地域研究は人間教育:宮田敏之教授インタビュー
研究室を訪ねてみよう!
モノは世界と繋がっている、そう語るのは国際社会学部東南アジア地域代表・タイ語専攻代表で、国際経済研究所所長の宮田敏之(みやた としゆき)教授です。タイの経済研究を通じて宮田先生が振り返る、地域研究の魅力と醍醐味について、インタビューを通して紐解きます。
取材担当:国際社会学部 東南アジア第2地域/カンボジア語4年 野口亜依さん
地域に根差した経済研究との出会い
―――本日はよろしくお願いいたします。最初に、先生はこれまでどのようなご研究をされてきたのでしょうか。
私は、経済発展論、開発経済学や世界システム論に関心を持ち、早稲田大学大学院経済学研究科修士課程では、内発的発展論を研究しておられた西川潤先生の研究室で経済学説史を学びました。ですが、徐々に理論的研究よりも歴史や現地調査から経済の発展を研究したいと思うようになりました。そこで、もともと関心を持っていた東南アジア、中でも1990年代初頭、著しい経済発展を見せていたタイの経済の発展のあり方を研究しようと考えました。タイ経済の歴史といえば、まず思い浮かぶのがコメでしたので、タイ米の経済的な発展を研究することに決めました。
―――内発的発展論とは何ですか。
すべての地域や社会には、その場所の歴史と伝統、文化があります。内発的発展論とは歴史や文化をもとに社会の経済発展を捉える考え方だと理解しています。私自身もこの考え方に共感し、タイならではの経済発展の歴史や特徴を調べたいと思いました。ちょうどその頃、東京大学の末廣昭教授が書かれた Capital Accumulation in Thailand という本を西川先生から紹介いただきました。末廣昭教授はタイの経済史を企業の視点から分析されていて、当時の私はタイ語や英語を使った末廣先生の研究の奥深さにとても驚きました。
―――地域に根差した研究姿勢ということなのですね。どうして東南アジア、タイを研究対象として選ばれたのですか。
東南アジアは1980年代後半から急速な発展を遂げました。その中でも発展が著しかったのがタイです。1960年代以降、タイは東南アジアの中でも、外国に対して非常に開かれた経済環境を持っていました。そのためアメリカや日本から、積極的に多くの技術や資本を受け入れました。さらに1985年プラザ合意による円高により、日本をはじめとした多くの外国直接投資がタイに流れ込み、タイはそれを活かして急成長し、世界から注目を集めました。
モノから社会を見つめる―お米は世界とつながっている―
―――お米から見る経済研究とはどういったものですか。
コメは、タイ経済の歴史にとって何より重要なモノです。私が大学院でコメに関わる経済研究をしようと思っていた頃、大学院の川勝平太教授から、モノに着目した文化物産複合論という社会経済史研究の方法論を学びました。人間は自然に働きかけることでモノを獲得してきました。人間は自然に働きかけて道具としてのモノを作り、その道具を使い、モノを生産し、そのモノを消費します。人間は自然なしには生きていけず、モノなしには生きていけません。言い換えれば、そのモノに着目すれば、人間と自然との関係、人間の社会や文化の特徴を見極めることができるのではないか、という研究の方法論です。
例えば、コメの栽培は社会ごとに栽培手法や儀礼に特徴があり、そこから人間と自然、人間同士の関係性が見えます。他にも、環境・天候と稲作、コメの流通・商品化、コメ輸出企業の戦略、政府の農業経済政策などにも研究関心は広がります。さらに、タイのコメは世界中に輸出されてきましたので、その動向を研究することは、国際経済を理解することにもつながりますし、国際食糧安全保障にも通じるのです。
―――モノは奥深く人間社会、世界に根差してきたのだとわかりました。先生の研究対象はお米に限らず、他のモノもご研究なさっているのですか。
はい、これまでに自動車や錫、アブラヤシ、建築や放送産業に関わるタイ社会の経済研究を行ってきました。
―――放送産業ですか?
はい、放送産業、これも、電波に着目したモノの研究といってもいいかもしれません。これは偶然の出会いから始まりました。コメの研究をするためにタイの東北部の農村を訪問していた際、コミュニティーごとにたくさんのラジオ局があることに驚きました。大学にもラジオ局がありました。タイでは、インターネットが普及する以前、ラジオによる情報発信が重要な意味を持っていました。こうした体験をきっかけにタイにおけるラジオやテレビの放送産業の構造や放送に関する行政組織について調べるようになりました。2014年にタイではデジタル・テレビ放送が始まりましたが、スマートフォンの普及に伴い、デジタル・テレビ放送産業の広告費は減少し、タイの放送業界は大きく変化しています。テレビ放送局が、放送事業から撤退するという事態も起きており、今後も、引き続き、関心を持っていきたいと思っています。
―――放送産業を調べることで時代を通じて大きく変わるタイ社会の変動を見つめることが出来るのですね。
学生時代は挑戦の毎日
―――ところで、先生は学生時代から経済研究に興味があったのですか。
実は、学部時代を過ごしたのは早稲田大学法学部でした。しかし当時から、法律や判例を学ぶだけでなく、フィールド調査に興味があり、法社会学のゼミに入りました。ゼミでは日本の農村の入会(いりあい)権について学びました。入会権とは山の資源をその地域の住民たちが一緒に管理し、薪や食材を採るという仕組みで、江戸時代から日本の農村に脈々と受け継がれてきました。現代における入会権を取り巻く変化について、岐阜県の恵那市などで現地調査をしました。今風に言えば、「コモンズ」の世界でしょうか。また、歴史や国際関係に興味があったので、文学部や教育学部で聴講しながら社会科の教員免許を取得しました。
―――法学部で学びつつ、当時から社会に根差した研究をなさっていたのですね。クラブ活動など、学外ではどのように活動されていましたか。
ニューオルリンズ・ジャズクラブでトランペットを担当していました。ルイ・アームストロングやデキシ―、スイング(中間派ジャズ)の曲を演奏していました。卒業旅行ではニューヨークの Village VanguardやSweet Basilへジャズを聴きに行き、その後ニューオルリンズのマルディグラというお祭りで仲間とジャズ演奏をしました。ルイ・アームストロングの生地を訪れることができて、大変感動したことを今でも覚えています。
2000年代の終わりに、私の研究するタイの香り米ジャスミン・ライス(Jasmine Rice)に対抗して、アメリカのルイジアナ州で ジャズメン・ライス(Jazzmen Rice) という香り米が栽培されるようになりました。そのため、2012年、今度は、ルイジアナの香り米調査のために、25年ぶりに、再びニューオルリンズに足を運びました。まさか、コメの研究でニューオルリンズを訪問することになるとは、夢にも思いませんでした。
ジャズクラブ以外には、児童文化研究会にも所属していました。手作り人形を作成し、都内の児童館で人形劇を上演したり、夏には岩手県の小学校を回ったりして上演しました。人形を通じたサークルの仲間や子供たちとの交流はとても新鮮でした。
―――非常に多岐に渡った勉強、課外活動でアクティブな学生時代だったのですね! 卒業後進路について、お伺いできますか。
大学卒業後、4年間、地元広島県の県立高等学校で社会科教諭として世界史、地理、政治経済を教えました。私の勤めた県立油木高等学校は、広島県の山間部に位置し、普通科と農業科がある小さな学校です。社会科を教える傍ら、地域の方たちの支援で創設された硬式野球部の初代監督を務めました。創部3年目の夏予選で初勝利した時の新聞は今でも大切に保管してあります。4年間の高校教諭生活は大変充実していましたが、生徒の皆さんにいろいろなことを教える中で、私自身、もう一度学びたいと強く思うようになりました。経済発展や開発というテーマを大学院で学ぶことに決めました。
大学院で経済発展や開発を学ぶ中で、タイのことを研究しようと決めましたが、タイ語は未経験だったので、タイ国内で短期のタイ語合宿に参加し、日本の学校でもタイ語を勉強しました。その後、タイのタマサート大学大学院院経済学研究科へ交換留学し、経済学を学びつつ、タイ語の授業にも出席し、現地のタイ語学校にも通って、忙しく過ごしました。留学2年目はチュラーロンコーン大学大学院経済学研究科で経済史の授業に出席しながら、タイの米経済史に関する修士論文を完成させました。帰国後は、京都大学東南アジア研究センターの先生方が指導されていた京都大学大学院の博士後期課程で学びました。その後、1998年から奈良県にある天理大学のタイ学科専任講師を務め、2005年東京外国語大学に着任し、現在に至ります。
タイでの出会いと研究の礎
―――タイでの研究を通じてどのような方々と出会いましたか。
1993年にタイのタマサート大学大学院に交換留学生として学びました。その時に、同じクラスだったタイ人の友人達とは30年近く経った今でも、連絡を取り合っています。彼らと話していると外国人の私にはうかがい知れない、タイの政治、経済や社会の深いところを少しだけ知ることができたような気がします。当時、同じクラスにはカンボジア人とミャンマー人の留学生もいました。私も彼らも、ともに、タイでは外国人ということで、タイの事情がよくわからない者同士、仲良くなりました。あの頃、カンボジアにはカンボジア国連暫定統治機構UNTACがあった時代です。私は、カンボジアの親せきを訪問するそのカンボジア人の友人と共に1994年4月カンボジアを訪れ、彼の親せきの家でホームステイしました。復興に向けたエネルギーに満ち溢れていた印象があります。また、ミャンマー人の友人の里帰りに合わせて、私もヤンゴンへ行き、彼の実家や村々を巡りました。タイでは、思いがけず、カンボジアやミャンマーの人たちとも知り合うことができました。
タイ経済史研究者の第一人者であるパンニー・ブレアック教授には、タイのコメに着目した経済史研究を進める上でいつも助言をいただいています。最初の出会いは、パンニー先生が1992年の1年間、東京大学で在外研究をされていた時です。濱下武志・東京大学教授(当時)が私をパンニー先生にご紹介くださいました。ちょうど、私がアジア市場の中でタイのコメがどのように貿易されていたか研究しようとしていた頃でして、華僑ネットワークや近代アジア市場のご研究で有名な濱下先生が、東大で在外研究されていたパンニー先生を紹介くださいました。1993年、タイに私がタイに留学して以降は、タイでパンニー先生に、いろいろお世話になりました。故石井米雄先生がアユタヤで主催された「琉球・アユタヤ歴史セミナー」にも、パンニー先生のご紹介で参加できましたし、バンコクのみならず、タイ中部のチャチュンサオ県の複合農業プロジェクトやタイ東北部のルーイ県にあるプーグラドン山への登山など、タイ国内各地に同行させてもらいました。新型コロナでタイに行けなくなった現在も、SNSで連絡を取り合っています。
2000年代になりますと、タイの高級香り米ジャスミン・ライスの研究を本格化させました。2002年11月知り合いのタイ東北部の農家を訪ねた際、たまたま収穫した籾米が大量に持ち込まれている場所があったので、ずうずうしくも、その敷地にお邪魔してお話を伺いました。そこで、話し相手をしてくださったのが、今も、お世話になっている、タイ東北部ローイエット県の農業協同組合ブングート・バーノン事務局長でした。1980年代末に破綻しかけたこの農協は、彼女のリーダーシップで香り米の買取・精米・販売をもとに経営が回復し、組合員数も増加していたことがわかりました。それ以来、もう20年近く、毎年、この農協に通い続けて、農協の精米業やマーケッティングの戦略やその苦労をヒアリングしています。タイ東北部の料理はともかく辛いので、私には辛すぎて、いつも、小さな悲鳴をあげています。ですが、これはタイの地方の日常を知る貴重な経験だと思っています。幸い、行くたびに、精米所の規模が大きくなり、設備が更新されていく姿を見ることができ、私も大変うれしく思っています。民間のアグリビジネス業者がタイの農村では大変大きな力を持っています。その中で、農協がどのように経営改革を続けていくのか、今後も注目していきたいと思っています。
―――多くの人と出会い共に学びを深め合うことで、研究を広げられていったのですね。タイでの現地調査だけでなく、世界各地でおこなわれた学会で発表を続けられてきていますね。―タイのテレビ番組にご出演なさったんですか!
新型コロナ前は、毎年、タイでの現地調査を続けてきました。ただ、1990年代のタイ留学以後は、主に短期の出張でした。ですが、特別研修で2013年~2014年に6か月タイで調査することができました。ちょうど2013年11月以降、当時のインラック政権に対する反政府運動が起きて、大規模デモと首都封鎖(バンコク・シャットダウン)が起きて、騒然とした中で過ごしました。特に、インラック政権が進めていたコメの買い上げ制度(ジャムナム・カーオ制度)の資金繰りが困難となって、農民が政府に販売した籾の代金を政府が支払えないという信じられない事態が起きました。農民の所得向上のために籾を高く買い上げるという政策自体は良いものだと思われましたが、資金繰りに躓いてしまったわけです。
その頃、ちょうど、京都大学時代に共に学んだタイ人女性が、あるテレビのキャスターをしていまして、彼女の番組で、戦後コメの買い上げ制度を採用した日本の経験やタイの籾米買い上げ制度の問題点などを話すことになりました。インタビュー形式の50分番組でした。3名のタイ人・キャスターたちが話すタイ語が全てわかったわけではないですが、自分の知っているタイ語で何とか話をつなぎました。何事も「思い切り」と「勇気」が大切だと痛感しました。十分に話せたとは思いませんが、私にとっては、とても貴重な機会でした。
タイのコメに関わる経済史研究については、幸いにも、世界経済史学会(World Economic History Congress)で、発表する機会をいただいています。この学会の研究大会は、世界各地でおこなわれるので、フィンランドのヘルシンキ、オランダのユトレヒト、南アフリカのストレンボッシュで開かれた会議でタイの経済史について発表することができました。私は、タイ語文献や資料を読み、調査している対象はタイなのですが、研究成果を発表する場は、タイや日本だけでなく、世界に開かれているということを実感しています。実は、世界中に、タイの香り米ジャスミン・ライスが輸出されていますので、訪れた各地のスーパーマーケットに立ち寄り、タイのジャスミン・ライスがあるかどうかを確かめるのも楽しみの一つです。幸い、アジアだけでなく、ヨーロッパでも、アフリカでも、そしてアメリカでも、タイのジャスミン・ライスにお目にかかれます。今年7月はフランスのパリで実施される予定ですが、対面なのか、オンラインなのか、ハイブリッドなのか、未定ですが、できれば現地に行きたいと思っています。
地域と世界をつなげたい―食糧安全保障への挑戦―
―――ではここから、先生の直近のご活動についてお伺いできますか。
新型コロナウイルスの拡大で現地調査や海外渡航ができない分、最近は今まで集めてきた資料の整理と分析を進め、インターネットによる情報収集やメールやオンライン・ミーティングを介したタイとの交流を継続しています。
本学では、タイ語専攻代表、東南アジア地域代表、国際関係研究所所長を務めています。東南アジア経済やタイ研究の授業だけでなく、タイ語の授業も担当しています。1年生にはタイ文字の授業、2年生~4年生にはタイ語講読(翻訳)の授業を担当しています。タイ語講読の授業では、タイ語の文法構造を把握した上で、タイ文の意図を踏まえて、できるだけ正確で読みやすい日本語への翻訳を心がけるよう、タイ語専攻の学生さんに呼び掛けています。タイ語資料を読んで、研究に活かせるようになってほしいと思っています。
3年生の東南アジア経済ゼミでは、東南アジアの経済や社会を中心に、日本語や英語の文献を輪読しています。卒論作成に向けて、学生の皆さんの研究関心がうまく卒業論文という形でまとまるようゼミでは議論を重ねています。また、ゼミ合宿で農業実習をしていたこともあります。宮田ゼミ・タイ語出身の河上(旧姓・橋本)めぐみさんの富山県の御実家が「土遊野(どゆうの)」という有畜複合循環型自然農法の農場を運営されており、合鴨稲作や養鶏の様子を学ぶためにゼミ合宿をしていました。日本ならではの素晴らしい農業実践を学びながら、世界や東南アジアの農業や食料のあり方をゼミの皆さんと考えました。
国際関係研究所には、国際政治、国際法、国際経済等の専門家の先生がたくさん所属されています。同時に、地域研究に軸を置きながら、世界の中の地域を考えておられる先生方も所属されています。私もその一人であろうと思います。
たとえば、2021年度、国際関係研究所の共同研究として『国際食糧安全保障と東南アジアの米輸出』(京都大学東南アジア地域研究研究所共同研究会共催)をおこないました。新型コロナで世界済は大きく混乱し、国際的な食糧需給も不安定な状況になりました。実は、私の研究しているタイのコメの半分はアフリカに輸出されています。他方、アフリカ諸国の穀物消費の点から見ても、東南アジアのコメは重要な意味をもっています。東南アジアからアフリカへ米の流れを分析することは、今後の国際食糧安全保障を考えるうえで大変重要だと思っています。
最後に―異文化理解の挑戦者たちへ―
―――先生はタイのお米を通じて、歴史、経済、文化、国際関係と非常に多岐にわたる研究をなさってこられました。先生のように複眼的な視座から研究を深めていくためには、学生時代どんなことが大切になってくるでしょうか。
せっかく縁あって、ある国や地域のことを学ぶ機会に恵まれたとすれば、自分の問題関心や好奇心を大切に、何かしらの「切り口」をみつけて、その国や地域を学んでみてほしいと思います。そして自分らしい研究課題を見つけて卒業論文を完成してほしいと願っています。ですが、それはなかなか難しい作業です。授業を通じて、自分の問題意識に関係ありそうな「理論」を積極的に学んでみることも必要です。同時に、ある国や地域の歴史、政治経済、社会、文化の中で一番関心を持てそうなトピックについて、深く調べてみることも大事だろうと思います。私の場合は、「切り口」としては経済史研究であり、「モノ」に着目するという方法にもとづき、「コメ」を通じて、タイの経済社会を歴史的に研究しています。卒業論文の研究課題を設定することはなかなか難しい作業です。それでも、自分なりの研究課題を設定することは、「問題発見能力」を高める上で大変重要です。その問いに対して、完全な答えは出ないかもしれませんが、論文構成を考え、解を求めて模索するプロセスが、とても大切だろうと思います。社会に出れば、誰かが、正解を教えてくれるわけではありません。「問題発見能力」と「解を模索する力」を鍛えることができるのが、東京外国語大学で地域研究を学ぶ意義ではないかと思います。
―――では、最後に在校生、読者の皆さまへメッセージをお願いします。
外国語や海外の国や地域を学ぶことは、「異文化理解への挑戦」だと思っています。それは楽しくもありますが、多くの時間と労力を要する骨のおれる挑戦です。しかし、異文化理解へ挑戦すること、それ自体に、非常に大きな意義があります。一国や地域、社会を理解しようとすると、その複雑さ、理解の難しさに気づかされますが、それが更なる相互理解を生み出し、国際社会が目指す共生への道筋を築くと思っています。異文化理解に挑戦したという経験こそが、何にも代えがたいものです。それは、皆さんが社会に出てからの長い人生の中で大きな財産になるでしょう。地域研究とは人間教育だと思っています。
―――本日は貴重なお話を、本当にありがとうございました。
インタビュー後記
「モノから社会、世界を見つめる」この考えに惹かれて宮田先生のゼミに入ってから1年が経ちました。自分の立っている場所を、身近なモノを、少し深く掘り下げると、汲めども尽きせぬ泉があることに気づかされます。その時間、その場所、一瞬の出会いを大切にして道を切り開く面白さと奥深さを、私は宮田ゼミから学びました。この記事を通じて、地域研究の底知れぬ魅力が少しでも多くの人に伝えることができれば幸いです。
取材担当:野口亜依(国際社会学部 東南アジア第2地域/カンボジア語4年)