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今日のアフリカ

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混血児に関するベルギー領コンゴの政策

2023/05/25/Thu

 ベルギー植民地であったコンゴ民主共和国の混血児をめぐる問題については、2019年4月にミッシェル首相(当時)が下院で謝罪するなど、ベルギー国内で批判が高まっている。24日付ルモンド紙は、混血児自身が原告になった裁判を取り上げ、植民地期の驚くべき政策とその背景について報じている。
 コンゴ人を母に、ベルギー人を父に持つノエル・ヴェルベケン(Noëlle Verbeken)が、同じ境遇の4人の女性とともにベルギー国に対して民事訴訟を起こしたのは、2020年であった。5人の女性はいずれも、ミシェル・イルシュ(Michèle Hirsch)弁護士とともに裁判に踏み切った。ノエルは、1945年エリザヴェートヴィル(現ルブンバシ)生まれ。その時、彼女の母親は15歳、父親は58歳で植民地政府の高級官僚だった。
 ノエルなど原告の女性は、生後母親から引き離され、宗教施設などで育った。こうした措置は、1952年のボードワン国王による政令で正当化された。この政策には、混血に対する植民地当局の眼差しが反映されている。
 1913年、戦後に首相を務めることになるジョゼフ・フォリアン(Joseph Pholien)は、混血について、「植民地の将来を危険に晒す」存在だと書いた。「神が白人、黒人を創った。混血を創ったのは悪魔だ」、「混血の誕生を防ぐために、あらゆることをしなければならない」という主張である。白人が支配的位置を占める人種観を持つ人々にとって、混血はその秩序を脅かす存在と映ったのであろう。
 1940年、ピエール・リックマンス(Pierre Ryckmans)植民地総督は、混血児について、教育を受けさせれば混血児は行政や商業部門において「必要不可欠な下級補助員」になるとして、彼らを「土着社会から引き離す」手段の合法化を要求した。リックマンスは、1934~46年にわたって植民地総督を務めたが、1935年には「人種の混交が引き起こす諸問題」に関する会議をベルギー領コンゴで開催している。この会議の目的は、公式には「混血の保護」であったが、会議冒頭の演説では明確に、「混血を抑制し、あらゆる効果的方法によって阻止する」必要が謳われ、「アフリカにおける白人種の将来」はそこにかかっている、とされた。
 それ以降、ベルギー領コンゴでは、混血児の誕生を抑制するための「効果的方法」が模索された。混血児を登録する、2~3歳になるとすぐに警官が親から引き離す、出自を曖昧にするため姓や誕生日を変える、預けられた教会を通じて極力子どもと親の接触をさせない、といった措置がとられた。 
 1952年の政令では、「後見人委員会」が置かれ、15歳以上の混血の娘たちの結婚について調整が行われた。自由に結婚相手を選ぶなど問題外であったと、イルシュ弁護士は述べている。この政策は独立まで継続された。イルシュ弁護士らは、ドイツ人とポーランド人の結婚から出来た子どもたちを誘拐したナチの政策との類似性を指摘している。
 ノエルらの訴えに対して、一審では、当時の状況では罪に当たらないとして、賠償金も認めなかった。原告らは控訴し、その審理を待っている段階である。
 この記事が報じる植民地期の政策は、差別的な人種概念が当時強い影響力を持っていたことを示している。白人種の支配を掘り崩す存在として混血が恐れられ、それが隔離政策に繋がったのである。現在では全く容認できない政策が、人種の「科学性」を根拠として、植民地期にアフリカで行われていたことに、改めて暗澹たる思いがする。
(武内進一)