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【民族と民族問題の諸相】 11月17日

【リレー講義】

11月17日水曜日4限に、総合科目IVのリレー講義『民族と民族問題の諸相』の一部として「インドネシア」の第2回を担当しました。次回の担当は外語祭が終わった後の12月1日です。

今週の授業では、国民国家インドネシアに対抗する民族をテーマとして、具体例としてアチェと西パプアの分離独立運動を取り上げました。

今週の授業では以下の3点をおさえました。
1. 国民・民族(nation)、エスニシティ(ethnicity)の諸概念とその関係を理解する。
2. 国民国家(nation-state)であるインドネシアの成立と国民統合の過程を理解する。
3. 国民国家に対する地域の異議申し立てとしてアチェ、西パプアの分離独立運動を理解する。

講義でとりあげた映像はYoutubeで見ることができます。
Dirty War in Aceh - Indonesia (Youtube, 23:44) Journeyman Pictures
Papua: Indonesia's silent war (Youtube, 2:36) Aljazeera, 29 May 2008.

来週は外語祭のためお休みです。次回では、国民国家インドネシアにおける外来少数民族である華人について考えます。

第1回(11月10日) 多民族の共存
■第2回(11月17日) インドネシアに対抗する民族(今週)
第3回(12月1日) インドネシアの華人


226人分のレスポンス・シートの提出がありました。レスポンス・シートはすべて読ませてもらいました。出された質問・コメントの中から代表的なものを取り上げて、授業の補足をしたいと思います。2009年度の講義での回答も参考にしてください。(回答を掲載しました。2010-12-24)

2009年度第2回講義での回答


質問  アチェ、東ティモール、西パプアでの状況の違いは、どうして生じたのでしょうか?

回答
 これは大変に難しい質問です。ここでは、インドネシアへの国民統合の程度という視点から説明してみたいと思います。
 1945年にインドネシア共和国が独立宣言を発したとき、現在のインドネシア全土がすべてインドネシア共和国に含まれていたわけではありません。西パプアはまだオランダ領西ニューギニアでしたし、東ティモールはポルトガルの植民地でした。それに対して、アチェは、インドネシア共和国の首都が一時的におかれていたジョグジャカルタ周辺とともに、インドネシア共和国を構成する重要な一部となっていました。
 西パプア(当時は西イリアンと呼ばれた)は、1969年になって国連による暫定統治を経てインドネシアに移管されました。さらに、東ティモールは1976年になってインドネシアによる軍事介入を経てインドネシアに併合されました。
 このように見てくると、インドネシアへの国民統合の程度がもっとも弱かった東ティモールが独立の道を選び、その次に弱かった西パプアでは独立運動が継続し、もっとも強かったアチェが特別州としてインドネシアの一部として残る道を選んだということができるでしょう。


          

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