私たち一家三人がジャカルタ空港に着いたのは4月7日の夜であった。長津さんがドライバー付きのホンダ・アコードで迎えに来てくれた。久しぶりに見るジャカルタの町は,90年代後半のバブル期の高層ビルが完成していたことを除けば,予想外に変わっていなかった。住居兼仕事場となる京都大学東南アジア研究センター連絡事務所は,クバヨラン・バル地区にある2階建ての独立家屋である。この地区は第二次世界大戦の後,1948年に開発計画が立てられた住宅地で,1956年までに6000戸を超える住宅が建設された。主として高級官僚の居住区として開発されたため,木立に囲まれた家並みと,当時としては珍しい下水路が整備されていた。とはいえ,インドネシアの高級住宅地の例にもれず,家の周りは高い塀に囲まれ,門は常に閉ざされており,隣近所の交流が盛んな田舎の家並みとはまったく雰囲気が異なる。お手伝いさんの区画を別にすると,一階に台所,食堂兼居間,応接室,執務室二つ,二階に浴室付きの寝室が三部屋という贅沢な住まいである。私たちは,ここに住み込みのお手伝いさん二人と通いの運転手さん一人とともに生活することになった。
ジャカルタ連絡事務所というのは,京都大学東南アジア研究センターが運営している二つの海外連絡事務所のひとつである。ジャカルタ連絡事務所は1970年に開設され,以来何度が移転を繰り返したが,所在地はずっとクバヨラン・バルにある。もう一つの事務所は1963年に開設されたバンコク事務所である。連絡事務所の活動の柱には,現地の研究機関や政府関係機関と連絡をとって現地調査や共同研究を支援することと現地語図書の収集という二つがあり,そのために,連絡事務所には常に教官一名が駐在する体制がとられている。事務所の運営は国に資金によってまかなわれている。したがって,今回の私のジャカルタ滞在中の正式の身分は,この連絡事務所における前途資金管理人ということになる。実は,さきほどの主要目的を遂行するためには,事務所の管理という相当やっかいな事務的仕事が水面下にあり,前任者の長津さんからは一週間にわたって引継ぎの説明をしていただいた。昨年11月から駐在されていた長津夫妻は14日に帰国。いよいよ私たち一家だけの生活が始まったが,のっけからジャ カルタ生活の困難に直面することになった。
ジャカルタ連絡事務所の建物 | ジャカルタ連絡事務所の公用車(となりはお手伝いのティニさん) |
近頃では,仕事場が変わってまずしなければならないことの一つが電子メールの設定である。ジャカルタ連絡事務所でも,すべての事務連絡がメールで行われているので,これが使えないことは話が進まない。さて,こちらでは電話回線によるダイアルアップ接続用の地元プロバイダに加えて,新たにケーブルテレビ回線による常時接続用のプロバイダ(これも地元)とも契約を結んでいる。見たところ万全の体制であるようだが,実はこれが思うようにいかなかった。まず,ケーブルテレビの回線が大雨が降ると断絶してしまう。4月の上旬はまだ雨季の末期でよく雨が降り,そのたびに回線が使えなくなってしまった。しかたなくモデムに電話線をつないでダイアルアップを試みるが,これも市内9か所あるアクセスポイントを総当りで試してみてようやく一つがつながるという効率の悪さである。しかも,この電話回線はもともと事務所のファックスにつないである回線を転用しているので,インターネット接続をしている間はファックスは使えない。一度,接続しているのを忘れたまま,ファックスを送ろうと悪戦苦闘して半日を無駄にしてしまった。さらにやっかいなことは,雨が止んでケーブルテレビ回線にいざ接続しようとするたびに,接続ができないという状態に落ちいったことである。試行錯誤で接続を回復することに数日が消えた。専門家によると,これは,接続が回復するたびに,プロバイダのサーバが新しいIPアドレスをこちらのルータに割り当てるのだが,ルータ側は以前に割り当てられた古いIPアドレスを保持したまま忘れてくれないことに原因があるとのことであった。専門家から,あわせて対処法(ルータの電源を落として古いIPアドレスを消去)をうかがって安堵したころには,乾季が始まり雨も降らなくなった。これで一件落着と言いたいところだが,実はまだ問題が残っている。この常時接続は期待に反してブロードバンドどころの代物ではなく,添付書類付きのメールを送信しようとするとタイムアウト(送信に時間がかかり過ぎて途中で交信が断絶すること)してしまうほど細いのである。こうなると電話回線にダイアルアップという旧式の方法に頼らざるをえない。人間よくしたもので,一週間もたってやり方が掴めてくるとそれなりに慣れてしまったが,いま だにメールを送信するときには祈るような気分になるのである。
高層オフィスビルが林立し,大都会ジャカルタの イメージを作りあげるスディルマン通り |
ジャカルタ近郊の住宅地 (川ではない。雨季が終っても水が引かない所がある。) |
さて,ジャカルタ生活の困難で次に直面したのが交通渋滞である。もともとジャカルタの交通事情の悪さは前から経験していたことなので覚悟はしていたが,実際に生活してみるとその不便さが身にしみることになった。交通渋滞をインドネシア語でマチェット(macet)と言うが,インドネシアに初めて来た観光客が最初に覚えるインドネシア語がこれという位に,日常会話では必須の単語の一つである。
大都会もどこも多かれ少なかれ交通渋滞には悩まされているが,ジャカルタの場合にはいくつかの根本的問題がある。第一に,基本的な道路網が整備されていない。たとえば,ジャカルタの西郊外にある日本人学校まで直線距離にして14キロであるが,ここへ通うのに片道1時間かかる。都市中心と郊外を結ぶ道路が整備されていないので,広い道,狭い道と右折左折を繰り返して行くことになり,できあがった道順はまるであみだくじである。しかも道路上には路上駐車の車に始まって物売り,屋台,荷車,歩行者(横断歩道が皆無なせいだが),自転車,バイク,バジャイ(オート三輪の軽タクシー)など が自動車と渾然一体と同居しているから,速度はいきおい遅くなる。
第二に,都心部に地下鉄のような信頼のできる(時間どおりに走る)大量公共交通手段が確保されていないことである。国家建設が始まりかけたとたんに自動車社会が到来したという事情もあろうが,シンガポールの地下鉄やバンコクのスカイトレインのように東南アジアでも大量公共交通手段を完成させたところもあるのだ。自動車に代わる交通手段がない以上,所得の向上にともなって人々はますます自家用車に頼ることになり,これが,貧弱な道路網をますます圧迫していくのである。ジャカルタの北側の旧市街コタと南側の商業地区ブロックMを全長5キロほどの幹線が結んでいる。まん中あたりのロータリーを境に北がタムリン通り,南がスディルマンマン通りと名前が変わるが,片道4車線もある幹線道路である。スハルト政権末期にこの通りに地下鉄を建設する計画があったが,同政権崩壊とともに白紙になった。日本大使館や銀行の本店がはいったオフィスビルなどがこの通りに集中しているため,用務があるときはどうしても自動車で行かざるを得ない。しかし,この通りがどうしようもなく渋滞する。ちなみに,この通りでは朝6時半から10時までの通勤時間の間,車一台に三人以上乗っていないと立ち入り禁止という制限をおこなっている。たしかにこの時間の渋滞は解消されているが,抜本的な解決というわけではない。また,この制限にも抜け道があり,時間帯になると乗客のレンタル業という商売が出現する。お金をもらって車に同乗し,乗員を三人にしてあげることを仕事にする人たちが道端に立ち並ぶのである。
というわけで,ジャカルタに着いて初めの間は移動時間にずいぶん時間を取られ,予定を立てるのがなかなか難しかった。ようやくつかんだコツは,外出先の方向が同じ用事があれば,できるだけまとめて同じ日にこなすようスケジュールを組むことである。最後にクイズを一つ。ジャカルタ連絡事務所から朝9時にスディルマン通りの銀行へ車で出かけるとして,何人の人間が必要か。正解は4人。スディルマン通りに車で入るた めに3人,車が出かけた後,家の門を閉めるお手伝いさんが1人。
渋滞で止まった車を相手に売り歩く風船売りの青年 |
焔の皿を持ち上げる「青年の魂」像(通称「あっちちの像」) ここからスディルマン通りに入るのだが,標識には6時半から10時まで車の窓を開けておくこと,と書いてある(誰もしないが)。3人以上乗っているかどうか警察が確認するためである。 |
改憲といっても日本国憲法の話ではない。インドネシア共和国憲法の話である。4年前の5月に起きたスハルト大政権の劇的な崩壊以来(5月21日に大統領退陣),この国の変動は走馬灯のようにめまぐるしかったが,現在のメガワティ政権になって動きが鈍くなったような印象がある。経済は相変わらず混迷状態だし,スハルト一族の金権政治の実態解明も牛の歩みだ。この中で,抜本的な民主改革への布石として気になるのが,改憲の動きである。
現在のインドネシア共和国憲法は1945年憲法と呼ばれていることが示しているように,インドネシアが独立宣言をした年に発布された憲法である。宗主国オランダはインドネシアの独立を認めず,オランダとインドネシアの間には軍事的緊張が続いた。つまり,簡単に言えば非常時の憲法であって,大統領に権限を集中し,ようやく生まれた国の存亡の危機を乗り越えようという趣旨の憲法であった。そもそも初代の大統領は国民投票で選ばれたわけではない。その後,1950年代には一時,基本的人権にも配慮した憲法に変わったのだが,結局1945年憲法に回帰したのは,開発独裁型の政治に都合が良かったからである。いま,その独裁政権が倒れ,改憲の意見が本格的に議論されるようになった。改憲の行方がどうなるかは別として,オープンな議論が可能となったこと自体は,インドネシアの民主化が進展していることを示しているといってよいであろう。
なぜ改憲が求められているのか。第一に,意外なことだが,1945年憲法がこの国の憲法として議会の承認を得ていないことがある。これは,今月,独立国に生まれ変わる東ティモールが,総選挙でまず議会を創設し,その議会が憲法を起草,承認,その憲法に基づいて大統領を選出してようやく独立宣言へいたるという教科書のお手本的道順を経ていることと対照的である。しかし,これは手続き上の問題であって,やはり,改憲派が求めている最大の目標は,立法府を真の国民の代表機関に改変し,大統領の行政府との間に権力のバランスをとること,それに加えて,基本的人権に関連した条文を整備すること,の2点に集約されるであろう。
現実の改憲の議論は,1945年憲法の維持を主張する旧守派,修正で良しとする派,全面改変を主張する改革派が分かれており,喧喧諤諤の状況である。しかしながら,憲法という国の基本設計の書き直しが,今後のインドネシアの将来にとって根本的に重要な意味をもつことは確かであろう。
スーパーマーケットで売っている蛙 (理科の観察日記用ではない。食用) |
まだ季節ではないがドリアンを見かける デパートの地下スーパーにて |
5月20日に21世紀最初の独立国として東ティモールが誕生した。この同じ日が,インドネシアでは,オランダ植民地支配からの決別を告げる民族主義の目覚めを体現した団体ブディ・ウトモの設立(1908年)を記念して「民族覚醒の日」と定められているのは,歴史の皮肉としか言いようがない。東ティモールは1975年にいったんポルトガルからの独立宣言をしたにもかかわらず,インドネシアの軍事介入を受けて,インドネシアの27番めの州として併合されてしまった。インドネシアからの独立を目指す抵抗運動は根深く続いてきたが,急転直下,実現したのは,スハルト退陣の後始末を押し付けられたハビビ大統領が,経済危機の中,簡単に言えば「お荷物」の切捨てを決断したからである。
興味深いことに,東ティモール憲法前文には「東ティモールの独立は1975年11月28日に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)によって宣言され,2002年5月20日に国際的に認知された」と記されている。この主張にはお手本がある。インドネシアも1945年8月17日に独立を宣言したものの,植民地支配を回復しようとするオランダの介入により5年近くの独立闘争が続き,オランダの主権委譲が決まったのが1949年,インドネシア共和国としての発足は1950年のことであった。しかし,インドネシアにとっての独立記念日はあくまでも8月17日である。東ティモールがその憲法前文で主張していることはまさにインドネシア自身が主張した論理に他ならない。我々は自らの意志で独立を宣言したのになぜその希望を踏みにじり続けるのか。インドネシアの新聞の中には,「25年間のあいだ,あやし続け,かわいがってきた兄弟が,最後には,あまりにも気安く,育てた母親のもとを離れて行くことに対して,心が傷つけられた」人々がいることは理解できる(Republika紙2002年5月18日)といった論調さえ見られる。「赤ん坊」と言わず「兄弟」と言ったところにまだ自制が感じられるが,東ティモールを子ども扱いした言い方であることは明らかだ。実は,このような態度こそが,かつてオランダがインドネシアに対して示した態度であり,インドネシアの民族主義者たちが反発を感じた態度に他ならないのだが,まだインドネシアにはそこまで冷静に見るゆとりが無いようだ。
メガワティ大統領は,国内の反対派への配慮から数時間の滞在ではあったが,新しい首都ディリで開かれた独立記念式典に参加した。一方のグスマオ大統領も,ジャカルタまで出かけてメガワティをじきじきに招待したうえに,ディリにあるインドネシア戦没兵士への墓参りにも同行するという気の配り方を示した。インドネシアと東ティモールの外交関係が良識のある態度で出発できたことは評価してよいだろう。
一方,あえて独立という誇りを選んだ東ティモールにも(海底ガス田の開発を除けば)明確な将来の展望があるわけではない。この点で,個人的にどうしても納得がいかないことの一つは,東ティモールの指導者たちが地元ののテトゥン語とならんでポルトガル語を公用語と定めたことである。それまでの公用語インドネシア語を排除し,現地語を公用語にするという言語政策は理解できるが,なぜポルトガル語にこだわる必要があるのか。もともと東ティモールの住民はメラネシア系で,民族的にはむしろ東方のパプアニューギニアの人々と近い。ポルトガル語という選択には,むろん旧宗主国との関係が強い指導者層の都合もあるはずだが,それと同時に,太平洋州との連帯を求める脱アジアの志向が反映しているのかもしれない。しかし,独立が実現した現在,東南アジアとの結びつきは不可避であるし,東ティモールの独立を支援した南の隣国オーストラリアとの関係も考えれば,英語の重要性は揺るがない。さらに,インドネシア時代に教育を受けた世代の多さを考えれば,インドネシア語を一夜にして追放することも不可能である。今後,人口80万人の新興国家に四つの言語という状況は相当な負担になりつづけるだろう。
ともあれ,このような事情で,インドネシアの新聞では,東ティモールの国名はTimor Timur,Timor Leste,TimorLorosaeと色々に書かれている。Timor Timurはインドネシア語,Timor Lesteはポルトガル語,TimorLorosaeはテトゥン語の名称で,いずれも「東ティモール」という意味をもつ。このうちLorosaeは文字通りには「日の出」という意味だから「日出づる国」である。ちなみにTimorという地名自体がインドネシア語のTimurと同語源であり,九州の国東(くにさき)と似た発想で,もともと,東の方の島という意味だったのだ。
破壊されたまま放置されているオフィスビル 1998年5月暴動事件の爪跡はまだ残っている 華人地区グロドックにて |
これは中国製バイク「北京」の看板 漢字使用は解禁になったが,漢字の看板はまだ珍しい 中国製バイクはモチン(mocin motor cina)の呼び名で売込み中 |
国民約2億人のうちおよそ9割がイスラーム教徒として,インドネシアが信徒数から見て世界最大のイスラーム国であることはよく知られている。しかし,この国ではイスラームは国教ではなく,むろん最大宗派としての影響力は甚大とはいえ,公式には,国家によって公認された五つの宗教の一つに過ぎない。そのことをもっとも良く表わしているのが祝日である。今年のカレンダーの五月のページには三つの赤字の日(祝日)が印刷してあるが,それぞれ異なった宗教に関連していた。まず,イエス・キリストの昇天祭が5月9日,イスラームの創唱者ムハンマドの誕生日が5月25日,続いて一日違いで仏教のワイサク祭が5月26日にある。おもしろいことに,これらの祝日の日付は固定しておらず,毎年このように五月に重なるとは限らない
昇天祭というのは,復活祭(イースターの日曜日)から40日目にあたり,復活したイエス・キリストが天に昇った日とされる。復活祭の日付が毎年変わる(春分の日以降最初の満月の日の後に来る最初の日曜日)ことから昇天祭の日付もそれに応じて変動する。次に,ムハンマドの誕生日はイスラーム暦の第3月12日だが,この暦は一年が354日しかない純粋な太陰暦なので毎年日付が(私たちの暦に対して)約11日ずつずれることになる。つまり,3年後には4月に祝われることになる。最後に,ワイサクというのは,仏教の祝日とはいえ日本ではあまりなじみがないが,上座仏教圏では,ブッダの生誕・成道(悟り)・入滅(死去)を祝う日として重要である。上座仏教圏で使われている太陰太陽暦である仏暦(今年は2545年)の第6月の満月の日にあたり,月の名前からワイサクの祭と呼ばれている。ところで,ボロブドゥールの遺跡からも分かるようにインドネシアにはかつて大乗仏教が栄えていたのだが,なぜ現在の仏教徒が上座仏教の伝承に従っているかといえば,現在のインドネシア仏教は20世紀になって上座仏教が中心となって復興したものだからである。むろんボロブドゥールがシンボルとされていたり,中国系仏教の宗派が流入している部分もあるのだが,中心となる聖典は上座仏教が使うパーリ語仏典である。
ちなみにインドネシアの五つの公認宗教では,キリスト教はカトリックとプロテスタントの二つと数えられてる。それでは,最後の一つはと言うと,バリを中心に信仰されているヒンドゥー教である。ヒンドゥー教の祝日は,インドネシアにヒンドゥー教が栄えていた時代に使われていたサカ暦(太陽暦で,西暦よりも78年少ない)の新年を祝うもので,今年は1924年の新年が4月13日に祝われた。このように,宗教ががつては精神生活だけではなく私たちの日常生活をも細かに規定する全体的なシステムとして機能していた,否,ある意味では今でも機能していること,そして,宗教の名による暴力が振るわれることがあっても,多宗教の共存の試みが可能であることを,インドネシアのカレンダーは語ってくれるのである。
オランダ時代をしのばせるファタヒラ広場で記念撮影中の男の子 (後ろはかつての市庁舎,現在はジャカルタ歴史博物館) |
ファタヒラ広場の一角にあるオランダ時代への郷愁を売り物にするカフェ・バタビア 内装も凝っている |
第6回で東ティモールの独立に触れたが,それでは,現在,インドネシアには州がいくつあるのか?授業でインドネシアのことを教える立場にある者にとっては,こういう細かな数字の正確さが気になるところである。
スハルト政権の時代はいたって気楽なもので,1967年にブンクル州が南スマトラ州から分離されたのち,1976年に東ティモールが27番目の州として併合されて以来,インドネシアには27州あると説明してすむ時代がずっと続いていた。むろん,東ティモールをインドネシアの州と勘定しての上のことだが。それでは,現在,東ティモールが抜けて26州になったかと言うと,ことはそれほど簡単ではない。ハビビ政権になってから,スハルト時代の中央集権的政治の反動から地方自治(otonomidaerah)が主張されるようになり,それにともなって,州の分け方が今まで以上に細かくなってきた。具体的には,1999年に北マルク州からマルク州が分離(これで28州),2000年にバンテン州が西ジャワ州から分離(29州),バンカ・ブリトゥン州が南スマトラ州から分離(30州),ゴロンタロ州が北スラウェシ州から分離(ついに31州!)。分離ではないが2001年にはイリアン・ジャヤ州の名前がパプア州に変更。そして2002年には東ティモールの独立が達成された。つまり,現在,インドネシアには30の州がある,ということになる。ちなみに,ここまで州という言葉を使ってきたが,厳密に言うと第1級自治区と呼ばれるもので,27の州(propinsi)の他は,アチェとジョグジャカルタに特別州,ジャカルタに首都特別区の地位が与えられている。
地方自治と言うと聞こえは新しいが,政治・経済の中心であるジャワ島と,それ以外のいわゆる外島が対抗しあうという図式は,インドネシアの古代史にさかのぼる根深いものであり,いったん始まった分離の流れは簡単には収まらないであろう。教師と地図会社にとって細かな数字が気になる日々はまだまだ続くようである。
(補注:1999年にイリアンジャヤを東・西・中部の三州に分ける提案がなされたが,この案は結局実現しなかった。参照:http://www.mindspring.com/~gwil/uid.html)
(追記:2003-11-26:2002年9月24日にリアウ諸島州(州都バタム)がリアウ州から分離し、インドネシアの州は31州になった。)
ジャカルタの真中にもこういう公設市場がある 事務所に近いサンタ市場 |
所狭しと商品を並べるサンタ市場の金物屋 |
インドネシアの観光案内書では、中部ジャワのジョグジャカルタとくればインドネシアの古都と言うのが約束事となっている。NHKで放送中の「アジア古都物語」シリーズでも、京都、北京と並んでジョグジャカルタが取り上げられており(3月24日放映)、古都の定位置は揺るぎないと言ってよいだろう。かつての王都であり、今も民衆から尊敬されるスルタン(注1)の宮廷のある町というわけである。むろん今のインドネシアにおいてスルタンの地位は名誉職でしかないが、現在のスルタンであるハムンクボノ10世がジョグジャカルタ特別州の州知事であることもあって、その存在感は大きい。先月28日には、そのスルタンの長女サリさんの結婚式がジャワの伝統に則って華やかに執り行われ、その様子が内外のマスコミによって伝えられていた。この際、取材する報道陣にもジャワの伝統的服装をすることが求められたという逸話は、インドネシアでも日本でも報道され、古都ジャグジャカルタのイメージを改めて印象付けた。
ところが、この古都なのであるが、その歴史はそれほど古くはない。実はもともとスラカルタ(注2)に都があったマタラム王国がオランダの干渉で弱体化した末に1755年に分裂し、本家筋から分かれたハムンクボノ1世が新しい都として定めたのが現在のジョグジャカルタである。当然、スラカルタの方が都としては古いわけだし(1745年に始まる)、王都と言っても、オランダ植民地支配の枠組みの中で認められた権力の所在地にすぎなかった。このたかだか250年の歴史だけでインドネシアの古都の名を欲しいままにしているのは、簡単に言えば、スルタン家を頂点とするジョグジャカルタの「伝統」戦略の結果だと感じさせられる。もともと本家筋から飛び出した王の町であって、保守的な気風の町ではない。先代の9世は率先してインドネシア独立運動に参画したほどである。ここでは「伝統」は町作りのテーマとしての肯定的な意味をもっており、スルタンはそのしたたかなプロデューサーの役割を果しているのである。
ひるがえって、ジャカルタはと言うと、意外かもしれないが、今月で成立475周年を迎える。もともとスンダ・クラパという名の港であったが、ファタヒラ率いるイスラームの軍勢が1527年6月22日にポルトガルと競り合った末にこの地を征服し、ジャヤカルタ(勝利の町)と改名したのが始まりとされている。ジャカルタはジャヤカルタのなまりである。その後、1619年にオランダの支配下に入ってバタビアと改名され、オランダの植民地支配と貿易の拠点となった。私たちにおなじみのジャガイモも、ジャガタラ(ジャカルタのなまり)から伝来したイモの意である。日本がインドネシアを侵略したときにバタビアの名は廃止され、現地名ジャカルタが復活した。
このように、ジャカルタの歴史はジョグジャカルタよりもよっぽど長いのであるが、古都というイメージはどうしても沸かない。もろん数世紀にわたってインドネシア人自身の都ではなかったという当然至極な理由があるのだが、それとともに(あるいはそれゆえに)根深い伝統軽視の気風が背後にあるように感じられる。ジャカルタの北部のコタ地区はオランダ時代の建物を残す地域だが、バタビア時代の市庁舎があるファタヒラ広場のみがかろうじて整備されているだけで、跳ね橋がアクセントとなる運河地帯は歴史的景観というにはほど遠い雰囲気である。スンダクラパにいたっては、オランダ時代の倉庫を改造した海洋博物館があるのだが、入場者はほとんどいない。要するに、ここでは伝統が町のイメージとして機能していないのである。うまくすれば近代都市の中のオアシスとして市民や観光客がともに楽しめる場所になる可能性をもっているだけに惜しまれる。町作りは難しい。古都は一日にして成らず、四百年にしても成らずである。
注1)英語で言うサルタン。イスラーム圏の王の称号。
注2)別名ソロ。ジョグジャカルタの東約60キロ。ブンガワン・ソロで知られるソロ川の上流にある。
現在のスンダクラパ。 向こうの北側が海 岸壁沿いにピニシが並んでいるのが見える とはいえ、これでは観光客はこないだろうという殺風景な光景である |
ピニシはスラウェシ島南部のブギス人が使う2本マストの木造機帆船である カリマンタンなどから運ばれてきた材木を降ろしているところ |
日本は惜しくも16強には至らなかったが、韓国は4強に入り、アジア・サッカーへの期待を大きくした。さて、インドネシアのサッカーはというと、ワールドカップに代表を送るだけのレベルではなく、「俺の国はいつになったらワールドカップに参加できるのかなあ」というセリフで始まる(インドネシアとしては珍しく自嘲的な)テレビ広告があるほどだが、サッカーに対する熱狂ぶりはなみなみではない。連日、関連報道が全国紙の一面を飾り、いたるところでワールドカップがらみの宣伝が花盛りだし、テレビで試合の放送が始まると、職場やカフェで仕事を忘れて観戦している。とくにテレビの放送の発展ぶりには、ここ10年ほどの間のインドネシアの変わりようの一端がよく見えてくる。
インドネシアでテレビ放送が始まったのはスカルノ政権期の1962年のことだ。この年8月17日に国営放送局TVRI(Televisi Republik Indonesia、現在は公社化されている)がテレビ放送を開始したのだが、これは、ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会をテレビ放送するためであった。おまけに放送開始日はインドネシアの独立記念日でもあり、TVRIの成り立ちが国威の発揚と深く結びついていることを示している(注1)。TVRIは1980年代までインドネシアの唯一のテレビ局として、大衆受けのする娯楽番組と単調極まりない政府の宣伝番組を流し、多数の島々からなるインドネシアを一つにまとめるための政府の道具としての役目を担わされていた。TVRIのかつてのキャッチフレーズが「TVRI menjalin persatuandan kesatuan(TVRIは国家の統合と統一を推し進める)」であったものうなずける。広告は無いのだが、ようするに放送全体が政府の広告のようなもので、スハルトが、「微笑む将軍」のイメージを演出したのもTRVIを通じてであった。懐に余裕のある層には、インドネシアの地の利を生かし、巨大なパラボラアンテナを庭に立てて、赤道上の静止放送衛星から降り注ぐ外国のテレビ番組を受信する(台湾製のデコーダを使う)という手もあったが、一般の庶民にとって長らくTVRIが唯一のテレビ放送でありつづけたのだ。
このような状況は90年代になって劇的に変わった。この時期は、ジャカルタなどの大都市における都市中間層の出現が話題になったころである。独裁政権による経済開発が軌道にのって豊かな生活を享受し始めた都市中間層にとっては、独裁政権下の制限はもはや足かせであった。(ファッションや娯楽を含めた)世界の最新情報を求めた都市中間層は「政治の自由」を求めたが、その裏返しが「消費生活の自由」への欲求であったことは間違いない。このような都市における消費者の出現が商業テレビ放送の開始を促したのである。
インドネシア最初の商業放送は1989年にジャカルタで放送を開始したRCTI(Rajawali CitraTelevisi)である。放送中に自局の広告が入るのだが、そのキャッチフレーズは「RCTI OK」である。一年遅れでSCTV(SurabayaCentra Televisi)が東ジャワにあるインドネシア第二の大都市(日本で言えば大阪のような位置づけ)スラバヤで放送を開始した。93年にはジャカルタに移り、名称も(Surya Citra Televisi)に改まった。こちらのキャッチフレーズは「SCTVNgetop(SCTVがトップ)」である。その後、TPI、ANTV、Indosiarが続き、さらに最近ではMetroTV、Lativi、TransTV、TV7が出現して、テレビ放送は供給過剰の時代になったが、その中で、SCTVとRCTIはテレビ放送界の双璧と言って良いだろう。かつてテレビ放送を独占していたTVRIは、老朽化した設備と公社化による資金不足のため、二大民放の前には影が薄い。
RCTIは、今年のワールドカップの試合の独占放送権を獲得した。インドネシアでワールドカップの同時中継が見られるのもRCTIのおかげだが、他の試合と重なった日本の試合を深夜の録画放送に回した上に、ゴール場面をカットして放送時間を1時間に短縮するという曲者でもある。庶民的な娯楽番組にも力を入れおり、ドラマの主題歌にダンドゥットを使うところなどいかにもという感じがある(注2)。対するSCTVは、RCTIよりも少し上の階層をターゲットにしているようで、ジャカルタのお金持ち風の人たちがいっぱい出てくる連続ドラマ番組を毎日一本近くの割合で量産している。こちらの主題歌はスマートなインドネシア・ポップだが、それがヒット曲になるといった、かつては見られなかった現象もおこっている。さらに、最近の中国製武侠もののブームにのってついにインドネシア製中国武侠ドラマまで作ってしまったが、このあたり、華人系インドネシア人の好みが率直に表れているのかもしれない。
しかし、民放については忘れてはならないことは、報道番組の充実である。スハルト政権崩壊後に言論の自由が大きく進展したが、これも、それまでの報道側の努力の積み重ねがあってのことである。実のところ、民放が始まってからも、スハルト時代にニュース(berita)の放送が許されていたのはTVRIだけであった。TVRIのニュースの時間になると民放でもTVRIのニュース番組をそのまま流さなければならなったのである。そこで民放は、TVRIのニュース時間を避けて、自主作成のニュース番組に、berita以外の名を付けて放送し始めた。政府の広報ではなく、視聴者に代わって事実を取材して報道するという原点に戻ったニュース番組が初めて民放で放送されたときの新鮮さは今でも忘れることはできない。かくして、商業放送を認可したスハルト大統領は、皮肉にも自分の辞職がテレビで同時中継されるという栄誉を担うことになったのである。報道番組の作り方にも、正攻法のSCTVと庶民の視点を入れたRCTIの違いが出ているように思われる。トップとオーケーの視聴率戦はこれからも続くだろう。
注1:日本でテレビ放送が始まったのは1953年である。ちなみに、日本で最初のテレビ実験放送が高柳健次郎によって行われたのは1939年のことであるが、これは、もともと1940年に開催が予定されていた(幻の)第12回東京オリンピックのテレビ放送を目的としていた。テレビ放送が国策と深く結びついていることをよく示している。
注2:ダンドゥット(dangdut)は、インドの大衆音楽(インド映画の歌を思い出してもらうとよい)の影響を受けたインドネシアの大衆音楽。生活苦や失恋を歌うところは演歌にも似ているが、歌に合わせて激しく踊る(ことでストレスを発散する)点で、演歌とは一線を画す。上流層からは品が無いと見なされているので、まちがっても高級ブティックのBGMにしてはいけない。とはいえ最近のダンドゥットは単なる泥臭さから抜け出た「けばい」華麗さを演出するようになっており、その点では社会的地位が上昇していることは確かだ。
衛星放送受信用のパラボラアンテナ 高級住宅には不可欠だったが、都会ではケーブルテレビの普及で無用の長物となりつつある |
屋外スクリーンに映し出されるワールドカップがらみの広告 ホテル・インドネシア前のロータリーにて |