篠原琢教授 共訳の『エウロペアナ-二〇世紀史概説』で日本翻訳大賞受賞!
研究室を訪ねてみよう!
本学大学院総合国際学研究院の篠原琢先生が阿部賢一先生(立教大学准教授)と共訳したパトリク・オウジェドニーク著『エウロペアナ-二〇世紀史概説』が第一回日本翻訳大賞*に選ばれました。
篠原教授に受賞の感想や苦労したこと、翻訳や歴史に興味のある学生さんへのアドバイスなどを伺いました。
——篠原先生、まずは自己紹介をお願いします。
こんにちは、篠原琢といいます。私の専門は、チェコを中心とする中央ヨーロッパの近現代史で、ハプスブルク帝国の領域の19世紀・20世紀の歴史が私の本来の研究ですから、オーストリアやポーランドも研究の範囲としています。現在、東京外大では、国際社会学部で中央ヨーロッパ地域の担当をしています。言葉ではチェコ語を担当しています。
——日本翻訳大賞、第1回大賞受賞、おめでとうございます。今はどんなお気持ちですか?
素直に嬉しいです。この翻訳は、中央ヨーロッパ文学が専門の阿部賢一先生という東京外大の出身で現在立教大学で教鞭をとっている方と一緒に訳しました。日本翻訳大賞は、翻訳家の西崎憲先生の手作りの賞でして、選考には読者の方も加わります。選考委員には柴田元幸先生などの非常に著名な翻訳家が名を連ねていて、その専門家に評価された、しかも読者の方々にも面白いと思っていただけた、というのが本当に素直に嬉しいですね。とても嬉しいです。
——この小説は、時系列が様々に行ったり来たりしていて、内容も「ホロコースト」とか「毒ガス」とかありながら「ブラジャー」の話とかいろいろなエッセンスが詰まっていて、歴史にあまり興味がない人も面白く読める作品でした。今回、阿部先生とお二人で訳されていますけど、これは翻訳の形態としては珍しいことではないでしょうか。
そうですね。だいたい普通は一人の人が翻訳を担当して、もう一人の人が用語を監修するというのが一般的ですが、今回は二人で分担してそれぞれ訳しました。訳文の癖が出てくるのですが、ほとんど出来上がった後に二人で突き合わせをして赤を入れるという作業をしました。私は、歴史が専門なのでどうしても用語にこだわってしまって、説明調になってしまったり固くなってしまいます。その点、阿部さんはその辺を軽やかに乗り越えていく。この作品は、細部がしっかりしていないと面白みに欠けてしまう、一方で用語の正確さにこだわってしまうと文章のリズムが失われてしまうのですが、二人でお互いに直しを入れることでうまくリズムが取れしかも細部の正確さも保たのかなと思います。
——これだけ歴史のことを詳しく書いているのに、注釈がないのはすごい試みですね。
はい、本を訳すに当たってまず著者の許可を取るのですが、その時に著者から注釈は絶対に入れないでくれと言われたんですね。「これは小説なのだから注を一つでも入れてもらったら困るのだ」と。その点は、私はこの作品はオーソドックスな歴史に対する挑戦だと思っていましたし、作品の魅力に過去が流れていくリズムがあると思っていましたから、もちろん注釈を入れることははじめから考えもしませんでした。ただ、読んでいると出典が何かわからないのですが必ず何かを踏まえていると思われるものがたくさん出てきます。
——何かを踏まえているというのは例えばどんな?
冒頭に「一九四四年、ノルマンディーで命を落としたアメリカ兵は体格のよい男たちで、平均身長は一七三センチだった。ある者のつま先に別の者の頭を置くといった具合に戦死者を一人ずつ並べていくと、全体で三八キロの長さになるという。」とあります。これは本当かどうかわからないんですけど、全体を読むと、これは絶対になにかを踏まえていると思わせるものがあるんですね。だから、なるべく裏を取って、例えば流行の歌や共産党のスローガン、ファシストの軍歌など、何か踏まえているな、と思われるものを一応調べてみるんです。しかしそれでも調べのつかないところもあって。細部は詰めるけど、注釈は入れない。この本の魅力は、読者が川下りをしていると、その横を20世紀の出来事が脈々と流れていく、そんな感じの流れの心地よさだと思うのですが、流れの心地よさが注釈を入れることによって壊れていくと思うんです。文章のリズム、即興演奏のような調子を一番に活かしたかった。
——ファクトを調べつつ、それをあえて訳さないということですね。
細部を知らないで訳すと誤訳をしてしまう可能性があります。細部を知らないで訳す時と知ってて訳す時は、文章の流れも全然違ってくるんですね。細部を知らないで訳すと、文章の心地よさも失われますし、読んでいて流れが淀んでしまうんですね。通常の歴史という物語から切り離された20世紀の事実の一つ一つを大切にすることが重要ですが、なかなか難しかったですね。
——普通の小説を訳すのとはまたちょっと違いますよね。
そうですね。この小説は出来事が脈絡なく切り離されて貼りあわされているんですけど、私はもともと歴史を専門にする者なので、その貼り混ぜになった一つ一つのピースを確認する作業で、「あーこれだ」とわかった時にはとても嬉しかったし、面白い作業でした。
——最後の方で「現代では歴史は終わった」という記述があるんですけど、「さらに作り続けている」ということもあってそれはすごく深いことだなと思いましたが、どの様にお考えですか?
この本で「歴史は終わった」というのには二つの意味があります。一つはアメリカのフランシス・フクヤマという政治学者が世界は人類が求める秩序に到達したという意味で「歴史は終わった」といってそれが取り上げられている、もう一つは、歴史は結局「物語」なんだ、現代社会が要請する物語はその前ができていればそれでいいじゃないかという歴史に対する批判、この二つがあります。
——前者についてはどう思われますか?
私が思うことは、私たちはまだまだ望ましい秩序に達していないし終着点についたわけでもない。過去に語りかけることによって未来をようやく構想することができると思うんですけど、過去にどういう形で語りかけても、望ましい終着点に理論的に到着した、哲学的に到着したとはとても思えない。そういう前提で過去を見るということ、過去と現在との間を行き来するということは、未来を構想する上で非常に重要だと思います。
——後者は?
歴史とは、現代の社会が必要とする「物語」だ、という考えは、現代社会の選択肢を狭めていく。未来がわからない以上、選択肢は多様でなければいけなくて、その選択肢は、過去に問いかけることによって初めて生まれてくる。現代の問いかけばかりを過去に押し付けると、現代人は自分の位置を無批判に受け入れてしまうことになる。過去に問いかけをして、史料などから返ってくる答えを聞きながら過去を再構築して、現在に語りかける、そうして今見えない未来を構想していく。先を考える上で過去と対話するということは、未来の多様性を保証するという上で決定的に重要なんじゃないかなと思います。来し方行く末を考える上で常に今ばかり生きていると、だんだん自分の位置も行く先も自分がなんであるのかもわからなくなんじゃないのかなと思います。
——現代では世間もマスコミも歴史に関心が高いですけど、どう思われますか?
そうですね、私が違和感を持つのが、皆が「自分の望ましい物語」ばかりを声高に言い募ること。歴史がオモチャになっているなあという感じがします。そういう意味でこの本は「物語」というのを徹底的に拒否した本ですので、歴史をオモチャにすることは許さない、20世紀の不条理をどういう形で掬い取ろうかと言う時に、どんな物語にも還元しない、物語を徹底的に拒否して、なお20世紀を描こうとすると、こんな風になるのですよ、と、これは真剣な問いかけですよね。しかし、小説は、「ところが、多くの人々はこのような理論を知ることなく、あたかも何もなかったかのように、さらなる歴史を作り続けていた。」という一文で終わっている。物語があってもなくても、人々が歴史の中に痕跡を残していくということ自体はあるのです。それとどう向き合うかということに多くの人が悩んでいるわけですけど、少なくともそんな悩みがないかのようには振舞えない、というのが私の考えです。
——翻訳をやってみたいという学生さんや歴史学者になりたいと思っている学生さんへ一言お願いします。
あまり想像力を羽ばたかせて自分に引きつけて解釈しないで、常にテキストそのものの言うところに耳を傾けてほしいですね。歴史も同じです。「ここをこういう風に解釈したら話通りやすいよな」という誘惑に惑わされますが、それをやったら終わりです。こうなってほしい、でも史料はそう言っていない、それならば史料の言っていることに耳を傾けないといけないです。開かれた対話の基礎として、テキストの言っているところにしっかり忠実に耳を傾けることをぜひ実践してほしいと思います。それは、授業の講読でも卒論でも同じで、誰かが指摘をしないまでも自分の中ではしっかりと持っていてほしいです。それでもわからないところは出てくる、わからないところはわからないものとしてどんどん突き詰めていかないといけないですね。
——具体的なアドバイスはありますか。
私が学生の頃、授業の講読で古いテキストを読んでいる時に、これは誤植かもしれないと思われるところがありました。それで私がこれは印刷ミスだろうと先生に言ったところ、あらゆる可能性を調べて、その時代のあらゆる辞書や史料を調べて、その上で、やっとテキストが誤っているかもしれない、と考える、それでもその判断は暫定的な結論にすぎないのだよ、というのです。誤植だ、と決めてかかるのと、調べた結果暫定的に誤植だと判断するのでは全然違います。面倒ですけど、学生さんにはぜひ実践してほしいですね。
*日本翻訳大賞は1月1日~12月末までの1年間に発表された翻訳作品の中で、最も賞賛したいものに贈る賞で、選考委員だけでなく読者の参加も仰ぎ選考されます。