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12月5日 【3年次ゼミ】

【3年次対象ゼミ】

先週に引き続き、青山の論文(青山 亨 「インドネシアにおけるリベラル派イスラームの新思潮―ウリル・アブシャル・アブダラのコンパス紙論説をめぐって―」『東京外大東南アジア学』 9:24-41, 2004.)の第4節のレジュメを報告してもらいました。第3節は報告者が欠席だったので、次回に回します。

次週は、中間報告会です。各自、卒論・卒研の基本的構成(目次)、内容の要旨、参考文献目録をまとめて作成して、前日までにゼミ・メーリングリストで流してください。流れた分は人数分用意しておきます。まにあわなかった人は、当日人数分のコピーを用意してもってきてください。

以下、第4節のポイントです。

第4節に、ファトワーという用語が出てきますが、これは、『岩波イスラーム辞典』によると「法学者が一般信徒の質問に対して、口頭または書面で提示する法学的な回答」のことです。ファトワーは法学者の資格をもつものであれば誰でも出すことができますから、法学者によって異なった結論になることもありますし、法律のような強制力をもつものではありません。ファトワーを出したウラマーたちが警察に告発したのは、神への冒涜を禁じる法律に対する違反行為があったという彼らの判断に基づくものです。もし警察が取り調べ、違反行為があったとなれば、容疑者は逮捕され裁判にかけられたうえで、有罪なら刑を受けることになります。このように、インドネシアではイスラーム法にもとづくファトワーによる罪と法律上の犯罪とは別物です。

近代のイスラーム改革派は、スーフィズム(神秘主義)に対しては迷信として、ウラマーたちに対しては保守的として反対し、クルアーンとハディースの戻ることを主張しました。そのなかから、人間の理性の神のまえでの無力を前提として、聖典の字義通りの理解を主張した人々が原理主義的イスラームとなり、人間の理性の力を信じて、聖典の文脈にしたがった解釈を主張した人々が近代主義的イスラームとなったと言ってよいでしょう。この理性と信仰をめぐる問題は、ローマ教皇ベネディクト16世の発言が引き起こした議論(「インドネシアの神・神々・カミ」に対する質問・コメントへの回答4を参照)にも関係する、奥の深い問題です。


          

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