国際法学者としての国際的課題との対峙:松隈潤教授インタビュー
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国際法を専門とする東京外国語大学大学院総合国際学研究院の松隈潤(まつくま・じゅん)教授。専門分野や経験を活かして本学のキャリア支援プログラムの一つである「外交官等国家・地方公務員プログラム」や「国際機関インターンシップ・プログラム」などにも参与し、国際的に活躍する人材の育成に尽力しています。今回のTUFS Todayでは、松隈教授をインタビューしました。
インタビュー・取材担当:
大学院総合国際学研究科博士前期課程2年 花田珠里(はなだじゅり)さん(研究協力課インターンシップ生(2021年11月まで))
学生時代
―――学生の頃から国際法を専攻されていたのですか?
私が学んだ東京大学法学部は、私法・公法・政治の3つのコースから選択することができ、私は公法コースに所属しました。一番関心があったのは国際法ですが、本学のように国際法のゼミに2年いて国際法で卒業論文を書くようなシステムではなく、公法コースで必要な憲法、行政法、国際法等の基本的な科目を幅広く学ぶカリキュラムでした。演習としては3~4年生の間に最大4つのゼミを履修することができました。私は国際法では2つのゼミに所属したほか、憲法のゼミや国際政治学のゼミも履修しました。また、のちに大学院で指導教員となっていただいた筒井若水教授の教養ゼミから派生した国際法の模擬裁判サークルのようなところに、1年生の頃から参加していました。
―――国際法に関心を持たれたきっかけを教えてください。
私の父親は、九州国際大学の国際法の教授でしたが、若い頃は父親への反発心もありましたし(笑)、父親が国際法学者だということはあまり意識しないようにしていました。それではなぜ国際法に関心を持ったかというと、国連に対する興味からだったと思います。当時私は、国連についてあまり知識を持っていませんでしたが、国連で働くとしたら国際法や国際政治学を学んでおくとよいのではないかと考えました。また、国際法の模擬裁判サークルに入り、国際法への関心が深まりました。
―――国際社会で働くことを念頭に意識的に活動されたことはありましたか。
意識していたわけではないのですが、学生時代にNGOでボランティア活動をしていました。チャリティーコンサートでの募金活動等のボランティアです。学生生活で社会とのつながりを持つ中で、人道支援活動のNGOを知り、関わりはじめました。学生時代に海外に行くにはまだまだ壁もありましたので、主に国内での活動でした。
NGO時代、エチオピアでの活動
―――学部卒業後は、大学院に進学されたのでしょうか。
学部卒業後、最初についた仕事はNGOの職員でした。漠然と憧れていた国連職員になるためには修士号と実務経験が必要であると知り、学部時代からボランティアで関わっていたNGOにちょうど1名の採用枠があったこともあり、大学院に進学するのではなく、まずはNGOで働くことにしました。そのNGOが力を傾けていたアフリカ諸国での人道支援活動が、私のイメージしていた国連の活動と一番近かったこともその理由です。1980年代、エチオピアでは大干ばつで多くの方々が被災し、マイケル・ジャクソン等が救援活動のために“We are the World”といった曲を発表する等、世界中で飢餓救援活動に参加しようという機運がありました。
―――そのNGOはどのような活動をする団体ですか。
人道支援の中でもとくに食料支援を行う団体で、名称も「Food for the Hungry」というNGOでした。1年間、フルタイムのスタッフとして働きました。その間、研修でアフリカのケニアとエチオピアのプロジェクトを訪問することができましたが、この1か月余りの経験は、自分の中で原体験となっていて、現在の研究につながっています。
この写真は、エチオピアのシェワ地方の農村です。もう一か所、人道支援プロジェクトを行っていた北部のゴンダール地方は険しい山岳地帯で、トラックが入ることが容易ではありませんでした。米国から来ていたパイロットに手伝ってもらって、臨時の滑走路を使い、軽飛行機に穀物を積んで運んでいました。私は研修生なので何の役にも立ちませんでしたが、軽飛行機に同乗して、日本での報告のために、配給を邪魔しないように記録をしているという感じでしたね。現場の末端で現地の人たちに食料を直接配る仕事でしたが、今でもこういう仕事が最も大切だと思っています。のちに外務省の専門調査員として経験させていただいた国連の会議外交よりも、私がやりたかった「国連?の仕事」はエチオピアで体験させていただいたこのような仕事でした。この時が、「自分のやりたかったことをやることができていた」という点では、人生の中で一番間違いのなかった時間だったのかもしれませんね(笑)。
実務と研究
―――NGOを経験後、大学院での研究に向かわれたのはなぜですか?
現場では、医療従事者や栄養士のように、健康・保健・衛生などの分野を専門とする人たちが主に支援に従事していました。私は法学部の出身でしたので、NGOでずっとフルタイムで働くということに自信が持てませんでした。他方、「国連?で働きたい」という希望も頭にありました。実務経験もまだ十分であるとは思いませんでしたが、一度、大学に戻り修士課程に進学することにしました。模擬裁判サークルなどでお世話になった筒井先生にご相談させていただいて東京大学大学院総合文化研究科国際関係論専攻に進学しました。修士課程に入ってからも、NGOとは東京の事務所に出入りしながら関わりを続けました。
―――大学院在学時に、外務省の専門調査員として勤務されたと伺いました。
修士課程が終わる頃、外務省国際機関人事センターの「Junior Professional Officer(JPO)派遣制度」の試験を受け合格することができました。国際機関が若手人材を受け入れる制度です。「食料への権利(Right to Food)」の研究で修士論文を執筆していたので、国連食糧農業機関(FAO)や世界食糧計画(WFP)などに外務省の費用で2年間派遣していただく予定でした。ところが、なかなか受け入れてもらえるポストが見つかりませんでした。そのような時に、在英日本大使館政務班の専門調査員に応募することとなり、結果として、ロンドンに勤務することになりました。今ふりかえれば、分岐点はここであっただろうかと思います。1989年11月、まさにベルリンの壁が崩壊した頃でした。そのような時に、英国の外交政策を調査して、日本の外交政策にどう反映するか、といったような仕事をしていました。英国にいましたが、わりと世界をカバーして見るようなことをしていました。
―――その後、一度日本に戻られた後に、再度、海外で研究されたと伺いました。
大使館での勤務の後、大学院に戻り、その後、福岡の西南学院大学の専任講師になりました。1997年に西南学院大学のサバティカルの制度で、在外研究の機会をいただきました。最初の半年は、米国ボストンにあるタフツ大学フレッチャー法律外交大学院(以下、「フレッチャー」)で客員研究員として研究しました。国連事務次長をされた明石康先生も学ばれた、国連職員養成学校のような位置づけのところで、とても憧れがあって行きました。後半は、英国のケンブリッジ大学の客員研究員として滞在しましたが、ここもさまざまな国際関係の情報が集積している場所でした。国際人権法や国際機構論などの勉強をしていて、その中で「人道的介入」といったテーマが大きな課題でした。「人道的介入」のテーマに加えて、イラクをめぐる安全保障理事会の動き等も研究のテーマとしていました。いずれの滞在先でも研究を深めることができました。
―――在外研究で大変だと感じたことなどはありますか。
周りには年齢の近いとても優秀な研究者がたくさんいました。とても刺激を受けましたね。私自身は語学力の面では厳しさも感じました。日本語では十分に伝えられることが英語では伝えられないもどかしさがありました。
現場で人道救援活動をしてから修士号を取得するために大学院に通うなど、欧米諸国の大学院ではとくに、一度実務経験を積んでから大学院に進学する人も多いようです。フレッチャーでは米軍の関係者も多く、安全保障問題について話すときには彼らは実務経験からとても詳しく議論することができました。日本の大学院は、ミッドキャリアの研修として、いろいろなバックグラウンドの人々が集まるという状況がまだ十分ではないと感じます。フレッチャーなどには、さまざまな実務経験を持つ人々が、しかも世界中から集まっていました。
―――現場に定期的に行かれていますが、研究だけでなく実務に携わりたいという思いから、二回目の専門調査員として国連代表部にいかれたのですか?
やはり国連に対する思いがあり、1998年に本当に短い期間ではありましたが大学を休職して専門調査員として国連代表部に行かせていただきました。安全保障理事会の場合、月~金曜日まで週5日間は、10時くらいから会議をはじめ、日によっては午前だけでなく午後も会議をしています。報道で流れる安保理の決議採択では、大きな会議場で会議を行っている印象があると思いますが、その前の段階で、決議の内容を詰める際は、狭い部屋に15か国の代表が集まって行っています。各国から各々3人くらいの代表者が集まり会議を進めますが、私の仕事はそのメモとりや、霞が関とのやり取りをしながら日本の方針を決めるプロセスに参与することでした。多国間のマルチな会議外交は、それに適したコミュニケーション能力が大変高い人たちの場という感じです。本学の学生さんたちは適性がある方が多いと思いますね。
―――東ティモールで選挙監視団も経験されていますね。
内閣府の平和協力本部というところで、東ティモールの選挙監視団を派遣することになりました。「オールジャパン」の取り組みとして、外務省とJICA等の職員だけではなく、NGOに所属する方や研究者も参加しました。私は知人の紹介もあって、2007年6月~7月の約2週間、参加することになりました。東部のバウカウというところで、選挙監視団として正常に村々の投票所が機能しているかなどを見回ることが仕事でした。当時の東ティモールの情勢はまだ不安定で、危険な暴動に巻き込まれる危険性もありました。そのため、出国前に「ともかく無事に帰ってくるのが皆さんの一番の仕事です」と言われましたが、衛星電話で首都と常に連絡を取り合う海上保安庁の方が一緒にいましたので、それほど危険は感じませんでしたね。
今後の展望、若い人へのメッセージ
―――これまでのご経験をいろいろとお聞かせいただきましたが、現在取り組まれている研究と今後の展望を教えていただけますか。
国際人権法の重要な課題である「食料への権利」は、エチオピアで救援活動に関わって以来、自分の中でずっと重要な研究テーマとして持ち続けています。これまでに出版した著書の中でもふれましたが、これからも引き続き、大きなテーマとして研究していきたいと思っています。
また、現在、国際交流等担当の副学長として大学運営にも携わっており、任期があと一年あります。コロナ禍においてはなかなか難しい点がありますが、やはり国際交流は本学の生命線であると考えています。今後、状況が改善すれば、以前に増して交換留学やインターンシップなどが活発化できるよう、できるだけ早く平常の状態に戻せるように調整することが私の残りの任期でやるべき仕事であると思い、注力していきたいと思っています。
―――最後に学生や若い人にメッセージをいただけますでしょうか。
今の大学生は、皆がまったく経験したことがないような大変な時期を過ごしていて、友だちとコミュニケーションがとりにくかったり、対面の授業が制限されていたりと、いろいろと苦しい思いをされていると思います。私もこの状況は、深刻な問題であると考えています。同時に、少し長い時間軸の中で「今」をとらえてみることができればとも思います。これは私自身の課題でもあり、ここ1~2年で何かしなければと思うと焦ってしまいますが、時間の経過とともに、また国際交流等も活発になってくると思います。無理をできない時期は、自分自身を大切にしながらできることをやっていこう、という姿勢でいることができればと思います。少し長いスパンで考え、良い意味でのんびりするとことができればと思います。ですから迷うことはたくさんあっても良いと思います。ストレートにはうまくいかずとも、「こうやってみたらどうやら違ったので、次はこうやってみよう」という感覚ですね。
インタビュー後記
人道支援や人権保障などの、国際貢献への想いを持ちつづけながら、ひとつひとつご経験やご研究を積まれてきたことが印象的でした。また、お世話になった先生やご友人をはじめ、教え子の方々など、周りの方々を大切にされていることも心に残りました。今回のインタビューを通して、このような先生の姿勢に多くのことを学ぶことができたため、今後に生かして一歩一歩を大切に精進していきたいと思います。このインタビューの機会をくださった松隈先生に心より御礼申し上げます。
花田珠里(大学院総合国際学研究科博士前期課程2年)