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「自分の生きたい生き方を〜研究と音楽と〜」フィリップ・シートン教授インタビュー

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日本学、特に日本近現代史、メディア・文化学、観光学を専門とする東京外国語大学大学院国際日本学研究院のフィリップ・シートン教授。2018年4月に本学に着任し、2019年4月に国際日本学部が新設されてからは、副学部長として、国際的な視野から日本を総合的に学び世界に発信することのできる人材の育成に尽力しています。

今回のTUFS Todayでは、シートン教授をインタビューしました。

インタビュー・取材担当:国際日本学部3年 川波(かわなみ)さやかさん(広報マネジメント・オフィス学生取材班)

——本日はよろしくお願いします。まず、幼少期と学生時代について伺いたいと思います。ご出身はイギリスのロンドンだと伺いましたが、どのように過ごしていましたか?

私はイギリスのロンドン出身ですが、実は5歳から11歳までバングラデシュに住んでいました。7歳からイギリスの寄宿学校に通っていて、寮生活をしていました。幼い頃から独立していて、海外での生活にも慣れていました。

ロンドンの郊外にある実家はこの静かな道にある。

——バングラデシュに住んでいたとは驚きました。ことばの面など、難しいことはありませんでしたか?

バングラデシュはイギリスの元植民地だったので、英語を話せる人が多いんです。白人や西洋人が大きな屋敷に住んで、バングラデシュ人のお手伝いさんやコックさんが家族の一員として一緒に住んでいました。うちにいたコックさんの名前をまだ覚えています。トゥヌさんという人でした。植民地時代は終わったのにまだこの関係を続けていていいのだろうかと思う反面、バングラデシュ人にとってはお手伝いやコックはいい仕事でしたから、複雑でした。
難しいこともありました。学期が始まると、兄とふたり飛行機でバングラデシュからロンドンへ戻りました。大変寂しかったです。が、週末にはイギリスの祖父母宅に遊びに行きました。冬と春休みにはバングラデシュに帰ったりしました。夏休みに両親がイギリスに来てくれることもありました。そういう事情で、幼い頃から親と離れて過ごすのには慣れていましたね。
寄宿学校は英国の上流階級だらけのように思われがちですが、実はいろんな学生がいました(私の寮に日本人学生もいました)。が、先輩後輩関係がはっきりしていて、いじめもありました。いろいろ経験しながら、強くなりました。

——現在先生は日本で日本のメディア・文化学や観光学を研究されていますが、日本に興味を持ったのはいつごろでしたか?

きっかけは大学生時代ですね。大学に入る前のギャップイヤーで、最初の3、4ヶ月間は地元の病院のカルテ整理やスーパーマーケットのアルバイトをしてお金を稼いで、その後6ヶ月間はボランティア兼旅行でアフリカのジンバブエと南アフリカで過ごしました。はじめて興味を持ったのは実はアフリカだったんです。しかし実際に行ってみて、アフリカにはキャリアパスが少ないと感じました。
ケンブリッジ大学に入学して経済学を専攻しましたが、大の苦手でした。経済学の授業では数学的な話ばかりされるんですが、人間とはもっと複雑なものだと考えていた私の肌には合わず、転学部を決意しました。大学1年目に受けていた開発経済学という科目の指導教員が日本の専門家で、近代日本の経済発展を扱っていたのですが、その科目の試験でスコアは良かったので、歴史学部に転学部することにしました。はじめは日本史を勉強して、その後アフリカや大英帝国の歴史、第一次・第二次世界大戦の間の経済政策についても学びました。毎週4000語の論文を書いて、期末には3時間に及ぶ試験を受けました。
学業と同時に就活もしました。いろいろな企業に申請しましたが、正直あまり働きたくありませんでした。かといって大学院にも行きたくなくて、特に1年生の時に大学を辞めたいと思ったこともありました。大学教員が研究していることってなんだか複雑ですし、どうでもいいなあと思うことばかりでしたから(笑)。「ここで働きたい」と思う会社も特になくて、それが面接でばれてしまったのか、うまくいきませんでした。

大学生時代を過ごしたケンブリッジ大学(Gonville & Caius College)

——何がきっかけで大学教員になったのですか?

就活はしたけれどうまくいかなくて、「そうだ、旅行したいな」と思いました。日本にまだ行ったことがなかったので、JETプログラム(The Japan Exchange and Teaching Programme、語学指導等を行う外国青年招致事業)に応募したら通ったんです。卒業後、JETプログラム教師としてはじめて来日して、兵庫県姫路市から電車で45分くらい離れた小さな町で働きました。そこでの生活は私にとって大学生活の延長のようなものでした。JETプログラム教師として2年間働いて、お金を貯めてイギリスに帰り修士課程に進みました。外交官になりたいと思い、大学院ではイギリスと日本の外交政策の比較研究をしました。しかし、研究すればするほど自分に外交官は無理だと感じるようになりました。外交官は自国政府の政策について弁明しなければなりませんが、それは私にはできないと感じました。それなら修士課程を終えたらもう一度英語を教える仕事をしようかなと思い、サセックス大学と教員交換制度のあった長岡技術科学大学で外国人教師として3年間働きました。このときに最初の学術論文を発表しました(宣伝における和製英語の利用について)。漢字の勉強も一所懸命やり、歴史認識論争、戦争史の研究もはじめました。
これがきっかけで、大学教員を目指すことにしました。イギリスに帰国してDPhil(博士号)の勉強を始め、フィールドワークを兼ねて国費留学生として日本に戻って、東京大学で2年間を過ごしました。奨学金の終わりが近づいたら、2、3ヶ月間大学教員の職を探しました。非常にストレスフルな時間でしたね。幸い、2004年6月から北海道大学で10ヶ月間の外国人教師枠を手に入れました。とてもラッキーでした。前任者が突然やめて、私はピンチヒッターでした。着任からすぐに前任の教師が組んだカリキュラムにしたがって教えなければならなかったので、教師としてあまりいい条件ではありませんでしたね。ですが、仕事があることだけでほっとしました。そして、7月に、無事にDPhilを取得しました。
その後、任期が延長され、さらに数年後には専任教員になることができました。英国日本研究協会の学会誌に載せた論文がDaiwa Japan Forum Prizeを受賞したおかげで、2006年にはイギリスでスピーキングツアーを行うことができました。本も出版し、イギリスの日本研究コミュニティーの中で名前を知られるようになっていきました。その後、2015年に北大の「現代日本学プログラム」という外国人留学生を対象とした学士課程を設立しました。設立までのカリキュラム編成、教師陣の人選、ウェブサイトやパンフレットの制作等まで準備はとても大変でしたが、そこで、私はようやく念願かなって歴史教育を担当することになりました。

Daiwa Japan Forum Prizeの記念公演(ロンドンにて)

——波乱万丈ですね。歴史教育を担当されていたとのことですが、研究でも歴史を中心に活動されているのですか?

はい。特に20世紀の歴史に興味を持っています。日本だと幕末から第二次大戦終戦直後ですね。北大で英語を教えていたとき、同時にこの時代の研究をしていました。2010年には現在おこなっているコンテンツツーリズム(ポップカルチャー作品の物語、登場人物、現場などに誘導される観光行動)の研究を本格的に始めましたが、その際にも観光と歴史のつながりに焦点を当てていました。例えば、西郷隆盛が鹿児島の観光資源としてどれほど大きな存在であるかについて、鹿児島でフィールドワークをおこない論文を書いたことがあります。また、コンテンツツーリズムのケーススタディのひとつとして英国人作家ジェーン・オースティンについても調べたことがあります。日本で開発されたコンテンツツーリズム理論を使って、地元英国のケーススタディも調べたかったです。英語では「film tourism」や「literary tourism」などと表現されますが、日本生まれのコンテンツツーリズム概念の方がオースティンツーリズム現象の見事な説明になると思いながら研究を進みました。
10年間以上、北大時代からの研究仲間である山村高淑(やまむらたかよし)教授と、彼のアニメ聖地巡礼研究と私の大河ドラマなどのツーリズム研究を合わせた研究プロジェクトをおこなってきました。現在、山村教授とともに、戦争にフォーカスした研究を続けています。これらのコンテンツツーリズム研究で本2冊と学会誌特集号2冊、論文を数え切れないほど出しました。そして、山村教授と共編で戦争とコンテンツツーリズムに関する書籍を執筆していて、年度内に出版される予定です。

コンテンツツーリズムのフィールドワーク中。霊山歴史館(京都)にて。

——最近では、どのようなテーマで研究活動を行っているのですか?

戦争という悲劇的な出来事が、時を経てエンターテインメント作品として楽しまれるようになるプロセスに興味を持っています。また、そのプロセスの進み方には地域によって差があるのも面白いです。例えば、広島市には原爆ドームや平和祈念資料館があります。一方呉市では、艦隊をモチーフにしたキャラクターがたたかう作品『艦隊これくしょん-艦これ-』や第二次世界大戦中の呉市で生きる人々を描いた作品『この世界の片隅に』が有名です。どれも広島市と呉市の戦争に関連した観光資源ですが、一方は重い課題を象徴するものとして残り、また一方はポップカルチャーとして親しまれています。また、織田信長はかつて数々の残虐行為をおこなったと伝えられていますが、今では彼は日本の英雄的存在として有名です。残酷な人物や出来事がポップカルチャーとして親しまれるようになる、イメージのロンダリングのプロセスがとても興味深いです。原爆ドームは負の遺産として保存されていますが、3.11で被災した小学校などはどうすべきか、地域社会が議論しています。こういう議論をする上で、このプロセスについて考えることは重要です。

——私生活についてもお伺いできたらと思います。作曲家としても活躍されていると伺いましたが、音楽に興味を持ったのはいつ頃ですか?

両親が音楽好きでピアノを弾いたり歌ったりしていたので、私も7、8歳からピアノとヴァイオリンをはじめました。10歳くらいの頃にはすでに作曲に興味を持ち始めていて、自分で曲の節を作ったりしていました。最初の曲は17歳のときに作曲しました。中学生から大学生時代までにオーケストラクラブで活動していて、初めて作った曲は高校のオーケストラクラブに提供し、卒業コンサートで演奏しました。

——音楽活動をしていて楽しいのはどんな時ですか?

ゼロから何かを作るのが楽しいですね。研究と作曲は似ていて、どちらもスタートは白紙です。まっさらなところに何を入れたら美しい曲や面白い論文ができるだろうと試行錯誤するのです。研究で重要なのは論理で、脳を使う作業です。対して音楽は感情を大切にして、使うのは心です。学者として論文などに感情的なことを書くのはNGですが、音楽なら感情を表現できます。研究も音楽も自分の中で同等の価値があり、またよいバランスを保っています。実は、研究者になるかなり前から音楽家になりたいと考えていました。私の表現したい、何かを書きたいという気持ちのスタートは音楽でした。

——今年7月に調布国際音楽祭で先生の新曲「弦楽四重奏曲 ハ長調」が初演されたと伺いました。コンサートはいかがでしたか。

素晴らしかったです。音楽祭の監督は、プロ音楽家です。曲が演奏されたことは、論文が査読を無事に通ったときと同じような気持ちがしましたね。非常に嬉しかったです。音楽も研究と同様、プロ意識を持って取り組んでいます。

「弦楽四重奏曲 ハ長調」のインスピレーションとなった野川(調布市)

——最後に、この記事を読んでいる在校生と受験生にメッセージをお願いします。

自分のことを知ってください。他の人の期待にいつも従って生きるのではなくて、自分のことを知って、自分にとっていい道を見つけてください。18歳では自分の道がわからないかもしれません。28歳になっても、38歳になってもわからないかもしれません。探しつづければいいのです。他の人と比べたりせず、自分のことを認めて理解して、それに合わせて自分の人生を決めてください。今はコロナ禍で難しい状況ではありますが、留学やアルバイトも自分を見つけることに役立ちます。思い描いたようにうまくいかないこともありますが、一生懸命頑張れば良いのです。道は人それぞれ。それでいいんです。

インタビュー後記
大学教授でありながら音楽家でもあるシートン先生の波乱万丈な人生を垣間見て、自分の人生についてもあらためて考えるよい機会になりました。現在の日本社会のシステムは人生の「標準モデル」から外れることに対してあまり寛容ではないけれど、本当はいつ寄り道してもいいし、生きている限り手遅れなことは決してない。そんな先生からのメッセージにはっとした方は多いのではないでしょうか。
先生の朗らかで親しみ深いお人柄のおかげで、楽しい時間を過ごすことができました。お忙しい中お時間をいただきありがとうございました。
取材担当:川波さやか(国際日本学部3年)

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