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【リレー講義 表象としての映画】 6月18日・25日 後編

【リレー講義】

今週は、『オペラ・ジャワ』(Opera Jawa)の後半を鑑賞しました。機材の不具合で音声が小さい状態が途中まで続いたことをお詫びします。

上映の始めに、インドのラーマーヤナ(ジャワ語ではラマヤナ)に由来するジャワの芸能に基づいていることなどを簡単に振り返りました。上映後は、コメントシートを提出してもらいました。コメントシートの提出をもって私の担当授業の出席とします。

映画の出演者ついての追加情報を記載しておきます。

・アルティカ・サリ・デウィ(Artika Sari Devi) スティオの妻シティ(Siti)の役(ラマヤナではシンタに相当)。バンカ・ブリトゥン諸島州出身。2004年のミス・インドネシア、2005年のミス・ユニバース・インドネシア代表です。映画出演は本作品が初めてです。詳しくはWikipediaの記事を参照してください。
・マルティヌス・ミロト(Martinus Miroto) シティの夫で陶芸業者のスティオ(Setyo)の役(ラマヤナではラマに相当)。ジャワ出身の舞踊家・振付家です。詳しくは紹介のブログ記事を参照してください。
・エコ・スプリヤント(Eko Supriyanto) 肉屋のルディロ(Ludiro)の役(ラマヤナではラワナに相当)。ジャワ出身の舞踊家です。詳しくはculturebase.netの記事紹介記事を参照してください。
・ルトノ・マルティ(Retno Maruti) ルディロの母スケシ(Sukesi)の役(ラマヤナではラワナの母スケシに相当)。有名なジャワ宮廷舞踊の踊り手です。詳しくは紹介のブログ記事を参照してください。
・イ・ニョマン・スラ(I Nyoman Sura) スティオの手伝いの役スラ(Sura)の役(ラマヤナではラマの弟ラクスマナに相当)。Nyoman Sure(役名Sure)と表記するクレジットもありますが、こちらの方が正しい表記です。バリ出身の創作舞踊家で、作品の中でもバリ人の姿で出演しバリの雰囲気を振りまいています。詳しくは紹介のブログ記事を参照してください。
・ジェコ・シオンポ(Jecko Siompo) スティオの仲間ですが役名はなし(ラマヤナではラマを助けるハヌマンに相当)。1976年生まれのパプア出身の現代舞踊家で、パプアの伝統舞踊とヒップホップを融合させたスタイルが特徴的です。詳しくは紹介のブログ記事を参照してください。
・スラムット・グンドノ(Slamet Gundono) ルディオの仲間ですが役名はなし。ワヤン・クリの人形遣いとして有名な人です。作品のなかでも物語の語り手の役を兼ねています。詳しくは紹介の記事を参照してください。

ブログ「水牛のように」に冨岡三智さんが『オペラ・ジャワ』についての批評を書いているので参考にしてください。

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【追記】
レスポンスシートを回収し、設問に対する回答や自由記述のコメントを読ませてもらいました。それを踏まえて、簡単なコメントを記しておきます。

全体として、難しかったが新鮮な経験だったという意見が多く見られました。とくに作品を通じた色彩の美しさ、踊りと音楽の魅力には多くの人が言及していました。ただ、内容の理解が難しかった理由として英語の字幕が難しかったという答えが多かったのは意外でした。外大生としてはもっとがんばって欲しかったところです。

質問として多かったのは、作品によく出てくる白い人形はなんですか、というものでした。これは死体を象徴しています。インドネシアの現代史では政治抗争や自然災害によって多くの人が亡くなってきました。白い人形はこれらの犠牲者を表しています。

次に多かったのは、作品でよく使われている三角形の形に編んだ籠の意味はなんですか、というものでした。本来の道具としては、台所で使う蒸し器だろうと思います。作品の中では、正体不明の生き物の頭としっぽになっていたり、シティが顔にかぶったりします。前者は男性器に似た形から性的な欲望の象徴だと思われますし(この生き物はルディオがシティを赤いカーペットで誘う場面でも現れるので、ルディオの欲望の象徴であり、また、この生き物がシティを襲う最初の場面はフラッシュバックである可能性があります。)、後者は鶏のくちばしにも似ているので、人間に潜む動物的本能の象徴かもしれません。いずれにせよ、作品の中で頻繁に使われる仮面と同様に、登場人物の中に潜む別の人格、とくに、抑圧されているが表現されることが希求されている人格を表していると考えることができます。

シティ(シータ)は大地から生まれた存在ですが、陶芸家によって思うがままに形作られ、焼かれて動きを失った焼き物になることを拒絶する道を選びます。つまり、スティオ(ラーマ)によって期待された妻としての生き方ではなく、自らの欲求に忠実に生きることを選びます。シティが自分の体に粘土をかぶせようとしたスティオから離れていくのは、この決意の表れです。シティを愛し続けているスティオは、自分の知っているシティを失うことの怖れから、彼女を殺してしまったのでしょう。

ルディオは自分の欲望を抑えきれない奔放な男性としてシティを誘惑しようとします。誘惑はシティの心を揺さぶりますが、結局、シティはスティオへの愛を裏切ることはできません。しかし、ルディオの誘惑によって、彼女の内面に封印されていた、踊りという生気を吹き込まれた肉体の動きに象徴される、躍動的な生き方に目覚めていったと考えられます。

スティオは誠実であろうとするが故に、シティに対する愛情を率直に表現できない不器用な男性に描かれています。しかし、その彼も、シティを変えた男ルディオに対する怒りが高まると、ついに荒ぶる男に変わっていきます。作品を注意してみてみると、彼が仮面をかぶって踊る場面での震えるような手の動きに、その変化が表現されていることがわかります。実は、ジャワのラーマーヤナの芸能でも、シータを失って狂乱するラーマというのは、「ラーマ・ガンドゥルン」と呼ばれる有名なテーマです。

このように物語の中核は、三人の人間の関係のドラマとして構成されています。そのため、貧しい民衆が搾取に怒りを感じて蜂起するというサブ・プロットとの関係が今ひとつ十分に説明されていないことは確かです。ただ、二つのプロットの接点となるのが物語の最後の暴力的な戦いです。暴力は破壊的ですが、ある意味では人間にとって不可避的なできごとであり、その暴力を経て生き残ったものたちは、悲しみのなかで、死者を鎮魂しつつ、新たな未来へと生き続けていかざるを得ない、というのがこの作品の根本的なテーマのように思われます。

          

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