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インドネシア語劇で「サイジャとアディンダ」を上演

【一般】

今年も外語祭とともに語劇の季節がやってきました。インドネシア語劇では2年生が中心になって「サイジャとアディンダ」(Saijah dan Adinda)を上演します。

■日時:2009年11月20日(金)午後5時~6時
■場所:研究講義棟101教室(マルチメディアホール)
■詳細は外語祭公式サイトをごらんください。

Max Havelaar Dutch version
『マックス・ハーフェラール』オランダ語版(1891年の第9版)

■物語の紹介
「サイジャとアディンダ」はエドゥアルト・ダウエス・デッケルがムルタトゥーリの筆名で書いた長編小説『マックス・ハーフェラール』(Max Havelaar)中に描かれる独立したエピソードで、いわば劇中劇のような趣向をもった短編です。オランダ語で書かれた原作が刊行されるや、オランダはおろか全ヨーロッパで大反響を引き起こしました。それは、この作品がオランダ植民地支配の実態について痛烈な批判をおこなっていたからです。

デッケルは18歳のときに1838年にオランダからオランダ領東インド、現在のインドネシアに渡って民地官吏となり各地で勤務をして回りました。 52年に一時帰国しますが、55年に植民地にもどり、翌年ジャワ島西部のバンテン南部にあるルバック県の副理事官に任命されました。しかし、そこで目撃した管轄下の住民の悲惨な生活に憤って辞職し、帰国後1860年にムルタトゥーリの筆名で発表したのが『マックス・ハーフェラールもしくはオランダ商事会社のコーヒー競売』です(「もしくは」以下は副題)。

オランダは1830年からジャワ島に強制栽培制度を導入して多大な利益をあげていましたが、その内実は、オランダ人植民地官吏と現地首長が結託して農民たちを収奪するという仕組みでした。自身も植民地官吏であったデッケルは制度の表も裏も知り得る立場にいたわけです。『マックス・ハーフェラール』は小説の体裁をとっていますが、その内容は、デッケルがルバックで見聞した状況を題材にしています。ムルタトゥーリという名は、ラテン語からとったもので「私は多くを堪え忍んだ」という意味です。晩年はドイツに移り住み1887年に死去しました。

語劇で演じられる「サイジャとアディンダ」ではルバック県の農村の若い男女が主人公となります。幼なじみだったサイジャとアディンダは許嫁同士でした。当時農民の財産であった水牛を買うためのお金を得るために、サイジャは都バタビアの金持ちの家に奉公に出かけます。再会の約束をした3年後、奉公があけて村に戻ったサイジャが目にしたのは、すっかり様変わりした故郷でした。アディンダを探し回るサイジャには過酷な運命が待っています。オランダ人によって書かれながらもインドネシア人の苦しみを描ききった作品であるがゆえに、この小説、とりわけ「サイジャとアディンダ」の物語は、その後インドネシアの民族主義者たちに感銘を与え、今ではインドネシアで知らない人のいない国民的な作品となっています。1976年には映画化もされました。

語劇のテーマとするあたっては、インドネシア語専攻の2年生が小説から戯曲化するという大変な作業に取り組みました。劇としては登場人物の数が限られているうえに、サイジャのセリフがずば抜けて多いという困難さもありました。語劇の実現までたどり着いた2年生たちの敢闘をたたえてあげてください。また、昨年に続いて客員教授のスハンダノ先生には語劇の完成まで全面的にお世話になりました。

最後になりましたが、『マックス・ハーフェラール』は東京外国語大学で教鞭をとられた佐藤弘幸先生によって翻訳されています。オランダ語の初稿から日本語に完訳されたもので、『マックス・ハーフェラール』のすばらしさが日本語でもわかるようになりました。劇に感動したあとは、ぜひ本も手にとってみてください。

Max Havelaar Indonesian version
『マックス・ハーフェラール』インドネシア語訳(1972年に刊行された初版。サイジャとアディンダの場面が表紙絵になっています。)

Max Havelaar Japanese version
『マックス・ハーフェラール』日本語訳(2003年刊)

【追記】
『マックス・ハーフェラール』が映画化された年を1975年としていましたが、Internet Movie Data Baseの情報にしたがって1976年に訂正しました。

          

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