プロヴァンス上陸作戦とアフリカ人兵士の貢献
2024/08/16/Fri
15日、1944年8月15日に南仏プロヴァンスで行われた上陸作戦(ドラグーン作戦)の80周年記念式典が開催された。ドラグーン作戦は、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦に次ぐ、連合軍の重要な反攻作戦である。式典をめぐる報道では、作戦におけるアフリカ人兵士の役割に焦点が当てられた。
マクロン仏大統領は、ドラグーン作戦のフランス主力軍でトゥーロンやマルセイユの解放に貢献したB軍(後にフランス第一軍となる)が、「最も勇敢で、最も多様な」兵士から構成されていた、と式典の演説で述べた。それに先だって演説したカメルーンのビヤ大統領は、「外国人、アフリカ狙撃兵など、他の人々の貢献なくして、連合軍の勝利はなかった」と述べ、マクロンも「フランスは、コンゴ人、ベナン人、ブルキナファソ、マリ、ニジェールその他の人々の犠牲を忘れない」と返礼した。(15日付ルモンド)
このB軍は25万の兵力を擁していたが、モロッコやアルジェリアの「イスラム教徒」13万人、サブサハラアフリカ出身の「アフリカ狙撃兵」、西インド諸島や太平洋諸島出身兵1万2千人など、旧植民地から膨大な数の兵士が参加した。
フランスの解放にアフリカ人兵士が大きな役割を果たしたことは、解放当初意図的に触れられなかったという。連合軍としては、フランス人の手で祖国解放を成し遂げたというストーリーが必要だったわけである(15日付ルモンド)。80周年式典でアフリカ人兵士の貢献が評価されたのは、もちろん望ましい。しかし、植民地軍に関しては、未だ十分明らかになっていない問題が多々あるようだ。
この点で、1944年12月1日に現セネガルのダカール近郊ティアロワイエ(Thiaroye)の軍基地で起こった蜂起・虐殺事件に関して、7月末にセネガルで起こった論争は興味深い。この事件についてフランスが誤りを認め、元アフリカ人兵士6人の名誉を回復して「フランスのために死す」(Mort pour la France)の称号を与えた。
これに対してセネガルのソンコ首相は、「この悲劇の歴史の一端を、フランスがもはや自分ひとりで決めることはできない」とソーシャルメディアに投稿した。ソンコは、どのアフリカ兵が裏切ったとか、功績があったとか、フランスが一方的に決める話ではない、と主張した(7月28日付ルモンド)。
ソンコはその後、「フランス政府はやり方を見直すべきだ。1944年に冷酷に殺害されたアフリカ人兵士について、その事実をただ認めるだけでは、誰からも賞賛されないし、進歩でもない」とXに書き込んだ(7月31日付ルモンド)。
ティアロワイエの虐殺事件に関しては、以前よりセネガル側から名誉回復要請がなされており、フランス政府はそれに応えたわけである。しかし、ソンコにしてみれば、植民地期の非道に対して、仰々しく「フランスのために死す」という称号を与えるだけで済むと思うなよ、ということだろう。こうした認識は、セネガルの若者に広く共有されている。
植民地や戦争の過去とその記憶は決して消え去らず、様々な機会に繰り返し立ち現れることを、このセネガルの例は示している。
(武内進一)
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