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2008年1月30日

【リレー講義】

画像史料論のコメントシートを読ませてもらいました。多くの学生から『ラーマーヤナ』の物語がおもしろかったとか、ヒンドゥーの神話に関心がわいたといった、プラスのコメントをもらいました。『ラーマーヤナ』やヒンドゥー神話についてもっと知りたい人には、以下の本がおすすめです。

1. 上村勝彦『インド神話―マハーバーラタの神々』(ちくま学芸文庫)筑摩書房, 2003.
2. 河田清史訳『ラーマーヤナ―インド古典物語』全2巻(レグルス文庫)第三文明社, 1971/2000.
1.はインド神話の神々をコンパクトに解説した信頼のできる本。2.はインドで出版された英語で書かれた子ども向けラーマーヤナを訳したもので、長い話を過不足なくまとめています。

また、コメントシートではたくさんの質問をいただきました。残念ながらすべての質問に答えることはできませんが、いくつか代表的な質問を選び(場合によっては再構成したうえで)、答えを記しておきます。

現在のインドネシアにおけるイスラームと他の宗教の関係については、2005年度の「インドネシアのイスラーム:伝統と改革の潮流」講義のQ&Aでふれているので参考にしてください。


【01】プランバナン寺院は東を正面とするということですが、東という方角には特別な意味があるのでしょうか?

サンスクリットでは東は「最初」とか「前」を意味する「プールヴァ」で表現されます。では何に対して前とするのかと言えば、やはり東から昇る太陽に向かってだと思われます。日本語の「東」も古代は「ひむかし」と呼び、「日に向かう」の意だったとする説があることも参考になります。

ところで、東を正面にして両手を広げると右手が南を向きますが、インドでは南のことを「右」を意味する「ダクシナ」と呼んでいます。インド南部のデカン高原のデカンはこの「ダクシナ」に由来します。

太陽が東から昇るのは普遍的な現象ですから、世界の様々な文化で東という方角が特別扱いになっているとしても驚くには当たらないでしょう。その一方で、先史時代から人類は想像以上に他地域と交流を持っていたことも事実です。ある考え方が一つの場所から他の場所へ広がっていった可能性も無視できません。ただし、なにぶん遠い過去にさかのぼったできごとであるだけに、このような文化交流を実証的に論証することはかなり困難と言わざるをえないでしょう。




【02】プランバナン寺院は地震で被害を受けたので解体修復の可能性が検討されていると聞きました。ヒンドゥー教徒の中には寺院の解体に対して反対する人はいないのでしょうか。

2006年5月27日におきたジャワ島中部地震では5000人を超える死者が出るほどの被害が生じました。プランバナン寺院も深刻な被害を受けたため、解体修復が必要という意見も出ていますが、どのような修復を行うかは日本とインドネシアの専門家チームが現在検討中です。

石造建築の寺院は、石のブロックを積み木のように組み立てて出来上がっています。したがって、解体修理というのは、これを一つ一つ取り外して解体し、基礎を作り直した上に、改めて組み立てることになるのだと思います。現在のプランバナン寺院も、もともとは瓦礫の山のような状態から組み立て直して再建したものですから、けっして破天荒な試みではありません。

プランバナン寺院はヒンドゥー教の寺院として9世紀頃に建立されたものですが、その後、地震などで崩壊して、廃墟のまま放置されてきました。本格的な再建が始まったのはオランダ植民地時代の末期で20世紀になってからのことです。再建された寺院は歴史的文化遺産として位置付けられており、宗教施設としての機能は果たしていません。したがって、仮に解体が決まったとしてもヒンドゥー教徒の方から反対が出るようなことはないと思われます。

オランダ時代の修復活動の背景に、純粋に学問的な関心があったことは確かですが、それ以外に、オランダ領の植民地における自分たちの「発見」」を他のヨーロッパ諸国に対して自慢する気持ちがあったことは確かと思われますし、インドネシアの人々に対しては、イスラーム到来以前にインドネシアにあった高度な文化を再構築することによって、オランダ人にこそインドネシアの古代文化を正しく評価し保護する力があることを誇示する機会になったと思われます。

一方、現在のインドネシア共和国にとっては、プランバナン寺院はインドネシアの輝かしい過去を世界に示すショーケースとなっているばかりでなく(1991年にユネスコ世界遺産に登録)、旅行客を引き寄せる大切な観光資源ともなっています。これが、地震のあと観光客の立ち入りが禁止されたプランバナン寺院の再公開が急がれている最大の理由です。




【03】プランバナン寺院にはシヴァ神の眷属以外の神像やヴィシュヌ神の転生であるラーマ王子の物語以外の浮き彫りはないのですか?ブラフマー神に関連するものが少ないようですが、なぜでしょうか。

まず初めに考慮しておくべきことがあります。別の項目でも書いたように、再建前のプランバナン寺院は瓦礫の山でしたし、石材の中には資材として持ち出されてしまったものも少なくありません。したがって、再建された寺院は決して100%完全な再建ではないということです。

さて、プランバナン寺院の中心にあるシヴァ堂には主房と3つの側房があって、シヴァ神像の他にシヴァ神の眷属の神像が安置されています(妃のドゥルガー女神、息子のガネーシャなど)。シヴァ堂の北側のヴィシュヌ堂と南側のブラフマー堂には主房のみがあり、それぞれヴィシュヌ神とブラフマー神の像が安置されています。

一方、シヴァ堂からブラフマー堂にかけての外壁には授業で紹介したラーマーヤナの物語が浮き彫りで描かれており、ヴィシュヌ堂の外壁にはこれもヴィシュヌ神の転生であるクリシュナの若い頃の活躍が浮き彫りで描かれています。

こうしてみると、シヴァ神は彫像で、ヴィシュヌ神は浮き彫りでバランスよく代表されているのに、ブラフマー神の方は影が薄く見えます。これは、偶然ではなく、意図的なものと考えられます。というのは、シヴァ神もヴィシュヌ神ももともと民間で信仰されていた神格がヒンドゥー教の中に取り込まれたものであるのに対して、ブラフマー神は宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を人格化したものなので神話らしい神話が存在しないのです。インドでもブラフマー神を祀った寺院はほとんどないほどですから、プランバナン寺院でブラフマー神の存在感が薄いのも当然と言えるでしょう。

同様に、シヴァ堂なのにヴィシュヌ神の転生であるラーマ王子の物語が描かれているのも、一見すれば奇妙ですが、特定の宗派にこだわるのではなく、トリムルティを表現するという全体的な構想のもとでプランバナン寺院が設計されたのだと考えれば、理解できることだと思います。




【04】プランバナン寺院では、北から南にヴィシュヌ堂、シヴァ堂、ブラフマー堂が配置されていますが、これにはどういう意味があるのですか。

ヒンドゥー教の教理では、ブラフマー神が宇宙の創造、ヴィシュヌ神が宇宙の維持、シヴァ神が宇宙の破壊を担っており、3神あわせてトリムルティ(三位一体)と呼んでいます。したがって、これら3神の堂から構成されるプランバナン寺院は全体でトリムルティを象徴し、さらにそれぞれの神々の活躍を彫像や浮き彫りで表した、一種のヒンドゥー教百科事典的な性格をもっていたと見ることができます。

神々を特定の方位に配置する考え方はインドにも見られますが、中央にシヴァ神、その北側と南側にヴィシュヌ神とブラフマー神を配置する考え方はインドネシアに特有の考え方かもしれません。この配置は、15世紀頃のジャワ語文献『コーラワーシュラマ』に見えますし、現在のバリのヒンドゥー寺院でもおこなわれています。




【05】バリ島を旅行したときに現地のガイドさんから、「ヒンドゥー教の神様は一人だけで、多数いるように見えるのは名前が変わっているだけです。」と言われました。ヒンドゥー教は多神教だと思っていたのですが、なぜこのような説明があったのでしょうか。

現在のバリ島のヒンドゥー教はインドのヒンドゥー教とまったく同じものではありません。それには二つの理由があります。

第一にバリ社会の成り立ちに由来する理由です。14世紀にヒンドゥー教を信奉するジャワのマジャパヒト王国がバリを征服し、バリはマジャパヒト王国の一部となります。その後、ジャワがイスラーム化したのに対して、バリはイスラーム化を免れ、イスラーム勢力に取り囲まれたほぼ唯一のヒンドゥー社会として独自の発展を遂げました。このため、バリのヒンドゥー教にはジャワ的ないしバリ的な土着的要素が多く見られるようになっています。

第二にインドネシア共和国の一部であることに由来する理由です。オランダから独立したインドネシアでは、特定の宗教を国教とはしない代わりに、唯一信仰を、パンチャシラと呼ばれる国家の根本原理の一つとしました。これはイスラーム勢力と非イスラーム勢力の妥協の産物でしたが、いずれにせよ、このパンチャシラがあるために、インドネシアで公認されている宗教団体は、自分たちの宗教が唯一神信仰であることを教理として主張しなくてはならなくなりました(インドネシアでは政府が公認した宗教だけが信仰の対象となります)。

質問にかかわる理由は第二の理由です。バリのヒンドゥー教徒たちは、サン・ヒャン・ウィディという至高神が存在し、その多様な現れがシヴァやヴィシュヌといった神々であると主張することで、自分たちの宗教がパンチャシラに背かないようにしました。これはバリのヒンドゥー教の公式な教理となっており、学校でもそう教えられています。ガイドさんの説明にはこのような背景があります。




【06】現在のバリで、ヒンドゥー教の寺院に神像を置かないということですが、それはもともとあったバリの習慣によるものなのでしょうか。

すでに別の項目でも書いたように、バリ島のヒンドゥー教は、その成り立ちから、インドのヒンドゥー教とは異なった特徴を持つようになりました。ヒンドゥー教がもたらされる以前のバリでは精霊信仰が一般的だったと思われます。現在のバリの儀礼でも観察できることですが、精霊(神)はふだん目に見えない世界に住んでおり、人間が祭りをおこなったりしたときに、降りてくるというものであり、常に像を安置しておく必然性はなかったのでしょう。これは、日本の神道でも仏教が仏像をもたらす以前は神の像を造ることがなかったことを考えれば、理解しやすいと思います。したがって、現在のバリで神像を置かないのは、バリ本来の精霊信仰の形態にもどったためではないかと推測されます。



【07】ヒンドゥー教の神々について絵を見ながらの解説をしてもらいました。絵を見るとヒンドゥーの神々は他の宗教の神と比較してとくに攻撃的な印象を受けたのですが、なぜなのでしょうか。

ヒンドゥー教の神々が攻撃的だという印象を受けたのは、シヴァ神が三叉戟を持っていたり、ドゥルガー女神が悪鬼を殺して仁王立ちになった図像を見てもらったことから生まれた印象だと思います。確かにそのとおりで、ヒンドゥーの神々の図像にはどこか攻撃的な雰囲気があることは否めません。

しかし、これはヒンドゥー教の神々に限ったことではありません。たとえば、ギリシャ神話やローマ神話、あるいは日本神話に出てくる神々にも攻撃的な側面があります。例としてリンク先(wikipedia)の素戔嗚尊の絵ネプチューンの彫刻を見てください。いずれも攻撃的な雰囲気を持っています。これらの神々にどのような共通点があるかと考えてみれば、キリスト教やイスラームの超越的な神とちがって、ヒンドゥー教やーマ神話や日本神話の神々は人格的な神であることがわかります。彼らは人間と同じように戦いもすれば恋もする存在として描かれています。つまり、ヒンドゥー教の神々が攻撃的に見えるのは実は私たち人間社会の攻撃性を正直に反映したものだと言えるでしょう。




【08】ヒンドゥー教によると現代はカリ・ユガだそうですが、プランバナン寺院が建立された時の時代は何時代だったのでしょうか。

ヒンドゥー教によると、宇宙が存在している時間は、クリタ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、カリ・ユガの4つの時代に分けられ、私たちが生きている現代は、最後の最も堕落したカリ・ユガであるとされています。さて、古代インド人の計算によると、カリ・ユガが始まった年は、現代の暦に換算して紀元前3102年1月23日になるそうです。したがって、プランバナン寺院が建設された紀元9世紀は当然カリ・ユガになります。14世紀のジャワの文献にもカリ・ユガが始まった年が正しく書かれているので、プランバナン寺院を建設したジャワ人もこのことを知っていたことは間違いないでしょう。ちなみにカリ・ユガは43万2000年続くことになっており、この期間が過ぎると宇宙はシヴァ神によって破壊されます。



【09】プランバナン寺院では僧たちが修行していたのでしょうか。

プランバナン寺院そのもので修行が行われたと考える必要はないと思います。一般に寺院建築は、礼拝のために神仏の像を安置した建物と儀礼をおこない寺院を管理する僧侶たちが住むための建物とに分かれます。再建されたプランバナン寺院は礼拝のための建物と考えられますから、プランバナン寺院の周辺に、僧侶たちが生活するための建物や、新入りの弟子たちが修行をおこなうための建物があったはずです。ただ、これらの建物はより簡便に建てられる木造建築だったので跡が残っていないのだと思われます。



【10】インドネシア、東南アジア、インドの他の寺院と比べるみてプランバナン寺院にはどのような特徴がありますか。
インドネシアにはプランバナン寺院以外にも、ジャワ島の中部と東部を中心に、多くのヒンドゥー教寺院と仏教寺院の遺跡が残っています。ヒンドゥー教寺院としては東部ジャワのチャンディ・パナタランが、仏教寺院としては中部ジャワのボロブドゥールが有名です。

プランバナン寺院の特徴は多々ありますが、その中でもわかりやすいのが、中心のシヴァ堂の47mという高さが示す縦長のプロポーションと、外壁に描かれた優れた浮き彫りだと言ってよいでしょう。

47mという高さはインドネシアはもとより同時代のインドにも類を見ない高層建築です。構造的には段台ピラミッド式に積み重なっていますが、全体として垂直線を強調した砲弾型をしており、専門家はインド北部の高さを強調した砲弾型の様式とインド南部の段台ピラミッド式の様式が融合したものだと見ています。砲弾型(トウモロコシ型と言ってもよい)の塔を持つという点では12世紀のカンボジアに建立されたアンコール・ワットとも共通点があるようです。

浮き彫りのある寺院は、プランバナン寺院以外にも存在しますが、優れたものはそれほど多くありません。その中でも仏伝などを描いたボロブドゥールの浮き彫りはプランバナンの浮き彫りと並ぶ優れたものと言ってよいでしょう。先に名前のあがったチャンディ・パナタランにはラーマーヤナの壁画が残っていますが、これはどちらかというと素朴な作風です。アンコール・ワットにも浮き彫りがありますが、こちらはマハーバーラタから場面を選んで描いています。

表面の仕上げ材としては火山岩の一種である安山岩系の石材を使っているので、全体として灰色の色調になっています。ただ、アンコール・ワットには彩色が施されていたことが分かっていますから、プランバナン寺院も同様であったかもしれません。

総合的に見て、プランバナン寺院は、インドと東南アジアを通して古代ヒンドゥー教建築のなかで5本の指に入る、優れた建築であり、まさに人類全体の文化財だと言ってよいと思います。



【11】プランバナン寺院の浮き彫りが大変に繊細であることに感動した。当時はちゃんと設計図をかいて精密に作っていたのですか。
当時の作業工程を示す記録は残っていませんが、推測は可能です。石工によって石材が組まれると、最初に絵師が墨で石の上に線を描いたのでしょう。次に彫り師が、まず線に沿って大まかに彫り込んでから、さらに細かな部分の彫り込みをおこなったのでしょう。それぞれの職人が技能と熟練度に応じて作業を分担し、流れ作業のように仕事を進めていったと思われます。現代の大型プロジェクトにも通じるような専門性と組織性が発揮された事業であったわけです。


【12】なぜプランバナン寺院の壁画の題材としてラーマーヤナが選ばれたのでしょうか。
授業では、浮き彫りという「テクスト」を読み解くにあたって、浮き彫りによって語られるラーマ王子の冒険という「物語」のレベルと、「テクスト」の発信者と受信者が生きていた社会という「コンテクスト」のレベルを区別することが必要であると指摘しました。この質問はコンテクストのレベルについて尋ねた質問になります。

さて、プランバナン寺院は9世紀に当時中部ジャワを支配していた、ヒンドゥー教を信奉するマタラム王朝の王が建立したヒンドゥー寺院です。別の項目でも説明したように、プランバナン寺院は全体でトリムルティを表現しており、当時のヒンドゥー教の全体像を提示することがその建立の目的であったと思われます。したがって、ラーマーヤナの浮き彫りの第1義的な目的は、ヒンドゥー教の全体像の中でのヴィシュヌ神の活躍を描くことであったと言えるでしょう。

ヴィシュヌ神について重要なことは、宇宙の維持をつかさどる神だということです。そのため、ヴィシュヌ神は宇宙の秩序を乱すものが現れると、地上世界に生まれ変わって、その原因を取り除くために活躍します。宇宙の秩序をみだすものは、多くの場合、ラーヴァナのような化け物として表象されており、ヴィシュヌの転生はそれと戦って倒すことによって宇宙に秩序を取り戻します。このように、ヴィシュヌ神の役割は、物理的な力を行使して社会の秩序を回復し、維持するという点で王の役割と重なるところが大きいため、王族から崇拝される傾向がありました。ヴィシュヌ神の転生であるラーマ王子が理想的な王として描かれているのも偶然ではありません。マタラム王朝の王たちはラーマーヤナの浮き彫りを通じて、自分自身がラーマのようにすぐれた王であることを人々に訴えかけたのでしょう。

プランバナン寺院の浮き彫りというテクスト自体は、ラーマーヤナという物語を語るものなので、直接的に歴史叙述にかかわっているわけではありません。しかし、テクストが成立したコンテクストを分析することは、浮き彫りを史料として使うための一つの手法になります。また、この手法の応用として、物語にはあっても浮き彫りというテクストで語られていない部分があるとしたら、その部分を分析することで、発信者の意図を推測することも可能だと思われます(これは学生の一人から提案された手法ですが、今回は適当な例を見つけることができませんでした)。




【13】猿の王ヴァーリンは何の落ち度も無いのにラーマによって殺されてしまいます。これは理不尽ではないでしょうか。

ヴァーリンの殺害は確かに理不尽に思われます。よく行われる説明は、ヴィシュヌ神の転生であるラーマによって殺されることは、よりよい生に転生することが約束されているので、殺されるものにとっては喜ばしい恩寵だというものです。

ただ、この説明でもヴァーリンが殺されることの理由にはなりません。物語の中でこのような矛盾や不整合が生じるのは、ラーマーヤナが一人の作者によって構想されたものではなく、数世紀もの長い時間をかけて、いろいろな材料を取り込んで現在の形に成ったためです。もともと独立していたスグリーヴァとヴァーリンの物語は、ラーマが王宮を追われ弟バラタに王位を譲らざるをえなかったところに共通点を見出した詩人によって、ラーマーヤナの中に取り込まれたのでしょう。




【14】ラーマーヤナは国や地方によって違いがあるのでしょうか。また、欧米でも研究がされているのでしょうか。

ラーマ王子の冒険の物語にはさまざまな言語によるさまざまなバージョンがあります。サンスクリットで書かれたヴァールミーキ版のラーマーヤナは確かに古典的な地位を占めていはいますが、実際には、多くのラーマ物語の中の一つに過ぎません。インドの中にも多くのバージョンが存在していますし、東南アジアでも国や地域によって語られる内容が大きく異なっています。たとえば、ラオスには仏教説話化したラーマ物語が知られています。

ラーマーヤナはアジアのみならず世界中の人々の興味をひいてきました。欧米でも英語をはじめとする言語に翻訳がされていますし、研究も盛んです。とはいえ、ラーマーヤナは、東南アジアのほとんどの国が共通にもっている古典文化であり、人々をつなぐ共通の文化財として、これからも東南アジアで人気を持ち続けるだろうと思われます。

2008年1月28日

【3年次対象ゼミ】

ジェンダーに関心のある学生に対しては、今読んでいる本のレジュメを作ってくるように指示しました。

インドネシアの民話における動物の取り扱いに関心のある学生に対しては、日本の民話や昔話の研究の入門書の中から、動物をテーマにした部分を抜き出してコピーしたものを渡し、レジュメを作ってくるように指示をしました。

レジュメ作りは先行研究を理解するにあたっての基本的な作業になります。よくできたレジュメは卒論の一部になりますから、しっかりと作っておいてください。

【地域基礎】

今日はインドネシアの大衆文化の代表として、大衆音楽のCDとビデオを紹介しました。実際にクロンチョン、ダンドゥット、ポップ・インドネシア、ポップ・ダエラの代表曲をCDで聞いてもらい、また、ダンドゥットの歌手を目指す人たちやダンドゥットのコンサートの様子をビデオで見てもらいました。

東南アジア全域の歌謡コンテストをおこなうと、一位は多くの場合インドネシアかフィリピンで競い合うことになるくらい、インドネシアは優れた歌手を輩出している国です。その背景には、多様なジャンルの歌が庶民の間に生きていることが挙げられると思います。

来週は期末試験です。冬休みの課題レポートをまだ提出してない人は至急提出してください。

2008年1月25日

【東南アジア古典文化論】

今日はスライドを使って19世紀初めのビルマの写本に描かれた仏伝画をたどって、仏伝の基本を知ってもらいました。そのあと、ビデオでNHKの番組「ブッダ 大いなる旅路 ―タイの僧院にて:生きている仏教―」(1998年)の前半を見てもらい、釈迦が修行した道を自らたどることが上座仏教の本質であることを理解してもらいました。

次週はビデオの後半から続けます。

2学期の期末レポートの課題を発表しました。以下のとおりですので、指示にしたがってください。

2007年度2学期 アジア文化概論II (東南アジア古典文化論)期末レポート課題 教員:青山 亨 課題配布日:2008年1月25日 課題提出日:2008年2月8日(金)4限 授業時間中 レポートの形式:A4判2枚以内。1ページの上部に「東南アジア古典文化論 2学期期末課題」と書き、氏名・学籍番号を明記し、左上をホッチキス止めすること。

課題
インドの物語は、マハーバーラタやラーマーヤナのようなヒンドゥー教の物語の場合でも、仏伝やジャータカのような仏教の物語の場合でも、輪廻転生(reincarnation)という考え方が背景に存在する。マハーバーラタ、ラーマーヤナ、仏伝、ジャータカの中から少なくとも一つを題材として選んで、その(それらの)物語の中で具体的にどの人物(たち)について輪廻転生がどのように語られているかを説明し、次に、その人物(たち)が輪廻転生しているという事実によって、物語にどのような宗教的意味が与えられているかを考察しなさい。

【インドネシア語読解】

今日は最初にBBC Indonesia.comからTenaga kerja asing dilindungiの記事を読みました。次週はタクマ班に準備をしてもらいます。

そのあと、冬休みの課題を提出してもらいました。今日出せなかった人はかならず21日月曜日に提出してください。

テキストの方はNaik Kereta Apiの章を終了し、Jum'atan di Masjid Kobeの章に入り、p.39の最後の行まで進みました。

再来週は期末試験です。今学期の初めから来週進んだところまでが範囲です。しっかり復習をしておいてください。

2008年1月21日

【3年次対象ゼミ】

ゼミ生の1名はすでにインドネシアに留学しました。今日は2名の出席です。

STさんには、インドネシアの民話のいくつかの粗筋を報告してもらいました。このあと、さらに民話のデータを集めること、動物毎のインデックスを作ること、参考文献を整備することを指示しました。

SMさんは留学を予定していますが、ジェンダーの問題に関心があるので、関連論文のレジュメを作ってきて、次回発表してもらうことにしました。

【地域基礎】

今日は冬休み明け最初の授業となりました。第18章「インドネシアのNGO」を報告してもらいました。インドネシアは東南アジアでも屈指のNGO大国です。

そのあと13章から17章までを対象にした第3回小テストをおこないました。25点満点で平均10.7点でした。2月4日は期末試験をおこないますから、しっかりと復習をしておいてください。

冬休み課題「スハルトの汚職問題」のレポートを提出してもらいました。今日出せなかった人は、金曜日までに提出してください。

第19章「インドネシアの大衆文化」は報告者が欠席したので、青山が代わっておこないました。来週はビデオやCDを聞いてもらうことにしています。

2008年1月17日

【】

今日は卒論提出後、最初のゼミでした。青山ゼミの学生は全員、無事に提出することができ、安堵しました。今週からは、2月15日に予定されている卒論・卒研発表会に向けて、降幡ゼミの学生と合同でいろいろと準備作業をおこなってもらいます。後輩のためにも、最後の一踏ん張りをお願いします。

また、青山のウェブサイト用の卒論・卒研の要旨、後輩へのアドバイス、留学体験記の記事なども提出をお願いします。

2008年1月12日

【一般】

日本南アジア学会20周年記念連続シンポジウムの第3回「『インド的文明』とは何か II」が下記のとおり開催されます。

期日:2008年1月12日(土)13:00-17:00
場所:京都大学百周年時計台記念館国際交流ホールIII

青山も「ベンガル湾を渡ったインド的文明:東南アジアからの視点」というタイトルで報告をおこないます。詳細は日本南アジア学会のウェブページをごらんください。

【4年次対象ゼミ】

全員無事に卒論・卒研を提出することができよかったです。今日は、今後の活動の打ち合わせをおこないました。

青山ゼミの学生は、今月中に卒論・卒研の要旨(全員)、後輩へのアドバイス(希望者)、留学体験談(希望者)を書いて青山に提出してください。これらは青山のウェブサイトに掲載します。

2月15日に卒論・卒研発表会をおこなうので、それまでに、発表要旨集の作成と、当日配布する卒論・卒研全文CDの作成にむけて、分担して作業に取り組んでください。

2008年1月11日

【東南アジア古典文化論】

今年最初の授業でした。今日は、仏教の物語の基本を説明し、とくに日本の大乗仏教と東南アジアの上座仏教の違いを知ってもらいました。

来週1月18日はセンター入試前日のため休講となります。次回は1月25日です。仏伝とジャータカについて実例をスライドで見ながら実際の仏教の物語にふれていきます。

冬休みの課題レポートを回収しました。今日提出できなかった人は来週の火曜日に青山研究室(633)まで提出しに来てください。

今週の配布資料をダウンロード (PDF, 168KB)

【インドネシア語読解】

今日は最初にBBC Indonesia.comのニュースからSuharto masih 'tepat kritis'を読んでもらいました。この文章を読んでみると、kondisiintensifなどインドネシア語にいかに多くの英語からの借用が入っているかがわかります。とくにterapiは一見すると接頭辞ter+語幹apiに見えてしまうので注意してください。

テキストはp.37, l.13まで進みました。

来週1月18日はセンター入試前日のため休講となります。次回は1月25日です。冬休み課題の提出を忘れないでください。

2008年1月 9日

【4年次対象ゼミ】

今年度の卒論・卒研の提出日は2008年1月8日(火)・9日(水)です。冬休み期間中の提出ですから、注意してください。冬休み後の授業再開は1月11日(金)からです。この日のゼミでは、今後の活動についての連絡をしますから、全員参加できるようにしてください。

2008年1月 8日

【インドネシア語専攻で勉強する人のために】

この記事は2015-02-02に続いて2017-10-24に再び全面的に改訂しました。

論文は一般的に以下のように3つの部分から構成されています。

前部分(とびら、目次)
本体部分(本文)
後部分(付録、後注、参考文献目録)
  • 付録は必ずしも必要ではありません。
  • 脚注(footnote)を使う場合には、後注(endnote)は必要ではありません。

ここでは、前部分と本体部分に着目して、本体部分の最初のページを第1ページとしてページ番号を付ける方法を説明します。このようなページの付け方は書籍では一般的なやり方です。なお、この説明ではページ番号を付ける位置はフッターの中央としています。

目標とするイメージは下の図のようになります。

前部分(題目等と目次)にはローマ数字で、本体部分(本文)にはアラビア数字でページ番号を付けます。

  • 前部分には小文字のローマ数字、本体部分にはアラビア数字でページ番号をいれます。
  • 前部分の最初のページは「扉」と言い、題目・著者の氏名・提出年などの情報を記載します。扉にはページ番号を記載しませんが、ページ番号としては第1ページとしてはカウントします。
  • 本体部分の最初のページは、第1ページとしてカウントします。
  • 図には表示しませんでしたが、後部分にはアラビア数字でページ番号をいれます。後部分のページ番号は本体部分のページ番号を引き継ぎます。

それでは、最初に、前部分と本体部分の間にセクション区切りを挿入します。

まず、本体部分の最初に挿入ポインタを移動します。そして、メニューからページレイアウト>区切り>セクション区切り>次のページから開始を選びます。

これで、論文全体の構成は以下のようになったはずです。

前部分(とびら、目次)
===========セクション区切り===============
本体部分(本文)
後部分

次に、挿入ポインタが本体部分にあることを確認したら、メニューから挿入>ページ番号>ページの下部>番号のみ2(中央に配置)を選びます

次に、挿入ポインタがフッターにあることを確認したら、メニューからナビゲーション>前と同じヘッダー/フッターをクリックし、選択を解除します。

続いて、メニューからヘッダーとフッター>ページ番号>ページ番号の書式設定>連続番号>開始番号「1」を選び、OKをクリックします。

これで、本体部分の最初のページがアラビア数字で表示された第1ページになります。後に続くページが第2ページ、第3ページになっていることを確認してください。

今度は、前部分のページ番号を小文字のローマ数字に変えます。

前部分のフッターに挿入ポイントを移動して、メニューからヘッダーとフッター>ページ番号>ページ番号の書式設定>番号書式>「i, ii, iii...」を選び、OKをクリックします。

これで、前部分のページ番号が小文字のローマ数字になりました。

最後に、扉のページ番号を非表示にします。

挿入ポイントが前部分のフッターにあることを確認したら、メニューからヘッダーとフッター>フッター>フッターの編集>オプション>「先頭ページのみ別指定」にチェックをいれます。

これで、前部分の先頭ページ、つまり扉のページ番号が非表示になりました。

このように、MS Wordのセクションをうまく使いこなすことで、ページ番号を操作することができるようになります。ぜひ試してみてください。

このページの説明とあわせて「MS Wordで後注の位置を参考文献リストの前に配置したい」も参考にしてください。

2008年1月 7日

【ブログについて】

これまでのリンク集に代えて、本学のブログ・システムを使った新しいリンク集を立ち上げた。この「授業のお知らせ」ブログと同じスタイルとフィールを維持しつつ、リンク集に特化したブログ・サイトである。インドネシア語専攻に関連するリンク集であるところは、従来のリンク集と変わらない。

大まかな構想ができていたので、ほぼ一日で使える段階になった。あとは、旧リンク集のデータをこちらに移し替えることと、細かな調整をおこなうだけである。

ところで、私のウェブサイトではこれまでリンク集をずっと実験的に運営してきた。というのは、リンク集のように頻繁に更新するページこそ、静的なHTMLではなく、より動的なシステムを使って運用をおこなう方が理にかなっていると考えていたが、なかなかその方法が見つからなかったからである。

リンク集が頻繁に更新される理由を考えてみると、以下の要因をあげることができるだろう。
1. 新しいウェブサイトやブログサイト(以下、ウェブサイトと言う)が絶え間なく出現すること。
2. それまでリンクを張っていたウェブサイトが別のURLに移動すること。
3. それまでリンクを張っていたウェブサイトが消失したり、あるいは、更新が止まって利用に値しなくなったりすること。
4. 新しい傾向のウェブサイトの出現で、リンクのカテゴリー区分に変更が必要になること。
5. 利用する側の興味や関心が変化したため、リンクのカテゴリー区分に変更が必要になること。

したがって、リンク集を構築するサイトに求められることは、リンクの設定、変更、削除が簡単にでき、かつ、カテゴリー区分の変更が簡単にできることである。

実はこれだけの条件であれば、既存のブログ・サイトでも十分に対応できる。私自身もいくつかの関心領域にかかわるウェブサイトを記録するためにエキサイト・ブログを利用している。

しかし、このままではリンク集として使うわけには不十分である。というのは、ブログは基本的にエントリーごとに管理されているので、リンク集に欠かせない一覧性に欠けているからである。

一つのエントリーに複数のリンクをリスト的に並べ、カテゴリーごとに違ったエントリーを作ってみることも考えてみたが、これでは、一つ一つのリンクを動的に管理することができない。たとえば、複数のリンクを別のカテゴリーに移動したいといった場面では、そうとうめんどうなことになってしまう。

そうこうしているうちに思いついた方法は、1エントリー1リンクにしたうえで、カテゴリーごとのページとして表示してやればよいということである。このときポイントとなるのは、一つのエントリーをできる限りシンプルにして、表示の上では単なるリンクにしか見えないようにすることである。具体的には、リンクの名称とリンクの説明の2行程度におさえてやれば十分に実用となるであろう。

気が付いてみれば簡単と言う意味ではコロンブスの卵であった。要は、ブログ・システムを、データベースを運用するためのインターフェースと考えて、カスタマイズしてやるわけである。ようやく理想に近いリンク集が作れそうだ。

【追記】
とりあえず実用になるところまで仕上げることができた。ただ、リンク先と詳細の表示がどうしても1列にならない点と、リンク先がタイトルに基づいてソートできない点が解決できていない。これらについては、おいおい考えることにしたい。

2008年1月 6日

【インドネシア語専攻で勉強する人のために】

卒論の注の付け方:脚注と後注と題したエントリーで、後注を使うことを勧めました。また、後注の位置は次のようにすることを勧めました。

前部分(とびら、目次)
本体部分(本文)
後注部分
参考文献目録

ところが、MS Wordを使って後注をつけると、文章の一番最後、つまり参考文献目録の後に注が配置されてしまいます。ここでは、MS Wordのセクション区切りを活用して、注を本文の後、参考文献目録の前に配置する方法を説明します。

まず、すでに論文の作成が進行していて、論文の全体が以下のようになっていると想定します。

前部分(とびら、目次)
本体部分(本文)
参考文献目録
後注部分 <==MS Wordの注挿入機能で作成された部分

そこで、メニューから挿入>脚注>オプション>文末脚注のタブを開き、挿入する位置に「セクションの最後」を選んで、OKをクリック>もう一度OKをクリックします。

次に、本文の最後にカーソル(挿入ポインタ)を移動します。そして、メニューから挿入>改ページ>セクション区切りを開き、「次のページから開始」を選んでOKをクリックします。

これで、論文全体の構成は以下のようになったはずです。

前部分(とびら、目次)
本体部分(本文)
===========セクション区切り===============
後注部分
参考文献目録

参考文献目録は新しいページから始まっているはずです。

このあと、必要に応じて挿入>改ページ>「改ページ」を選んでOKをクリックすることによって、改ページを挿入して全体の構成を整えてください。

このページの説明とあわせて「MS Wordで本文の最初のページを第1ページにしたい」も参考にしてください。

2008年1月 4日

【ブログについて】

なかのひとが提供しているアクセス解析ツールを使ってみる。これは、アクセス元の位置が地図で表示されるというもの。男女比・年齢を推測するという興味深い機能もある。

アクセス解析

続いて、Ninja Toolsが提供しているアクセス解析ツールを使ってみる。こちらはなかのひとのツールよりも高機能だが、広告バナーがはいる。




2008年1月 1日

【一般】

新年おめでとうございます。

今年2008年は日本インドネシア友好50周年です。実りある1年でありますよう。

インドネシア共和国の祝日は、西暦の新年、独立記念日、クリスマスを除いて、毎年日にちが変わります。そこで、参考のために、2008年のインドネシア共和国の祝日と公休日を掲載しておきます。作成にあたって「2008年国民の祝日と政令指定休日に関する3大臣合同決定」およびインドネシア文化観光省公式サイトを参照しました。

1月1日(火)西暦新年
1月10日(木)イスラム暦1429年新年
1月11日(金)*
2月7日(木)イムレック(中国暦2559年新年)
3月7日(金)ニュピ(サカ暦1930年新年)
3月20日(木)マウリッド(ムハンマド生誕祭)
3月21日(金)聖金曜日(キリスト受難日)
5月1日(木)キリスト昇天祭
5月20日(火)ワイサック(仏教大祭:仏陀の生誕、成道、入滅)
7月30日(水)ムハンマド昇天祭
8月17日(日)インドネシア共和国独立記念日
8月18日(月)+
《9月1日(月)断食月(ラマダン)の開始》
9月29日(月)**
9月30日(火)**
10月1日(水)イドル・フィトリ(断食明け大祭)
10月2日(木)イドル・フィトリ(断食明け大祭)
10月3日(金)**
12月8日(月)イドル・アドハ(犠牲祭)
12月25日(木)クリスマス(キリスト生誕祭)
12月26日(金)***
12月29日(月)イスラム暦1430年新年
上記の日付のうち、名称のある日が祝日で、公休日となります。*印のある日は、それとは別に、連休とするために政府によって祝日の前後に設けられた政令指定日(cuti bersama)です。

*はイスラム暦新年につながる政令指定休日、**はイドル・フィトリにつながる政令指定休日、***はクリスマスにつながる政令指定休日です。

+インドネシア独立記念日は1945年8月17日の独立宣言を記念する日ですが、2008年8月17日は日曜日にあたるため、翌月曜日8月18日が振替休日に設定されています。

注1)断食月の始まりは祝日ではありませんが、参考のために示しておきました。

【追記】
注2)インドネシア文化観光省公式サイトなど一部のサイトでは3月23日(日)キリスト復活祭を祝日として表示しているものがありますが、公式文書による根拠が確認できていませんので、確認できるまでは掲載しないことにしました。
注3)「3大臣合同決定」の文言に従って2008年の独立宣言記念日は8月18日に設定されていると記していましたが、あくまでも8月17日(日)が独立宣言記念日であり、8月18日(月)はその振替休日であると理解した方が適当であると思われますので、そのように書き換えました。
注4)2008-05-09:若干の文言などを修正しました。1) cuti bersamaの訳語を「公休日」から紛れのない「政令指定休日」に変更しました。2)移動しない祝日に「クリスマス」を追加しました。3)「キリスト受難日」を「聖金曜日(キリスト受難日)」としました。
注5)2008-05-21:ムハンマド生誕祭のことであるマウリッドを誤って7月30日のムハンマド昇天祭のところに記載していましたので削除し、3月20日のムハンマド生誕祭のところにマウリッドを記載しました。失礼しました。
注6)2008-09-09:2008年に予定されていた政令指定休日(有給休暇奨励日)のうち2月8日、5月2日、5月19日の3日間が削減されたことがじゃかるた新聞の記事によりわかりましので、削除しました。

          

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