イスラムの諸相「インドネシアのイスラーム:伝統と改革の潮流」回答

担当教員:青山 亨.東京外国語大学外国語学部インドネシア語専攻(総合文化講座)
研究室:633.オフィスアワー:月曜日10:30-14:30.電話:042-330-5300.メール:taoyama@tufs.ac.jp

2005年5月25日にリレー講義「イスラムの諸相」の1コマを担当し、「インドネシアのイスラーム:伝統と改革の潮流」というテーマで講義をおこないました。この時に提出してもらったレスポンス・ペーパーの質問・コメント(の一部)に対する回答です。2005-07-01: A.5を一部書き直しました。2005-07-04: A.10のミスプリを直しました。2005-08-16: A.10のミスプリを直しました。

他の年におこなった講義に対する質問・コメントへの回答も参考にしてください:2006年度 | 2004年度

回答

Q. 1

インドネシアは憲法上は政教分離した世俗国家なのに、イスラーム系政党が存在するのが不思議です。ヒンドゥー教系政党とかキリスト教系政党とかが現れる可能性はあるのでしょうか?

A. 1

インドネシアは、同じイスラーム世界のトルコのように、政教分離した世俗国家とされています。ただし、憲法では「唯一神に対する信仰を基礎とする」ことが明記されていますから、完全に宗教を排除しているわけではありません。特定の宗教を国家の宗教としないと規定した上で、現実の宗教的実践を認める立場と理解した方がよいでしょう。民主的な社会では政党というのはある利害を共有する人々の集団ですから、インドネシアのように国民の多数がイスラーム教徒である社会において、イスラームの立場を称揚する政党があっても矛盾するわけではありません。ドイツにキリスト教民主同盟というキリスト教系政党が存在することも参考になります。

福祉平和党のシンボル・マーク

それでは、イスラーム以外の宗教に依拠した政党は可能なのでしょうか。実は、ヒンドゥー教系政党は存在しませんが、キリスト教系政党は存在します。2004年の総選挙で12議席を獲得したPartai Damai Sejahtera(福祉平和党)のシンボル・マークには十字架と白い鳩が描かれており、キリスト教系政党であることは一目瞭然です。


Q. 2

バリ島に行ったときに様々な寺院を見ましたが、あれは何教の寺院なのでしょうか?

A. 2

答えから先に言うとヒンドゥー教の寺院です。今回の講義はイスラームを主題としているのでイスラーム以外の宗教への言及は十分ではありませんでしたが、バリの宗教についての質問が思いの外たくさんありました。

アグン山を背景にそびえるブカシ寺院

インドネシアの人口を宗教別に見ると、最大多数のイスラーム教徒が87%を占めますが、そのほかにもキリスト教徒や仏教徒とならんで2%のヒンドゥー教徒がいます。数字だけを見ると少数派のようですが、インドネシアの人口が2億人ですから、2%と言っても400万人になります。インドネシアのヒンドゥー教徒は全国に住んでいますが、その大多数はバリ島に住むバリ人です。バリ州の人口約300万人のおよそ9割がヒンドゥー教徒とされています。

インドネシアをよく知らない人にインドネシアのことを説明するとき、インドネシア国民の大多数がイスラーム教徒であると聞いて驚かれることが多いのですが、その理由の一つとして、タイやバリ島の観光案内のおかげで東南アジアはどこかインド的といったイメージが浸透しているせいかもしれません。日本国内のインドネシア料理レストランでさえも内部の意匠はバリ風できめているところが多いです。逆に、インドネシアではイスラーム教が多数派という予備知識を持った人が初めてバリ島に行くと、イスラームにあらざる光景にとまどうことも多いようです。要は、インドネシアは多数派のイスラームとその他の宗教が共存する多宗教社会だということがポイントです。

それでは、バリ島のヒンドゥー教の起源はどこにあるのでしょうか。実はバリ島に限らず東南アジアの大部分の地域には、今から1500年ほど前からインド文明の影響が及んでおり、ヒンドゥー教と大乗仏教が伝わっていました。このことはジャワ島のボロブドゥールやカンボジアのアンコールを見ればよくわかります。しかし、バリ島に対するインド文明の影響が決定的となったのは、バリ島が14世紀にジャワ島のマジャパヒト王国によって征服され、ジャワ的なインド文化が根づいたことによります。その後、ジャワがイスラームに改宗したあともバリはヒンドゥー教の伝統を維持し続けました(バリ島が商業的にはあまり重要視されなかったことや、インドネシアにイスラームが定着するのと並行してオランダが勢力を持ち始め、イスラーム勢力がバリに干渉するのに障害となったことがバリ島のヒンドゥー教徒にとって幸いしたようです)。このように独自の発展を遂げてきたバリのヒンドゥー教には、神像を建立して祀ることはなく、僧侶が聖別した聖なる水に対する信仰が強いなど、インドのヒンドゥー教とはかなり違うところがあります。

現在、インドネシアのヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間に深刻な宗教的対立は存在しません。その理由としては、第一にヒンドゥー教徒のほとんどがバリ島に集中しており、インドネシアの中で一種の棲み分けができていること、第二にバリ島に隣接するジャワ島の住民で、インドネシア全体の民族構成の中でも約4割を占めるジャワ人もヒンドゥー教に由来する『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の物語を愛好しており(上述のとおりジャワ人もかつてはインド文明を受容していました)、原理主義的なイスラーム教徒が比較的少ないことを挙げてもよいでしょう。

Q. 3

シャリーアとイスラーム法はどのような関係にあるのでしょうか?

A. 3

シャリーアというのは、アラビア語の原義では「水場にいたる道」を意味し、そこから、人間が従うべき神が定めた「道」、すなわち、神が人間に対して定めた規範の体系を意味するようになりました。この意味でシャリーアはイスラーム法と訳されています。

シャリーアは、神の言葉を記したクルアーンおよび預言者ムハンマドの言行を伝えたハディースを典拠としています。その中には礼拝の仕方とかいった宗教儀礼に関わる規範のほかに、婚姻と離婚といった民法や犯罪と刑罰といった刑法に関わる法律的規範も含まれています。ところで、シャリーアの内容は神の命令である以上、絶対不変ですが、人間の社会は時代とともに変われば、土地によって慣行も異なります。このため、シャリーアを解釈して現実社会に適用する必要が生じ、そのための専門家が出現しました。このような専門家(イスラーム法学者)たちの解釈の集大成もイスラーム法と呼ばれています。

オランダ植民地時代のインドネシアでは、オランダの法律にしたがっていたオランダ人を別にすると、イスラーム教徒はイスラーム法に基づいた慣行にしたがって、イスラーム教徒でない人々はそれぞれの宗教や地域の慣習にしたがって婚姻をおこなってきました。独立後のインドネシアでは一元的な法律制度のすみやかな整備が求められてきましたが、その中で婚姻法がとりわけ論争の対象となったのは、イスラーム法に見られる婚姻に関する具体的な規定(例えば一夫多妻の容認、妻の相続分が夫の二分の一)と男女平等を是とする近代的人権思想がしばしば対立したからです。その意味で、インドネシアの現行の婚姻法はイスラーム法が規定する婚姻のあり方との妥協の産物であったと言えます。

きわめて原理主義的な一部のイスラーム教徒は、法律の方をイスラーム法に合わせるべきだと主張していますが、これまでのところ大多数のインドネシア人(その多くはイスラーム教徒)は中庸の道を選んできたように思われます。

Q. 4

インドネシアのイスラーム教徒の日常生活に関して、中東のイスラームとは異なる、インドネシア特有の事柄や慣習はあるのでしょうか?

A. 4

インドネシアのイスラームの日常的な様子については、十分に時間をとることができませんでした。

インドネシアのイスラームもイスラームである以上、六信五行といった信仰の要の部分は世界のほかのイスラームと変わりません。クルアーンもアラビア語で読む勉強をおこないます。しかし、よく見てみるとインドネシアの地域的な特色が出ているところもたくさんあります。たとえば、断食月の期間中、日没時にその日の断食の終わりを知らせるために太鼓をたたくのはインドネシアやマレーシアに特有の習慣です。

三層の屋根を持つジャワのモスク

とくに地域的な特色が目立つのは、インドネシアの中でも最大民族であるジャワ人の社会でしょう。ジャワ人が住む地方に行くとジャワの伝統的建築様式で立てられたモスクをたくさん見かけます。なかでも興味深いのはイスラームの祭礼の多くが今でもかつての王宮を中心に行われていることです。イスラーム暦の新年とムハンマドの誕生日はインドネシア全体の公休日になっていますが、ジャワ島中部のジョグジャカルタではスルタンの王宮広場に食べ物で作られた巨大な御輿が運ばれ、民衆は競うようにその一片を奪っていきます。これはイスラーム到来以前の豊穣儀礼がイスラームの名の下に存続していると考えられています。より詳しくは2学期の私の授業「宗教学:世界に現れる「神」」を受講してみてください。

Q. 5

スマトラ島北端のアチェ州はイスラームがとくに強い州であるとの説明がありました。ところで、ニュースによると、スマトラ島沖地震の時、当初、インドネシア政府は被害にあったアチェ州に対して外国からの支援を受けることに難色を示したように伝えられましたがなぜでしょうか?

A. 5

アチェ州はインドネシアの最西端にあってイスラームをもっとも早い時期から受け入れたためイスラームが根強く定着した地域です。また、オランダ植民地時代にはアチェ王国として長期間にわたって反オランダ闘争を続けた歴史があります。そのため、インドネシアの中でもきわめて自立意識が高い州であり、スカルノ政権の時からアチェ特別州として他の州にはない特権(イスラーム色の強い法律の施行など)を許されてきました。

しかしながら、アチェ州で採れる石油・天然ガスの利権をめぐってアチェの分離独立を要求する自由アチェ運動(通称GAM)に対しては、インドネシア政府は軍隊による徹底的な弾圧をおこなってきており、その過程で地方行政と国軍の癒着や数多くの人権侵害が起きたことが知られています。外国の援助を断った最大の理由は、外国の支援団体やメディアがアチェに入ることによって、アチェの実情が国際社会に明らかになることをインドネシア国軍が恐れたためだと思われます。

Q. 6

スカルノ大統領はどの政党に所属していたのですか?

A. 6

スカルノは、オランダ植民地時代の1927年にインドネシア国民党を結成し、その党首としてインドネシアの独立を主張しました。スカルノはオランダ当局によって逮捕され、党も解散されましたが、独立後にスカルノは大統領に選ばれ、党も復活して1955年の第1回総選挙では四大政党の一角を占めました。インドネシア国民党は世俗的(イスラームを国教扱いにしない)民族主義を代表する政党でした。このインドネシア国民党こそスカルノ大統領の政党と考えてよいでしょう。スハルト時代になってインドネシア国民党はインドネシア民主党に吸収されました。スカルノ大統領の娘メガワティ前大統領が率いるインドネシア闘争民主党はこのインドネシア民主党から分派したものです。

Q. 7

リベラル派イスラームの思想では、インドネシアは宗教色が薄くなって国としての個性が無くなってしまわないでしょうか?

A. 7

リベラル派イスラームはイスラームや宗教を否定しようとするものではありません。イスラームのあり方は時代と場所に変わりうるものであること、したがって、正しいイスラームのあり方は国家が国民に押し付けるものではなく、イスラーム教徒一人ひとりが答えを出すべき内面の問題であることを主張しています。そもそもリベラル派イスラームがインドネシアの国民一般にどれだけ受け入れられていくか今後の進展を見守る必要があります。もし受け入れられるようなら、そのことでむしろイスラーム教徒個人の敬虔さが高まっていく可能性もあります。

Q. 8

授業では、一般的に西部インドネシアでイスラームが強いという説明がありました。また、インドネシアからのメッカ巡礼者が多いという説明もありました。すると、インドネシアからの巡礼者の多くは西部インドネシアのイスラーム教徒と考えてよいのでしょうか?巡礼をしたいという意欲の強い地域と巡礼をするための経済力がある地域とは必ずしも相関するわけではないので、気になりました。

A. 8

大変に興味深い質問です。一般的に西部インドネシアの方がイスラームが強いと言っても民族的な例外はありますし(スマトラ島のバタック人はキリスト教徒が多い)、民族の人口(人口が多ければ結果的に巡礼者の数も多くなりそう)も考慮する必要があります。このようにいろいろと分析しなければならない要素があるので質問に対する直接的な答えになりませんが、ここでは、インドネシア統計局の州別巡礼者数の資料(Stastik Indonesia 2002)に基づいて、島ごとの巡礼者数の割合を示しておきましょう。これによると、2001年のインドネシアからのメッカ巡礼者の総数は192,927人でした。そのうち、スマトラ島からの巡礼者数の合計は31,308人(総数の16%)、ジャワ島から105,942人(55%)、バリ島を含むヌサ・トゥンガラ諸島から6,146人(3%)、カリマンタン島から17,138人(9%)、スラウェシ島から28,124人(15%)、マルク諸島およびパプアからは1,730人(1%)となっています。おおざっぱに言って西高東低とは言えますが、その中で、ジャワ島が多いのはやはりジャワの経済力と人口の大きさによるのでしょう。東部インドネシアの中ではスラウェシ島が多い点は興味深いところですが(総人口の7%しかないのに巡礼者の15%を占める)、詳しく見ると南スラウェシ州が突出しており、おそらくイスラーム教が有力なブギス人の巡礼が多いためだと思われます。

ちなみに、サウジアラビア政府の発表(http://www.saudinf.com/main/b635.htm)によると2001年のメッカ巡礼者の総数は1,804,800人で、そのうち1,363,922人が国外からの巡礼者だったということですから、この年の国外からのメッカ巡礼者の14%がインドネシアからの巡礼者だったということになります。

Q. 9

イスラームはよく「砂漠の宗教」として生まれたと言われますが、高温多湿なインドネシアの風土にどうやって定着したのでしょうか?

A. 9

この問題に答える前に、まず「砂漠の宗教」という言い方について考えておきましょう。たしかにイスラームが生まれたアラビア半島は乾燥地帯ですし、イスラームが説く、川が流れる楽園のイメージには乾燥地帯の人々の憧れが反映しているように思われますが、その一方で、イスラーム誕生の中心となったマッカ(メッカ)が大変に繁栄した商業都市であったことにも注意をはらう必要があります。つまり、イスラームには「砂漠の宗教」から想像されるような遊牧民的な性格よりはむしろ都市の商人的な性格が強いのです。

次に、イスラームに限らずキリスト教、仏教などのいわゆる世界宗教を見てみると、いずれも発祥の地の風土からかけ離れた土地に広がっていることがわかります。このことは、宗教の中心となる教えが、特定の気候や風土に限定されない普遍的なものであったことを示しています。実際、イスラームの中心的な教義である六信五行は他の宗教の教義と比べてもシンプルで一般的なものだと言えるでしょう。砂漠の宗教であったから一神教となったという考え方もありますが、ムハンマドが生まれた時代にはマッカでも多神教が一般的であり、一神教的イスラームに対して抵抗が強かったことを考えれば、けっしてそのように単純な因果関係ではなかったことがわかります。

現在、イスラームは、西はアフリカ北部から東ヨーロッパ、西アジア、中央アジア、南アジアを経て東は東南アジアまでという広大な地域に分布しています。その中で東南アジアにおけるイスラームの主な分布を見てみると、インドネシアの他にマレーシア、タイ南部、ブルネイ、フィリピン南部、ベトナム南部というように東南アジアの島嶼部に集中していることがわかります。これは、東南アジアへのイスラームの伝播には海洋交易路を通じたイスラーム商人(アラブ人のほかにペルシア人、インド人、中国人などがいた)の活動が重要な働きをしたことを示しています。まず商人が定期的な交易ルートを開拓し、それにのってイスラームの学識者がやってきたと思われます。インドネシアの古い歴史物語には、交易によってイスラームに触れた現地の国王がイスラームに改宗すると国民がこぞって改宗した様子が記されています。このようにして生まれた現地のイスラーム国家を拠点として、さらに新たなイスラーム伝播の波が広がったわけです。また、民衆レベルでの布教には、講義でも話したように、イスラム寄宿塾(ポンドック、プサントレンと呼ばれる)が大きな役割を果たしました。

Q. 10

インドネシアにおける政治と宗教の分離についてもっと説明してください。

A. 10

インドネシア国憲法前文に書かれている国家5原則の第1条は、インドネシアは唯一神信仰に基づく国家であると規定しており、「唯一神信仰」(具体的にはイスラーム、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教のこと)を国家の基礎とする一方で、特定の宗教を名指しすることを避けることで国家と宗教(とくに最大多数派であるイスラーム)とが結びつくことを回避しています。しかし、このような説明だけではわかりにくいのも無理からぬところで、この点に関連して、インドネシアはイスラームが多数派なのにどうして政教分離ができたのか、政教分離とされているが実態としてもそうなのか、婚姻法の改定問題のようにイスラームを堅持したままで社会の現代化は本当にできるのか、といったたくさんの質問がありました。まともに答えようとするときりのない大きい問題ですので、ここでは次の2点を指摘しておきたいと思います。他のQ&Aでも関連する質問に答えているので参考にしてください。

第一に、政教分離についての考え方です。近代国家では政治(国家)と宗教の分離を目指しますが、その背景には、宗教は個人の内面の問題であって、社会の運営という政治の場面に、社会を構成する人間以外の主体(つまり神)に由来する要素をできるだけ排除したいという意図があるように思われます。それに対して、イスラームの基本的な立場では、人間社会の存立自体が神の意志の上に成り立っていると考えますから、人間社会の規則は神の命令としてのイスラーム法の下に位置づけられることになります。このように、近代国家とイスラームとでは、国家と宗教の関係を考えるうえで、出発点となる原理が違うわけです。しかしながら、現在地上に存在する国家のほとんどはインドネシアを含めて近代国家の原理に基づいて成立しているので、イスラーム法を人間の法よりも優位とみなす国家は例外的です。つまり、イスラームの立場に立てば理想的には政教一致であるべきだとしても、現実の国家運営にあたっては政教分離がより妥当であると考えるのが現在のムスリムの多数意見だと思われます。

第二に、政教分離と言っても様々なあり方があるということです。この点について、日本とインドネシアだけを比較してみてもあまり有意義ではありません。たとえば、イギリスでは国王を英国国教会の長とする国教制度を取っていますし、ドイツでは公立学校での宗教教育が正規科目として規定されています。その一方で、政教分離を謳うアメリカ合衆国の政教分離はSeparation of Church and State、つまり教会(特定の宗教組織のこと)と国家の分離であって、宗教(ここではキリスト教)と国家の分離ではありません。このように政教分離というのは一つの方向性であって、実際の社会での実践にあたっては様々な工夫がなされているというのが現実です。また、西欧社会の政教分離の多くがキリスト教自体は前提としている点にも留意しておく必要があります。このように見た場合、インドネシアのあり方も政教分離の実践の一つの(そして客観的に見て比較的成功した)例として見ることができると思います。