日本語では「ケータイ」と呼ばれるようになった携帯電話だが、インドネシア語ではどうだろうか。格式ばった言い方ではtelepon genggam(直訳すると「掌握電話」)だが、日常的には、HP(hand phoneの略)とかponsel(cellular telephoneをインドネシア語化したtelepon selularの略)という略語がよく使われている(注1)。このように略語は私達の生活とは切っても切れないものだが、インドネシア語の場合、その使い方には、時に多用を通り越して、偏愛と言いたくなるものがある。
インドネシア語では略語をsingkatan(略語)とakronim(アクロニム)の2種類にわける。このわけ方はインドネシア語のようにローマ字を表記に使う言語に共通するもので、英語で言うabbreviationとacronymに対応している。このうち、シンカタンは語句の頭文字を組み合わせて、そのままアルファベットとして読んだものである。先のHPが良い例だが、最近目にする例をあげれば、TKI(Tenaga Kerja Indonesia、インドネシア人労働者―とくに海外出稼ぎの人達)、PSK(Pekerja Seks Komersial、商業的性労働者。注2)など無数にある。アクロニムは、語句の一部(頭文字とは限らない)を組み合わせてあたかも普通の単語のように読めるようにしたもので、先のponselが一例だが、他にも、pemda (pemerintahdaerah、地方政府)、wapres (wakil presiden、 副大統領)、krismon (krisismoneter、通貨危機―1998年の)など、こちらも無数にある。
日本語の場合、シンカタンに相当するのはJRやNHKなどのローマ字の略語である。アクロニムとしてはマス・コミや銀ブラなどが思い浮かぶが、漢字で作られた略語は、そのまま単語と見なして読むことができるから、漢字の略語は実はアクロニムである。「国連安保理」を例に取ってみると、仮に日本語がローマ字表記だったら、Kokusai Rengo Anzen Hosho RijikaiをKRAHRと略すところを、KokuRenAnPoRiとするようなものだ(注3)。ローマ字のアクロニムの中でも、DoCoMo(DoCommunications Over The Mobile Network、NTT移動通信網)のようにローマ字のアクロニムでありながら和語の雰囲気をだしているのは、比較的新しい工夫のように思う。1974年創設のアメダス(AMEDAS、Automated MEteorologicalData Acquisition System)あたりがその先駆だろう。インドネシア語では略語ASI(air susuibu、母乳)が、「注意」という意味のasiと二重の意味をもっており、この類に入る。
英語ではNATOのように頭文字だけを組み合わせたアクロニム(頭字語という)がかなりあるが、インドネシア語ではあまり見かけない。逆に、略語LPGをElpijiと書く例のように、本来は略語なのに発音どおりに綴って、一見したところ普通の単語のように書くことがある(注4)。これはJRを「ジェーアール」と綴るようなものだ。さらに、既存の略語を別の語句で読み替えてしまう言葉の遊びも盛んだ。テレビで見かけるSMSはSinetoron Mini Serie(ミニ・シリーズのテレビ・ドラマ)の略だが、もともとは携帯電話のSMS(short messageservice、文字通信サービス)をもじったものだろう。これなどはやがて忘れられる言葉遊びかもしれないが、中にはしっかりと生き残るものもある。「腐敗、癒着、縁故主義」と訳されているKKN(korupsi, kolusi, nepotisme)は政治民主化運動の標的を象徴する言葉して広く使われるが、もともとKuliah Kerja Nyataという大学生の社会研修科目のことであった。社会研修は学生に評判が悪く、その鬱憤がKKNの読み替えにつながったのは想像に難くない。略語は社会のエネルギーが噴出して新しい言葉を作り出す突破口でもあるのだ。
とはいえ、新聞報道などでよく目にする次のような略語の多用には、立ち眩みがしそうになる。“Menteri Tenaga Kerja danTransmigrasi (Mennakertrans) Jacob Nuwa Wea, Jumat (26/7) mengatakan,Departmen Tenaga Kerja dan Transmigrasi (Depnakertranas) telah menyiapkandua kapal milik TNI Angkatan Laut (AL) untuk mengangkut tenaga kerja Indonesia (TKI) ilegal dari kawasan Sabah danSarawak.” これは、労働・移住大臣が、隣国マレーシアのサバ、サラワク州のインドネシア人不法労働者を引き揚げさせるために海軍の艦船2隻を手配したという、インドネシアの代表的日刊紙『コンパス』の一面に掲載された記事の出だしである(第19回「ヌヌカンとジャカルタ」参照)。1つの文の中に5つも略語が登場し、しかも、肝心のMennakertrans(労働・移住大臣)もDepnakertrans(労働・移住省)も記事のこの部分にしか登場しない。つまり、略語は紙面節約といった実用的目的のためのみに使われているのではなく、それ自体の存在の独立性を主張しているのだ。インドネシア語を観察していて、略語を略語として意識的に操作すること対する偏執的な関心を感じ取るのは、こういう瞬間である。
注1:インドネシア語ではそれぞれ「ハーペー」「ポンセル」と発音する。ちなみにインドネシア語は後ろの単語が前の単語を修飾するので、teleponとselularの語順は英語の反対になる。
注2:以前はWTS(Wanita Tuna Susila、不道徳な女性)と呼ばれていたものだが、性別を問わない呼称になったのは時流のせいだろう。
注3:略語では「保」の読み方が「ホ」から「ポ」に変化している。このような例はインドネシア語でも多い。pemerintahのpeは曖昧母音だが、略語pemdaになるとpeは「ペ」と発音されることがある。
注4:正確に言うと英語風の発音である。インドネシア語本来の読み方だと「エルペーゲー」になる。
ジャカルタ郊外にあるラグナン動物園の週末風景 会社の慰安会でダンドゥットのリズムに合わせて気だるく踊る人々 |
飲料水のボトルを取り替えるメイドさん 生活に欠かせない飲料水は19L入りボトルを店で購入し、冷却・加熱兼用の給水スタンドに載せて使う |
11月6日からラマダン月が始まった。イスラーム暦で9番目のこの月は、全世界のムスリムが断食をおこなう月である(注1)。私たちの事務所のメイドたち2人も断食を始め、日ごろご無沙汰している近所のモスクへ足を運ぶようになった。クルアーンには「自糸と黒糸の見分けられる黎明になるまで食べて飲め。その後は日暮れまで斎戒を全うしなさい」と記されている(注2)。ジャカルタの場合、午前3時55分頃から午後17時55分頃までが断食の時間だ。未明に早い食事を済ませ、日が沈むとたいていの家庭では一家揃って断食開けの夕食をとる。日中は、食事だけではなく、飲み物を飲むこと、唾液を飲み込むこと、喫煙、性交も禁じられている(注3)。夜中に食事ができるといっても、水も飲めないのは、熱い乾季にはとくに厳しい(注4)。
ラマダンの本質は、いつもの日常の時間を絶ち切って、生活の中に非日常の時間を持ちこみ、ふだん意識から遠ざかっていた宗教的感情を再活性化することにある。イスラームに限らず宗教ではよくある工夫だ。キリスト教社会でも、40日の間、肉食を絶って懺悔をおこなう四旬節がある(今では、その前に開かれるカーニバルの方が有名になってしまったが)。ラマダン月の間は、断食をするだけではなく、イスラームの戒律をとくに守り、教えの理解を深めることが勧められる。テレビの広告でもいつもは見慣れないショールで髪を隠した女性が商品の宣伝につとめている。宗教は内面的なもの、一人一人の心の問題、という立場から見れば、形式主義と言えるかもしれない。しかし、私たちも「幸せなら態度で示そうよ」という感情には共感するではないか。むしろ態度で示すから幸せになれるのかもしれない。内面を形にあらわすことの意味は小さくない。また、年に一月だけの断食というのもけっしてご都合主義ではない。イスラームに限らず人間の社会生活に節目は必要である。ラマダン月は信者に内省の機会を与える。そして、ラマダン月が終り、断食の義務から解放された翌日には、信者たち首を長くして待っていたイドル・フィトリ(Idul Fitri)の祝日が準備されている。この日、ふだん離れ離れになっていた一族郎党が集い、互いに一年間の無礼を謝り、許し合い、贈物を交換するのである(注5)。こうして見ると、ラマダンは社会生活のリズムを作り出すペースメーカーだと言ってもよいだろう。
ラマダンの断食の肝心なところは、家族や近所の信者だけではなく、全世界のムスリムが同時に遂行しているという点である。今この瞬間に、世界のいたるところで、同じ志をもった人々がともに同じ行為に励んでいる。このような目に見えない共同体が存在するという意識が、人間の想像力に訴えかけ、高揚感をもたらす。単なる感情とも知性とも別な、想像力への働きかけも、宗教の重要な働きの一つなのである。貧者への喜捨が活発となるのもこの時期である。そう意味で、ラマダン月は、ムスリム世界の一体感の醸成に役立っている。
しかし、実はこの一体感というところに隠れた陥穽がある。インドネシアを代表する週刊誌『テンポ』(注6)に、テロ事件との関連の疑いで逮捕されたイスラーム教師バアシルとのインタビューが載っている。この記事を読んでいて湧き上がった思いである。警察が疑うように彼がテロ組織ジャマー・イスラミアの指導者であるかどうかは今後の捜査の進展に待つべきだが、この人にとっては、世界はイスラムとアメリカ=イスラエル連合との対決の構図で理解されている。これは、アメリカの対イスラム強硬派が主張している構図の裏返しに他ならない。言うなれば、2人の人間が鏡に向きあって怒りをぶつけ合っているようなものだ。かつて冷戦時代には東西対決の構図があった。冷戦は西側の勝利で終ったとされたために、二極対決の構図がいかに不毛であったか、十分な教訓が残されなかったように思う。危機にあって団結しようとするのは防衛本能だが、そのときにも社会の内部に多様性を容認する冷静さは常に必要だ。バアシルはムスリムの団結を唱えるが、彼の言うイスラーム社会とは、アメリカ=西欧連合と対決する集団としてのイスラーム社会である。しかし、イスラームの真の強さは、本来、一枚岩であることによってではなく、イスラーム社会の内部の多様性を容認するところにあるのではないか。インドネシアのムスリムの中にはこのように考える人はけっして少なくないはずである。ラマダンを迎えて、イスラームの寛容性に思いをはせる日々である。
注1:イスラーム暦なので毎年日付は変わる。今年は11月6日から12月5日までということになっている。「なっている」というのは、イスラーム暦では、新月のあとに月が最初に肉眼で観察された日から新しい月が始まることになっており、実際に観察されるまではラマダン月が始まったとか終ったとかは公式に言えないのである。
注2:第2章187節。訳文は日本ムスリム情報事務所「聖クルアーン」(http://www.isuramu.net/kuruan/)による。ちなみに、幼児、妊婦、病人などは断食の義務から免除されている。
注3:日中は食堂の多くが閉店する。といっても、昼飯を食べたいお客もいるわけで、あるスーパーの軽食堂では幕を垂らして食事中のお客さんが外から見えないような配慮をしていた。
注4:ジャワ島では11月から3月頃が雨季。雨季は降雨のおかげでいくぶん涼しくなるが、今年はエルニーニョのせいか乾季が長引いている。
注5:イドル・フィトリを「日本の正月のような」と形容をすることがあり、それなりに的を得た表現だが、けっしてイスラム暦の新年ではないことに注意。
注6:2002年11月4-10日付け36号。
「断食のお勤めに励みましょう」 銀行の壁に垂らされた横断幕がラマダ ン気分を盛り上げる |
ロタン 籐細工の原材料であるロタンの正体はつる性のヤシである 熱帯植物研究のメッカ、ボゴール植物園にて |
用務で先週バリを訪れる機会があった。10月12日の爆破事件から一月ばかりが経ったばかりである。ジャカルタ・バリ間のガルダ航空の飛行機こそほぼ満席だったが、バリの主だった観光地は、クタ、サヌル、ウブドとどこを回っても観光客の数が激減していた。店でもレストランでも店員が所在無げに来るあてのない客を待っている。むろん、こういう光景は今に始まったわけではなく、これまでもバリらしい落ち着きを醸し出していたのだが(第16回参照)、一日待ってもけっきょく客が一人も来ないとなればただ事ではない。どこへ行っても観光客が来なくてsepi(さびしい)になったという声を聞かされた。
レギャン通りの爆破現場はすっかり整地されてしまい、灼熱の太陽の下に白い地面を剥き出しにしている。観光客がちらほらやって来ては記念撮影をしていくだけだ。何か祈念の対象になるものでも設けられているのかと予期していたのだが、地面に置かれた花束が一つ目に入ったぐらいである。周囲の何か所かに建物の壁だけが残されているが、これは爆発の跡というよりは、整地のために取り壊された建物の残骸のようである。レギャン通りの通行も以前のように可能となっている。もともと狭いために一方通行の規制がある通りなのだが、いつものことだった渋滞はさっぱりと無くなった。炎天のもと賑やかな広告や看板だけが目立つ通りには、爆破事件があったと思わせるものは何もなく、バリに平和の回復を訴えるステッカーが店先に貼ってあるのが、事件の記憶を呼び起こすくらいだ。
警備が目に見えて強化されたわけでもなく(これはこれで思いやられるが)、滞在中に治安への不安を感じさせることは一度もなかった。むしろ静謐さがバリをおおっているに感じられた。むろん人気(ひとけ)が減ったことが直接的な原因だが、もう一つ、捜査の進展にしたがって犯人がバリ外部のインドネシア人であることがわかってきたことが、バリの人々に安堵のような落ち着きをもたらしたように思われた。つまり、今回の事件は我々バリ人の責任ではなかった、バリの社会もまたよそ者の犯した事件に巻き込まれた被害者なのだという意識である。バリでおこる犯罪の大方はよそ者の仕業というのがバリ人の通念であるが、今回の事件はその通念を強めることになった。この通念の妥当性はしばらく置くとしても、バリ人の日常が元の活力を取り戻すためには事件の全貌が解明され、犯人が逮捕されることが不可欠ということは明らかである。信頼回復のための宣伝活動がこれから大量に繰り広げられるだろうが、同様の事件が再発がしないという保証が無くてはその効果も期待しようがない(注1)。
一方、バリの爆破事件はインドネシアの積年の軋轢を再び明るみに晒した。昨年の9月11日以来、テロはイスラム対欧米という二極対立の枠組み(そしてこのような単純化の危険性は第22回で述べたが)の中で語られるようになったが、この事件も例外ではない。事件直後からインドネシアでは犯人像を巡って様々な憶測が飛び交ったが、中でもイスラーム系メディアによるCIA陰謀説がひときわ目だった。ついには放射能を出さないハイテク小型核爆弾が使われたのではないかというトンでもない説まで飛び出した。インドネシア人の能力を超える技術が使われたことを論拠にインドネシアのムスリムによる犯行ではないと主張したいわけだ。しかし、捜査が進むにつれて実行犯のすべてがインドネシア人であることが判明した。彼らがアルカイダのような国際組織とどう結びつくかが今後の焦点であるが、ともあれ、インドネシアに思想的にアルカイダと呼応するムスリム・テロリストが出現したことはインドネシア人にとっても衝撃的な事実となった。
それぞれのテロ行為に固有の要因があるとしても(注2)、インドネシアのムスリム・テロの背景にはインドネシア国家創建以来の長く尾を引くジレンマがある。原理主義的なムスリムの立場に立てば、ムスリムの社会は神の命令、すなわちイスラーム法(シャリアという)によって律っせられなければならない。故に、インドネシアという国家にムスリムが、しかも多数派として住む以上、国家の法に対してイスラーム法が優越すべきというのが、彼らの主張である。しかし、現実のインドネシアはイスラーム法を基礎とはしていない。その理由は、インドネシアには数百の民族集団―たとえばジャワ人、ブギス人、バタック人、バリ人など―が共存しているからである。誤解を恐れずに言えば、多くのインドネシア人にとっては、国民としてのインドネシア人である前に個別の民族集団の一員であることが第一のアイデンティティであり、その次に、第二のアイデンティティの座を巡って、インドネシア人であることとムスリムであることがしのぎを削っているというのが現状であろう。歴史的には、インドネシアという国家が成立した時、ムスリムであることではなく、インドネシア人(国民)であることが国家の紐帯の基礎として選ばれた。なぜなら、たとえば、大多数がヒンドゥー教徒であるバリ人にとって、第二のアイデンティティとしてインドネシア人であることは矛盾しないが、ムスリムであることは矛盾である。このような落ち着きの悪さは他の民族にも生じる。インドネシアの民族の多くはムスリムであっても伝統的な慣習を捨てがたく感じていることも確かである。民族的アイデンティティは、インドネシア人という第二の(より包括的で国民的な)アイデンティティを得ることによって、自らがムスリムであることに、あるいは自分の隣人がムスリムであることに対応しようとしたのである。
インドネシアの1945年憲法前文の草案には、独立後のインドネシアは「信者に対してシャリアを施行する義務を伴なうところの、神への信仰」に基づく国家であるという趣旨の文言が盛り込まれていた。これに反発したナショナリストたちによってこの文言は削除され、現在の憲法前文にはインドネシアは「唯一神への信仰」に基づく国家であると記されている。唯一神というところが肝要である。つまり、唯一神への信仰であればイスラームでなくてもよいという含みを残すことで、イスラーム法一辺倒の国家となることを回避したのである。インドネシアのイスラム原理主義者たちの当面の目標は削除された文言を憲法に復活させことであるが、今のところ成功するにいたっていない。イスラムの理想と現実の落差が一部の集団をテロの使用に走らせたのかもしれない。しかし、1945年憲法の起草に関わり、自身も敬虔なムスリムであったモハマッド・ハッタは次のように述べている(注3)。「宗教と国家を一つにしてはならない。なぜなら、そうすることは国家をも宗教をも破壊することになるからだ。神権国家は宗教を国家の道具に貶めることになる。」含蓄のある言葉である。
注1:捜査は予想以上の進捗ぶりで、すでに事件の主犯格の容疑者イマム・サムドラ(ジャワ島西部出身)が逮捕され、犯行集団のネットワークも明らかにされてきた。イマム・サムドゥラは2000年クリスマスの連続爆破事件の容疑者ともされているから、過去の事件をしっかりと捜査しなかったツケがバリの爆破事件の発生を許したとも言えるが、とりあえず今回の事件に対する警察のプロフェッショナルな取り組みは高く評価されるべきだろう。
注2:バリ爆破事件ではバリのアメリカ領事館周辺でも同時に爆発があったが、爆発力が弱く軽微な損傷に留まった。当初は領事館の方に強力な爆弾を仕掛ける予定だったが、途中で計画が変わったという。理由はまだ明らかになっていない。
注3:Mohammad Hatta(1902-1980)。インドネシア初代副大統領となる。スカルノほど海外の知名度は高くないが、インドネシアでは根強い尊敬を得ている。
爆破事件の現場 サリ・クラブの跡地に立ってレギャン通りを望む |
Bali Cinta Damai(バリは平和を愛する) クタの店先に張られたステッカー |
イスラーム暦の第9月ラマダンが終ると第10月シャワルとなる。この月の第一日と翌第二日が、1か月続いた断食の終りを祝うイドゥル・フィトゥリ(Idul Fitri)の祭日である。断食明けの祭を意味するアラビア語「イード・アルフィトル」に由来するこの名称の他にも、ジャワ語のルバル(lebar「終了」)から派生したルバラン(Lebaran)という言い方もよく使われる。断食明けの朝になると男女ともに集団礼拝に参加し、その後、親族や知人が寄り集って一年間の非礼を詫び、断食で浄化された心身をもって新たに生き始めることを祝う。貧しい人々への喜捨が盛んなのもこの機会である。イドゥル・フィトゥリが近づくと祭日を故郷で祝うためにジャカルタに住む地方出身者は一斉に帰省を始める。
私たちの事務所の運転手さんやお手伝いさんたちも年休を使って休みをとった。すで に祭日の2週間前には慣例の祭日特別手当(THR、Tunjangan Hari Rayaという)を渡し てある。これで故郷に持ちかえるお土産を買ったり帰省の交通機関の手配をしたりする。帰省先では親族の家を回る必要もあるし、行き帰りの交通機関の確保も大変だから、二日だけ休むというわけにはいかない。今年の政府通達では祭日前後の12月5日と9‐10日を一斉有給休暇にせよとのことである(注1)。二人いる事務所のお手伝いさんには交替で休みを取ってもらうことにしたので、一人は早めに12月1日から10日までの帰省、もう一人は彼女が戻ってからの帰省となった。運転手さんは自動車をレンタルして12月4日から家族を連れて帰省してしまった。ジャカルタで車が使えない生活が10日ほど続くことになり、私たちの行動はかなり制限される。官公庁、企業、それに(大型スーパーは別として)多くの商店は10日まで閉まってしまうから、仕事にはならない。地方への道路・鉄道・フェリーが大混雑するのに反比例してジャカルタの市内は閑散となっていくのだ。
ところで、今年のイドゥル・フィトリで話題になったことの一つは、イドゥル・フィトゥリの日付が二通り発表されたことである。政府宗教省やインドネシアを代表する イスラーム組織ナフダトゥル・ウラマ(NU、NahdlatulUlama)などは12月6日としていたのだが、インドネシアのもう一つの代表的イスラーム組織ムハマディヤ(Muhammadiyah)が12月5日をイドゥル・フィトゥリとすると発表したのである(注2)。実はこのような日付についての見解の相違は今回が初めてではなく、ここ10年間だけでも1992年、93年、98年に起こっている(注3)。国民的行事の一つなのに日付けが決まらないと言ったことがなぜ起こるのか。それはイスラーム暦の仕組みに原因がある。
第7回で述べたようにイスラームの暦は純粋な太陰暦である。新月から次の新月を一月(ひとつき)としている。したがって、伝統的には、太陽が西に沈み空が暗くなるとき、西の地平線上に髪の毛一筋ほどのかすかな月の輪郭が肉眼で観察されたとき、新しい「月」の第一日が始まるとされるのである。ここで気をつけておく必要があるのは、イスラームの暦では新しい一日は日没から始まることである。つまり、12月6日がイドゥル・フィトゥリだとすると、実は前日12月5日の夕刻に新月が観測されており、その日の日没からシャワルの月第一日がすでに始まっているということなのだ。ともあれ、実際に新月が観察されないと日が決まらないと言うのであれば、来年のカレンダーを作ることはおろか来月の予定を立てることもできない。そこで、イスラームでは月初めの決め方として観測による方法(rukyat)と並んで計算による方法(hisab)も認めている。天文学の知識をもってすれば月の位置とその時刻を計算で予測することは容易だ。しかし、ここで問題となるのは、何をもって新月とするかという計算の基準である。
宗教省などは、インドネシアの全域で確実に肉眼で新月が観測できる時刻を計算の基準にしている。具体的には、新月の高度が2度以上であること、太陽と月の距離が3度以上であること、日没時の月齢が8時間以上であること(朔から8時間経過していること)といった基準を満たすことが必要とされている。この基準はブルネイ、インドネシア、マレーシア、シンガポールの宗教関係大臣によるMABIMS会議で決定されたもので、過去の天文観測のデータを参照して考案されたものという(注4)。肉眼の観測の結果を計算で忠実に再現できるように工夫した方法といえるだろう。それに対して、ムハマディヤの基準は、朔の直後の日没時に月が地平上にあれば新月とみなすというものである(注5)。この方法だと、月の高度が低すぎて肉眼で新月が観測されない場合でも、新しい「月」の第一日が始まることもある。実際、政府は、12月4日の夕刻に新月は観測できなかったとして、正式にイドゥル・フィトゥリは12月5日であると宣言した。
イドゥル・フィトゥリをめぐる二つの基準の併存は色々と考えさせる問題である。一つには、ムスリム社会における異なる見解への寛容性の試金石と見ることができる。二つの日付が発表されたときに新聞の紙面でもっとも強調されたことは、このような違いがイスラム共同体の亀裂を生んだり、政治的対立に利用されたりしてはならないということであった(注6)。もう一つには、神の意志を現実の社会に適用するに際していかなる解釈が最善かという問題である。1912年に結成されたムハマディヤは、旧弊な慣習を排し、クルアーン(神の啓示)とハディース(ムハンマドの言行録)に立ち戻って、イスラームの改革を目指す組織である。実のところクルアーンには新月の基準は示されていない。計算上の新月によって月初めを決めようという態度はこの組織の改革的性格にふさわしいというべきだろう。他方、政府の方式は計算と言っても感覚的世界との妥協の産物である。政府によるイドゥル・フィトゥリの日付は12月4日の夕刻に至るまで12月6日「頃」とされていて、いたって歯切れが悪かった。
ムハマディヤのようにイスラーム法を規範と矛盾しない限り合理的に解釈しようとする立場はいまだ少数派だが、将来は主流にならざるをえないかもしれない。ムハマディヤの立場とは違うが、メッカでの新月を基準にした世界のムスリム共通の暦を作るべしといった意見も出されている(注7)。極端な話、月に人類が住むようになったとき、保守派のムスリムと言えども月の観測に固執することは無理であろう。面白いことにインドネシアではSFが流行らない。とくに「スター・ウォーズ」のような宇宙を舞台にした作品の人気は意外なほど低調だ(注8)。以前からそれが気に掛かっていたのだが、答えの一つが見つかったようだ。観測によってでしか月初めが定まらないとすれば、宇宙の果てではラマダンの日付を決めようがないではないか。「スター・ウ ォーズ」はムスリムに神学的挑戦を突き付けているのである。
注1:有給休暇(年休)をいつ取るかは労働者の権利のはずだから、政府が勝手に決めて通達するというのも変な話である。
注2:正確に言うと、NUなど11のイスラーム組織が12月6日、ムハマディヤを含む2つのイスラーム組織が12月5日をイドゥル・フィトゥリとした。12月5日付『コンパス』紙。
注3:12月5日付『コンパス』紙。
注4:12月4日付『レプブリカ』紙、ジャマルディン「二つのイドゥル・フィトゥリを統一する」。MABIMSはPertemuan Tidak Rasmi Menteri-Menteri Agama Negara BruneiDarussalam, Republik Indonesia, Malaysia dan Republik Singapura(ブルネイ・インドネシア・マレーシア・シンガポール宗教大臣非公式会議)の略。この論文では天文学的基準のみを挙げているが、この他にも当然ながら気象条件や観測地点などの問題が存在する。
注5:12月1日付『レプブリカ』紙。
注6:11月28日付『コンパス』紙、12月4日付『レプブリカ』紙。
注7:12月4日付『レプブリカ』紙、ソフワン・ジャナハ「イドゥリ・フィトゥリを正確に決定する」
注8:「スター・ウォーズ エピソード1」(1999年)も「同 エピソード2」(2002年)もインドネシアでは公開されなかった。「スター・ウォーズ3部作」もヒットしなかったという。satulelaki.com「世界はスター・ウォーズ2に熱狂、指をくわえるインドネシア」(http://www.satulelaki.com/tren/layarperak/0,26315,00.html)。
雨季には熱帯の果物が出回る 左から右に、ランブータン、パイナップ ル、ブリンビン |
イドゥル・フィトゥリを迎える商店の垂れ幕 「Mohon maaf lahir &batin」は「目に見えること、目に見えないことを問わず私の罪をお許し下さい」というイドゥル・フィトゥリの挨拶 碁盤目状のものはクトゥパットという、ココヤシの葉に包んだモチの一種で、イドゥル・フィトゥリの定番食品である |
渋滞解消 イドゥル・フィトゥリ休暇が始まって交通量が激減したジャ カルタ市内 |
イスラームとキリスト教も平和共存 今年はイドゥル・フィトゥリとクリスマスが12月に出会った |
東南アジアの文字と言えばタイ文字のようなローマ字にあらざる文字を連想することが多いかもしれないが、インドネシアの公用文字にはローマ字、つまりABCのアルファベットが使用されている。(注1)といっても最初からローマ字が用いられていたわけではなく、ローマ字でインドネシア語、もっと正確に言えばその基となったマレー語が広く表記されるようになったのは19世紀の中頃とされている。歴史を遡ると、インドネシアで最も古い文字の記録は、東カリマンタンのクタイで見つかったムーラワルマン王の事績を書き記した碑文で、5世紀初めのものである。この碑文は、言語はインドのサンスクリットを使い、文字はインドの南方ブラーフミー系の文字を使っている。第1千年紀の初めに東南アジアの多くの地域でインド文明、ことに交易を通じて交流があった南インドの影響を受けた王国が出現したが、クタイの王国もそのような王国の一つだった(注2)。これらの地域の人々にとって、初めて遭遇した文字体系がインドの文字であり、のちには現地の言語を使うようになるが、最初の頃は、石に刻んで後世の残す文章はインドの公用語であるサンスクリットで書くのがふさわしいと考えら れていたのである。
インドの文字の中でも南方ブラーフミー系の文字は東南アジアに広く普及し、やがて現地の言語を記す文字として使われるようになった(注3)。現在のタイ、カンボジア、ラオス、ビルマの公用文字はすべて南方ブラーフミー系文字が起源である。これらがいずれも大陸部の文字であるためにその影に隠れてしまった感があるが、実は島嶼部においても南方ブラーフミー系文字に由来する文字が広く使われてきた(注4)。インドネシアのスマトラ島のバタック文字、クリンチ文字、ルジャン文字、ランプン文字、スラウェシ島のブギス文字、ジャワ島のジャワ文字、スンダ文字、バリ島のバリ文字、スラウェシ島のブギス文字などが代表的なものである(注5)。これらの文字はもはや実用的な用途で使われることはなく、中には廃れてしまったものもあるが、特定の状況では今日も使用されているものも多い。ジャワ文字やバリ文字などは義務教育の中で教えられており、公共の標識などで見かけることができる。
15世紀頃からイスラームがインドネシアの各地に根付くようなると、一部の地域ではアラビア文字によって現地語を書き記すことが行われた。しかし、その用途は主に宗教教育に限られており、インド系文字に完全に取って代わることはなかった(注6)。インド系文字に代わって普及したのが、オランダによる植民地支配の進展にともなって普及したローマ字である。20世紀の初めにオランダからの独立運動を訴えた若者たちは、その頃まだマレー語と言われていた言語をインドネシア語と呼んで独立後の公用語とすることを宣言したが、そのインドネシア語を書き記す文字はローマ字だった。インドネシアの文字の歴史を見ていると、言語と文字体系との関係がけっして固定したものではないことがよくわかる。世界中で成功した文字体系がごくわずかしかない以上、ほとんどの言語は自前の文字体系ではなく出来合いの文字体系を借用して表記されているわけだ。インドネシアの文字の歴史はそのことを端的に表わしている。
文字の借用と並んで興味深いのはインドネシア語における外来の言葉の借用である。少し長くなるが、たまたま目に入った新聞の文章を引用してみる。「Budaya Jawa memberikan kontribusi yangsignifikan terhadap kondisi birokrasi Indonesia yang korup. Apalagi setelahbudaya Jawa diinterpretasikan secara salah oleh Soeharto dalam menjalankankekuasaannya.」(注7)直訳すると「インドネシアのコ ラプトしたビューロクラシーのコンディションに対してジャワ文化がシグニィフィカントなコントリビューションをした。まして権力の貫徹のためにスハルトによってジャワ文化が誤った形でインタープリテーションされてから後はことさらである。」となる。これは見事なほど極端な例だが、学者とか知識人、政治家は日本と同じで、外来語が大好きである(注8)。一般の人にどれだけ理解してもらえるのかと不安になるのは私だけではないだろう。見てすぐ分かるように、時勢がら英語からの借用が多 い。ただし、英語なら英語の単語がそのまんま使われているわけではなく、インドネシア語風に消化されて使われている(注9)。contributionとinterpretationの語末のtionがsiになっているのはオランダ語の影響を受けたインドネシア語の接尾辞だし、significantとcoruptの語末のtが消えているのは語末に子音連続が認められないインドネシア語の特徴によるし(注10)、interpretationにいたってはインドネシア語の接頭辞diと接尾辞kanが付いた「活用形」になっているのだ。
インドネシア語の借用語には近年でこそ英語に由来するものが多いが、インドネシア語の語彙全体を見てみると、重要な抽象概念の中にサンスクリット(agama「宗教」、negara「国家」など)とアラビア語(alam「自然」、adil「正義」など)からの借用語が多く含まれていることがわかる。これらの単語のほとんどは日常の言葉の中に溶け込んでしまっているから、日本語で言えば漢語に相当する借用語と言ってよいだろう。ヨーロッパ系の言語の中でも付き合いの深いオランダ語からは日常語になった単語(koran<krant「新聞」、dinas<dienst「官庁、公用」)が多いのも特徴である。このように、借用語が多いという点ではインドネシア語もまた日本語と変わるところがない。借用語は外から借りた単語である。いつまでも借りっぱなしというのでは気分が落ち着かないが、借りることで言葉の持ち札が豊かになったこともまた事実であ る。よいインドネシア語とはこのバランス感覚の中から生まれてくるのだろう。
注1:この他に東南アジアの主用言語としてはフィリピン語、マレーシア語、ベトナム語がローマ字を公用文字に採用している。
注2:例外は、紀元前111年に漢によって征服され漢字文化圏の中に入ったベトナム北部である。しかし、ベトナムでも南部ではインド文明の影響を受けたチャム人の王国が長く勢力をもっており、南方ブラーフミー系文字を使用していた。
注3:とくに南インドのパッラヴァ朝で使われた文字が起源になったと考えられている。東南アジアで使われるインド系文字の起源をインドのデーヴァナーガリー文字 (現在のヒンディー語の表記に使われている文字)とする文献がときどきあるが、これは誤りだ。東南アジアのインド系文字は南方ブラーフミー系文字であるのに対してデーヴァナーガリーは北方ブラーフミー系文字である。過去には東南アジアでも北方ブラーフミー系文字が使用された例がわずかにあるが、普及することはなかった。
注4:世界中の文字体系をパソコンで処理可能とすることを目指すUnicodeにも島嶼部の南方ブラーフミー系文字は収録されていない。
注5:インドネシアにとどまらず、フィリピンのルソン島のタガログ文字、ミンドロ島のハヌノオ文字なども南方ブラーフミー系文字に由来する
注6:マレー語を表記したジャウィ文字、ジャワ語を表記したペゴン文字が代表的である。
注7:2002年11月7日付けの『コンパス』紙。アイルランガ大学の社会学の教授Hotman M Siahaanの発言。
注8:もう少しこなれた訳をすると「インドネシアの腐敗した官僚制度のあり方に対してジャワ文化が寄与するところきわめて甚大である。まして、権力の貫徹のためにスハルトによってジャワ文化が誤った形で解釈されてから後はことさらである。」といった感じになる。
注9:外国語の単語をそのまま引用するときはイタリック体にする。例:website。
注10:例えばsoftdrinkはsof drinになる。
ムーラワルマン王碑文 インドネシア国立博物館で11月から開催中の「インドネシアの文字の発達」展(PameranPerkembangan Aksara di Indonesia)で展示さ れている国宝級の文化遺産である |
バリ州政府文化局の看板 ローマ字とバリ文字が併記されているのは文化局ならでは |
9か月の駐在期間も終りが近づき、1月8日には帰国の途につく。この間に書きとめたインドネシアNOWも25回をもって最後となった。まだ書き足らないことがあっただけに心名残である。内容の正確さには最善の注意をはらったが、まだ誤りがあるかもしれない。これまでの回について、後から気付いたことを補足しておきたい。
第6回 東ティモール独立に至る経緯は次のとおり。元々はポルトガル領であった東ティモールに対してインドネシアは1975年9月に軍事介入し翌76年7月に併合を宣言した。その後、1999年10月25日の国連安保理決議をもって東ティモールの統治権はインドネシアから国連東チモール暫定行政機構(United Nations Transitional Administration in East Timor, UNTAET)へ移譲された。2002年5月20日の独立はUNTAETから東ティモール政府への統治権の返還である。なお、東ティモールの言語政策は日本にとってもよそごとではない。たとえば、日本のいくつもの大学で東南アジアに関する教育と研究が行われているが、これらの機関でもテトゥン語やポルトガル語に対応する必要が出てこよう。
第7回 2002年に中国の春節(旧正月)が国民の祝日に準じる任意の祝日となった。祝いたい人だけが仕事や学校を休んでもいい、という祝日だ。インドネシアではTahun Baru Imlek(「陰暦の新年」の意)と呼んでいる。2003年からは正式の祝日への昇格が予定されている。陰暦だから日付は毎年変わり、2002年は2月14日、2003年は2月1日である。2002年の場合、Imlekのあとに「2553」と記してあるのは、孔子の誕生年(前551年)から起算して2553年という意味だ。公認宗教に基づかない春節の祝日化は、スハルト政権期に長らく封印されていた華人社会のカミング・アウトの象徴である。
第8回 アチェには2001年8月に特別自治州の地位が与えられ、2002年1月から正式名称がナングロ・アチェ・ダルサラム州(NanggroeAceh Darussalam, NAD)となった。 12月9日にはインドネシア政府と「独立アチェ運動」(Gerakan Aceh Merdeka,GAM)の間で和平協定の調印が行われた。
第9回 最近のインドネシアでは、いくつかの大型出版が目立つ。特筆すべきは、主題別インドネシア図解百科というべき『インドネシアの遺産』シリーズ既刊10巻 (Indonesian Heritage. ArchipelagoPress社。英語版もある)、『イスラム世界主題別百科』全7巻(Ensiklopedi Tematis Dunia Islam. IchtiarBaru van Hoeve社)、インドネシア文学における華人の活動の全貌を明らかにすべく全25巻の予定で刊行中の『華人マレー文学とインドネシア国民』シリーズ既刊5巻(Kesastraan Melayu Tionghoa dan KebangsaanIndonesia, Kepustakaan Populer Gramedia社)である。
第16回 バリが「島」のもつ「隔絶性」というイメージを強めているもう一つの理由は、多数派のイスラーム社会の中にあってヒンドゥー・バリ文化もつ独自の社会を形 成していることにあろう。まさにイスラームの海の中のヒンドゥーの島である。
インドネシアの伝統的薬剤ジャムー(jamu)の店 粉末状の商品を買って帰るもよし、調合してもらって店で飲むのもよし |
家族でお出かけ ジャカルタから一歩地方へ出るとバイクの4人乗りも日常風景である |