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Africa Today今日のアフリカ

今日のアフリカ

2021年10月

スーダンでクーデタが発生

2021/10/25/Mon

BBCによれば、スーダンでは、25日、軍によってアブダッラ・ハムドク首相を含む文民側の閣僚が拘束され、軍の代表であるブルハーン主権評議会議長が緊急事態宣言を発令した。スーダン軍による事実上のクーデタが発生したとみられる。 スーダンでは、ことし9月に軍によるクーデタ未遂事件が発生するなど、軍による政府転覆の動きが目立っていた。この時は、バシール前大統領を支持する軍の首謀者たちが逮捕され、一旦は沈静化した。しかし、先週に入ると、大統領府前で軍事政権への回帰を求めるデモが行われ、これに対して、数万人の市民が文民政府への権力移行を求めるデモを行うなど、軍支持派と文民政府支持派の間で緊迫した対立が続いていた。 スーダン情報省によると、10月25日、スーダン軍の治安部隊がハムドク首相と数人の市民政府側の閣僚を逮捕した。逮捕されたの閣僚のなかには、工業大臣やハルツーム市長が含まれている。情報省によれば、今回の逮捕は首相がクーデタを支持する声明を出すことを拒否したためであり、首相の居場所は不明としている。一方で、首相は自宅軟禁状態にあるという情報もある。その後、軍の代表であるブルハーン議長が、全土に緊急事態宣言を発令し、軍民の権力分有に基づく暫定政府の解体を表明した。 ハルツーム市内では、市民政府を支持する人々が、首相の解放を要求するデモを行っており、銃声が鳴り響くなど、市民と軍の間での衝突があったとみられている。デモ隊は、国旗を掲げ、タイヤを焼くなどして路上にバリケードを築く一方、軍はハルツームにつながる道路と橋を封鎖して、市内の移動を制限している。また、全土で電話やインターネットがつながりにくくなるなど、情報統制が行われているとみられる。 スーダンでは依然として予断を許さない状況が続いている。ブルハーン議長は、引き続き民政移管に注力していくと述べてたが、暫定政府の崩壊により民政移管は頓挫する可能性が高いとみられる。

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ケ・ブランリ美術館の所蔵品返還

2021/10/24/Sun

 パリのケ・ブランリ(Quai Branly)美術館が所蔵するアボメ王国の美術品が、11月9日にベナンに返還されることに伴い、10月20日~31日に展示されると発表された。彫像や王座の象徴など26体が返還される。これらは、1892年にアボメ王国の首都を征服した軍によって持ち去られ、パリのトロカデロ博物館に寄贈されたものである。国家収蔵品として、後にケ・ブランリ美術館に移された。  返還に至るには、長い時間がかかっている。ベナンの経済首都コトヌにはジンスー(Zinsou)財団の近代的な美術館(2005年開館)があるが、そこで2006年にこれら彫像のレプリカを展示したところ、大きな反響を呼んだ。2016年には、ベナン大統領のタロンがフランスに返還を要請している。しかし、当時のアイロー仏外相は、国家所蔵品は譲渡不可能であるとの理由でこの要請を拒んだ。  状況は、2017年11月にマクロン大統領がワガドゥグで行った演説によって、大きく動くことになる。この年に大統領に選出されたマクロンは、「アフリカの遺産はヨーロッパの個人や美術館だけに置かれてよいものではない。今後5年のうちにアフリカの遺産をアフリカに戻したい」と美術品返還に前向きの姿勢を示したからである。2018年には、フランス人歴史学者でナポレオンによる略奪を専門とするサヴォイ(Bénédicte Savoy)と、セネガル人経済学者サル(Felvine Sarr)が大統領府からアフリカに派遣され、返還の原則についての提言をまとめた。2020年には、国家の収蔵品は譲渡できないという原則があるなかで、返還を可能にするための法律が制定された。今回の返還は、こうした経緯を踏まえたものである。10月8日にモンペリエで開かれたフランス・アフリカサミットでは、コートジボワール、エブリエ人の「話す太鼓」を返還することも明らかにされた。これも、植民地統治下の1916年に持ち去られ、コートジボワールが2018年に返還を要請したものである。  旧植民地宗主国の美術館にとって、その収蔵品がどこから、どのような状況でやってきたのかを再点検することは、必須になりつつある(23日付ルモンド社説)。ケ・ブランリ美術館館長のインタビューにおいてもこの点は強調されており、ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』で有名な、マルセル・グリオールを隊長する「ダカール・ジブチ調査団」(1931~33年)の収集品も再検討の対象となることが明言されている(23日付ルモンド)。  美術品返還の動きは、ドイツ、フランスをはじめ、ヨーロッパに広がりつつあり、世界的に影響を及ぼすことになろう。

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トルコ大統領アフリカ歴訪

2021/10/21/Thu

 トルコのエルドアン大統領は、17日からアンゴラ、トーゴ、ナイジェリアのアフリカ3か国を歴訪した。この歴訪では、経済関係の深化が謳われたが、トルコの軍需産業を支える機関Savunma Sanayii Baskanligiの職員が随行したと報じられ(18日付ルモンド)、様々な思惑が絡んでいたことが窺える。  最初の訪問国アンゴラでは、貿易の大幅な増額を目指すとの目標が示された。最近、トルコ航空がイスタンブール・ルアンダ間に就航したこともあり、両国の経済関係の深まりが見込まれる。アフリカ中部諸国のなかでは、エルドアンは9月にDRCのチセケディ大統領に会って、ギュレン派の取り締まりへの協力に感謝を伝えている。  10月11日、ナイジェリアのザムファラ 州は、トルコの民間企業から武装ドローン2機を購入すると発表した。トルコの武装ドローンはリビア内戦でも用いられたが、エチオピアやモロッコにも提供しているようだ。武器取引は、トルコとアフリカ諸国の関係深化の重要な要因になっている。  トーゴ訪問の際、エルドアンは、ニャンシンベ大統領に加えて、ブルキナファソ、リベリアの指導者とも会うことが予定されている。トルコは西アフリカ各国との関係を深めつつあり、2020年7月、ニジェールがトルコと防衛協定を締結している。専門家によれば、政情不安はトルコのような新興国にとって食い込みを図る好機となる。2020年8月、マリでクーデタが勃発した直後、トルコ外相が反乱軍側と面会した。  こうしたトルコの動きは、西側にとって懸念材料である。今年1月、パルリー仏軍事相は議会において、トルコがサヘルで「支配力を強化し、間隙を縫って浸透し、我々の信頼を貶めようとしている」と述べた(18日付ルモンド)。

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1961年のアルジェリア人虐殺事件の記念式典

2021/10/17/Sun

 16日、マクロン仏大統領は、1961年10月17日のアルジェリア人虐殺事件から60年の機会に、犠牲者を追悼して当時の現場で花束を捧げた。アルジェリア戦争末期、アルジェリアの民族解放戦線(FLN)パリ支部の呼び掛けで平和裏に独立を求めるデモ行進を行っていたアルジェリア人に対して、フランス警察が暴力的に抑圧し、多くの死傷者が出た。百人を超える死者が出たとの推計もあり、セーヌ川に投げ込まれた犠牲者もいた。  マクロンは、犠牲者が投げ込まれたパリ近郊のブゾン(Bezons)橋を訪れ、花束を捧げて黙祷した。その後発表された声明では、事件を「数十人が殺害され、遺体がセーヌ川に投げ込まれた、残虐で、暴力的な抑圧の悲劇」だったと形容したうえで、「この日、モーリス・パポンの指示の下で行われた犯罪は、共和国にとって申し開きのできないものだ」と述べた。パポンは当時のパリ警視総監で、ジスカールデスタン政権では予算相を務めたが、1980年代になってビシー政権下でユダヤ人の強制収容所への移送に協力していた疑惑が発覚し、1998年に収監された人物である。  今年1月に発表されたストラ報告書への対応として、マクロンはこの記念行事を行うことを宣言していた。16日の声明に対して、在仏アルジェリア人のなかから好意的な反応があった一方で、犯罪をすべてパポンに押し付けて「国家の犯罪」だったという視点が欠けているとの批判も見られた(16日付ルモンド)。  この記念式典は、9月末のマクロン自身の発言をきっかけとしてアルジェリアとフランスとの関係が緊張するなかで行われた。事件の現場で演説をせず、比較的地味に式典を挙行したことも、そうした状況を反映していよう(2012年に当時のオランド仏大統領は、現場で「血塗られた抑圧があった」と演説した)。記憶をめぐる問題の扱いは常に簡単ではないが、こうした行事を続けることには大きな意味がある。

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フランス・アルジェリア間の緊張高まる

2021/10/05/Tue

 3日、アルジェリアは、駐仏大使を呼び戻し、フランス空軍機の領空通過を禁じた。この措置は、直接的には、9月30日にマクロン仏大統領がエリゼ宮にアルジェリア出身の若者を招いた際の発言に呼応したものだ。この時マクロンは、若者たちを前にして、率直に自身のアルジェリア観を提示した。  曰く、「アルジェリアの公式史観は、すべてフランスが悪いというもので、記憶のレントに依存している」、「問題はアルジェリア社会ではなく、その政治・軍事システムだ。それは疲弊している。テブン大統領もまた、このシステムに捕らわれている」、「フランスの植民地化以前にアルジェリア民族はあったのだろうか。それは疑問だ」。こうした発言が10月2日付のルモンド紙で報じられると、アルジェリア国内で多方面から猛烈な批判が湧き上がったのである。テブン大統領は、マクロンの発言を「許しがたい干渉」だと批判し、対抗措置に踏み切った。  両国関係はその前から波乱含みだった。9月28日にフランスは、アルジェリアとモロッコに対するビザ発給を50%、チュニジアに対するそれを30%削減すると発表した。これに対してアルジェリア外務省は、フランス大使を呼んで抗議している。その直後のマクロンの発言が、アルジェリア国内の反仏感情に火をつけたのである。  マクロンの発言はそれぞれに真実を含んでいるが、大統領の発言としては不用意だったのだろう。今年1月のバンジャマン・ストラの報告書が示すように、彼自身アルジェリア戦争の記憶をめぐる問題を進展させようとしてきた。しかし、アルジェリア側の反発もあってうまく進まないことへのいらだちがあったのかもしれない。植民地化の記憶をめぐる問題は、率直さや善意だけでは解決できない。その複雑さを示す出来事である。

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