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新美南吉の日記にみる東京外語生活~初公開資料を含む資料展示・講演会を開催~

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童話「ごんぎつね」、「手袋を買いに」などの作者として知られる新美南吉(正八)(1913-1943年)は、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)出身者です。1932年から1936年の4年間、本学英語部文科に在籍した彼は、在学中も文筆活動を続けました。代表作の一つである「手袋を買いに」の第一稿は、在学中に書き上げられています。

このたび、本学において、「新美南吉と東京外国語学校の思い出」と題した講演会および関連資料の一部を紹介する企画展を開催します。展示される資料の中には、本学英語部同窓会『會報』に掲載された詩で、一般には初公開される資料も含みます。今回のTUFS Todayでは、新美南吉が在学中に記した日記を中心に、新美南吉の学生生活を紹介します。

  1. 新美南吉の生い立ち
  2. 新美南吉の日記にみる学生生活
  3. 講演会・企画展のご案内

新美南吉の生い立ち

誕生~幼少

新美南吉生家・渡辺家(愛知県半田市):復元され現在は観光地として開放されています

新美南吉は、大正2年7月30日、愛知県知多郡半田町において、畳職人の父・渡辺多蔵と母・りゑの次男・正八(しょうはち)として生まれました。実母・りゑは病気がちで、正八が4歳の時に29歳で病死してしまいます。正八は継母・志んの手で、異母弟の益吉とともに育てられました。大正10年には実母・りゑの実家である新美家で叔父の鎌治郎が亡くなり、正八が養子となり新美正八として新美家を継ぐことになりました。

小学校~外語入学前

中学校卒業時の新美正八。正八は右端で横を向いている。

大正9年、正八は半田第二尋常小学校に入学します。在学中には知多郡長賞を2度受賞するなど成績優秀でした。父、多蔵は息子の中学校進学に消極的でしたが、小学校の校長などの働きかけもあり、大正15年半田中学校(現:県立半田高等学校)に進学します。中学2年生頃から正八は童謡や童話の創作に取り組み、雑誌への投稿もはじめます。
昭和6年、彼は岡崎師範学校を受験しますが、体格検査で不合格となり、母校半田第二尋常小学校の代用教員となります。雑誌『赤い鳥』に童謡・童話を投稿し、後に代表作となる「ごん狐」が掲載されます。中学時代からペンネーム「南吉」を名乗るようになります。

正八は北原白秋門下の童謡詩人による同人誌『チチノキ』の同人となり、童謡詩人・巽聖歌(たつみ・せいか)と知り合います。昭和6年暮れ、東京高等師範学校受験のために上京した彼は、巽とともに北原白秋を訪ね、そのことから東京への志向を強めます。

東京外国語学校時代

メドレ―教師の授業を受ける英語部の生徒たち(新美南吉記念館提供)

師範学校受験には失敗した彼ですが、巽の勧めで東京外国語学校英語部文科の受験を決意します。昭和7年無事合格した彼は4月より東京外国語学校に入学します。
正八は上京当初、巽宅に仮住まいしていましたが、昭和7年9月より、本学の日新学寮に入寮しますが、2年生の春、正八は執筆活動に集中するため下宿探しを進め、5月より中野区新井の電燈付きの貸間に居を移します。

外語時代の正八は国内外の文学作品を読み漁っていました。正八は神田の古本屋街を頻繁に訪れ原書を入手したほか、岩崎民平教授(英語)ら教員から原書の童謡集を借りるなどして読書に勤しみました。

正八は東京外国語学校在学中にも多数の幼年童話を執筆しました。新美南吉の代表作である「手袋を買いに」は在学中に執筆されたもので、10年後、童話集『牛をつないだ椿の木』で発表されました。

卒業後~最後

東京外国語学校英語部卒業式写真 (新美南吉記念館提供)

昭和11年、東京外国語学校を卒業した正八は、創作活動を進めるために東京で職を求め、昭和15年に予定されていた東京オリンピックに向けた外国人向け商品を取り扱う東京土産品協会に就職します。しかし、10月に喀血を起こし、翌月には半田への帰郷を余儀なくされました。
その後、河和第一尋常高等小学校の代用教員を経て、飼料生産会社である杉治商会に就職しますが、給与は手取りわずか16円でした。昭和13年、中学校時代の恩師・遠藤慎一は正八の窮状を憂い、安城高等女学校長と図って正八に教員免許を取らせます。そして正八は同校の教員に内定します。

安城高等女学校への採用は正八に生活の安定をもたらしました。昭和14年の英語部同窓会誌には卒業後初めて正八の名前が、一篇の詩とともに現れます(*一般には、今回の企画展にて初公開)。また正八は『哈爾賓日日新聞』の求めに応じ小説「最後の胡弓弾き」の原稿を書くなど精力的な活動を進めます。しかし、昭和16年長編作『良寛物語 手毬と鉢の子』の執筆後に病状が悪化します。
昭和17年正八は病床にありながら童話集『おぢいさんのランプ』等、次々に作品を書き上げますが、昭和18年3月結核に倒れ、29歳7か月の若さで短い生涯を終えます。

童話集『おぢいさんのランプ』・『花のき村と盗人たち』(東京外国語大学附属図書館所蔵)

新美南吉の日記にみる学生生活

新美正八(南吉)は、生涯にわたり多数の日記・草稿ノートを遺しています。
東京外国語学校在学時代にも「文芸日記・メモ&日記」を遺し、外語2年次の昭和8年1月1日~12月31日、3~4年次の昭和9年10月16日~昭和10年6月27日の日記が現在確認されています(日記原本は新美南吉記念館所蔵)。外語時代の2年次の日記は、1985年(昭和60年)に『新美南吉・青春日記―1933年東京外語時代』(昭和60年、明治書院)として刊行されます。
日記には読書家で映画好きであった青年、新美正八の19-20歳の学生生活が記されています。その一部を紹介いたします。(より詳細な資料は、企画展でご覧いただけます)

:新美正八(南吉)の日記より

日新学寮における寮生活の思い出

新美正八の日記の中には、寮生活の思い出が散見されます。寮では毎年新入生歓迎会をはじめ行事が開催され、正八も参加していたことが分かります。

1月17日 寮の怪談
「寮に怪談があると云ふ。南から三つめの大便所の中で八九年前、寮生が首を縊つたと云ふ。秋田さんが一年にはいつた頃には、血こんがあつたさうだ。それ以後、その扉だけは、よくあいてゐるのだと云ふ。みぞれのしみる宵にきかされた怪談―何かうすきみが悪かつた。」

4月28日 寮の新入生歓迎会
「寮の新入生観*迎会。内側に向つて四角にならべられた机の行儀。サイダービン。いくら勿体ぶつて意匠をこらしても、それは二十銭のものにすぎない。舎監は獰猛で松の木の様な無洗練な失礼を持つてゐてサイダービンが笑ふ。その隣にブルジョワ典型の会計の親父の脂肪的堆積がゐる。いくら俟*拶をしろと言つてもしないのである。だから彼の無能さわかる。自己招*介は右から。先づ藤原が“そのお手本として” もつとも下手くそな自己招*介をする。自己招*介で笑はせるのは頭がいゝ。笑はせ様として泣き顔になる人間は頭がわるい。自己招*介で笑はせるのは頭がわるい。うまく言へない人間は頭がいゝ。
僕はリンゴの中心に分銅がバランスをとつた様に落ついて、ものまねをやる。みんな嵐の様に笑ふ。僕は芸術家なんだぞと誇る。自分自身にも誇る。」

4月30日 退寮

昭和15年頃日新寮の生徒たち
「どうにも我慢が出来なくなつたので貸間をさがしたら新井の、もと与田さんのゐた家の附近に三畳をかす所があつたので行つて見たら二階で新しい感じのする部屋で賃も四円半で電燈付と云ふので、借りることにきめたが、寮を帰つて見ると何だか他の者達と別れて行くのがものがなしく別れにくゝなつたので、一層のこと止してしまはうと思ひ、夕方満田とことはるつもりで行つたが “ラヂオはあるんですか” つてきけば “ありません” と言ふし“お子さんは?” ときけば “三年生の子が一人です” と答へるのでことはることの出来ぬ様な羽目になり、遂々けいやくしてしまつて明日うつることにした。(…後略…)」

【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

昭和15年頃日新寮の生徒たち

文学作品との出会い

新美正八は、昭和8年の日記だけをみても多数の外国の文学作品を原書で読んでいることが分かります。原書は英語だけでなく、参考書学習を通じて習得したフランス語の原書もあり、辞書を片手に原書に挑んだ様子も確認できます。

4月1日 新美正八の英語読解力
「ShakespeareのOthelloを読みはじめたが、英語の註なのでかなり厄介ではかどらぬ、併し岩田君が言つてた程難解ではないし、現代ものに劣らぬ様なinterestもあるので、うれしく思つてゐる。」

4月12日 読書に勤しむ新美正八
「こんどの修身をやる鈴木が、藤掛の次に自分の名を指摘して、この一年間に読んだ本を言へと云つた。(…中略…)自分は幾分得々として、あれやこれや思ひ出しながらかぞへあげたが、考へて見ると、この一年間随分読んでゐる。その収穫はともかく、ともかくこんなに多く読めたことをよろこぶものだ。」

12月7日 フランス語の文学作品
「Pinokioをフランス語で読み初めた。一章五頁を何時間費して読んだらうか?しかし辞書を引くたびに、煉瓦の壁でもこはすやうに、だんだんと意味がほぐれて来るのはうれしかつた。あとで辞書を引いた単語と句をかぞへて見たら八十三あつた。」

【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

長編童話『大岡越前守』の執筆経緯

新美正八は、在学中に長編童話『大岡越前守』を執筆しています。その執筆経緯について、日記にこのように記しています。

4月21日  「新しい与田さんの下宿をたづねて行つたら、大岡越前の守の話を三百枚書いて見ないかとの話があつたので自分はひきうけて種本と原稿用紙百枚を貰つて来たが、史実を少年物語にするのは相当ほねである。そしてそんなものが、一体どんな仕事として、自分のあとに残るものであるか。
一枚二十銭、三百枚六十円、その金がほしいからひきうけたのであるが、来月の十五日までと云ふからそれまでは他の勉強は手につくまい。全く労働である。稲生が言つた様に、ローソクの両端から火を点じて、尊い人生をはやく燃しつくしてしまふ様に思へられる。」

(4月22日創立記念日・4月23日に大橋図書館で資料探し、4月24日原稿執筆開始)

6月29日  「昨夜おそく与田さんが来て、大岡越前守の伝記を書いてくれと言つた。この前、途中でよしてしまつたあれである。ひよつとしたら金になるかも知れぬが、五十円や六十円費つたところで大したたしにならぬとそんなことを思つた。ものを喰へばそれだけ。本を買へは二三十冊。その本にどれ程の内容があつて、どれだけの智識を与へてくれるか。その智識がなんになる。(…後略…)」

7月11日  「(…前略…)今日帰省するつもりでゐたが、与田さんの仕事をやつてしまつて行けと言はれたので、もう十日のばす心算でゐる。今日は大いに苦しんでそれで二十四枚あまり書いた。」

7月20日  「少年大岡越前守やつと書きあげた三百枚。自分ながらこれだけのものを半月あまりで書いてしまつたかと思ふとうれしい気がした。これだけのものとは内容の質を言ふのではなく量を言ふのである。量とは原稿用紙を積み重ねた時の厚みを言ふのである。」

【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

巣鴨運動場での運動会の思い出

東京外国語学校は大正12年(1923年)の関東大震災により、建設直後の3階建ての校舎(麹町區元衛町)を失い、その後新美正八の学び舎ともなった皇居お濠端の竹平町校舎に移りました。震災復興のための仮校舎であった竹平町校舎には大きな運動場は無く、正八2年生の冬、移転予定地となった西ヶ原に運動場が建設されます。

(*は、記されたママ)

11月2日  「巣鴨の新運動場へ運動会へ行つた。くもつてゐたが段々はれたので気分もはれた。だだつぴろい運動場で前には灰色の女学校があり、うしろに赤い屋根の小学校があつた。その小学校の生徒が余興に綱引きとダンスをやつた。新しく引起し*をすると近所へ手土産を持つてゆくのと同じでなんでもないやうでよいものがある。ちよつとうれしかつた。女学校から何も来なかつたのがもの足りなかつた。小野君と染井の墓地へ行つて芥川竜之助*の墓を見て来た。普通の墓石とくらべて丈がひくく横にがんばつてゐる独特な形をした墓石だつた。小さいし面積もせまいので、となりのでかい墓のかげになつてゐて、反感を与へなかつた。自分が死んだら、平たい石を上にのせてもらつてその石の上の面に書くべきことは書いて貰ひたいと思つた。墓のそばに養魚場が*太公望が糸をたれてゐた。一寸したもののテーマになりさうな情景を見た。」
【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

外語祭への批評

昭和10年11月英語劇「リア王」、前列右端が新美正八、リア王の娘役を演じました。(新美南吉記念館提供)

現在まで続く東京外国語学校の文化祭「外語祭」では、各語部による外国語劇が上演されていました。新美正八の外語時代の友人、河合弘(フランス語)の回想によると、当時の英語部では文科がシェイクスピアを、貿易科が現代劇を、科単位で上演することになっており、少ない人数から選ぶ関係から正八も4年生のときにはリア王で娘役をやったようです。
昭和8年の2年生の冬は、観覧側から語劇を鑑賞したようですが、次のような厳しい批評を日記に残しています。

11月17日  「午後語劇があるので出かけて行つた。築地なんかで本当のものを見てゐるせいか、学生のやる事は幼稚なものに見えた」

【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

学生生活の思い出~神田の古書店街~

新美正八は友人らと映画鑑賞や喫茶店に頻繁に出かけました。また当時の東京外国語学校の位置した竹平町が神田の古書店街に近く、頻繁に古書店を訪れ、文学作品を購入しています。昭和8年の日記には次のように、書籍を買い漁っていた様子が確認できます。

9月13日  「神田の古本屋で第一書房の劇*曲全集四十四巻を七円で購つた」

10月17日  「Macaulyの英国誌*を一円五十銭で見つけたので買はうと思つたが、あまり大量の上、歴史だから躊躇してしまつた。」

【参考資料】新美南吉著・渡辺正男編『新美南吉・青春日記 1933年東京外語時代』(明治書院、1985年)

昭和10年代の神田古本屋街 (『(1940年代中国語アルバム)』所収)

就職氷河期に立たされた新美南吉

新美正八の東京外国語学校への進学の決め手の一つが東京外国語学校卒業者に教員が多かったことが挙げられます。特に父多蔵は、正八が教員となり早く安定した生活を送ることを望み、卒業後の教員の道が重要でした。
正八が受験した当時、東京外国語学校の卒業生は全体の1割、また英語部文科では6割もの学生が卒業後教員となっていました。卒業後に教職に就く者は、第一次世界大戦中の大戦景気のなか民間企業に就職し海外で活躍する者が増加すると、一時減少しましたが、1920年代以降、第一次世界大戦後の戦後不況、関東大震災、金融恐慌と不景気が続くなか、再度教職志望者も増加していきます。
昭和8年の正八の日記には、英語部文科の先輩の就職がなかなか決まらないことへの言及など、自身の将来の就職への不安や生まれた不況時代に対する不満が記されています。

2月13日  「俺は何と不幸の時代に生を享けたことか。若しも俺がもう十年先に生れてゐたら、学校を出た俺は易々として職についてゐたであらうものを。妻を持ち、子を持ち、まどかな家庭を作つてゐたであらうものを。」

講演会・企画展のご案内

新美南吉記念館(愛知県半田市)との連携で、東京外国語大学において、新美南吉の関連資料の一部を紹介する企画展を開催しています。また、1月19日(金)には、新美南吉記念館より山本英夫館長をお招きし、「新美南吉と東京外国語学校の思い出」と題した講演会を開催します。ぜひ両会場に足をお運びください!

講演会「新美南吉と東京外国語学校の思い出」

開催日 2018年1月19日(金) 16:00~18:00
場所 アゴラグローバル3階プロジェクトスペース
アクセス / キャンパスマップ
プログラム(予定)
16:00~16:15 開会挨拶
16:15~17:35 講演 山本英夫氏(新美南吉記念館館長) 「南吉作品の核となるもの―南吉と東京外国語学校―」
17:35~17:45 コメント コメンテーター:田島充士氏(東京外国語大学・准教授)
17:45~18:00 質疑応答
備考 事前申込不要、参加費無料
お問い合わせ 東京外国語大学文書館 042-330-5842
tufsarchives[at]tufs.ac.jp
※[at]を@にかえて送信してください。

企画展

開催期間:2018年1月15日(月)~1月26日(金)
開館時間:附属図書館開館時間

場所:東京外国語大学 附属図書館 1階大学文書館展示スペース

本件お問合せ先

東京外国語大学文書館
TEL:042-330-5842
E-mail:tufsarchives[at]tufs.ac.jp([at]を@に変えて送信ください)

取材依頼

東京外国語大学 総務企画課 広報係
TEL:042-330-5151
E-mail:koho[at]tufs.ac.jp([at]を@に変えて送信ください)

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