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【3年次ゼミ】 12月13日

【3年次対象ゼミ】

今週は、Kさんに次の文献のレジュメを報告してもらいました。

佐藤忠男ほか『映画で知るアジアのこころ』(アジア研究所叢書No.5)(亜細亜大学アジア研究所、1991)の中のミスバ・ユサ・ビラシ著、高殿良博訳「インドネシア映画の歩み」。

本書によってインドネシア映画史のなかのターニングポイントを拾いあげてみます。

1937年 トーキー映画『月光』制作される。インドネシア国産映画として初めての大ヒット映画。
(1942-45年 日本軍政期)
1950年 ウスマル・イスマイルが映画会社プルフィニを設立。同年、ジャマルディン・マリックが映画会社プルサリを設立。独立後のインドネシア映画史が始まる。
1955年 第1回インドネシア映画祭が開催。しかし、第2回は開催されず。
(1965年 9月30日事件)
1967年 カラー映画『九』制作される。ウィン・ウンボの制作。インドネシア国産映画として初めてのカラー映画。
1973年 インドネシア映画祭が再開される。
1980年 映画協議会が映画の育成と振興をめぐる五カ年計画を発表。
1981年 映画技術アカデミーが設立される。
1988年 映画『チュッ・ニャ・ディン』制作される。エロス・ジャロット監督の処女作で、海外でも注目。
1989年 インドネシア映画の制作本数が年間100本を越える(106本)。

なお、この論文は1991年のものなので、取り上げていませんが、1990年代になると、民間テレビ放送の本格化にともない、インドネシア映画は冬の時代に突入することになります。このあたりの事情は風間純子さんの「インドネシアの映画」(大東文化大学国際関係学部ウェブサイト)で紹介されています。

幸い、インドネシア映画界はAda apa dengan Cintaが大ヒットした2002年を境に回復の基調にあります。このあたりの事情はJanJanNewsの記事に取り上げられています。

インドネシアの国産映画界を考えるときには、資本をどう導入するのかがポイントで、そのプロセスに影響する要因として、輸入映画の配給、市場の好み、政府の政策があるように思われます。

【追記】2011-04-06
日本占領期のインドネシアにおける映画活動については岡田秀則さんが映画のページで詳しい情報を提供されています。

          

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