≪ 【古典文化論】 4月26日 | トップ | 【読解】 5月7日 ≫

【東南アジア研究入門】 5月7日 歴史(その1)

【リレー講義】

今日は、5月7日(月)1限に227教室で、地域基礎1A「東南アジア研究入門」:歴史(その1)を担当しました。受講生は東南アジア地域の専攻語を学ぶ1年生、114名でした。

東南アジアの歴史の枠組みを構造化年表で学んだあと、東南アジアの古代の特徴について学びました。

コメントシートはすべて読ませてもらったあと、各専攻語の先生を通じて返却します。

書いていたいただいたコメントや質問から代表的なものを整理してお答えします(2012-05-12更新)。

質問1
第二次世界大戦中に日本が東南アジアのほぼ全域に進出していたとは知りませんでした。もう少し詳しく説明してください。
回答1
20世紀中頃におきた日本による東南アジア支配は現地の人々にとって大きなインパクトをもった共通の記憶だと言ってよいと思います。

ただし、支配の状況は地域によって異なります。フランスの植民地であったベトナム、ラオス、カンボジアには、宗主国フランスが1940年にドイツに降伏し、親ナチス政権が樹立していたため、ドイツの同盟国であった日本はこの年から段階的に軍隊を進駐させていました。

1941年のアジア太平洋戦争開始とともに日本と交戦状態になったアメリカ、イギリス、オランダの植民地であったフィリピン(アメリカ)、ミャンマー、マレーシア、シンガポール(イギリス)、インドネシア(オランダ)は、開戦後、日本軍の侵攻を受けました。

東ティモールは、宗主国ポルトガルが第二次世界大戦において中立国であったにもかかわらず、オーストラリアに近いという戦略的位置から激しい戦場となりました。

タイは、日本と同盟条約を結ぶことで軍事侵攻を免れましたが、代わりに日本軍の国内進駐を認めていました。



質問2
東南アジアの多くの文字がインドの文字に由来することに驚きました。もう少し詳しく説明してください。
回答2
東南アジアの文字の系統は、大きく分けると、おおよそ古い順番に、中国の漢字の系統、インド起源の文字の系統、イスラームとともに伝来したアラビア文字の系統、そして、ヨーロッパ人が持ち込んだラテン文字(ローマ字)の系統にわかれます。

このうち、インド起源の文字の系統には、タイ語、ラオス語、カンボジア語、ビルマ語といった公用語の文字が含まれます。いずれも南インドで使用されていたブラーフミー文字が東南アジアに伝わり、それが個別に発展して現在の文字になりました。よく教科書に出てくるパッラヴァ文字というのは南インド系のブラーフミー文字の一種です。

また、現在では公用語の文字としては使われていませんが、インドネシアのジャワ文字、スンダ文字、バリ文字、フィリピンのいくつかの民族言語の文字もインド起源の文字の系統です。

東南アジアにインド系の文字が到来した最初期には、インドで文章を記録するために使われたサンスクリット語を表記するために使われていましたが、しだいに東南アジアの固有の言語を表記するようになり、現在にいたっています。ですから、たとえばタイ語とカンボジア語の文字は共通の起源を持っていますが、言語的には別の言語であることに注意してください。



質問3
東南アジアでは古くから文字があったのに、どうしてあまり記録が残らなかったのでしょうか?
回答3
今回は文字に関する質問が目立ちました。この質問は、東南アジアの古い歴史を再構成するための記録が少ないことを質問されているのだと思います。

さて、東南アジアの伝統的な文字記録は、紙、貝葉(乾燥させ短冊型に揃えたヤシの葉)、薄く伸ばした樹皮、竹などの有機物に由来する媒体あるいは石、岩、金属板などの無機物に由来する媒体に記録されていました。

このうち前者は、温暖湿潤な熱帯気候では長期の保存にはむいておらず、定期的に新しい媒体に転写しない限り、消失する可能性がありました。一方、後者は簡単に記録することは困難なので、権力者の発布する公式文書に限定される傾向があります。したがって、現在まで残された記録はきわめて断片的な事実しか伝えておらず、歴史を再構成することが困難です。

一方、王国の歴史を記録するという考え方自体が東南アジアに現れるのが比較的遅かったことも、古い時代の歴史を再構成することを困難にしています。東南アジアに年代記といえる記録として最初のものは、13世紀後半のベトナムの『大越史記』や14世紀中頃のジャワの『デーシャワルナナ』となります。ベトナムが比較的早いのは中国の影響と思われますが、それでも日本では鎌倉時代にあたる時代になってからのことです。

なお、東南アジア史の「古代」の下限が13-15世紀になる理由の一つは、このような史料の制約にあります。



質問4
上座仏教という表記と上座部仏教という表記がありますが、どちらが正しいのでしょうか?また、上座(部)仏教と精霊信仰との間にはどのような関係がありますか?
回答4
上座仏教というのは東南アジア大陸部やスリランカで信奉されているTherav?da Buddhismのことです。Therav?daはパーリ語で「長老の教説」という意味で、仏陀自身の教えにまで遡る仏教教団の長老の教説を保持するという態度を示しています。仏陀の死後、仏教教団は多数の部派に分裂しますが、その中の保守派のことを中国の仏教史では漢字で「上座部」と表記していました。ですから、歴史的な教団の名称としては「上座部仏教」と表記することが正確です。

しかし、現在では上座部以外の部派仏教は(中国や日本などに広がった大乗系の教団を別にすると)存在していないので、現代の仏教実践に関心がある研究者は「上座仏教」と表記することが一般的です。したがって、どちらかが絶対に正しいというわけではありません。この授業では現代の東南アジアの仏教という観点から「上座仏教」と呼びました。

もともと精霊信仰があった地域に上座仏教が定着していくなかで、両者が共存する形で民衆の宗教実践がおこなわれているのが、現在の東南アジアの上座仏教社会の実態です。精霊信仰の度合いは地域によっても異なります。詳しいことは「東南アジア研究入門」の「宗教と社会」で学ぶ予定です。



質問5
フィリピンには古い時代から稲作という高い技術をもっていたのに、長く王権がなかったのはどうしてでしょうか?
回答5
とても大切な指摘だと思います。

まず、最初に指摘しておかなければならないのは、授業では現在まで継続的に水田が維持されてきた例としてフィリピンのイフガオ州バナウエ棚田の画像を紹介しましたが、稲作の技術は紀元前から東南アジアに広がっていたということです。

稲のような穀物は、余剰生産物を長期に保存しておくことができるので、王権を基礎とする国家の出現の前提条件の一つとなります。それでは、東南アジアのほかの地域で初期国家の形成が見られたのに、フィリピンではなぜバランガイに代表される首長制社会が継続したのでしょうか。これは大変に重要で複雑な問題ですが、一つの答えとして考えられることは、授業でも指摘したように、フィリピンの地理的な位置が、東西長距離海上交易ルートからはずれており、より強力な権力の集中を必要とする要因(とりわけ外来の珍奇な富の独占と分配にかかわる権力)に欠けていたのではないか、ということです。

ここであわせて指摘しておきたいのは、フィリピン以外の地域であっても、初期国家の形成がどこでも起きたわけではないことです。それぞれの社会は、その社会が位置する生態環境にもっとも適した生業を選択し、かつ、周囲のほかの生業を営む社会との相互依存関係のなかで成立しています。したがって、フィリピンにおいては国家を形成する必要がない条件にあって、その環境に適応した社会を作り上げてきたと考えるべきでしょう。

この点に関連して、質問の中に「稲作という高い技術」という表現がされていますが、農業に比べてそれ以外の生業、たとえば狩猟や漁業の技術が劣っているというわけではないことに注意してください。上の文章を読んでいただければその意味は明らかでしょう。



質問6
多様な文化・宗教が混在しているなかで、なぜ大きな戦争に発展しないのでしょうか?
回答6
この問題には一言では答えにくいので、とりあえず次のようにお答えしておきます。

確かに、宗教の違いを何らかの理由とする対立は現在の東南アジアでも続いています。たとえば、フィリピン南部におけるキリスト教が主流の政府側と少数派イスラーム教徒側の対立、あるいは、タイ南部における上座仏教が主流の政府側と少数派イスラーム教徒側の対立などをあげることができます。

しかしながら、忘れてならないことは、このような宗教の違いに起因するように見える対立の背景には、所得水準の格差や政治参加の格差など経済的あるいは政治的な原因があるということです。

実際には文化や宗教の違いだけで対立が生じることはまれで、多くの場合には平和に共存しています。何らかの理由で政治的な対立が生じ、それが物理的な暴力をともなう対立にエスカレートするときに、宗教の違いが集団を闘争へと動員する大義として使われる場合が多いのです。



質問7
イスラームの文化はそれまで各地に根付いていた文化や宗教と対立することはなかったのでしょうか?
回答7
東南アジアにおけるイスラームの定着は、一般的に平和的に進行したと言ってよいです。その背景には、とりわけ民衆にとっては、イスラーム文明の威光やムスリム商人がもたらした商品の魅力が大きかったからだと思います。

もちろんインドネシアのジャワ島におけるイスラーム勢力とヒンドゥー勢力の争いや、フィリピンにおけるイスラーム勢力とキリスト教勢力の争いなどがおこりましたが、これらは上の回答で示したように、本質的には政治的な闘争であったと理解することができます。

          

カテゴリー

新規エントリーの投稿
[権限をもつユーザのみ]