「外国につながる子どもたちの不就学ゼロをめざして」小島祥美准教授インタビュー
研究室を訪ねてみよう!
外国につながる子どもたちの不就学をゼロにすることは、私の使命。そう語るのは、昨年9月から着任された、本学の多言語多文化共生センター長を務める小島 祥美(こじま よしみ)准教授です。教育社会学がご専門の小島先生は、これまで日本各地で、外国につながる子どもたちへの就学支援に取り組んで来られました。
今回はそんな小島先生の研究室にお邪魔し、目から鱗の「みんなが輝いて生きる」ための人生論をうかがいます。
——こんにちは。本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします!
——まず、小島先生の現在の研究分野と、関心を持ったきっかけを教えてください。
専門は教育社会学です。外国につながる子どもたちの不就学をなくすための研究活動をおこなっています。
短大を卒業したあと、20歳(1994年)の時に着任した小学校で初めて、ベトナムやフィリピン、ブラジルなどにつながる、毎日の学校生活で困り感を抱えていた児童たちに出会いました。当時は電子辞書などの便利な機器がなかったので、こうした児童とやり取りをするには紙の辞書を使うしかなかったんですが、これには限界があって。「お弁当を持ってきてね」と伝えたつもりが、翌日空の弁当箱を持ってきてしまった、なんてこともありました。
そのようなことがあってから、放課後に児童らの家庭を訪問して、直接伝えるようにしました。宿題や持ち物の確認をしたりね。訪問を重ねるうちに、子どもたちは自分たちの意思で来日したわけでなかったこと、日本で暮らすうえで困難なこと、など、学校での日常では知ることのできない家族が抱える問題を初めて知りました。
たとえば、ベトナムにつながる児童たちは、ボートピープルとして来日した難民の子でした。テレビのニュースで見聞きしてはいたけれど、難民の子どもが、今私の目の前にいる。それは、衝撃でした。当時日本では、ベトちゃん・ドクちゃんのことをメディアは報道していて、こうした報道や高校での学習でしか、ベトナム戦争のことを知りませんでした。「ベトちゃん・ドクちゃんを知っている?」と聞いたところ、ベトナムにつながる児童の一人に「そんな人はたくさんいた」と、覚えたばかりの日本語で返されて。
私と児童らとでは、見えている景色が違う。本当にショックでしたね。
家庭訪問を通して湧いた、一体私は彼(女)らに何ができるのだろうという思い。あの時の出会いと何もできなかったもどかしさが、今の活動の原点です。
——その後、先生は教員を退職されて、大学に再入学なさったんですよね。
そうなんです。教員時代に外国につながる児童たちと出会ったことで、まず言語を学ばなければならないなと思いました。言語や文化のことがもっと理解できれば、この子たちにもっと寄り添えるかなと思ったんです。仕事の傍らで受験勉強をして、大阪外国語大学(当時)のスペイン語専攻に入学しました。
再度の受験勉強を始めた当時、阪神淡路大震災が起こりました。関西に出向いたら何かできることがあるのではないかと考えて、大学を選択しました。
大学に通いながら、1997年から神戸で外国人被災者にかかわるボランティアに参加しました。その中で気づいたキーワードが「多言語」。いろいろな言語で情報発信することの重要性を学びました。直接対話できることで寄り添える度合いが違いますし、できることの幅も広がります。やさしい日本語という考え方は、すでにこの時から神戸にはありました。
——海外に旅へ出たときに印象深かった思い出はありますか。
在学中、ペルー、ボリビア、ブラジルなどの南米を中心に計半年くらい、一人旅しました。当時の日本は、世界で一番ODAに出資していました。それも、特に重要視していたのは教育面。当時は「万人のための教育(EFA: Education for All)」をスローガンに、すべての人に基礎教育を提供することが、世界共通の目標でした。それなのに、日本国内に暮らす外国籍者をいまだ日本の政府は義務教育の対象外と扱う、その矛盾。国際協力という観点から日本国内を見たらどうなるのだろう。そう思い、大学院への進学を考えました。
それは、神戸でボランティア活動していた時に、学校に通っていない不就学の子どもたちと出会ったことが大きく関係します。外国籍の親に⼦どもを就学させる義務がないことで、不就学の⼦どもが実在するという現実を、この目で見たからです。国も自治体も、外国籍の子どもの就学実態をまったく把握していませんでした。つまり、私が神戸で出会った学校に通っていない子どもたちは、社会から「見えない」子どもたちであったのです。解決のために、こうした子どもたちの存在を可視化したい!その後、JICAインターン(約4か月)に参加した、日本の反対側・ボリビアの地で、思い立ちました。
——コロナ禍で、外国につながる子どもたちへの支援で見えてきた課題はありますか。
平時での課題が、可視化されたことですね。2019年になって、国は初めて外国籍の子どもの就学実態を把握しました。これによって、約12万人暮らす外国籍の子どものうち、約2万人が学校に通っていないことがわかりました。つまり、2万人の子どもたちの「命」が、このコロナ禍の中でどこにあるかわからないわけです。日本国内にあるブラジル学校やインターナショナルスクールなど、いわゆる外国(人)学校の中でクラスターが発生した場合、誰がどこに通っているか、行政が瞬時に把握できるような体制になっていないことも、明らかになりました。なぜならば、そこを「学校」と見なしていないからです。いまだ、学校健診さえも公費対象外という扱いです。
すべての子どもの命と健康をどう守っていくのか。ポストコロナを見据えた、日本に暮らすすべての人たちの健康を守ることを考えていく中で、外国籍の子どもの就学を正確に把握することが、急務です。感染症は、国籍を選びませんからね。
——外国につながる子どもたちが抱える課題について、一般の人の認知度を上げたり、支援の輪を広げたりするためにはどのようなことができるでしょうか。
問題意識を共有するために、共通言語を持つことが重要だと思います。それは、途上国の第一線で活躍する現地の人たちから学んだことです。大学院生の時、グアテマラやボリビアなど中南米諸国出身のJICA長期研修生(3年間)たちの、リサーチアシスタントを担当しました。彼(女)らとの出会いから、実際に日本がODAで支援する現場を見る機会にも恵まれました。そこで教えてもらったことが、「『困っている』『大変だ!』だけでは、立場も文化も言語も異なる違う人たちには伝わらない」ということ。
そこで私は、岐阜県可児(かに)市という、当時総人口約10万人のうち、外国籍住民数が約4千人という街へ引っ越し、実態調査に挑みました(2003年度~2004年度の2年間)。不就学の子どもの実態を可視化するためです。行政とNPOと協働し、可児市に暮らす学齢期のすべての外国籍の子どもの家庭を訪問し、不就学の子どもの実態を社会に数字で明らかにしました。そして、なぜ学校に通っていないのか?その実態を、子どもと保護者の声を社会に伝えました。その結果、可児市では2005年度から不就学ゼロをめざした取り組みが始まりました。私は初代外国人児童生徒コーディネーターに抜擢され、可児市教育委員会に勤務しました。今では外国につながる子どもの教育の先進地として、可児市は全国で知られる街です。
阪神淡路大震災後の神戸で、ボランティア活動に参加していた当時のことです。そこでは多種多様な経験をもつボランティアが活躍していましたが、なかでも語学力の高いボランティアが必要とされていました。なぜならば、外国人住民と直接対話しながら問題解決のためのニーズを把握し、必要な具体的支援を実行するキーパーソンとなれたからです。外国人住民の母語で対話できるというのは、直接その人の心に寄り添うことに繋がります。
現状を正しく把握し、相手に伝わる言語で、相手の立場を想像して伝えること。そこに、自分の思いや情熱をしっかりのせること。それを少しずつ実行してきたことで、今では全国に同じ志を持つ仲間ができました。
——来たる7月10日には、シンポジウム「外国につながる子どもたちは今 ~1990年の入管法改正から30年を経て」が開催されますね。
はい!オンラインで開催されます。(イベント情報はこちら)
シンポジウムは3部構成で実施します。第1部は私の講演、第2部は外国につながる学生によるトークセッション、第3部は専門家を交えてパネルディスカッションを行います。
個人的には、特に第2部をとても楽しみにしています。東京外大の在学生あるいは本学卒業後に他大学の大学院に進学した学生で、外国につながる3人の現役学生が登壇してくれます。
東京外大に着任して、こうした外国につながる学生さんたちと多数出会えたことは、私にとって大きな喜びです。そのため、早々に実現できて、すごく嬉しいです。学生さんたちには、それぞれに自分史があり、乗り越えてきたことがあって…。想像するだけで涙が出そう!東京外大にはたくさんいる外国につながる学生の中で、今回は3人の学生さんのみのご紹介となってしまって、とても残念ですが。私の話なんてもっと短くしてもいいくらいです(笑)。
参加申込は必要ですが、一般公開で行われます。シンポジウムを通じて、参加してくださる皆さまと、多言語多文化化する日本社会において、外国につながる子どもが教育のうえで抱える問題の解決方法を探っていければと思います。
——最後に、学生へのメッセージをお願いします。
大学の中で、おもいっきり「探求」してほしいです。生き方に正解はなく、一人一人が個性豊かな存在であるからこそ、たくさんの生き方があってよいからです。大学は、希望に満ちた、自由に探究できる場所と、私は思っています。
だからこそ、若い皆さんにはぜひ、自分の発想力や、ピン!と感じた直感を大事にしてほしいです。他人の目を過度に気にしたり、自分にはできないと思う必要など、まったくありません。コレだ!と思ったら、まずは行動してみましょう。読書も、いいでしょう。ボランティア活動に参加することでも、これまで興味がなかった分野の授業を履修することでもいいでしょう。そして、そこで「出会った」人たちの声をしっかり聴きましょう。じっくり聴いてみると、これまで想像もしなかったような声が聞こえ、世界が見えてきます。それは、新たな自身の可能性の発見にもなります。体得したことを大切にすると、自分は何をすべきか、進むべき道が自ずと見えてくると、私は自分の経験から思います。
高校生の時、今の自分の姿なんて、私はまったく想像していませんでした。それは、たぶん、高校時代の同級生たちも、私の両親も同じかと思います(笑)。
——本日はありがとうございました。
インタビュー後記
初めての研究室訪問はとても緊張しましたが、小島先生の温かく爽やかなお人柄のおかげでとても素敵な経験になりました。
いつ、どこで自分の「使命」と出会えるかわからない。それは不安なことだけれど、「果たせるかもしれない使命」の可能性は、思っている以上に私たちの前に広がっているんだ!と気づかされました。
また、「私にも、誰かのためにできることがあるかもしれない」と思えたことで、取材を終えた帰り道はどこか足どりが軽かったです。今も、これから先も、自分に気づきを与えてくれるさまざまな出会いにアンテナを張り、感謝したいと思います。
小島先生をはじめ、サポートしてくださった広報担当の皆さま、ありがとうございました。
(取材担当:学生取材班 m)