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【リレー講義】 世界に現れる「神」 10月27日

【リレー講義】

火曜日1限の宗教学リレー講義「世界に現れる《神》」のなかで10月27日の1回「インドネシアの神・神々・カミ」を担当します。

日本人の「神」観念を振り返ったあと、一神教のイスラームが多数派を占めるインドネシアにおけるヒンドゥー教(多神教)や精霊信仰(カミ)の位置について検討する予定です。


【質問・コメントへの回答】

講義は無事に終了しました。聞いていただいた受講生には感謝します。レスポンス・シートを提出した受講生の数は216人で、すべて読ませてもらいました。今回は考えさせられる質問・コメントが多かったので、代表的なものを取り上げて、しっかりと答えたいと思います。(2009-11-01)

過去の年度の講義でも回答しているので、そちらも参考にしてください。毎年回答するつもりでしたが、結果的に数年おきになってしまいました。

2006年度の講義での回答
2004年度の講義での回答
質問1

 授業の結論として、インドネシアではさまざまな信仰の形態が共存していると説明がされましたが、実際のところ、一人一人の信仰のなかでは共存していないのではありませんか?

回答1

 大変に鋭い質問です。今回の授業は、一見複雑に見えるインドネシアの信仰のあり方を、「神」「神々」「精霊」というキーワードを使いつつ、外からの観察者の目で整理するとどうなるか、という試みです。その結果、インドネシア全体としてはさまざまな信仰の形態が共存しているという結論にいたりました。

 一方、当事者の一人一人の信仰のあり方について分析することは簡単ではありません。とはいっても、一人一人の信仰の中で複数の信仰の形態が共存している場合は確かにあると言ってよいでしょう。たとえば、ジャワ人においては、授業でも例示しましたが、イスラームの信仰とジャワ固有の精霊に対する信仰、あるいはジャワ人の聖者への信仰が共存する場合があります。

 ただし、イスラームとキリスト教のような唯一神信仰が一人の信仰の中で共存する例はほとんどないと推測されます。その理由は、イスラームとキリスト教徒では、人の現世での命および死後の来世での命にかかわる部分で「守備範囲」が重なっているからだと思われます。それに対して、精霊への信仰は主として現世での物質的な利害にかかわっているので、唯一神信仰との共存が可能なのだと思われます(この点を指摘された学生さんにお礼します)。

 ところで、この授業では、タイラーのアニミズムの議論を踏まえて、アニミズムのカミ、多神教の神々、唯一神教の神という3種類のカテゴリーを区別しましたが、タイラーの主張した進化論的な見方は受け入れていないことに注意してください。タイラーの議論のポイントは、むしろ、キリスト教の神であっても、アニミズムのカミであっても、信仰の対象という同じ土俵で議論できることを明らかにした点にあると考えられます。だからこそ、進化論的な見方であれば、高級な唯一神の信仰が到来することによって低級なアニミズムのカミは取って代わられるはずですが、現実には両者が重層的に共存することもありえるわけです。

 また、イスラーム化した社会でのhantu(幽霊・お化け)とイバン人のantu(精霊)との関係で指摘したように、新たな宗教の到来にともなって神が優勢になると、それまで信仰されていた土着の精霊が迷信的なお化け扱いされるようになる場合もあります。日本の妖怪について柳田国男が「零落した神」と指摘していますが、中東のジンや西洋の妖精なども同じような例と考えることができるでしょう。


質問2

 イスラームの預言者と聖者とはどうちがうのでしょうか?最高の聖者がムハンマドということでしょうか?

回答2

 イスラームでは預言者をナビと呼びます。ナビは神の言葉(啓示)を直接聞いた人のことで、アダム、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドなどの人々がナビとされています。ちなみにイスラームではイエスは神ではなく、ナビとして活動した人間と考えられています。ムハンマドは最高にして最後の預言者とされています。したがって、ムハンマドの死後、預言者は出現しないわけです。

 それに対して聖人は預言者ではありません。ジャワではワリと呼ばれる9人の聖者が有名です。彼らは神から恩寵(バカラ)を授かって常ならぬ能力を持った人として民衆に慕われ、彼らの墓にお参りをして祈ると願いがかなうとされています。聖者たちは死後、神のそばにあって、人々の願いを神に取りなすと信じられています。

 したがって、預言者と聖者を神と人間のコミュニケーションの仲介という観点から見ると、預言者の場合は歴史上の一時点でおきた全人類に対するコミュニケーションであったのに対して、聖者の場合は現在まで継続している個人的なコミュニケーションという点で違いがあると言えるでしょう。


質問3

 ジャワの聖者信仰は、正統なイスラームから見ると問題なのではありませんか?

回答3

 イスラームでは、神以外のものに対する崇拝は、神の唯一性をおかすものとして、かたく禁じられていますから(ムハンマドに対する崇拝も例外ではありません)、たしかに聖者信仰には問題があります。しかし、現実には、聖者信仰はジャワに限らずイスラーム世界では広く見られる現象です。

 たとえばインドでは聖者廟はダルガーと呼ばれており、民衆の崇拝の対象となっています(この点を指摘してくれたウルドゥー語専攻の学生さんにお礼します)。ですから、ジャワにある聖者廟も、ジャワ人が勝手にイスラームを変えた結果ではなく、ジャワにイスラームが到来した時点ですでに聖者信仰がおこなわれていたことの結果と考えるべきです。こうしてみると、ジャワ人が聖者として崇拝されるようになって初めてジャワにおけるイスラームの土着化は完成したということができると思います。

 聖者信仰の起源はイスラーム神秘主義(スーフィズム)の歴史とも関係していて複雑ですが、別項でも述べたように、超越的な唯一神と人間との間にある距離を縮める役割を果たしたことが、民衆の間で広まった大きな理由だと思われます。

 ちなみに、同様の現象は、カトリックのマリア信仰やプロテスタントの聖者信仰のように、イスラーム以外の一神教にも見られることです。


質問4

 ラトゥ・キドゥルに対する儀礼のように、イスラームとは無関係な土着の儀礼は、正統なイスラームから見ると問題にはなりませんか?

回答4

 最初に注意しておきたいことは、イスラームは長い歴史のなかで広大な地域に広がった世界宗教であり、なにをもって「正統」なイスラームとするかはけっして自明ではないということです。

 たとえば、中東のイスラームは「正統」なイスラームであるように思われがちですが、中東においてもその中で地域差があること、中東のイスラームの実践とされるもの中には実はアラブ民族といった特定の民族の習慣が多く含まれていること、中東においても聖者崇拝のように非「正統」的な実践が根強くおこなわれていること、などを考えみれば、このことがよくわかるでしょう。

 しかしながら、イスラームの実践を「正統」なイスラームにしなければならないと主張する運動は、イスラーム世界においては何度も起きています。多くの場合、このような運動は、クルアーンとハディースに示された教理を根拠とし、ムハンマドとその弟子たちを手本にすることを主張するので、「復古主義」と呼ばれています。イスラームにおいては、イスラームの近代改革もまたしばしば「復古主義」に基づいている点に注意が必要です(日本の明治維新が王政復古を出発点としたことを想起してください)。

 インドネシアでも「正統」なイスラームに戻ることを主張する人たちがいます。いくつかの地方ではイスラーム法を地方自治体の条例に取り入れる傾向が出ています。ただし、このような傾向には抵抗が多いことも事実です。

 第一に、たしかに、クルアーンとハディースに示された教理は「正統」性の根拠になりますが、そこに書かれたことだけでイスラームの実践がすべて決められるわけではありませんし、7世紀に生きたムハンマドの実践を現代にそのまま持ち込むのには無理があると言わざるをえません。実際、2004年と2009年におこなわれたインドネシアの総選挙では、イスラーム系政党の議席が毎回減っており、インドネシア人の多くも同じように感じていることを示しているように思われます。

 第二に、とくにジャワにおいては、土着の儀礼の多くが、地域の伝統的な権威と結びついているという事情があります。たとえば、ラトゥ・キドゥルに対する儀礼はジョグジャカルタのスルタン王宮やスラカルタのススフナン王宮と密接に結びついています。このような伝統的な権威が完全に崩れない限りは、土着の儀礼も残る可能性が強いと思われます。


質問5

 インドネシアの国家の基本5原則(パンチャシラ)の第1条は「唯一神に対する信仰」となっています。その一方で、イスラームやキリスト教のほかにヒンドゥー教、仏教、儒教も宗教として公認されています。唯一神信仰を国家の基本原則とすることと矛盾していませんか?

回答5

 もともとパンチャシラの原案には「ムスリムに対してはイスラーム法を遵守させる義務」という字句があったのですが、ムスリム以外のインドネシア人、とくにキリスト教徒の心情を配慮して、この字句を削って「唯一神信仰」に入れ替えたといういきさつがあります。このように、イスラーム以外の宗教にも配慮するという趣旨から生まれた第1条ですが、多神教のヒンドゥー教や、神を立てない仏教や儒教の理念とは相容れません。

 そこで、現在のインドネシアにおいては、ヒンドゥー教では「サン・ヒャン・ウィディ」、仏教では「アディ・ブッダ」、儒教では「天」が唯一神であるとする公式解釈をそれぞれの宗教の代表者が表明することによって、矛盾を回避しています。きわめて無理のある解釈だとは思いますが、圧倒的に多数派であるイスラームとの共存をはかるための便法として受け入れられているようです。


質問6

 授業で魚の形をしたアニアニ(手のひらサイズの穂苅鎌)の写真を見せてもらいました。農村であれば牛や鶏の形の方がふわしくありませんか?また、魚のしっぽは実用性がないように感じました。

aniani-fish.JPG
回答6

 アニアニの写真を紹介したのは、インドネシアの民具が近代化の波にのまれて消え去ってしまう前にきちんと収集・研究する必要があると感じたためです。「民具」という概念は、今でこそ日本では一般化していますが、もともとは1930年代に民具の消滅に危機感をもった民俗学者たちが作り出した学術用語でした。

 というわけで、インドネシアにおいては民具の研究は蓄積が少なく、いただいた質問に対しても、私には答える十分な材料はありませんが、すこしだけ私見をのべておきます。

 私が持っているアニアニは二つだけで、一つは魚の形、もう一つは鳥の形をしています。たしかに、農村と言えば牛と鶏が連想されますが、稲作については、象徴的な意味も考える必要があると思います。たとえば、水田の水は魚とつながりますし、稲の女神スリーの飛来は鳥とつながるかもしれません。また、実用性だけで民具を考察するのは一面的であるように思います。民具の製作には民具なりの美意識が働いている可能性があります。いずれにせよ、アニアニの形態について今後の研究に待ちたいと思います。

【追記】 ブログ「八郷の日々」に、フィリピン島のルソンで使われていたアニアニ(現地ではアニと呼ぶそうです)が紹介されています。
質問7

 シャーマンがトランス状態になって憑依・脱魂するということでしたが、これはシャーマンが(自分では意識していないかもしれませんが)「役者」として演じている場合もあるのではないでしょうか?

回答7

 この質問は宗教についての研究にかかわる深い問題を含んでいます。それは、一見したところ理性や常識や科学的真理によって説明のつかない「得たいの知れない」現象を前にしたとき、私たちはそれをどのように(とくに学問的に)取り扱ったらいいのか、という問題です。このような場合、私たちはしばしば、自分の常識の枠組みで説明をつけようとします。質問者は、シャーマンは実は「演じている」という解釈を提出しましたが、これもそのような説明付けの一例です。私としても、この質問に対しては、とりあえず、そういう場合もあるでしょう、としか答えられません。

 しかし、トランスという現象は、日本ではイタコやユタのようにやや周辺的な現象と見られがちですが、世界的に見てみると、韓国のムーダン、東南アジア華人社会のタンキー、あるいはインドネシアのバリの事例のように、社会的に認知された現象であり、たんに、シャーマンが「演じている」という解釈ですませるのではなく、なぜそのような現象があるのかについてより深く分析することが望まれます。

 したがって、トランスについて学問的に研究してくためには、とりあえず客観的な真偽の判定は停止しておいて、観察される現象をあるがままに記述することが大切です。

 その場合、一つの手がかりとなるのは、トランスはシャーマン個人で完結する現象なのではなく、トランスの存在を認める社会のなかで初めて成り立っているということです。つまり、トランスがある社会からトランスを見たとき、どのような説明をおこなっているかが重要となります。

 これは、たとえば、キリスト教を研究するときには、「神は客観的に存在するのか」、「神は客観的に天地を創造したのか」といった真偽の判定はひとまず停止して、キリスト教徒は神についてどのように語っているのかを研究するのと同じ態度となります。むろん、この態度は、信仰者が神の存在を信じることを否定するものではありません。結論的に言えば、大切なことは、私たちの常識もまた、私たちの社会の「常識」であることに気づく必要があるということです。


質問8

 アヴァターラは「生まれ変わり」と理解してよいですか?

回答8

 授業のなかでは、ラーマをヴィシュヌ神の生まれ変わりと説明しました。ヒンドゥー教では、ヴィシュヌ神は地上世界の秩序を回復するために、神々の世界から地上世界に人間や動物などの肉体をもって出現するとされています。この出現した姿(「化身」「権現」)をアヴァターラ(avat?ra)と言い、一般に10のアヴァターラが知られていますが、なかでも7番めのラーマ、8番めのクリシュナはラーマーヤナとマハーバーラタの登場人物として有名です。

 ラーマやクリシュナについては人間として生まれるので、生まれ変わりと言ってもよいのですが、アヴァターラの本来の意味は「降下」という意味です。したがって、すべてのアヴァターラが「生まれ変わり」だというわけではなく、1番めの亀のアヴァターラのように「化身」と言った方が適切な場合もあります。この点については、指摘してくれたヒンドゥー語専攻の学生にお礼します。


質問9

 バリ島では毎日のようにお祭りがあると聞きましたが、本当に毎日、踊ったり、練り歩いたしているのでしょうか?

回答9

 バリのヒンドゥー教寺院では、それぞれの寺院の創立を記念するオダランと呼ばれる祭礼が、210日で「一年」のウク暦にしたがっておこなわれます。オダランの祭礼は3日から一週間ほど続きます。オダランの日は寺院の数だけでありますから、バリ島のどこかで毎日のようにお祭りがあるという表現は、あながち誇張ではないでしょう。ただし、オダランは基本的にその寺院の関係者だけが参加する祭礼です。当然ですが、バリの人々がみんなでそろっておこなうお祭りは、ニュピと呼ばれる新年儀礼のようにバリ社会全体のお祭りに限られます。


質問10

 サンヒャン・ドゥダリについてもっと知りたいです。

回答10

 バリのサンヒャン・ドゥダリについては、時間がなくて十分に説明することができませんでした。バリ語でサンヒャン(sanghyang)は霊的な存在のことで、ひいては、霊的な存在が憑依する舞踊儀礼の総称ともなっています。ですから、サンヒャンの名が付く舞踊にはいろいろな種類があります。一方、ドゥダリ(dedari)はビダダリ(bidadari)と同じくサンスクリットのヴィディヤーダリー(vidy?dhar?)に由来し天界の女性のことを意味します。したがって、サンヒャン・ドゥダリはドゥダリが憑依するサンヒャンということになります。

 バリでは村の災厄は見えない悪によって引き起こされると考えられています。サンヒャン・ドゥダリは村を浄化するための舞踊儀礼です。初潮前の少女二人が選ばれ、トランス状態にはいってレゴン風に踊ります。このときドゥダリ(精霊)が憑依していると考えられています。

 現在は観光客向けに演出されたサンヒャン・ドゥダリもあります。下はYouTubeに掲載されたパンチャアルタ歌舞団による公演です。


質問11

 ワヤン・クリ(人形影絵芝居)の人形は美しい彩色が施されているのに、どうして影で演じるのでしょうか?

回答11

 ジャワのワヤン・クリは夜間にランプで照らされた大きな白いスクリーンの前で演じられます。ダランと呼ばれる人形遣いが一人で一晩かけて物語を語り、人形を操りながら、セリフをしゃべり、後ろに控えるガムラン楽団の指揮をおこなう様子は圧巻です。

 一般にワヤン・クリの上演はとてもゆるやかな雰囲気でおこなわれます。スクリーンのどちら側で見るかは観客の自由ですし、上演中に見る場所を変えるのも自由です。ですから、人形の美しい彩色を存分に堪能することもできます。しかし、人形遣いはスクリーンに映る影の効果を計算して緩急自在に人形を操ります。たとえば、人形をスクリーンに近づけると影が小さくなり、遠ざけると大きくなるので、人形を前後に動かすことで、立体的な動きを表現します。このため、ワヤン・クリが好きな人ほど影の側で見ることを好むようです。

 バリの舞踊と同じように、ワヤン・クリも本来は宗教儀礼としての役割があったと思われます。夜間におこなう影絵芝居であることの意味もおそらくはそこにあったのでしょう。

          

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