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今日のアフリカ

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ヘレロの故最高首長の生涯とナミビアの8月

2025/08/31/Sun

 ナミビアの106年にわたる長く残酷な植民地支配の歴史において、8月は重要な月である。特に、8月11日と26日は、コミュニティから国家までさまざまなレベルで植民地支配の歴史をふりかえり、亡くなった人びとを追悼する日になっている。

 25日付の地元紙ニューエラが、ナミビア独立の立役者であるヘレロの故最高首長ホセア・クタコ氏(1870-1970年)の生涯をふりかえりながら、これらの日について特集を組んだため、補足を加えながら紹介しよう。

 ナミビアは、1884年からドイツ、1920年から南アフリカによる植民地支配を受けた。特に、1904年から1908年にかけてドイツ軍が先住民のヘレロとナマの人びとを組織的に絶滅させようとした出来事は、ホロコーストに先立つ20世紀最初のジェノサイドとして知られる。生き残った人びとは、その後、南アフリカのアパルトヘイト政策を受け、1990年にようやく独立を迎えた。

 1904年8月11日は、それまでヘレロとの交渉を続けていたドイツ軍が戦略を変え、積極的な包囲攻撃を開始した日である。この戦いは、ウォーターバーグの戦いとして知られ、約3千から5千人のヘレロが殺害されたとされる。生き残った人びとは近隣の砂漠へ逃れるしかなく、飲料水のある水場で毒殺された。捕らえられた人びとは、ナミビア国内に設立された強制収容所に収容され、強制労働、レイプ、医学実験などにさらされた。当時のヘレロの人口の約8割(約6万5千人)が亡くなったとされる。クタコ氏は、こうしたドイツ軍の猛攻の中で戦い、強制収容所での収監を経験し、生き延びた一人だった。ヘレロは、ジェノサイドがおこなわれた場所を数年に一度の頻度で訪れ、戦いで亡くなった祖先を追悼する。ウォーターバーグ付近もその一つである。

 もう一つの重要な日は8月26日である。この日は、国家レベルでは、南アフリカからの独立を目指して最初の戦いが始まった日として、国民の祝日になっている。コミュニティレベルでは、ドイツのジェノサイドから逃れ、ボツワナに亡命したヘレロの初代最高首長サミュエル・マハレロ氏が、ナミビアの故郷で再埋葬された日でもある。ヘレロの人びとは、この日(の前後)に再埋葬地で毎年墓参りをおこなう。

 クタコ氏は、マハレロ氏が亡命する際に護衛し、再埋葬の指揮および墓参りの開始について宣言したことで知られる。こうしたヘレロ内部の統一に加え、彼はナミビア独立に向けて人びとがアパルトヘイト政策によってカテゴライズされた部族の枠組みをこえて団結して戦うことをうながしたことでも知られる。クタコ氏は、故初代大統領サム・ヌヨマ氏をはじめとする多くの将来の指導者らを指導し、1950年代と1960年代に南アの不当な統治について国連に請願書を提出し、国際的な注目を集め、独立へと導いた。こうした功績から、ニューヨークの国連本部には民族自決と人権への貢献を称えるクタコ氏の胸像が設置され、ナミビア国内では国際空港や首都の大通りが彼の名前にちなんで名づけられている。

 毎年8月はさまざまなレベルで、それぞれの英雄や祖先への追悼を通して、植民地支配の歴史が語られる。誰を記憶し、追悼するかは、その社会におけるポリティクスが垣間見える。(宮本佳和)

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