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およそ7000もの島々から成り立ち、180以上もの異なる言語が共存する、極めて豊かな多様性を秘めた国・フィリピン。今回の「地球ディッシュカバリー」は、日本とも実はお札の繊維や戦前の移住など、物理的・歴史的に非常に深い関わりを持つフィリピンの真の姿に迫ります。
今回は、フィリピンの政治・地域研究の専門家である東京外国語大学大学院の日下渉教授を迎え、お笑いコンビ・ママタルトのお二人と共に、西荻窪のフィリピン料理店「ATE(アテ)」を学びの教室に、知のフルコースをいただきます。
複数の国・地域がごちゃ混ぜに融合した独自の食文化や、助け合って生きる人々のたくましさ、そして困難な歴史を乗り越えた「許し」の精神まで、聴けば世界の見え方が変わる、味わい深いエピソードをたっぷりお届けします。


ゲスト: 日下 渉 教授

2001年に大学を卒業後、フィリピン大学へ留学。現在は東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 教授。専門はフィリピンの政治学、および東南アジアの社会・文化。学部生の時にレイテ島でのボランティアで現地の人々の強さと優しさに魅了されて以来、スラムの家庭に1年間居候して露天商として一緒にフルーツを売るなど徹底的なフィールドワークを実践。スラムの住人、災害の被災者、セクシャルマイノリティなど、主流から周縁化された人々の視点から、民主主義、政治・社会のあり方を研究し続けている。自称「フィリピンの何でも屋さん」。誕生日がフィリピンの独立記念日と同じ6月12日という、不思議なゆかりを持つ。 研究者情報

パーソナリティ: ママタルト 檜原洋平さん、大鶴肥満さん

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\ぜひ耳で味わってみてください!/ 

「ママタルトの地球ディッシュカバリー〜東京外大の先生と一緒〜」

ポッドキャストでは、東京外国語大学大学院の日下渉教授が、フィリピン留学や、スラムの露天商の家に1年間居候して自らフルーツを売った体当たりのフィールドワークから見えた、人情味あふれる現地の圧倒的な魅力を語ります。多言語社会の仕組みから、他国の文化が「ごちゃ混ぜ」に融合した料理の知恵まで、驚きのエピソードが満載。さらに、世界を股にかける出稼ぎ労働者を支える「恩義」の文化、そして凄惨な戦争被害を乗り越えて日本に差し伸べられた驚くべき「許し」の物語まで。「お世話になったことに感謝し、お互いを尊敬し合える対等な関係を作ろう」という先生の温かくも力強いメッセージと共に、聴けばあなたの世界が少し広がる、楽しくてためになるひととき。ぜひポッドキャストでお楽しみください!

7000の島々と180以上の言語、そして複雑な統治の軌跡

──さて、本日の“学びの食卓”は、西荻窪にあるフィリピン料理のお店「ATE(アテ)」さんです。先生は、こちらのお店にはよくいらっしゃるんですか。

はい、そうですね。東京外国語大学から比較的近い距離にありますので、ゼミの学生さんたちを連れてきたり、あるいはフィリピンからお客さんが来られたときなどによく利用しています。学生さんが「ちょっとフィリピンの料理屋さんに行って食べてみたい」というときなどにも、非常にお世話になっております。実はこのお店は、いろいろな芸能人の方もしょっちゅう来られている有名店なんです。テレビでもよく紹介されているみたいですね。

──早速ですが、先生、まずはフィリピンの基本情報から教えていただけますか。

フィリピンは、日本から南に飛行機で4・5時間ほどの場所にあります。台湾のちょうどすぐ下に位置していますので、比較的行き来がしやすい国です。国の大きさは日本の約8割ほどで、人口は1億人ちょっとですので、日本とほとんど同じくらいの規模感ですね。島国ですので島が非常に多く、およそ7000もの島々から成り立っています。大きくまとまりで言うと、首都マニラがある「ルソン島」が北にあります。ルソンといえば、昔の日本史の教科書にも出てくる、豊臣秀吉の時代にフィリピンとの貿易で大金持ちになった大阪の商人、呂宋(ルソン)助左衛門が有名ですね。また、キリシタン大名の高山右近などもフィリピンと深く関わりがあります。他には「セブ」も有名ですし、さらに南部に行くと「ミンダナオ島」があります。ミンダナオ島にある大きな都市ダバオは、戦前に多くの日本人(主に九州や沖縄出身の方々)が移住した場所です。戦争が始まると現地にいられなくなり、大変な目に遭われた歴史があるのですが、今でも現地には多くの日系人の方が暮らしています。当時は現地で「アバカ(マニラ麻)」という、バナナに似た植物の農園などをされていました。このアバカから取れる非常に強力な繊維は、かつて船のロープとして使われていました。そして現在でも、日本のお札に破れにくくするためにこのアバカの繊維が刷り込まれているなど、日本とは昔から物理的にも非常に深い関わりを持っています。

──日本とも物理的に非常に深い関わりがあるのですね。もう一つの大きな特徴として「多様性」が挙げられていましたが、言葉や宗教について詳しく教えていただけますか。

フィリピンには大きな言葉だけで8つ、細かく分けると100から200(180以上)もの異なる言語が存在します。そのため、公用語はマニラ近辺で話されているタガログ語をベースとした「フィリピン語」と、そして「英語」が使われています。日本は明治維新以降、教育によって「標準の日本語」を作り、琉球語や他の地域の方言などの多様な言葉を統一していく近代化を進め、それに成功しました。しかしフィリピンはそうした標準化があまり行われなかったため、結果として未だに多様な文化と言語がそのまま残されています。フィリピンの中は、いわば「小さなヨーロッパ」のような状態です。ヨーロッパにおけるイタリア語やフランス語が、同じラテン語系であってもそれぞれ別の言語であるように、フィリピンの諸言語も文法には共通点がありますが、ボキャブラリーが全く異なります。例えば、私が分かるタガログ語とセブアノ語でも単語自体が違います。セブの人たちはメディアや教育を通じてタガログ語を理解できますが、逆に首都圏のタガログの人たちは地方のセブの言葉を理解できません。それくらい、言語の違いは日本の方言レベルではなく、明確に単語から違う別の言語と言えるものです。近代国家になる過程で統一されて失われてしまった言語や文化もたくさんあるため、多様性が言われる21世紀において、こうした歴史をどう捉えるかは考え方次第ですね。ちなみに宗教については、国民の約9割がキリスト教徒ですが、南部のミンダナオ島などに行くと7割、8割がイスラム教徒の地域もあり、非常に多様な文化的背景を持っています。

日下教授

──フィリピンは、もともとどのような歴史や文化からスタートした国なのでしょうか。

フィリピンという国は、最初から今の形で存在していたわけではありません。もともと統一国家や王朝があったわけではなく、地域ごとに小さなレベルの集落や国があっただけでした。それを後から、スペインが植民地として切り取って1つの国として形作ったのです。歴史をさかのぼると、1521年にスペインの探検家マゼランがやってくる前は、中東やインドへとつながる「イスラム商人」の交易圏に属していました。南部からイスラム化がだんだんと進みつつあったのですが、西からやってきたスペインが、本国でイスラム教徒を追い出した「レコンキスタ(国土回復運動)」の勢いそのままにフィリピンに乗り込んできたため、その影響でイスラム化の流れはストップしました。その後、中国産の生糸とメキシコ産の銀を交換する「ガレオン貿易」の中継地となったことで、太平洋を通じてメキシコやスペインとつながる交易圏に組み込まれました。

ママタルトさん

──複数の国の文化が交錯するユニークな土台があるのですね。そこから近代にかけて、どのような統治を経て独立に至るのでしょうか。

国家の歴史としては、まずスペインが約300年にわたって統治しました。その後、フィリピンがスペインから独立しようとしたタイミングで、今度はアメリカが入ってきてアメリカの統治下に置かれました。アメリカからは「10年後に独立させます」と約束されていた時期があったのですが、ちょうどその時に第二次世界大戦が勃発し、今度は日本軍がやってきて侵略・占領されました。そして日本の占領が終わり、その翌年にあたる1946年に、ようやく正式にアメリカからの独立を果たすことができたという、非常に複雑で困難な歴史をたどっています。

──先生の誕生日は、フィリピンの独立記念日(6月12日)と同じ日とのことですが、狙って生まれたのでしょうか。

フィリピンがアメリカから正式に独立を果たしたのは、第二次世界大戦直後の1946年7月4日のことです。ただ、この7月4日というのはアメリカの独立記念日と同じ日であり、いわば「アメリカから与えられた独立」という側面がありました。その後、1960年代に国内でナショナリズムが高まる中で、独立記念日は現在の「6月12日」へと変更されました。この6月12日というのは、さかのぼること1898年の同日に、エミリオ・アギナルドが初代大統領としてスペインからの独立を宣言した歴史的な日なのです。このアギナルド政権と独立も、その後のアメリカの侵略によってすぐに崩壊してしまうのですが。私の誕生日は、このフィリピンにとって非常に象徴的な独立記念日と同じ「6月12日」ですので、自分でも「フィリピンと不思議な縁(運命)があるのかな」と感じています。

家庭料理「シニガン」「アドボ」から紐解くフィリピンの独自の食文化

──さあ、最初のお料理が届きました。エビの良い香りがしますね! 先生、こちらのお料理は何でしょうか。

はい、これは「シニガン・ナ・ヒーポン」です。「ヒーポン」というのはタガログ語でエビを意味します。シニガンというのは、「タマリンド」という酸っぱい豆を使ってスープにするのが特徴です。タマリンドは見た目が落花生やピーナッツのように硬めの殻に入っていて、フィリピン語(タガログ語)では「サンパロック」と言います。インドなどでもよく使われる、この酸味を使ったスープがシニガンです。具材は何を混ぜてもよく、鶏肉や豚肉などでも作れますが、フィリピンではエビが人気ですね。フィリピンの料理は全体的に酸味を効かせたものが多く、暑い中でも食欲がそそるようになっています。インドネシアやマレーシアの料理はスパイスを多く使いますが、フィリピン料理は辛みがあまりなく、スパイスの代わりに「酸味」が効いているのが特徴です。

シニガン・ナ・ヒーポン
エビの殻むきが得意な檜原さん

──ライスも一緒についていますね。

フィリピンのご飯は、日本のお米と比べると少しパサパサしています。そのため、お米そのものだけで食べるというよりは、色々なおかずをご飯に混ぜて、味をつけながら食べていくのが一般的です。例えば、この後ご紹介する「アドボ」などもそうですが、ご飯なしで食べることは考えられません。おかずだけを出すと、まるでご飯なしでカレーを食べるような感覚になってしまいます。ですので、シニガンのスープもご飯にかけて、お米に味をつけて一緒に食べるのがお決まりです。フィリピンの米の消費量はものすごく多く、日本の何倍にもなります。お米をガンガン消費する一方で、実は糖尿病になってしまう人も多いという側面もあります。最近では日本のお米の人気もありますが、やはりご飯におかずを混ぜて味をつけて食べるのがフィリピン流です。ちなみに、フィリピンでは基本的にお箸は使わず、スプーンとフォークで食べるのが一般的です。また、手を使って食べることもあり、これを「カマヤン」(タガログ語で「手で食べる」という意味)と言います。指を使って口に運ぶと金属の味がせず、とても綺麗に食べられます。

カマヤン。親指にのせるのがコツ。

──フィリピノ語で「いただきます」はなんていうのでしょうか。

実は、フィリピノ語には日本語の「いただきます」にぴったり当てはまる言葉はありません。その代わりに、食事を始めるときには「みんなで食べましょう」という意味の「カイン・ナ・タヨ」という言葉を一番よく使います。タガログ語の特徴として、「私たち」を意味する言葉が2つあります。この「タヨ」は、話を聞いている相手(聞き手)も含めた「私たち(みんな)」を指します。もう一つ「カミ」という言葉もありますが、こちらは聞き手を含まない「私たちだけ」を指す、少し排他的な言葉になります。ですので、みんなで一緒に食事をするときは、相手を巻き込んで「カイン・ナ・タヨ」と言います。

カマヤンを試す大鶴さん

──それでは早速・・・「カイン・ナ・ターヨ!」・・・(食べて)・・・うん!おいしい! 先生、フィリピノ語で「おいしい」は、何と言うんでしょうか。

タガログ語だと「マサラップ」と言います。ただ、フィリピンには180以上の多様な言語がありますので、地域によって言葉が違います。例えば、セブの方に行くと「ラミ」、北部の方に行くとイロカノ語で「ナインマス」と言い、美味しいを意味する言葉もそれぞれ異なります。

──「マサラップ!」・・・続いてのお料理はなんでしょうか。

こちらは「アドボ」です。フィリピンに元からあった土着の料理ですが、名前の由来はスペイン語で「マリネ」を意味する言葉から来ています。スペイン人がフィリピンにやってきた際、この料理を見て「これはマリネだ」ということでアドボと呼ばれるようになりました。お酢と醤油、それにニンニクなどを使って煮込んだ、豚肉の「酢醤油煮込み」です。豚肉のように脂身が多いお肉を使う際にお酢を使い、脂をさっぱりとさせるのが特徴です。フィリピンの国民的な家庭料理として親しまれています。

アドボ

──(アドボを食べて)・・・「マサラップ!」。先生、フィリピン料理の特徴は?

先ほども少し触れましたが、大きな特徴の一つは「スパイスの代わりに酢(酸味)を使うこと」です。これは、1521年にスペインの探検家マゼランがやってくる以前から、もともとフィリピンの土着の文化として存在していたと考えられます。暑い地域において料理を保存するため、また暑さの中でも食欲を増進させるために酢が使われてきました。もう一つの特徴は、さまざまな国の文化が「ごちゃ混ぜ」になっている点です。フィリピンは古くから貿易の要所であり、日本だけでなく、中国など多くの商人たちがやってきて交易を行う場所でした。そのため、さまざまな文化がこの地でつながっていきました。さらに歴史をたどると、中東やインドとつながるイスラム商人の交易圏に属していた時期や、スペインの支配下に入ってからは貿易の中継地として太平洋を通じてメキシコやスペインと結びついた時期があります。こうしてスペイン料理、メキシコ料理、中国料理などの影響を次々と受け、それらがフィリピン料理に変わっていきました。アドボや、魚を揚げて甘酢あんをかけた「エスカベッチ」など、スペイン語の名前がついた料理が非常に多いのもその名残です。もともとフィリピンにあったもの、中国から来たもの、スペインから来たものがすべて融合して、一つの「フィリピン料理」として成立しています。そのため、一言で「これがフィリピン料理のアイデンティティだ」と定義するのが難しいほど、多様な影響がごちゃ混ぜになっているのが特徴です。

──フィリピンの中でも味付けは結構変わるんですか?

はい、地域によって味付けは大きく変わります。歴史的に、南部のミンダナオ島などでは、かつて中東やインドからイスラム商人がやってきてイスラム化が進んでいました。そのため、ココナッツミルクやウコン(ターメリック)などを使った、マレーシア料理やインドネシア料理に近いスパイスの効いた辛い料理の文化があります。しかし、西からやってきたスペインが、先ほどお話ししたように本国でのイスラム教徒排除の動きの流れのままにフィリピンを統治し、南部からのイスラム化の影響をストップさせました。その結果、スペインの影響が強かった中北部では、辛いスパイスの文化があまり浸透しませんでした。このように、南部に行くと辛いスパイスの効いた料理が多いのに対し、中北部では酢や醤油、塩を使ったシンプルな味付けが中心となります。そもそも「フィリピン」という国は、最初から一つのまとまった国家として存在していたわけではなく、スペインの植民地支配によって地域が切り取られる形で一つの領域とされた歴史があります。それ以前に統一国家や王朝は存在せず、地域ごとにバラバラでした。そのため、地域による食文化や味付けの違いも非常に大きいのです。

スラムと歴史から学んだフィリピンの強さ

──先生が、フィリピンに興味を持たれたきっかけを教えてください。

大学生の時に、アジアのさまざまな国に行ってみたいと思い、たまたまフィリピンで行われていたボランティア活動(ワークキャンプと呼ばれるもの)に参加したのが最初のきっかけです。それはレイテ島という、戦争の歴史でも有名な地域の農村だったのですが、そこで水道を作る活動を行いました。現地の村に3週間から1ヶ月ほど住み込み、ホームステイをしながら、泥と汗とセメントにまみれて、村のために村の人たちと一緒に働きました。この経験は本当に楽しく、そして何よりフィリピンの人たちがとても優しかったのです。

2005年、レイテ島のメリダ町マテ村で、3キロ先の山の水源から水を引いて水道システムを建設するワークキャンプの様子。村中の男たちと一緒に作業をした。(提供:日下渉)
建設した貯水タンク。ここから、135世帯に水がいきわたるようにした。村人と何度も話あって協働作業で実現した。(提供:日下渉)

また、私の世代はちょうど「超就職氷河期」にあたります。私は2001年に大学を卒業したのですが、当時は真面目ですごく優秀な先輩や同級生が、みんな就職活動で非常に苦労していました。その様子を目の当たりにしているうちに、私自身は真面目に就職活動をする気がすっかりなくなってしまったのです。その時に、あの楽しかったフィリピンでの経験を思い出しました。「あの人たちは、経済的にはすごく貧しいけれど、ものすごく強い。そして優しくて、たくましい」と。真面目に就職活動を頑張りすぎてメンタルを壊して鬱になってしまったり、ブラック企業で働いて体を壊したりしてしまうくらいなら、フィリピンに行った方がずっと楽しいのではないか、と考えました。何より、彼らのあの「強さと優しさの秘訣」を教えてもらいたい、と思ったのです。そうして、就職活動をやめてフィリピンへ留学することに決めました。私にとってフィリピンは、まさに人生の岐路である就職活動のタイミングで自分を救ってくれた存在であり、足を向けて寝られないほど、人生の大きな指針をいただいたと感じています。

ギターを弾いているのは、私が大好きだったセルベリオさん。小学校しか出ていない零細農民だったけど、いろいろ教えてくれた。お父さんは抗日ゲリラのメンバーだったという。ミンダナオに出稼ぎして、日本に木材を輸出する船の荷役人夫として働いたこともある。(提供:日下渉)

──大学生の頃にフィリピンにいた時期は、何が一番「フィリピンに長くいたい」と思わせたのでしょうか。

一言で言えば、フィリピンに行くと日本でのあらゆるルールや縛りから「解放される」感覚があったからです。日本にいると、「ルールに従わなければいけない」「こういう生き方をしなければいけない」といった、しなくちゃいけないことが非常にたくさんありますよね。そして、そこから一度でも外れてしまうと、まるで人生から脱線してしまうかのようなプレッシャーがあります。それに対してフィリピンは、良くも悪くも「何でもあり」な社会です。それが本当に自由で、混沌としていて、自分の肌にすごく合いました。「こんな社会もあるんだ」ということを身をもって知り、その自由さに強く魅了されて、長く現地にいたいと思うようになりました。

──これまで、フィリピンにどのくらい滞在してきたのですか。

これまでの滞在期間は、延べで3、4年ほどになります。一番最初にフィリピンへ行ったのは1997年のことです。その後、2001年から2002年にかけての約1年間、本格的に現地に滞在しました。本当はもっと早くから、そしてもっと長く現地にいたかったのですが、当時は日本の指導教官から「早く日本に帰ってきて、論文を書きなさい」と言われてしまいまして。フィリピンでの生活が楽しすぎてずっといたかったのですが、泣く泣く日本に帰国して論文を書いたりしていました。それでもやはりフィリピンに行きたいという気持ちは消えず、その後もなんとか長期滞在の機会を作らせてもらって、現地に通い続けています。

──フィリピン滞在時は、どんな生活をされていたのでしょうか。

滞在中の生活の原点は、先ほどもお話しした大学生の時のレイテ島の農村でのホームステイ生活です。3週間から1ヶ月ほど現地のご家庭に住み込み、村人と一緒に泥と汗とセメントにまみれて水道を作るという、非常に泥臭くも温かい生活を送っていました。その後、本格的に現地へ入った際には、私はもともと、フィリピンの貧しい人たちの視点から、現地の政治や社会がどのように見えているのかを実際に知りたいという強い気持ちがありましたので、道端でフルーツを売っていた露天商の家族と仲良くなり、その家族とスラムの家に1年間ほど住まわせてもらうことになりました。その家に居候させてもらいながら、私も道端で彼らと一緒にフルーツを売ったりする生活を送っていたのです。そうしたスラムや農村での生活を通じて身をもって知ったのは、フィリピンのコミュニティは人間関係が非常に濃密だということです。お酒を飲む時も決して1人で飲むようなことはありません。タガログ語で乾杯のことを「タガイ」と言うのですが、この言葉はもともと「分かち合う」という意味を持っています。お酒だけでなく、タバコを吸う時も1人で吸うことはあり得ず、タバコがあればその場にいるみんなで分かち合います。楽しいことも、抱えている困りごとも、何でもみんなで分かち合って助け合うという、濃密な共同生活を送っていました。もちろん、それは決して綺麗なことばかりではありません。日常的に「あいつは貸したお金を返さない」などと、お互いに誰かの悪口を四六時中言い合っています。ですが、実際に誰かが本当に困った状況になると、どれだけ普段悪口を言っていようとも、最後には必ず助けるのです。そうした、白黒はっきりしない「グレーゾーン」の人間関係の中で、お互いに生きていくスペースを作り合いながら暮らすという、日本では経験できないような、人情味あふれるエネルギッシュな日々を過ごしていました。

露天商の家族とともに、道端でフルーツを売っていた。(提供:日下渉)
2002年のクリスマスに、街頭でフルーツを売って稼いだお金をホストファミリーと一緒に数えて喜んでいるところ。(提供:日下渉)

──スラムはどんな場所なんでしょうか。

スラムというのは、まさに「助け合い、分かち合うこと」が社会の共通の規範として徹底されている場所です。先ほどお話ししたように、楽しみも、困った問題も、すべてを分け合うという濃い共同体的な空気が流れています。なぜこのような強い共同体的な助け合いが生じるのかというと、人々が国家や法制度、企業を頼ることができないからです。頼れる制度が整備されていないからこそ、信じられるのは家族や周囲の人間関係しかありません。制度に頼れないという現実は悲しいことですが、だからこそ人々は「助け合わざるを得ない」のです。そのため、人は他者に対して非常に優しくなります。さらに、スラムの人たちはチャンスを求めて非常にダイナミックに移動します。田舎から都会へ、そして都会から海外へと、自らのネットワークを広げながら新しいコミュニティを作り上げていく。不法占拠のように法律を守っていないという側面もあり、杓子定規な日本のルールとは異なりますが、自分たちの力で生きていくスペースや社会の仕組みをクリエイティブに作り出している、そんなオープンで温かく、そして非常にクリエイティブな場所なのです。

(提供:日下渉)
(提供:日下渉)

──日本では気分転換に引っ越すというようなことがありますが、フィリピンは引っ越しっていう概念があるのでしょうか。

はい、フィリピンにも引っ越しという概念はあります。タガログ語(フィリピン語)では「リパットバハイ」と言います。ただし、日本のような単なる「気分転換」といった軽いものではありません。フィリピンにおける引っ越しは、自らの人生を切り開くための「幸運探し」であり、大きな「挑戦」を意味しています。フィリピンの人々は、ある種の「運命決定論」的な世界観を持っています。神様が人間には理解できない運命を、あらかじめ手のひらに作ってくれている、という考え方です。しかし、その与えられた運命に対して自ら困難に耐えて働きかけることで、神様が自分のために用意してくれた人生(運命)を変えることができるかもしれない、と信じられています。あえて過酷な環境に飛び込み、苦しみや困難、試練に耐えて必死に頑張ることで、神様に祝福され、自分の人生を変えていく。常に神様と対話しながらより良い人生を目指していく、その具体的な挑戦の1つが「引っ越し」なのです。だからこそ、誰も親戚や知り合いのいない都会へ出てきたり、はるか海外へと身一つで飛び出していったりします。この、困難の多い中で「報われるかもしれない」と信じて自らの手のひら(運命)に働きかけていく挑戦のことを、フィリピンでは「サパラララン(sapalaran)(手のひらに働きかける)」と言います。挑戦した結果、都会や海外でうまくいかなければ、また田舎に戻る、ということも本当によくあることです。手相そのものを気にするというよりは、朝起きたら神様に「今日もありがとうございます」と感謝し、自らの運命を神様と共に見つめています。運命に働きかける時には、右手で左手を指すようなジェスチャーをよく行うのも彼らの特徴です。日本のように「先祖代々の土地を何としても守っていく」という定住の考え方とは異なり、フィリピン、ひいては東南アジアは、もともと人口密度が低く、何より暖かくて自然の豊かな土地です。移動した先で木を売ったり、海に潜ったり、土地を切り開いて作物を売ったりすれば、どこでも何とか生きていけるという、非常に楽観的な感覚がベースにあります。1つの土地に執着し続ける必要はなく、違う場所に行ってチャレンジするという、移動を恐れない楽観的な移動社会なのです。

──日本が占領していた過去がありますが、反日感情はあまりないのでしょうか。

実は、歴史的に見ればフィリピンは日本によるものすごい戦争被害国なのです。日本軍が占領していた3年8ヶ月の間、当時のフィリピンの人口約1600万人のうち、なんと110万人もの人々が亡くなりました。単純に計算すると、およそ15人に1人が亡くなったことになります。実質的に、フィリピンのほぼすべての家族が、誰かしら身内を失っているという、極めて凄惨な状況でした。直接殺害されたケースだけでなく、日本軍が現地で食料を調達したことによる大変な飢餓や、それに伴う病気によって多くの方が亡くなりました。そのため、当時は日本に対してものすごい恨みがありました。日本軍に占領されていた時代のフィリピンを描いた有名な映画には、『神のいない三年間』(原題:Tatlong Taong Walang Diyos、1976年制作)というタイトルがつけられているほどです。さらに戦争の最終局面のマニラ戦では、日本軍がマニラに立てこもり、それに対してアメリカ軍が無差別な艦砲射撃を行ったため、沖縄戦のように多くの人々が巻き込まれ、マニラだけで約10万人もの市民が亡くなりました。このように、本来であれば日本の私たちがもっとよく知っていなければおかしい、非常に大きな被害の歴史があるのですが、現在のフィリピンからは、他の東アジアの国々のように声高に日本の戦争責任を追及されることはほとんどありません。その大きな理由は、フィリピンの人々が甚大な被害を受けながらも、「それでも日本との関係を改善していかなければならない」「私たちは常に隣人なのだから」という、関係改善の強い機運を国家の指導者も社会全体も持っていたからです。私たちは、彼らのその姿勢にものすごく助けられてきました。例えば、戦後のエルピディオ・キリノ大統領という指導者がいます。彼は、ご自身の奥さんと3人のお子さんを日本軍に殺されているのです。しかし、彼はフィリピンに拘留されていた約100人の日本人戦争犯罪容疑者に対して、恩赦を与えて日本へ帰すという大きな決断をしました。その決断を下した際の講演で、彼は「日本とフィリピンはやはり隣人である。私は、将来のフィリピンの子どもたちに、日本に対する恨みを残したくない。だからこそ、これを行うのだ」と語りました。また1970年代になると、日本の遺族会の方々(フィリピンで家族を失った日本人遺族)が、現地に行って慰霊をしたい、遺骨を収集したいと現地に数多く渡るようになりました。当時、日本政府は「反日感情が強いから危険だ」と渡航をストップさせようとしましたが、遺族会はそれを振り切って現地に向かったのです。いざ遺族会の人たちが現地に到着すると、フィリピンの人々は彼らを憎悪で迎えるのではなく、むしろ歓迎し、その慰霊の旅を親身になって助けてくれました。「最愛の家族を失った悲しみは、私たちにも痛いほどよくわかる」と、同じ遺族としての悲しみに深く共感し、協力してくれたのです。ここで多くの温かい交流が生まれました。フィリピンには、こうした計り知れない「許し」の歴史があります。彼らが示してくれたこの「許し」の精神にただ甘えるのではなく、私たちはその歴史に感謝し、反省し続けながら、お互いを尊敬し合える対等な隣人関係を築いていかなければならないと思っています。

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学びを広げるリンク集

訪れたお店の紹介

フィリピン料理レストラン

「ATE(アテ)」(東京・西荻窪)

https://www.facebook.com/yumitake1015

フィリピン──強権を求めた「新生」への希望

既得権益層に対する不満や怒りは、「悪しき他者」の打破、「善き市民」の利益を夢見た。新生への希望は、「民主的な強権」や「独裁ノスタルジア」へと結実し、時に暴力や失望を生みだす。それでも変化を恐れないフィリピンの人々の果てなき情熱はどこへ向かうのか。小さな一地域の挑戦が照らし出す民主主義の過酷なドラマ。

『フィリピン──強権を求めた「新生」への希望』日下 渉 著

【版・頁】 新書・254頁
【ISBN】 9784004321088
【出版年月】2026年4月17日発売
【出版社】岩波書店
【本体価格】1056円(税込)

フィリピンを知るための64章

フィリピンにとって2016年は、独立70周年にあたり、また日本との国交樹立60周年に当たる記念すべき年である。本書は21世紀に入り、フィリピンを理解できるだけでなく、複眼的な視座から新世紀にふさわしい「新しいフィリピン像」を紹介する。

『フィリピンを知るための64章』大野 拓司、鈴木 伸隆、日下 渉 編著

【版・頁】 4-6・408ページ
【ISBN】 9784750344560
【出版社】 明石書店
【出版年月】2016年12月31日発売
【本体価格】2,000円+税

反市民の政治学――フィリピンの民主主義と道徳

東京外国語大学で専攻できるアラビア語、イタリア語、ウズベク語ほか28の言語の解説を中心に、「翻訳しにくいことば」「一番発音の難しい言語」など21のコラムで構成。専門の先生方の解説で、多様なことばの面白さに出会えます。多様な外国語をもっと知りたい方へおすすめの1冊!

『反市民の政治学――フィリピンの民主主義と道徳』日下 渉 著

【出版年月日】 2013年4月1日
【ISBN】 978-4-588-60330-3 C3331
【出版社】法政大学出版会
【判型・ページ数】 四六判/上製/442ページ
【定価】 4,620(税込)

TUFS Cinema 「交差する日比映画特集:日本とフィリピンの周縁から──裏影3部作(The Depth of Blue)」

東京外国語大学の「TUFS Cinema」は、映画を通して世界の社会・歴史・文化への理解を深める企画です。今回の特集では、日本とフィリピンが交差する周縁に光をあて、JFC(日本とフィリピンの両親を持つ子どもたち)や日本の孤独死など、私たちが普段見落としがちなテーマを掘り下げる短編3作品(合計73分)が上映されます。

◆上映作品(全3作品)
・『水の中で育てられた子どもたち』(17分/フィクション)
・『日本とフィリピンを生きるストーリー ケン編』(26分/ドキュメンタリー)
・『沈黙との出会い』(30分/ドキュメンタリー)

◆上映後解説・トーク
上映後には、長谷川大地監督、曽我満寿美プロデューサーをお迎えし、日下渉教授(東京外国語大学大学院)の司会による解説・トークセッションが行われます。

◆ 開催概要
日時: 2026年11月28日(土)14:00上映開始(13:40開場、16:10終了予定)
会場: 東京外国語大学
参加費無料、Webによる事前登録者優先

  • 詳細はこちら(準備中)

世界を食べよう!―東京外国語大学の世界料理―

食を通じて文化を知る――そんな体験をもっと広げたい方には、東京外国語大学出版会の『世界を食べよう!―東京外国語大学の世界料理―』がぴったりです。料理から見える世界の多様性を、ぜひ味わってみてください。

世界を食べよう!―東京外国語大学の世界料理― 沼野恭子【編】

ジャンル:食文化・料理・地域研究
版・貢:A5判・並製・224頁 
ISBN:978-4-904575-49-9 C0095
出版年月:2015年10月30日発売
本体価格:1800円(税抜)

https://wp.tufs.ac.jp/tufspress/books/book39/

本記事に関するお問い合わせ先

東京外国語大学 広報・社会連携課

koho[at]tufs.ac.jp([at]を@に変えて送信ください)

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