座談会:言語と文化の多様性を生きる
研究室を訪ねてみよう!
言語を取り巻く視線は、どこに立脚しているのか? 英語や地域共通語と母語の狭間で、日常の言葉はどう語られるのか? 社会的優位性をもたぬ言語をいかに保持するのか? また、〈外国語〉と国家、個人の関わりについて立石学長と4名の教員が討議しました。
司会:武田千香(東京外国語大学言語文化学部長)
立石博高(東京外国語大学長)
沼野恭子(同大学教授、ロシア文学・比較文学)
橋本雄一(同大学准教授、中国近現代文学)
藤縄康弘(同大学准教授、ドイツ語学、言語学)
近代日本の生き字引
武田 東京外国語大学は、文字通り、日本の近現代史とともに歩んできた大学です。日本がいかに諸外国と関わってきたか、影響を受けてきたかは、この大学の歴史に直接・間接に現れている。こんな大学は世界中みてもあまり例がないのではないでしょうか。
立石 たしかにこの大学は、日本と世界の関わりの変化にあわせるように紆余曲折を経てきました。
武田 そのことは、私がここで教えているポルトガル語、そしてブラジルの文学・文化からも窺えます。ここで簡単に日本とポルトガル語の関係を振り返ってみると、その歴史はキリシタンの時代、すなわち16世紀まで遡れます。ポルトガル語は、日本が初めて出会った西洋語になるわけです。その後、鎖国の時代に入ったことで、一度関係が途絶え、日本が開国した頃にポルトガルはもはや模範とすべき国ではありませんでした。転機となったのは、ブラジルへの移住の開始です。正式に始まったのは1908年で、それ以降、ポルトガル語教育のニーズが認識されます。そうして、当時、東京外国語学校という名前だったこの学校で、近代日本初めてのポルトガル語教育が始まったんです。
沼野 東京外国語大学のポルトガル語教育はたしか今年でちょうど創設100周年でしたね。
武田 つい先日記念のイベントを開いたばかりです。
立石 少し歴史を整理してみましょうか。東京外国語大学は、1857年の蕃書調所の開校まで遡ることができます。もっとも蕃書調所は江戸の公儀が設けた直轄の洋学研究教育機関で、日本のあらゆる高等教育の起源とも言えます。
藤縄 後の東京大学として知っている人も多いかもしれません。
立石 蕃書調所から始まり、どのような変遷を辿ったのか。その歴史を振り返っていくと、この学校がこれまで期待されてきた役割、担ってきたもの、さらに現在の姿もより深く理解できます。江戸時代の日本の高等教育は、英・米・独・仏、そしてオランダといった進んだ科学技術を持った諸外国の知識を導入するための翻訳が不可欠で、蕃書調所がその役割を担いました。その後、幕府直轄の開成所、さらには開成学校が生まれ、これが東京大学のルーツになります。それに対して、将来の東京外国語大学といえる東京外国語学校ができたのは、明治維新後の1873年です。当時の先進国は米・英・独・仏で、それら各国の進んだ技術を取り入れるため、また外交・通商を担うために、英語、ドイツ語、フランス語の教育機関が必要でした。さらに隣国である中国やロシアといった大国との関係において活躍できる人材の育成が求められたのも特徴です。つまり、そもそもこの学校は「通辯(つうべん)」、すなわち通訳、翻訳者を養成する専門学校と位置づけられた。非常にインテンシブ(集約的)な役割と言えます。加えて学校と言っても小学校を卒業した13歳から入学できたわけで、高等教育を受けるための言語教育学校として設立された。もちろん、13歳の学生ばかりだったわけではなく、様々な学生がいた。そんな学生のなかで有名なのが、東京女子大学の創設者として知られる新渡戸稲造。彼も、英語を学ぶために東京外国語学校で学びました。一方、もう1つの大きな流れとして、文学をはじめ高等教育を担う機関の必要性が高まり、帝国大学が創られた。さらにそれに加えて、実業界で活躍する人材を育てたいという社会の要請が高まります。それが商業学校という流れとなり、東京商業学校が生まれます。
藤縄 「通辯」と「学問」と「実業」ですか。開学当初から近代日本の激流にいたことがよくわかりました。
ミイラ取りがミイラに
立石 話はこれで終わりません。信じられないことですが、英語教育が東京英語学校(後の東京大学予備門、旧制一高)に移管されてしまう! それが1874年のこと。東京外国語学校に残ったのは、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語。さらに1885年には、残ったフランス語、ドイツ語も東京大学予備門に移されてしまいました。そして最終的に東京商業学校に合併されてしまう……反対の声も上がったが、結局、押し切られてしまった。反対のなかには、外国語を学ぶということが、単に「通辯」の必要だけにあるわけでないという意見もありました。実際に、外国語を話す人々、遠い異国の問題に関心を持ち、そして翻訳、文学作品を創造する人たちが当時現れ始めた。二葉亭四迷をはじめとしたまさにこの学校が誇る文人たちが生まれていたのです。
沼野 二葉亭四迷は、北東アジアの利権を帝国日本と争っていたロシアを倒す一助になろうと、敵を知るために露語科に入学したのに、学ぶうちに反対にロシア文学に魅せられてしまった。ミイラ取りがミイラになってしまうわけです。
立石 東京商業学校に合併されることを潔しとしない教員は何人もいました。一方で、東京商業学校に残って活躍した方もいます。外国語を学ぶことが、商業一般と直截に結び付いた形で、決着が図られてしまった。しかし、それでは解決しないわけで、1897年、高等商業学校附属外国語学校が創立されます。ただ、この学校もいわゆる「人文知」を重視したものではありません。明治時代に入り、次第に日本は諸外国と貿易・植民——当時は「拓殖」と言いました——を推し進めるようになり、そのための人材を必要としていた。人材養成の専門学校が必要だという認識があったのです。それを表すように、創立時に英・仏・独語科が復活しています。その他に、露語、清語、韓語、そして西班牙(スペイン)語が学科として作られる。西班牙語科が作られたことの意味は小さくありません。なぜかと言えば当時はフィリピンがスペインの植民地だったからです。当時、スペインと日本は国境を接していたんですね。台湾は日本の植民地で、フィリピンはスペインの植民地でしたから。
武田 なるほど。
立石 西班牙語科が作られたのは、南方への利害もありますが、他方で、明治も時代が進むと、熊本や広島や沖縄をはじめ日本の貧しい地域の人々の南米への開拓が求められるようになった。そこで現地へ斡旋できる人材が求められ、なかには自ら開拓に関わる学生もいたと言います。そして1899年には再び東京外国語学校として分離し、その時には伊語科も設置された。なんとか商業とは別のものを学校として存続したいという底流は常にあったわけですけれども、実際には、貿易・植民という根拠が、文部省に対しても必要でした。予算を獲得しなければならないという側面もありますしね。
橋本 〈貿易・植民〉と〈文化〉の狭間であるいは翻弄され、あるいは自主的に動いたこの学校の姿が手に取るようにわかりますね。貿易はともかくとして、「植民」という言葉はまさに帝国主義の時代を表しています。
立石 「通辯」として言葉を国家に役立てるべしという政治的な要請と、学問としての語学研究——、その2つのバランスをどうとるのか。それが20世紀に入って戦争の色が濃くなるにつれ、新たな課題として持ち上がります。
「通辯たるなかれ」の意味
立石 浅田栄次という人物をご存じでしょうか。東京外国語大学の「中興の祖」とも呼ばれており、実はこの学校のキャンパスで唯一、記念像が立てられている人物なのですが……。皆さんの反応を見ると、あまり知られていないようですね(笑)。浅田栄次は1865年生まれで、昨年が生誕150周年でした。青山学院から移って講師を経て教授を務め、1899年には教務主任となり、東京外国語大学の「学則」の基礎を作った人物です。すこし横道にそれますが、彼は実は、旧約聖書の研究で、シカゴ大学において人文学で初めて学位をとった人物です。ヘブライ語もラテン語もアラビア語も、英語ももちろん堪能でしたが、1906年に日本で初めて随意科エスペラント科を置き、エスペラント語の教育をこの学校で始めた人物でもあります。浅田が「学則」で提起したのが、当時の言葉で言う「近世語(Modern Languages)」、つまり、いま話されている言葉を学ぶということです。もう1つは、実務に適すべき人材を養成することでした。この2つが、東京外国語学校が再スタートしたときの目的だった。浅田は実務を決して疎かにしないわけですけれども、一方で、学生たちに一番伝えたかったのは別のことです。「語学専門なるも通辯たるなかれ、西洋の文物を学び世界的人物と作(な) れ、アングロサキソンの精神を学べ」。浅田はそんな言い方をしています。20世紀に入って、現代に通じるような精神で東京外国語学校は再スタートを切っているのです。
橋本 ただ、そのような精神を持ちながらも、〈貿易・植民〉を専門とする学校として、アジアへの進出に寄与する役割が求められていたわけですね。
立石 1911年には、新たに蒙古語、馬来語、ヒンドスタニー語、タミル語学科を設置しています。これはアジア進出に寄与する人材を求められてのことと言えます。
武田 そして1916年に、冒頭でお話しした葡語学科の追加も行われていますね。
「貿易殖民語学校」構想
立石 そんななか1917年に大学改変の大きな波を受けることになります。一橋大学は当時東京高等商業学校で、国内で活躍する実業家の育成を担っていたのはすでに述べた通りです。一方で東京外国語学校は、貿易・植民に専ら与る人材の育成を担っていた。その役割をもっと強化すべきだという論が巻き起こり、東京外国語学校という名称から「東京貿易殖民語学校」と名を改めよという議論が生じたのです。
武田 それにしてもストレートな名前ですね。
立石 しかし、その名称変更に反対した一大キャンペーンが卒業生たちの間で起きました。当時の朝日新聞はその反対運動について記事にしており、「誠に尤もな次第である……語学といふは通辯やガイドの用に計り立てるものでない。國語の生命は思想である」と書いています。幸いにして、この時には校名の改称はありませんでした。しかし、言語を研究することで異なる文化を学ぶ、という純粋な目的は次第に追いやられ、1919年に言語ごとの編成の下で三学科に改編されます。それぞれ英語部、仏語部というような学部に設けられた3つの学科は「文科」「貿易科」「拓殖科」となりました。残したかった「文科」は守れたとはいえ、蒙古語や馬来語、ヒンドスタニー語部には文科はありませんでした。さらに注目すべきは「拓殖科」です。さすがに、植民する対象ではない英語、フランス語、ドイツ語に拓殖科はなかった。モンゴル語部にも拓殖科はなく、貿易科だけなのですが、この頃はすでに満洲国建国へ向かっていましたから、すでに拓殖は必要なかったわけです。ご存知の通り、その後、日本は不幸な時代に進んでいきます。一番分かりやすいのは、「朝鮮語」が1927年に廃止されていることです。朝鮮は植民地化され、「日本の一部」になったわけですから、外国語として教えるのはまかりならんというわけです。「朝鮮語」をどう扱うかという問題は、戦争が終わってからも長く尾を引きました。戦後になってからも、「韓国語」なのか「朝鮮語」なのかというイデオロギーの絡んだ議論も続き、東京外国語大学で朝鮮語が復活したのは、なんと1977年のことです。50年も途絶えていたわけで、日本の国立大学として朝鮮半島とどう向き合うか、難しい状態が続いたことがそのことからも分かります。
暗い時代の人々
橋本 商業・貿易・植民という視点からの言葉の学校という編成が、東京外国語学校にはあったというお話でしたが、なかでも、「植民」という言葉を考えることは重要だと思います。帝国日本前後から、いわゆる「征韓論」が起こり、日清戦争へと突き進んでいく——この学校は「戦争のなかの学校」だったという認識です。まず1880年という非常に早い時期に、朝鮮語学科が設置されています。これには最近隣のアジアへのある特殊な眼差しが背景にあったのでしょうし、さらに14年後の1894年には日清戦争で清国と朝鮮半島を争い、1910年には朝鮮を併合している。そんな時代の流れを見据えて、一番近くの隣人の言葉である朝鮮語学科が設けられたのは確かでしょう。立石さんは「不幸」と仰いましたが、日本は、あるいは外大は、近代史の責任と向き合えないまま、1977年まで戦争を引きずったと言えます。また、朝鮮半島の言葉をどう呼称するか簡単には結論を出せず、朝鮮語なのか、韓国語なのか、ハングルなのか。呼称をどうするかはNHKで講座が始まる時にも、いろいろな議論が起こったと聞きます。
武田 そうでしたね。
橋本 中国語や朝鮮語をいかに扱ったかを見るだけでも、東京外国語大学には、近代日本におけるアジア他者認識の先達になるような、言い換えるならば「外への拡張」という暴力の一翼を担った歴史があったことが分かります。さらに思い出されるのが、東京帝国大学で国語学研究室を開設した国語学者の上田萬年(うえだかずとし)です。1890年、彼は東京外国語学校の校長を短い期間ながら務め、文書館でも彼の肖像を展示しています。彼は帝国大学で「国語と国家と」という講演をしたことで知られています。日清戦争で朝鮮半島に進出した日本軍が、今日の戦闘でどこまで勝ち進んだかということをビビッドに聴衆に伝えながら行った講演です。「国語は日本人の血液だ」と、言語をある種フェティッシュに、カッコつきの「民族」の血と肉のように比喩して、外に拡張する日本を愛でた講演をした。そういう人が校長になった歴史がある。それを考える必要があるでしょう。
立石 戦争のなかでこの学校がどんな役割を担ったのか、内省することを忘れてはいけません。第二次世界大戦の最中、1944年には、東京外事専門学校と名称を変更され、たくさんの学生がアジア侵略・進出の一環で翻訳に携わり、多くの命が失われました。そうした苦い過去も心に刻む必要があります。そして戦後、この学校は東京外国語大学としてスタートします。もともと専門学校だったわけですが、大学になろうと考えた。単なる語学学校では大学として認められないので、それまでの「通辯」にとどまらず、新たな大学としての使命を掲げることになりました。「学則」の第一章第一条にはこうあります。「東京外国語大学(以下「本学」という。)は、世界の言語とそれを基底とする文化一般につき、理論と実際にわたり研究教授し、国際的な活動をするために必要な高い教養を与え、言語を通して世界の諸地域に関する理解を深めることを目的とする」この理念のもと、東京外国語学校、東京外事専門学校は大学として新たに生まれ変わりました。
「外国語」という陥穽
武田 〈貿易・植民〉、さらに〈外交〉という与件が、「外国語」という固定した枠組みを図らずも作ってしまったところがあると思います。ただ、世界を見ると、かならずしも「国」にとどまらない政治や文化がある。言語という面で見ても、「国」という枠組みだけでは多くのものをかえって見落としてしまいます。「27地域言語」と学内では言っていますが、それはどこかの「国家」で公用語になっている言語だけで、世界の言語事情を見ると、使われている言語はもちろんそれだけには収まりません。スペイン国内でもそう、より広大な中国、ロシアもそうだと思います。橋本さんは、それにもかかわらず、「中国語」専攻しかないのは偏っていると以前指摘されていましたね。
橋本 言葉の持っている象徴性、暴力性というか、どんな言葉でも言葉にすると象徴的なものしか言い当てられなくて、〈個〉なるものの存在、その言語を実際に話している「このひとりの人間」や、その地域にいる多様な人々のうちのそれぞれについては、言い当てられないんですね。たしかに、言語の名付けが象徴的になってしまうのは避け得ないとは思います。たとえば「橋本が使う日本語の日本語学科」などはいちいち開設できないですからね。いったい誰が入学してくれるでしょう(笑)。英語であれば、イギリスという地域で暮らす顔と名前を持った一人ひとりが使っていると考えた時に、個々を名指せないので大きな象徴的な像の名付けにどうしてもなってしまう。それをどう考えるべきなのか。たとえば、「満洲国」という日本の傀儡政権のなかで、「民族協和」(「五族協和」)として、○○族と□□族……と並べ立て、さも多様な民族が共存していたというスローガンに使われた。大きな像への名付けからこぼれ落ちる異民族、マイノリティ。方言の問題も含め、言葉もこれと同じですね。
沼野 私の専門に近いところで言いますと、この大学でも長い間、ロシア語がスラヴ語の「代表」のように見なされてきましたが、1991年、チェコ語とポーランド語が開設され、スラヴ語は3つになりました。また、専攻としてではありませんが、ウクライナ語やスロヴァキア語なども学べます。こうした動きは、大学内部からの要望でもあり、社会的な要請でもあって、スラヴ語の多様な実態に呼応したものと言えます。象徴的な言語だけでは捉えられない世界がある——そんな世界中に生まれている問題意識を反映していると思います。さらに、旧ソ連にはスラヴ語以外のさまざまな言語があるわけですが、2012年に二学部に改編されたときに、中央アジア諸言語のうちウズベク語も専門的に学べるようになりました。
橋本 数多くの言葉があるのは、中国も同じです。中国には18世紀に移住してきたと言われるロシア族もいますね。
少数言語の〈言語権〉
立石 今年4月にワールド・ランゲージ・センター(Lingua)を新たに設置しました。専攻語の達成度を測る目的もありますが、同時にできるだけ提供する言語を増やしたいという目的もあります。具体的に言うと、現在本学で授業を開講している65の言語を、80に増やすことを目指しています。スペインではフランコ時代が長く続き、「スペイン人ならスペイン帝国の言葉を話せ」という政策がとられ、国内にある少数民族の言語、カタルーニャ語やバスク語などといった言語を公けの場で自由に表明する機会を奪われた。少数民族と言っても、カタルーニャ語の話者はデンマーク語よりも多いし、地域としての経済力はポルトガルよりも大きい。現在でもたびたび独立運動がニュースとして報じられていますが、数が多いがゆえに弾圧が激しかった地域でもあります。そのカタルーニャ自治州が、「世界の言語」というプロジェクトを2000年代に始めました。欧州における少数言語の「言語権」を認めようという動きです。できるだけ多くのマイノリティ言語を研究し教育する機関を作ろうとしたのですが、やはり一自治州の取り組みですし、予算的な問題もあり現状では頓挫している。私の夢は、本学を「世界の言語」の一大拠点とすることです。今年はイディッシュ語(中東欧出身ユダヤ人の言語)、ハワイ語、トルクメン語(中央アジア、トルクメニスタンなどの言語)の3言語が新たに開講されました。世界の言葉という発想を持つことはとても大切なことで、たとえばスペイン語さえやればスペイン語圏が理解できるかと言えば、カタルーニャの例を見るだけでもとんでもない間違いだとわかります。中国語も同じで、中国の標準語がわかれば中国語圏が理解できるわけではない。
沼野 少数言語や危機言語について知ることは、世界が流動性を増すなかで、ますます重要になっています。1つの地域における言語の構成は複雑さを増していて、昔の発想で「1つの地域に1つの言語」とは言えない現実が世界中に見られます。そのなかで、バイリンガルの人もいれば、その地域でよく話されているどの言語の話者でもない人もいる。非常に複雑な様相を呈してきているわけですね。その現状にあった対応が今求められていると思います。
橋本 世界の現実が、「一地域=一言語」ではないし、その状況はますます広がっています。中国でも朝鮮族は朝鮮語を話すし、モンゴル族はモンゴル語を話します。
武田 同感ですね。
沼野 1991年にソ連が崩壊して、ヒトの移動もモノの動きも自由になったために、そうした傾向はますます強まり、より複雑化していると思います。旅行のような一時的な移動だけでなく、国境を越えて外国に長期滞在することも多くなっていますよね。どの地域に住んで、どの言語を話すかが個人の選択に託されるようになっています。現代文学では、「作家がどの言語を選んで書くか」という問題が大変重要になってきていると思います。ロシア語が母語であっても、移住先では自ら言語を選んで作品を書く作家が若い世代に現れているのです。たとえば、ロシア出身でドイツ語圏に移り住み、ドイツ語で作品を書いてベストセラーを生むような作家もいます。また、2015年にノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの場合は、父親がベラルーシ人、母親がウクライナ人なのですが、自身はロシア語で作品を書いています。いずれにしても、多様性を持った作家への関心が今後ますます高まっていくのではないかと思います。
もう一人の自分に出会う
武田 言葉というものは、カタルーニャ語の話からもわかるように、自分たちのアイデンティティに密接に関わってくる。沼野さんの話にあった文学においても、「自分を語る言語」を選びとるわけですよね。つまり、言葉というのは、discipline と呼ばれる法学や経済学とは違って、人間の根源に関わるものです。人間の礎であり、心の足場とも言える。ですから言葉を研究する時には、それぞれの世界におけるそれぞれの人たちの心の足場について考えることになる。法学部や経済学部で学ぶのとは、異なる次元の学びではないでしょうか。卒業した学生に話を聞くと、「いかに日本が同質的な思考に陥っているか。この大学は本当に多様だった」と口々に言います。たしかに変人も多いと思うのですが(笑)、言語を通してもう一人の自分が見つかる。皆がそんな体験をしているからこそ、「多様性」の重要性を認識できるのだと思うんです。
藤縄 うちの学生は、自らが専攻した言語で自分を表現できるようになることが珍しくない。これは大きいことだと思います。言語を通してもう一人の自分を見つける。もしくは、新たな自己像を作ってゆく。先程の「一地域=一言語」の話とも繫がりますが、この大学は、言葉を通して「国」を相手にしてきたわけです。それは「外国語」大学に課せられた宿命でもある。しかし、国や地域といった従来の固定的思考を意識して乗り越えた先に、いろんな考え方があるんだということを身体でもって知ることができるのは素晴らしいことです。
武田 「外国」に限らず、いろいろな地域の言語や価値観と自分のそれを往復させることで、だんだん新しいものが生まれてくる。言語を相対化することで、新たな発想や価値観が生まれることが大切なのだと思います。
沼野 二葉亭四迷も、ロシアを「敵」と見なす軍国主義的価値観から、ある種の平和主義に転じたと考えることもできます。ロシア語を学ばずにたとえば英語を通してだけロシアを学んでいたとしたら、あそこまでは行かなかったのではないかと思います。
武田 平和主義というお話はとても重要ですね。それまで自分の持つ価値観では許容できなかった文化や価値観でも、その対象を深く知り、それとの往復を繰り返すことで、両者とも自分の中で共存できるようになる。
沼野 相対化について言いますと、日本語と英語だけではなく、もう1つ別の言語を学ぶということがとても大事だと思います。3つの言語を知ることによって三角形が形成され、ものの考え方がより相対化されます。
橋本 本当にそうですね、そのような比喩は僕もよく教室で使います。
沼野 二点では直線にしかなりませんが、3つの点があって三角形になることで空間化する。さらに多ければ円に近づき、ますます相対化することになる。これが人間の幅につながるのだと思います。最近の日本の風潮としては、第二外国語をとらなくていいという学校が増えています。これは残念なことで、言語の初歩を齧るだけでも、「こんなに考え方が違うんだ」という発見のある場合があります。若い時にその体験をすることが、自分を相対化するのに役に立つのではないかと思います。
立石 東京外国語大学では、この狭い空間で、少なくとも27言語の専攻が学ばれている。要するに、多言語の学生、教員同士が接触しているわけですね。
ガラパゴス島で「外国語」を学ぶ?
武田 情報化が進んだ現代では、日本にいても海外の情報はすぐに手に入ります。異なる文化に触れる意思がなくても、消費すべき文化や娯楽は街にあふれ、否応なしに巻き込まれてしまう。その一方で、「ガラパゴス化」という言葉が、現代ニッポンを象徴する言葉として一時頻繁に用いられました。
沼野 言語にしろ、文化、技術にしろ、明治から大正にかけて、自国の後進性に危機感をもって、海外から学ぼうという意欲が日本人にはあったわけですが、だんだんそれは失われてきました。海外に行く留学生の数も減っていて、意識として異文化への興味は減退しているということもよく言われますね。
橋本 ガラパゴスというか、グローバル化の進展でこの日本列島に外国から多くの人びとが観光・仕事・生活あるいは生存のために来ています。中国語を学んだ卒業生でも、海外ではなく日本で中国語を活かす場所が増えてきた。このあいだ新聞記者になった卒業生が言っていたのですが、群馬の支局に配属されて、外国人コミュニティが地元と共存もしながら生きていくことをいかに模索しているかを取材する際、中国語が役に立ったと言っていました。
立石 「ガラパゴス化」という言葉そのものの使われ方が面白い。実際に本当のガラパゴス島が今どんな状況になっているかと言えば、観光客であふれてる!
藤縄 異文化が入ってきているわけですね(笑)
沼野 外国に行って何かを学んでくる必要があるかどうかはともかく、ともかく楽しんでくればいいんじゃないかとも思うんですが、その「楽しみ」への意欲すら減退してるように見受けられます。
武田 私たちが学生の頃は、まだ「外の文化に触れたい」、「外国に行ってみたい」という憧れの気持ちがあった。しかし、今は行かなくても情報はインターネットを見れば映像も画像もなんでも手に入る。外国が遠いところではなくなってしまって、憧れも夢も、外国に対してはなくなってきてる。こうした前提があるなかで、「外国語」教育はどう変わっていくべきなんでしょうか。大学に限らず、小学校から高等学校まで含めて、教室のなかでできる「外国語」教育とはどんなものなのか。文法の基礎はもちろん大事で、「読む」「書く」「聞く」「話す」を、自力で勉強できるところまで引き上げる。そこまでは教師としてやりたいと思っていますが、学生の関心も多様で、一人ひとりの求めるものを提供することは難しい。最近、言語教育はどこまで可能なのかと考えることが多くなりました。
藤縄 問題意識は共感できますし、その答えもすでに仰っているではないですか。つまり「自分の力で勉強できるところまで引き上げる」。基本的には、それをやるのが語学教育ではないでしょうか。「外国語」教育というからには、外国語を学ぶに当たっての最低限を自分で考えるところまで引き上げることが一番のベースになります。小さい頃から周囲に外国語の環境があるために自然に身についたり、ネットなど色々なものにアクセスできるようになったことで気付かずに体得した言語は、その人にとって実は「外国語」ではないと言えます。ただ、この「ゼロから学ぶ」という前提がグローバル化のなかでこのまま続いていくのかどうか、という問題はあるわけですけれど。
英語教育の深層
立石 日本の外国語教育、とりわけ英語教育は、「読む」と「書く」技能ばかりに偏ってきました。よく批判されることですし、現在の教育現場で最も大きな問題であると言えます。いわゆる4技能、「読む」「書く」「聞く」「話す」のうち、「聞く」「話す」教育はずっと不十分なままでした。
武田 でも、「話す」教育は教室のなかでどこまでできるのだろうか。教室のなかで会話能力を教育するには限界があります。
橋本 しかし限界があるといっても、まずはやらなければならないことでしょう。
武田 今は教室でしか学べなかった時代と異なり、留学できる環境が整っています。自力で勉強できるところまで引き上げて、後は留学するという考え方も不可能ではありません。
沼野 留学しやすくなったことが、改めて日本の英語教育の問題を浮き彫りにしている面もありますね。英語圏へ日本人が留学すると、まずプレイスメントテストを受けて、クラスが分けられますが、日本人は筆記試験の点はかなり高いので、一番難しいクラスに振り分けられることが多い。するとどうなるかというと、同じクラスの他の国から来ている人たちは、英語が相当喋れます。それに対して日本人は、文法はしっかりしていて語彙は豊富だけれど会話ができないという状況に陥ります。こうした状況をどうやって克服するか、語彙をアクティブに使えるようにするにはどうすればいいのかを考える必要がありますね。
武田 そもそもが、外国語の能力ではなくて、言葉を「話す」能力の問題なのかもしれません。母語でできないことは、外国語でもできませんよね。日本人はとかく話すことを苦手としています。しかし外国、とくに欧米の人は話すのが上手です。外国語である日本語で、そしてどうかすると大した内容でなくても、やたらと話してくる人がいます。日本では小学校の頃から、むやみに手を挙げて発言したり、賑やかに自分の意見を言う人は煙たがられる傾向があります。闇雲に意見を言うよりも、中身のあるしっかりとした発言をすることがいいという教育を受けて育ってる。
立石 それを大学教育から、この大学から変えたい。外国語を教室だけでなくキャンパス全体で学ぶことで、豊かな表現力、コミュニケーションの力を育んで欲しいと思っています。
沼野 でも、これは文化と文化の違い、文化コードの問題でもあるのではないでしょうか。日本人的なメンタリティで、「沈黙は金」という文化がずっとあったわけですから。人格的にもある程度完成された年齢の大学生にいきなり話せるようになりなさい、と言っても難しいかもしれません。それまでの育った環境や教育のなかで、コミュニケーションのとり方を学習した結果として現在があるわけですからね。
武田 批判されがちな日本の中学校から高等学校までの6年間の英語教育ですが、それがまったく役立たないかというとそんなことはない。私はこの大学でポルトガル語を教えていて、学生は文法を1年間ですべて学ぶ。それができるのは、英語教育での積み重ねがあるからです。関係代名詞、過去完了、副詞と言えば分かるし、「英語ではこうですよね」と言えば理解できる。あの6年があったから教えられると痛感するんです。
橋本 そういう意味での、「外国語を喋れるようになる」ということの難しさとは何か。「外国語」だけど同じ「ことば」だ、という次元に関わるかもしれませんが、「喋ることがない」と話せないわけです。文法をいかに正確に学んでいても、喋る内容がなかったら、あるいは言葉を使って表現したいと思う「何か」がなければ、口を閉じるしかない。結局はその言語を使って「何を話すか」ということです。日本人が、中国語で「客气(クーチ)」と言いますが、思慮深い(笑)というか、恥ずかしがって話すことができないというのはわかります。しかし、喋ることは「主張」ですから、語るべき内容を何か伴わないといけない。そうでなければ、いくら中国語を学習しても喋る話題と中身がない。その中身について大学は、「自分で見つけよ」というしかないんですかね?
沼野 私自身の「何か」は、やはり現代ロシア文学とその翻訳でしょうか。ロシア語の言葉や言いまわしをどう日本語に訳すか、日本で知られていない作家をどう紹介するか、知られていない作品の魅力をどう伝えるか。そんなことばかり考えています。
好きこそ物の上手なれ
武田 ここまで話して来ると、それぞれの言葉との出会いについて聞いてみたくなります。
橋本 中国語は学ぶのに本当に時間がかかります(笑)。字体が、古代からの漢字と今の中華人民共和国では違っているということも覚えないといけない。小テストで学生を鼓舞しても、みんな四苦八苦しています。他の言語の学生よりも、漢字に囚われる分、その言語の重たい様式からいったん離れて、言いたい中身を同時に培わせるのが大変なのではないでしょうか。そこから文学に関心を持ち、専門にしようとするのはなおさら難しい。それを表すように、中国近現代文学の卒論ゼミに上る人はそう多くはいないんです。60人新入生が入ってきて、5人とか、多くて10人です。もちろん「中国語」の文学・文化の魅力を語る力が、自分の側にももっと必要なんですが。僕個人の経験で言うと、時間をかけて楽しくなってきました。時間をかけないと面白さが分からない言語かもなあと、中国語については特に思います。たとえば1つの詩を覚えて自分で暗唱する楽しさを1年生に求めても、なかなか難しいなと実感します。詩が表現しこちらに語りかける内容を、自分も実体験しないことには。これは先ほどのその言語で自分が何を喋るか、とも関係してきますね。個人的なきっかけの話をすると、もともと僕が中国語を始めたのは、中学生のときに地元に魯迅の息子さんが講演に来たんです。それとアジアで一番話者が多い言語をやりたい、英語やヨーロッパ言語ではなくて、アジアのなかで大きく見える言語をやりたいという単純なものでした。
藤縄 僕はドイツ語ですけれど、ありがちな音楽への興味です(笑)。クラシックが好きで、高校生になってアルバイトもしてお小遣いも少し増えたという時に、当時はLPレコードですが、国内盤を買うと高い。だから、少し安い輸入盤を買う。輸入盤はもともとドイツで発売しているものが多いので、そこに書かれたドイツ語の解説が読めるようになりたいなと思ったんです。あと、中学生、高校生の頃はそうレコードを購入できません。あの頃の一番のハイファイソースは、ラジオのFM放送だったんです。ラジオのエアチェックを日課にしていた。そこがきっかけですね。
武田 みんな昔はラジオを聴いてましたね。そこから外国の文化を知った。
藤縄 その楽しみが、いま復活してきています。ドイツの放送局は寛大なので、ネットで放送をほとんど流している。それを毎日のように録音しています。放送の中身がわかるというのが最高の楽しみなんです。私は高校生でLPレコードを手に取った時、「このライナーノートを読めるようになったら、一生幸せだろうな」と思ったんです。本当にその通りで、いまはドイツ語を研究することが仕事にはなっていますが、仕事ということだけでは続けて来れなかった(笑)。好きなことをやっているのに、それが役に立つというほど楽しいことはない。いま若い頃と同じようにラジオ放送をチェックする楽しみを味わえるわけで、昔の自分に戻れるというのが、この歳になると何ものにも代えがたいものがあると思います。
「私のために書かれた」
沼野 私はやはりロシア文学への興味がきっかけです。ロシア語を学んだり教えたりしていると、昔から、どうしてロシア語を選んだのかという質問を無数に受けてきましたので、「希少価値があると思ったから」とか、「ボルシチが大好きだったから」とか、いくつか回答を用意していたものですが(笑)、原点はやはり文学。ドストエフスキーからトルストイに移って、なんと言っても『アンナ・カレーニナ』を読んだことですね。不遜なことを言いますが、「私のために書かれた小説だ」と思いました。小説の中で、トルストイの分身と言われているレーヴィンという登場人物が、生きている意味に悩む。高校生の時でしたから、1世紀以上も昔の人が、違う言語で考えているのに、自分と同じ悩みを抱えている……それがとても衝撃でした。当時は言葉や文化の差異やそこから文学に惹きつけられるような感覚には自覚的ではなかったけれど、「これだ」と思ってしまった。世界文学全集で他の外国文学も読みましたが、一番しっくりきたのが、トルストイのロシア文学だったんです。
武田 私がポルトガル語をやろうと思ったのは15、16歳の頃で、ものすごく単純に、ブラジルに行きたかった!なぜブラジルかと言うと、父が単身赴任していたんですね。家族は一度も行ったことがなかったんですが、お土産や持ち帰ってくる物や情報からブラジルの空気を感じて、「ブラジルを知れば幸せになれるんじゃないか」という直感があった。おかげさまで、今はすごく幸せです(笑)。いま考えると、ブラジルには秩序はもちろんありますけれど、常にそこから逸脱したものも持つ傾向がある。だからこそカーニバルという文化もあるのだと思います。私は比較的厳格な環境で育ったので、何か自分を解放してくれるものを求めていたのかなと今となっては思います。若い頃は、訳も分からずブラジルの魅力を追い求めていただけでしたけれど、「ブラジルに行くためにはポルトガル語をやればいいんだ、なら外大に行けばいい」と考え、その後はまっしぐらでした。そうして今ブラジル研究者になってます。仕事と趣味を兼ね備えている幸せな職業ですよね。
人間は変わる
立石 私が学生だった頃はスペイン内戦を描いたいい映画が何本もあって、中学生の時に『日曜日には鼠を殺せ』という映画が封切りされたんですね。マキと呼ばれるゲリラが、フランコ政権に抵抗する様を描く映画でした。フランス国境線を越えて戦っていたのが、だんだんと状況が苦しくなる。ゲリラ戦で活躍した戦士が南フランスのある街に潜伏しているのを知った政府側が彼をなんとか逮捕したいと考え、噓のニュースを流すんです。「故郷で母親が死にかけている」と。カトリックの国ですから、フランコに抵抗するゲリラであっても、母親の死には立ち会わないといけない。本人は殺されることが分かっていても帰るしかない。そして、そこで殺されてしまう——。そういう暗い映画なんですが、それを見てスペイン的なメンタリティ、歴史に関心を持ったんです。そういったもともとのスペインへの微かな関心に加え、外交官を目指していたので、希少性と汎用性を天秤にかけてスペイン語を専攻しました。学園紛争などがなければ外交官になっていたかもしれません。それがいくつかの事情が重なって、学問世界に足を踏み入れてしまったわけですね。ただ、スペインは今は大好きですよ。文化も料理も好きです。人間は変わるんですよ。だから表現が苦手とか人付き合いが苦手とかあまり言わないで教育のなかで学生も変わっていって欲しい。学ぶことの楽しみと言うと難しいですが、文化を好きになること、そこから自分が変わっていくことは間違いなく楽しいことです。
橋本 「楽しみ」というのは、一様ではありません。レコード盤だったり、文学の本もある。文化や社会問題への関心もあるでしょう。中国語についても、漢字や発音のギャップが面白いのか、何千年も続いた言葉の末端にあるという時間軸を面白がるのか、なんでもいいから自分が面白いと感じる部分を見つけようぜと教室でも言います。そして、長く付き合ってみると、楽しみも変わるし増えてくる。このことを大学4年間で本当に伝えることがどう可能かも大問題なんですが。この言葉とのつきあいが長くなっていることもあり、例えば自分ではやはり古典へ遡る興味が増していますね。李白が地上の麗水—自分の影—宇宙の月を歌う《月下独酌》を読んで、頭上の今夜の月が抱えてきた光と時間に思いを馳せるようになってきたり。人は変わるんですよね。
熱く語れ!
立石 そのためにも、教育では教師が「熱く語る」ことが大切だと思うんです。私のスペインへの関心で言うと、高校時代の英語教師で五木寛之と同じ学年の早稲田露文科出身の先生がいて、『ゲルニカ』という同人誌を出していた。私は当時、情報もなかったのでピカソの「ゲルニカ」のことを知らなかった。その先生からスペイン内戦のことを聞き、揺さぶられました。大学に入っても熱く語る先輩がいて、影響を受けましたね。ある時、ゲバラの国連での演説がソノシートで出たんです。それを先輩に教えられた。
藤縄 赤いソノシート、懐かしい(笑)。
立石 『朝日ソノラマ』の1969年10月号でした。大学管理臨時措置法ができた年で、そのニュースが裏面、表面がゲバラの演説だった。演説を聞くとやはり内容が知りたくなるものです。「自分もこんなふうに話してみたい」というところから、スペイン語にのめり込んだんですね。
武田 自分の最初の動機を熱く語れるような先生や先輩がいると、楽しみを見つけるきっかけを与えられる。その環境を用意する役目は、この大学も担うべきものですし、広く日本の教育の現場にあるべき姿だと思います。今日はありがとうございました。(了)
本座談会は、東京外国語大学言語文化学部編『言葉から社会を考える–この時代に<他者>とどう向き合うか–』(白水社、2016年11月)に収録されたものです。同書では座談会のほか、東京外国語大学で専攻される27言語それぞれの視点から<多様性>について再考しています。ぜひお手に取ってみてください。
東京外国語大学言語文化学部 編
『言葉から社会を考える–この時代に<他者>とどう向き合うか–』
移民が溢れテロが頻発する時代に〈他者〉とどう向き合うか。27言語の視点から見た〈多様性〉とは? 学長ほかによる座談会も収録。
白水社/2016年11月22日/ISBN 9784560095300/定価 本体1,000円+税
【構成】
はじめに(東京外国語大学学長 立石博高)
[座談会]
立石博高(東京外国語大学学長)
沼野恭子(同大学教授、ロシア文学・比較文学)
橋本雄一(同大学准教授、中国近現代文学)
藤縄康弘(同大学准教授、ドイツ語学、言語学)
司会:武田千香(同大学言語文化学部長)
[執筆者一覧]
野村恵造(英語)、成田節(ドイツ語)、森田耕司(ポーランド語)、金指久美子(チェコ語)、秋廣尚恵(フランス語)、花本知子(イタリア語)、川上茂信(スペイン語)、黒澤直俊(ポルトガル語)、中澤英彦(ロシア語)、温品廉三(モンゴル語)、荒川洋平(日本語)、加藤晴子(中国語)、五十嵐孔一(朝鮮語)、降幡正志(インドネシア語)、野元裕樹(マレーシア語)、長屋尚典(フィリピン語)、宇戸清治(タイ語)、鈴木玲子(ラオス語)、野平宗弘(ベトナム語)、上田広美(カンボジア語)、岡野賢二(ビルマ語)、萬宮健策(ウルドゥー語)、水野善文(ヒンディー語)、丹羽京子(ベンガル語)、長渡陽一(アラビア語)、吉枝聡子(ペルシア語)、菅原睦(トルコ語)
[付録]27言語の分布/関連年表