに対する理解を表わしていると言って良いだろう。髪を包み隠すことには消極的だが、豚肉は拒絶する。ただ、ビールについては外部からの圧力があるのかもしれない。広告はグローバル化する消費社会の申し子だが、そのグローバル化の中にあっても地域的な特徴があるところが、実は一番興味深いところである。
注1)9月23日付けのTime誌は、行動派イスラーム団体マジェリス・ムジャヒディン・インドネシアの指導者の一人アブ・バカル・バアシルがアル・カイダと関わったと報じている。
注2)クルアーンでは、信徒の服飾に関する規定がいくつかあり、たとえば、第7章26節では「アーダムの子孫よ,われは,恥ずかしいところを覆い,また飾るために衣装をあなたがたに授けた。」と記しているが、「恥ずかしいところ」(アウラ)の具体的な規定はない。なお、アーダムは人類の祖のこと。訳文は日本ムスリム情報事務所「聖クルアーン」(http://www.isuramu.net/kuruan/)による。
注3)クルアーンでは、第2章173節、第5章3節、第6章145節、第16章115節において、豚肉は不浄として食べることを明確に禁じている。
注4)味の素事件とは、調味料「味の素」の製造過程で豚成分が関与する酵素が利用されていたとして、2001年1月にインドネシア当局により製品の回収が命じられた事件。なお、現在の味の素の製造には豚成分が関与しない酵素が用いられている。
注5)クルアーンの第5章90-91節では、賭け矢、偶像などと共に酒は悪魔の業として禁じられている。
19世紀前半のジャワ人の女性 長髪を結い上げている様子は今も変わらない 出典は1817年出版のラッフルズの『ジャワ誌』 |
バス停の上に張り出された化粧品の広告 艶やかな長髪に注目 |
熱帯にも季節がある 9月中旬になって色々な花がほころび始めた 雨季が近づいた兆しである ジャカルタ日本人学校に咲いたプルメリアの花 |
第16回でバリの観光立島について書いたときには、バリの悲劇を書くとは予想もしていなかった。すでにニュースでも大きく報じられているように12日土曜日の深夜(注1)、バリで連続爆破事件がおこり、187名が死亡、300名以上が重軽傷という大惨事となった(10月14日現在の数字)。死傷者の多くはオーストラリア人だが、死者の中にはインドネシア人、デンマーク人、カナダ人、イギリス人、ドイツ人もいると報じられている。日本人も7名が負傷した。テレビで遺体の映像が映し出されたが、損傷がひどく死亡者全員の確認にはしばらく時間がかかりそうだ。
最初の二つの爆発はクタのレギャン通りでおこった。レギャン通りはクタのナイト・ライフの中心地で夜も人通りが絶えない繁華街だ。その中の若者に人気のあるディスコ「サリ・クラブ」のすぐ外の路上で連続して爆発がおこり、半径10mから20mの建物を破壊したうえに、発生した火災によって多くの命が犠牲になった。3番めの爆発はデ ンパサル市のアメリカ領事館付近で発生したが、死傷者は出なかった。
今回の事件はインドネシア国民にとっても、大変な衝撃だったようだ。メガワティ大統領は13日に緊急記者会見を開いて、犠牲者とその家族への哀悼の念を示すと共に、今回の爆破事件を非難し、国際社会と協力してテロ行為の取締りをおこなうと発表した(注2)。インドネシアを代表する二つの穏健派イスラーム団体ナフダトゥル・ウラマとムハマディヤの関係者もただちに今回の爆破事件を非難する声明を出している。この事件が衝撃的だったのは、マルクやスラウェシなどとは異なって内紛とは無縁で安全だとこれまで思われていたバリで発生したことである。実際、島の経済を観光産業に依存しているバリの人々ほど治安の大事さをよく理解している人達はいない。8月にバリを訪れたとき、タクシーの運転手が、観光客に来てもらうためにはとにかく安全が大事、だからこそ私達バリ人はそのことに強く気を配っている、と話していたのが印象深かった。しかし、そのバリの安全神話もこの事件で吹き飛ばされてしまった。
実のところ、インドネシアでは小規模の爆破事件が跡を絶たない。昨年7月にメガワティ政権が発足してからだけでもすでに16件ほどの爆破事件がインドネシアの各地で起きている(注3)。いずれも死傷者の数は多くて4名程度の事件であったが、このような小規模の爆破事件が頻発するにもかかわらず、犯人の逮捕や類似事件の再発の防止対策が徹底しておこなわれなかったところに、政府の危機意識の低さがあり、また、国民の方にも一種の「慣れ」があったように思う。このような土壌が、結果として今回の衝撃的な爆破事件の実行を許したと言わざるをえない。
確かにインドネシアでは、アメリカのイラクへの武力行使の可能性が高まるなか、反米感情がうごめいていることは間違いない。しかし、それが爆弾による無差別テロへとつながるほどの国民感情になっているとはとても思われない。そのことは、ジャカルタでも、死傷者を数多く出したオーストラリアの大使館前で事件の直後から市民による追悼献花が自発的に始まったことからもよくわかる。犯人が誰であれ、それはインドネシアの国民感情からは程遠いところにいる人たちだ。そして、バリの爆破事件でもっとも強く影響を受けるのがインドネシア自体であることは、誰よりもインドネシア人自身がよく認識している。すでに、バリを目玉とするインドネシアの観光業界は打撃を受け始めているし、通貨ルピアと株価が下落した。ただでさえ先細りの海外からの投資も影響を受けるだろう。警察長官は1か月以内に犯人を逮捕できないときは辞職すると決意のほどを示しているが、インドネシア政府にとっても最大の試練である。これまでの爆破事件の処理は国内政争の道具にされてきたきらいがあるが、今回は正面切って事件を「テロ」と規定し、国際社会の協力のもとでの事件解決を宣言しているからである。
注1:バリの現地時間で午後11時15分頃。日本時間では13日午前0時15分、ジャカルタの時間では12日午後10時15分にあたる。
注2:これがどれだけ異例かは、今回の記者会見が昨年7月の就任式以来と言われていることからもわかる。会見の様子を見れば分かるが、メガワティは大変に話べただ。
注3:10月14日付け「レプブリカ」紙に掲載された表によると16件である。ただし、これには9月23日にジャカルタのアメリカ大使館で起きた手榴弾爆破事件は数えられていない。
砦のように見えるが、お金持ちが住む郊外住宅の典型例 入口のある正面以外は高い壁で囲まれている これから周囲にも家が建つと家並みらしくなる |
ジャカルタの空に突き刺さる高層アパート ジャカルタのアパートはお金持ち(含む外国人)の住むところである 24時間警備、プールなどのホテルなみの設備が揃っている |
ヌヌカンという町の名を知る人は今年までインドネシア人の中でさえもほとんどいなかっただろう。東カリマンタンの北端にあるこの町は、フローレスからスラウェシを経由して北上する定期旅客船の最終到着地であるとともに、マレーシア・サバ州のタワウに向かう連絡船が出る国境の町でもある(注1)。人口34,000人に過ぎない小さな町が今年の8月から9月にかけてインドネシア中のマスコミの話題になったのは、マレーシアで働いていたインドネシア人労働者が大量に送り返され、この町に滞留する ことになったからである。その数は5万人にのぼったと報じられている。
ことのおこりは相次ぐインドネシア人労働者の騒動に業を煮やしたマレーシア政府が不法就労の外国人労働者の取り締まりを強化する法律改正をおこなったことにある。この結果、パスポートと労働契約が揃っていない外国人労働者は8月末までに退去しなければならなくなった。違反者には禁固5年、罰金32万円、鞭打ち6回という重罰が課せられるのだ。2002年1月の時点でマレーシアには約77万人の外国人労働者が登録されており、そのうち56万7000人がインドネシア人とされるが、実際には不法就労外国人が75万人近くいると言われている(注2)。仮にその7割がインドネシア人とすると、52万人がインドネシアに退去しなければならないことになる。かくして、マレーシアとの国境の町ヌヌカンは、サバ州で働いていたインドネシア人の帰国労働者とその家族であふれかえることになった。しかし、町には住民の数を超える帰国者を受入れる余力はなく、ヌヌカンに滞留した帰国労働者のうち、劣悪な衛生環境と栄養不足のた め乳幼児など35人(別説では70人近く)が死亡したと伝えられている。
帰国労働者の滞在が長期化し、問題が深刻化したのは、ヌヌカンに流入したインドネシア人労働者の多くが故郷に帰ろうとはせず、新たにパスポートを取得してマレーシアに戻る手続きをするべく、そのままヌヌカンに留まったからである。彼らがこれほどまでにしてマレーシアに戻ろうとするのは、端的にいって国内では仕事がないためである。経済の低迷のため失業者数は増加しつつあり、今年度は4,200万人に達すると言われている。とくに学歴の低い非熟練労働者は都心部で職を求めることが難しく、隣国マレーシアの建設現場やプランテーションの労働者あるいはメイドといった仕事につくことになる。マレーシアでの労働環境は心地よいものではないが、背に腹は変えられない。実のところ、サバ州の油ヤシ・プランテーションで働いて月収11万円を得る労働者もいるという。国内に留まって失業者になるか、つらくても海外に出て夢のような収入を得るかという選択肢があれば、答えはおのずと決まってくるだろう。
ヌヌカンの状況がマスコミに報じられるなか、私が気になったのは、ジャカルタの中央政府の対応が冷淡と思えるほどのんびりしていることだった。マレーシアの法改正は3月に発表されており、対応策を講じる時間は十分にあったはずである。しかし、結局、帰国者があふれかえる8月になるまで有効な対策は取られなかった。対策が遅れた具体的な理由はともあれ、その背景には、ジャカルタの中央政府と地方との間、権力をもつ者と庶民との間に存在する、ある種の心理的な断絶もしくは「距離」があるよ うに思われてならない。そして、この「距離」は、実はジャカルタでも感じられる「距離」と似ているように思われて仕方がない。
コッチの『危険な年』は1965年のジャカルタを舞台にした小説であるが、その中に印象的な一節がある(注3)。それは、当時のジャカルタでもっとも高層であったホテル・インドネシアを、大海原を航海する豪華客船に喩えている部分である(注4)。平地にへばりつくような周囲の建物を睥睨する14階建てビルの中には、自前の浄水装置、冷房装置、特注の食材を提供するレストラン、ナイト・クラブ、バー、プール、商店が完備され、一つの別世界ができあがっている。この「船」に入ることができるのは高価な費用を支払うことのできる外国人と一部の特権的なインドネシア人だけだ。この一節が印象的なのは、2002年のジャカルタも本質的には状況が変わっていないように思われからである。一つのホテル・インドネシアに代わって、オフィスビル、ショッピング・センター、高層アパートが林立し、運転手付きの自家用車に乗ったインドネシア人が冷房の効いた建物から建物へと移動して一日が終る。確かにお金持ちのインドネシア人の数は増えたが、それに劣らずお金持ちへの道から取り残されるインドネシア人の数も増えた。高級ショッピングセンターの前には粗末な屋台が対照的に並んでいるが、これは主人たちが買い物をしている間に運転手が食事をする場所である。その運転手も、ジャカルタの「階級社会」の中では比較的ましな位置にいる方だ。高層ビルの周辺にはカンポン(田舎)と呼ばれる劣悪な住環境が海原のように広がっているのである。
冷房の効いた空間を仕切るガラス窓のこちら側とあちら側の距離は、実はジャカルタの中央政府とヌヌカンの間にある距離と同質のように思われる。ガラス窓のこちら側で少数の持てる人々が特権を享受している間にも、あちら側では多数の持たざる人々がつらい生活に耐えている。しかし、いつまでも耐え続けられるわけではない。独立後のインドネシアは何度か国内騒乱を経験してきたが、イデオロギー・宗教・民族の対立や権力闘争といった要素をあえて捨象すると、1965年の大量虐殺、1974年のマラリ事件、1998年のジャカルタ暴動も、けっきょく持てる者に対する持たざる者の怨念の爆発と言えるだろう。ジャカルタの貧富層の両極化や地方での慢性的な失業を見ていると、今もまた持たざる者の怨念は静かに蓄積されているように思えてしかたがない。インドネシア政府はヌヌカンから教訓を学ぶことができるだろうか。
注1:道路が整備されていないカリマンタンでは、水路を往来する船舶が主要な交通基幹である。ヌヌカン自体も島にあり、最寄の空港がある町タラカンまでは船便で結ばれている。
注2:海外で働くインドネシア人労働者は一般にTKI(Tenaga Kerja Indonesia「インドネシア人労働者」の略)と呼ばれている。ジャカルタ国際空港にもTKI専用のカウンターがある。
注3:Ch. J. Kochの“The Yearof Living Dangerously”は1978年に出版。1983年に映画化され、若きメル・ギブソンとシゴニー・ウィーバーが共演、L.ハントがアカデミー助演女優賞を取った。
注4:「ハー・イー」(H.I.=Hotel Indonesia)の通称で知られるホテル・インドネシアは1962年に竣工。132mの独立記念塔が1972年に一般公開されるまでは、ジャカルタ随一の高さを誇る市内のランド・マークであった。
粉ミルクの街頭広告 「aku Dan Kau suka Dancow (ボクもキミも好きだダンカウ)」という語呂合わせの宣伝文句で「ダンカウ」の商品名をアピールしている (インドネシア語の本来の読みだと「ダンチョウ」になってしまう) |
ジャカルタで人気の遊園地ドゥニア・ファンタシ(夢の世界)の回転ブランコ 操作係りがお茶目な人で、スピーカから「もう1回、回るかい?」と客に声をかけ、客たちはそれに応じて「もう1回」と答える 客の声が小さいと、すかさず「声はどうなったあ?」と畳み掛ける |
ジャカルタのすさまじい交通渋滞を見ていると、インドネシアが高度の車社会に見えてくるが、これはジャカルタのような大都市が突出しているだけである。インドネシア全体を見ると国民の自動車保有率は1000人あたり25.1台に過ぎず、日本の572.6台はおろかマレーシアの213.5台、タイの100.1台にも及ばない(注1)。一年間に販売される自動車台数も日本の590万台に対して30万台程度にしかならない。輸入車にかけられる高い関税のせいもあって長い間、自動車、とくに乗用車は、贅沢品であった。1990年代になって中流層の乗用車の取得が確実に増えてきてたが、車に込められた地位と財産の象徴という感覚は根強く残っている。ジャカルタの車社会を見ているとその様子がよくわかる。
ここに2002年上半期にインドネシアで販売された自動車の台数を示す資料があるので、これを参考にジャカルタの乗用車の傾向を見てみよう(注2)。日本と同じように乗用車として人気のあるミニバン型の車は「セダン以外」に数えられているので、「乗用車」の傾向を見るためには「セダン」と「セダン以外」の両方を押えておく必要がある。
セダン | セダン以外 | ||||
順位 | メーカー | 台数 | 順位 | メーカー | 台数 |
1位 | トヨタ | 5661 | 1位 | トヨタ | 37991 |
2位 | スズキ | 1799 | 2位 | 三菱 | 37654 |
3位 | ホンダ | 1463 | 3位 | スズキ | 29239 |
4位 | ヒュンダイ | 1237 | 4位 | 三菱 | 14140 |
5位 | メルセデスベンツ | 1093 | 5位 | ダイハツ | 10142 |
6位 | BMW | 717 | 6位 | ホンダ | 3449 |
この表からも日本車が高いシェアを占めていことがわかるが、なかでも「セダン以外」の中でトヨタの売上げに大きく貢献しているのが、ジャカルタのみならずインドネシア中で走り回っている「鹿」という意味のキジャン(Kijang)である。25年前にピックアップ・トラックを土台にした無骨な現地生産車として出発したが、耐久性が評価されて根強い人気を生み出した。現在では海外に出しても恥ずかしくない車に成長し、20種近いラインナップを揃えるまでになった。定員8名の5ドア・ミニバンのボディーに排気量1.8Lの4気筒エンジンを積んだ標準仕様が、だいたい1億4000万ルピア(約200万円)前後で買える(注3)。3列目のシートを倒してできるスペースには後ろのドアをあげて荷物を放り込めるから、商用にも家族揃っての買い物にも便利だし、出自がトラックなのでRV車風の腰高だが、これが田舎道の走行や雨季の冠水に適応している。要するに、トヨタのバッジがついているとは言え、インドネシアの国民車としてインドネシアの車社会を支えている屋台骨がキジャンといってよい。キジャンがいかに信頼されているかは、2002年度の「インドネシア・ベスト・ブランド」賞の自動車部門で選ばれたことだけでも分かるだろう(注4)。
ところで興味深いのは、日本車に続いてセダンの5位と6位にドイツの高級車が登場していることである。実際、ジャカルタでは東京と変わらないくらい高級輸入車が目に付く。これこそ地位と財産の象徴としての車と言ってよい。ジャカルタでは乗用車というのは運転手に運転させるものであり、これで格好良く高級ショッピングセンターに乗りつけるのが理想のライフスタイルだ。インドネシア語で「見栄」を「ゲンシ」(gengsi)というが、このゲンシのためには、車も値が張った輸入高級車でなければならない。かくして、1人あたり国民総所得が700米ドルほどの国でドイツ製セダンがホンダのセダンと並ぶくらいに売れることになるのである(注5)。
絶対数こそまだ少ないが、新車が多いせいかジャカルタで目立つのが韓国車である。ヒュンダイのセダンは(タクシーを含めても)4位につけ、「セダン以外」の7位と8位にもヒュンダイとキアが登場している。日本では韓国車がようやく紹介され始めたところだが、これは日本車の牙城である日本市場への進出を慎重に考えているからだろう。デザインの点では日本車と互角となった韓国車は海外で市場のシェアを伸ばしつつある(注6)。インドネシアでも金融危機のあと、所得が減った中間層は、安い輸入車として韓国車の購入に向かった。ブランドとしては未知数だが、手垢がついていないだけ、都会的センスを前面に出すことによって、新しい市場を開拓しつつあるようだ。韓国車の普及がまだ都市部に限定されているのは、地方にはディーラーもなければ修理工場もないため、故障した時の不安が残っているからである。
What you eat is what you are(何を食べるかであなたが決まる)という言葉があるが、これをもじれば、What youdrive is what you are(どの車に乗るかであなたが 決まる)という言葉ほどジャカルタをよく表わすものはない。ジャカルタは、車社会であるだけではなく、乗る車によって乗る人の区別がつけられる車階級社会なのである。インドネシアの事情に合わせて作られたキジャンはインドネシア中に普及したが、その分、ゲンシを気にする都会の金持ちには貧乏くさい。現実は、値段も手頃ででこぼこ道も走破するタフな車を求め、ゲンシは都会の高層ビル街を走り抜ける洗練されたイメージの車を求める。ジャカルタの車社会は現実とゲンシがせめぎ合う舞台でもあるのだ。
注1:2000年末の数値。出典は財団法人日本自動車工業会JAMAGAZINE2002年2月(http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/200202/04.html)。
注2:2002年7月23日付け『コンパス』紙。
注3:ちなみにインドネシアでは、日本で言う「ミニバン」という言い方はない。キジャンは「ミニバス」だし、ホンダのストリームは「7シーター・クーペ」という不可思議な惹句で売りだし中である。
注4:2002年7月17日付け『レプブリカ』紙。Mars-Swa主催のIndonesian Best BrandAward 2002。
注5:完成車の輸入の自由化は進みつつあるが、まだまだ割高である。日本では上級グレードでも300万円でお釣りがくるホンダ・アコードだが、インドネシアでは3億ルピア以上(420万円)もする。1人あたり国民総所得(GNI)の数値は世界銀行による(http://www.worldbank.org/data/countrydata/aag/idn_aag.pdf)。
注6:12年前のインドネシア滞在の時と比べて大きな違いを感じたことの一つが、韓国の台頭である。ジャカルタ在住の韓国人はすでに日本人約1万人を上回って1万2千人にのぼる。広告でもサムスンやLGなどの韓国の家電メーカの大攻勢が見られる。
折り紙細工のような古いキジャンもまだまだ現役 |
駐車場にメルセデスベンツと並んだキジャンとスズキ ジャカルタの車社会の縮図である |