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日新寮の歴史

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東京外国語大学には東京都中野区上高田に「日新寮」と呼ばれる学生寮がありました。関東大震災により下宿を失った学生の窮状を打開するため1924年に建設された寮は、戦後には貧困のなか勉学を続ける学生たちを支える基盤となるとともに、寮則の制定や入寮選考を学生が行う「自治寮」として運営されていきます。

このたび、日新寮の跡地に記念碑が建てられることになりました。2016年10月29日(土)に除幕式が執り行われます。

日新寮記念碑除幕式

日時:2016年10月29日(土)12:00-
場所:日新寮跡地(中野区立上高田二丁目公園)

これを記念し、学生たちの寮生活を中心に、日新寮の歴史を紹介します。

1. 戦前の日新寮 ~誕生から戦中の寮生活~ 1924-1945

(1)日新寮の誕生

日新寮(正式名、日新学寮)は、1924年(大正13)5月1日、東京府豊多摩郡野方村大字上高田字新井前百十四番地(現、東京都中野区上高田)に開寮します。前年の関東大震災により多くの学生が下宿を失ったことを受け、学生の窮状を打開するために建設されました。寮名は、榮田猛猪(漢文/教授)・友枝照雄 (国語/講師)により、中国の古典『大学』にある「苟日新、日日新、又日新(まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり)」に由来する「日新」の名が付けられました。

初日入寮者に名を連ねた佐藤勇(ロシア語/後に教授)によると、開寮時には寮の周りは畑ばかりで「寮舎だけは建つたものゝ、電灯の配線などは未完成のまゝで、入寮后一週間ほどはローソクで間に合わせねばならない有様」であり、入寮時には40畳の一部屋に同室者が1名と「ガランとしたもの」でした。他方、「開校以来はじめて持つことになつた学寮であつただけに、関心の度も強く、初代寮監には検事上りの法学教官小林清貞教授を任命し、入寮選考も中々厳しく、ぼくなども『酒癖が悪い』という理由で許可がおりるまで難航を極めた」と言います(佐藤勇「寮名由来記」『にっしん 第2号』(1960)参照)。

【図面】「東京外國語學校假寄宿舎日新學寮」『東京外国語学校一覧』(1939)

寮には南北5部屋ずつの計10部屋があり、1部屋40畳・定員10名でしたが、各部屋4、5人しか居住していなかったと言います。寮内には食堂・便所・グラウンドに加え、2棟の舎監室と1棟の事務員室があり、学生以外にも舎監2名(教員)と事務官1名、炊事係や小使が在寮していました。(「東京外國語學校假寄宿舎日新學寮」『東京外国語学校一覧』(1939)参照)

【コラム】関東大震災の被害と震災後の東京外国語学校

1923年(大正12)9月1日、相模湾沖で発生した関東大震災は、東京中に甚大な被害をもたらしました。当時、東京外国語学校はお濠端の麹町区元衛町に位置し、1921年に建設されたばかりの3階建ての新校舎を有していました。しかし震災・火災の影響により「本校書庫、柔剣道場、門衛詰所、倉庫物置ヲ除ク外校舎並生徒控所ノ全部ヲ焼失」(「沿革略」『東京外国語学校一覧』参照)してしまいます。

震災から2か月後の11月1日、牛込区市ヶ谷の陸軍士官學校を間借し、授業は再開されます。翌年3月には麹町区竹平町へと移転しましたが、校舎は急造バラックの木造平屋建てであり、「鶏小屋」のあだ名が付けられていました。「天井板も外れかゝれば、壁も落ちる、戸のがたがたなどは申す迄もない、卒業式の時など天井裏の見へる講堂に貴賓―尤も少数ではあるが―を案内するなど気のひけるわざであ」(八杉貞利「雑録学校近況」『露西亜会会報』第6号 昭和3年7月16日)ったそうです。

(2)戦前の寮生活 ~學則・學寮寮則に定められた寮生活~

學寮寮則において「學寮ハ生徒修學ノ便ヲ圖リ共同生活ニヨリテ品性ノ向上ニ力メシムル所トス」(第一條)と定められ、寮と寮生の生活は「生徒課長及舎監指導ノ下ニ自治制ヲ以テ之ヲ律セシム」(第四條)として、生徒課長と舎監の指導下に置かれました。特に校長が任命した舎監は、寮内の舎監室に家族とともに居住し、時に学生に叱責を与える者として、時に学生の話し相手として、日々の生活を監督していました。舎監には初代舎監を務めた小林潔貞(法学/舎監1924-1934年)、戦前・戦中・戦後の20年間舎監を務めた星誠(ポルトガル語/1934-1953年)らがおり、その権威は絶大でした。

寮は「毎年第一學期ノ始メニ開キ第三學期ノ終ニ閉」まり、夏季休業中の8月は休止されました(學則第七十六條)。学則では「主トシテ本科第一學年生徒ヲ寄宿セシム」(學則第七十七條)ものとされていましたが、新入生だけではなく、4年間在寮した者もいました。費用は、学寮費年額20円(學則第七十八條)と、賄費が毎月時価で掛かり、会計課に納付しました(學寮寮則第十三條・第十七條)。1927年(昭和2)-1929年(昭和4)まで在寮した小川芳男(英語/後に学長)によると、「私は郷里から毎月二十五円送つて貰つて、それで充分であつた。食事は各部屋が順番に一週間の献立を作って賄に渡した」と言います(小川芳男「寮の思い出昔と今 あの頃」『にっしん 4』(1963)参照)。

また寮則には起床・門限・消灯時間までもが定められ、それぞれ起床午前6時、門限午後10時半、消燈午後12時とされていました。加えて、寮内における禁酒や服装までもを定めた「寮紀」がありました。

學則・學寮寮則により細かく規定された戦前の寮生活でしたが、小川芳男(英語/後に学長)によると、寮では「大体一つの電燈のもとに二人が向い合つて机をおいて勉強」し、「寄宿舎にいては勉強できぬという人もいたが、一般的によく勉強した」と言い、「寮にいると大抵の国の簡単な挨拶位は覚えられるのが楽しかった」とも回想しています(小川前掲(1963)参照)。また後に学長に就任する小川芳男を含め、寮出身者のなかから後に母校の教員になる者も多く、加えて旺文社を創業した赤尾好夫や童話作家の新美南吉(新美正八)など各界に著名人を輩出しました。

(3)戦中の日新寮

鎌倉遠足の寮生たち(昭和16年)

1938年(昭和13)国家総動員法の公布に伴い、勤労動員が開始されます。こうした動きは1941年の日米開戦以降一層加速し、1943年に「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が決定されると、勤労動員は「教育実践ノ一環」として、1年の三分の一程度まで引き上げられ、学生たちは労働力として活用されることとなります。これと並行して文科系学生の徴兵猶予が廃止されたこともあり、学徒動員と学徒出陣により、授業は閑散としたものに変わって行きます。戦局が悪化するなか、1944年に東京外事専門学校と名称を変えた本学においては、同年に入学した1年生を除き、殆んど授業が実施されなくなります。

1944年(昭和19)-1947年(昭和22)の終戦から戦後直後に在寮した黒柳恒男(ウルドゥー語/後に教授)の回想によると、当時は「上級生は殆んど戦場に赴き、二年生一、二名と他は新入生であった。当時月に食費十五円、寮費二円で全て事足りていた。舎監は星先生で朝夕廊下に整列して点呼があり、朝の点呼が終っても時々舎監が廻ってきたので、ずる休みをしていた者はすばやく押し入れに隠れたものだつた。上級生の権限は絶対で軍隊内の古参兵と新兵のようなものだつた」そうです。加えて、空襲が激化するにつれて消燈時間も厳守され、連日の燈火管制で夜の勉強は不可能になり、消火訓練も実施されるようになりました。終戦直前には在寮生も20名前後に減りました(黒柳恒男「日新寮の思い出」『にっしん 4』(1963))。食事も極めて乏しいもので、賄人も郷里に引上げて完全自炊するようになり、食糧難のなか、寮では空き地でサツマイモを作ったり、「食糧難で犬まで殺して食べたり」することもありました(「インタビュー② 星誠先生を訪ねて-舎監の思い出―」『にっしん 4』(1963))。

2. 戦後の寮改革 ~自治学寮の成立~ 1945-1950s

(1)戦後直後の日新寮

終戦直前の1945年4月13日、城北大空襲により滝野川の新校舎は建設後わずか1年程で焼失してしまいました。そのため終戦後の9月、本学は上野の美術学校に間借りする形で授業を再開します。翌年、板橋区上石神井の智山中学校校舎と300m程離れた元電波兵器技術専修学校の木造校舎を借用することが決まると、6月には移転され9月には授業が再開されます。復員者は、授業再開の通知を受け取ると、上野、上石神井の校舎に向かいました。しかし、戦後の食糧・経済事情の悪化により、「生きるためのアルバイト」をせざるを得ず、授業に参加できない学生も多くいました。

戦中の空襲により寮の周囲の建物がほとんど焼けたにもかかわらず、寮自体は戦禍を免れました。そのため日新寮は復員した学生たちの学生生活の基盤となって行きます。先述の黒柳恒男の回想によると、「終戦になると復員してきた学生が急に増え従来の空気は一変し、寮も自活制となった。食事は外食となり、新井薬師附近の食堂で雑炊のために長時間並んだこともあった。夜は停電が多く、試験の時には山手線をグルグル廻りながら勉強したこともあった」(黒柳恒男「日新寮の思い出」『にっしん 4』(1963))と言います。また学寮の賄いの状態はご飯にトウモロコシが混じっており、ご飯の少ない時はコッペパンが1個沿えてありました。夕食にさんまがつけばご馳走でした。

(2)自治の萌芽 ~村田徳三、初代寮務委員長による改革~

戦後の混乱期のなか、戦前には学則や學寮寮則のもと舎監の指導下に置かれていた日新寮が、「学生自治」へと移行します。その立役者となったのは初代寮務委員長を務めた村田徳三(ロシア語科)でした。1947年(昭和22)頃、寮大会を開催し寮務委員長に就任すると、自治を宣言し、総務・会計などを組織化し自治改革を推し進めます。戦中の不条理な学生生活や軍隊生活を経験したためか、学生たちには「自治寮の前途はこれからなのだ」との意識が広がっており、文芸委員などによる寮誌「シメール」、寮新聞「創生」等の刊行、外語寮らしく外国語のスピーキング・ソサイエティー、レコード鑑賞会、ファイア・ストームなど、活発な企画が進められます。

そして「村田寮長のイニシァチブ、(…中略…)佐藤(勇)教授の肝煎り等により、懸案だった寮改築の大事業が決行された。あの頃国家財政は緊縮専一であり、文部省などは特にその傾向が強かったと思うのだが、村田氏の決意と実行力が功を奏し、卅五万円の巨費が寮改築のために割り当てられた。その頃卅五万と言えば、たしか寮賄費月額八百円程度、今川焼三ヶ十円の時代であるから可成りの物であったに違いない。大きな部屋が二分され、外に娯楽室、寮長室等が新たに設けられた。(…中略…)外に、雨漏りが防がれ、調理室が改良されたことは言うまでもない」(石山桜「寮生活回顧」『にっしん 4』(1963)、と大部屋40畳(10人用)の10部屋だった寮が、15畳或いは18畳(5~6人用)の23部屋に改築されました。

【コラム】初代寮務委員長村田徳三の自治改革(古茶氏「私の日新學寮生の時代」参照)

「不条理な軍隊生活を経験した故か学寮に対する強い思い入れがあり、殆ど彼が寮の自治を推し進めた感がありました。数人の幹部を中心に寮生を食堂に集め総会を開き寮務委員長の指名を受け自治を宣言したのです。

私が入寮した時期は将に日新学寮の変革の時だったのです。総務、会計等の担当が決められ、当時寮費は700円が集められました。食堂の炊事スタッフはおじさん、おばさん、若い娘さんの三人で村田氏の統括下にありました。

日新学寮には、寮の学則があったのですが、戦後の混乱期で何も彼もご破算の状態で特に規制らしき物は無く、時間も自由でした。村田氏も自治綱領の作成はしていた様でしたがそれを押し付けることはありませんでした。それでも戦前戦後の動乱期を経てやっと学問に勤しむ機会を得た当時の寮生たちにはそれなりに確りした秩序があり、皆まじめに勉強に取り組んでいました。

(…中略…)

自治会では日新学寮祭も企画施行されました。寮の空き地でパン食い競争や仮装行列等が行われ、女装した男の子の思いがけぬ美しさにうっとりしたものです。マラソン競争で同級の大山君が先頭を切って秋晴れの空き地に入って来た時には其の逞しい姿に感動の拍手を送りました。」

日新寮正門(昭和36年冬)

(3)学生自治の継続

村田寮務委員長の卒業後には、関根晋也(中国語科)がその職を引き継ぎ、「学生自治」は継続されて行きます。1956年発行の『外語のしおり』(第4版)では、「寮の運営はすべて自治。寮務委員が寮生から食費一ヶ月一八〇〇円・維持費二〇〇円、計二〇〇〇円也の寮費を徴収して食堂、其の他の運営にあたっている。委員は寮生の中から選出され、改選期は四月と九月の年二回、委員長、庶務、会計、食事、文化、生活委員等から成りそれぞれの役に応じて寮費の何割かを免除される。寮務委員が、寮生活改善のため学校側へ設備改善を要求しているが、もとが安物だけに改善はなかなかはかどらない。それでも最近になって今までになかった電話が取りつけられ、廊下に蛍光燈がつけられたりして、少しづつ設備が改善されている」と、寮務委員会により自治運営がなされていること、組織化された委員会が学校側と寮生活改善のために交渉を続け、成果を出していることが紹介されています。

他方、こうした「学生自治」の継続のために、制度としての確立や寮則の成文化が求められるようになります。1958年(昭和33)に発刊された『にっしん』(創刊号)で実施された寮生活向上のためのアンケートでは寮規制定の必要性が問われ、「認める64%(33名)」、「どちらでも良い11%(7名)」、「必要ない13%(12名)」と寮規の必要性が意識されるようになります。この頃から寮規制定に向け起草委員が置かれ、「学生自治」の制度化が目指されます。

3. 寮務委員会の充実期

(1)寮則の制定 ~制定と学長への直談判~

「学生自治」の制度化と寮則の成文化は、1950年代末に歴代委員会で審議されていましたが、1959年(昭和34)春~秋浅井(光岡)雅彦寮務委員長(中国語科)の時期に達成されます。この時に制定されたのは、入寮選考・寮自治運営の原則確立を骨子とする寮則の本文大綱でした。

この寮則制定に対して、大学側からは学生による入寮選考や寮則制定が有効であるのかとの異論が出ましたが、委員会による岩崎民平学長、石山正三補導部長(後に学生部長)への直談判の末、

(一)入寮選詮は寮生が自治的に行い、原則として学長はその報告を得て自動的承認を与える。(但し学長の承認得ざる者については寮委員会及び学校当局協議の上解決する)それは社会人たる自治能力の涵養と云う教育基本法の本旨に副うべく、当事者各位がその自覚の上に履行するものである。

(二)寮則の最終成立論については、学長承認をたてまえとするが、それは上記の精神及び形式に準じて行うものとし、その施行は便宜上、全寮投票の開票即日より開始する。」(光岡雅彦「日新寮の諸兄へ」『にっしん 4』(1963)

と、学長が「社会人たる自治能力の滋養」の観点から学生による入寮選考と寮則の成立を承認し、ここに日新寮の「学生自治」が確立されます。後に前文や入寮細則などの諸規定が追加され、1962年11月7日の日新学寮寮生大会において寮則と入寮選考規定など諸規定の制定が決議されます。

寮則及び諸規定

(2)寮の運営体制 ~寮務委員会の活動~

寮務委員会室(昭和35年冬)

寮則の前文では「全て寮運営は、寮生の総意によって決定され、寮生自身によつて執行されるのであつて、いかなる他の意思によつても影響されることは決つしてない」、と謳われ、寮務委員会の下、学生自治が行われました。

自治運営のため寮には、寮生大会、代議員会、寮務委員会、監査委員会が置かれ、重要事項は寮生大会において決定されました。その執行に当たったのが委員長、副委員長・会計委員・文化委員・生活委員・食事委員などで構成される寮務委員会でした。委員長は立候補制で、全寮生の選挙により決定し、他の委員は委員長が指名しました。委員長選挙に際しては、推薦人の立会のもと、所信表明の演説が行われました。

委員会は寮生から毎月300円の維持費を徴収し、生活必需品(トイレットペーパー、スリッパ等)の購入や食堂の運営、冬場に切れることの多かったヒューズの交換といった寮生の日常生活の支援から、新入生歓迎会や寮祭の開催、寮誌の発行などの文化活動まで様々な活動をしていました。また寮内で抱える生活上の課題や要望を集約し、大学(学生課)との交渉に当たることも委員会の重要な仕事でした。

【コラム】電気コタツに関する交渉

老朽化が進みすきま風の吹く日新寮において冬の暖房の問題は重要な課題でした。瀬志本委員長を中心とする寮務委員会は、火災の危険性やしばしば停電になることがあった寮のトランス容量を考慮したうえで、電気コタツの導入を求める意見書を作成し、大学に提出し交渉を進めました。結果、各部屋への電気コタツが導入されます。写真は、導入された電気コタツの使用心得に関する誓約書。

(3)入寮選考と経済状況

入寮選考は春秋の年2回、寮務委員会により実施されました。「審査に当つては経済的な条件を重視し、集団生活に対する適応性などを考慮する」(寮則第7条)ことが定められ、戦後の混乱期において寮は、「苦学生」の進学を支えました。選考は主に寮務委員による面接により実施されましたが、筆記試験が課されることもありました。1956年発行の『外語のしおり』(第4版)によると「寮生募集は四月と十月に行われるが、入寮希望者の倍率がいつも三倍を上廻るとあっては、ここでも狭き門の悩み。それだけに、寮生は外語と云う全国でも有数な貧乏人の集りの中から更に選考されたより抜きのプロレタリアである。毎日バイトと勉強に追われ、とても余裕シャクシャクとして浩然の気を養っている暇などありません」と寮生がアルバイトと勉強の両立に苦労している様子が言及されています。

寮は入寮時に入寮費500円、毎月維持費として寮に300円、大学に100円の納付で居住することができました。毎月一回の奨学金の受領日になると、会計委員は懐が温まったばかりの寮生のもとに維持費の回収に回ったそうです。寮生は、学生課や先輩の紹介で得た家庭教師や翻訳などのアルバイトと「勉強」に精を出しました。

【コラム】1960年代半ばの寮生の経済生活

日曜日に昼食を共にしてくつろぐ寮生

『日新学寮案内’66』には寮生を対象としたアンケートの結果として、寮生の経済状況が紹介されています。収入は6000~30000円で、平均的収入は15000円でした。アンケート回答94名のうち、アルバイトをしている人76名。仕送りを受けている人42名、奨学金を受けている人60人で多くの学生がアルバイトにより生計を立てていたことが分かります。当時は家庭教師週2回で月6000-8000円程の収入があり多くの学生が家庭教師をし、高学年者は通訳・翻訳により高収入を得たそうです。また寮の一つの特徴(?)に留年が多いこともあったそうで、留年により奨学金が止められている者も多くいたようです。

(4)寮生活

寮生の食生活

食事風景

寮生にとって、日々の食生活は栄養面でも、金銭面でも重要な関心事でした。寮では希望者には食堂での寮食の提供があり、朝50円、夕80円で栄養士がカロリー等を考慮し、調理人の漆山夫妻が調理した献立の食事がとれたそうです(1968年頃)。寮食は味の方ではあまり人気がなかったようですが、都内で普通に食事をすれば1食130円~150円だった当時、金銭面で寮食は寮生の心強い味方でした。また、寮食が残った場合には、朝20円・夜30円で処分されることになっており、「処分の時間になると、残り少ない(大底ニ三個)食事を囲んで大の男が、五、六人、真剣な目付きでジャンケンをして」取り合うのが恒例だったようです。

グラウンド(バレーボール)

他方で、寮食の支払い未納のまま退寮した者がいたこと等による生まれた赤字は商店への支払い遅れ等の影響を及ぼし、寮生大会等でも議論される課題の一つでした。

寮では文化委員が中心となり、新入生歓迎会、秋の寮祭、女子大との合同ハイキングが開催されました。寮祭には学長・教員、付近の住民や女子大の寮生なども訪れ、1968年度の寮祭ではダンスパーティ、中野駅までの仮装行列、ファイアストーム、卓球、マラソン、囲碁、将棋、麻雀、フォークダンス、模擬店おでん屋、BAR、ジャズ喫茶が行われました。また1958年からは、寮誌『にっしん』が創刊されます。1966年までに6号刊行された寮誌には、寮の近況の課題や歴史に関する特集記事、評論や創作などが掲載されました。

中野を練り歩く仮装行列(昭和41年)

4. 学園紛争から廃寮へ

学園紛争時の研究室

1968年、全国の大学を学園紛争の嵐が襲うなか、東京外国語大学も例外ではありませんでした。新寮建設を巡る学生部長と寮務委員長との交渉を発端に、東京大学、東京教育大学とともに、国立の「最重症三大学」と呼ばれるほどに学園紛争が激化しました。

新寮建設の問題は1960年代前半から 大学側と寮務委員会の間で何度も意見交換が行われ、老朽化が進み収容能力も不充分な寮の建替えが検討されていました。しかし、寮の管理権や光熱費・水道費などの経費負担の区分を巡り議論はまとまらず、学生運動の高まりと相まって、「大衆団交」や構内へのバリケード設置と教室・研究室の占拠と、紛争は激しさを増して行きます。入試の実施も危ぶまれる中、ついには機動隊も導入され、1968年度の卒業生の大部分は翌69年6月28日に中途卒業する事態となりました。

紛争後、大学は「キャンパス内の正常化」に注視し、寮問題への対処は忘れ去れて行きます。他方、寮では紛争の頃から入寮選考が行われなくなり、寮内には部外者が増え、アルバイト先で知り合った知人や兄弟、はては男子寮に女性までもが居住し、寮内の居住者を大学側が把握していないという「無秩序」な状況が生まれます。地域住民から寮に関する苦情電話が相次ぐなか、1975年部外者を含む「寮生」による傷害事件が発生したことで、事態は世間の明るみに出ます。ここにきて大学は事態の解決に乗り出し、新規入寮の停止・学外者の立退き・寮の規模縮小を進め、終に1979年、日新寮は56年間の歴史に幕を閉じます。

1975年 キャンパス内に設置された抗議の看板

【コラム】現在の日新寮跡地

日新寮跡地は、地域住民による公園化の要望を受け、その後「中野区立上高田二丁目公園」へと生まれ変わります。2016年10月29日、公園内に日新寮の記念碑が建設されます。

現在の日新寮跡地

参照:略年表

1924年5月1日 大正13 日新寮 開寮
初代寮監 小林潔貞(法学、~1934年)  柴田(漢文)・友枝(国語)両教官が「日新寮」と命名
1927年 昭和2年 小川芳男(英語、後に学長)入寮(~1931年)
当時1室40畳(定員10名)
1934年 昭和9年 寮監 星誠(ポルトガル語、以降20年間寮監)
寮監 蒲生礼一(ウルドゥー語、2年間寮監)
1943年頃 昭和18年 学徒動員・学徒出陣が進む。朝夕に廊下で整列と点呼。月に食費15円、寮費2円
1945年 昭和20年 終戦前は寮はガラガラで2-3名の部屋もあり、厳しい食糧難
終戦後、復員により入寮者急増
1947年 昭和22年 村田徳三(初代寮務委員長)、この頃、寮誌『シメール』寮新聞『創生』など発行
1950年 昭和25年 35万円を投じ部屋を改造。大部屋(40畳)を15畳と18畳にし、全10室が全23室となる この頃 寮まかない費800円/月(今川焼3個で百円)
1954年 昭和29年 寮内に互助基金制度
1958年 昭和33年 寮誌『日新』創刊
1960年 昭和35年 『にっしん』2号 発行
1968年 昭和43年 寮問題を契機に、学園紛争が発生。
寮内に部外者が増大
1975年10月 昭和50年 部外者を含む「寮生」による傷害事件が発生。11月全国紙に記事掲載
新規入寮停止・昭和54年3月31日までの存続・非正規入寮者と学外者の退去等告示、翌年裁判へ。
1976年12月21日 昭和51年 寮の3分の2の取り壊し
1979年3月末 昭和54年 日新寮 廃寮
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