今週ルモンド紙は、1994年にルワンダでジェノサイドが起こった時期のフランスの外交政策に関する記事を集中して掲載している。幾つかの新たな事実が明るみに出たことを機に当時のフランスの外交政策を批判的に検証することが目的である。記事を読んで考えさせられるのは、当時のルワンダ政策を検討しようとすると、必然的にミッテラン外交の批判的検証になることである。当時フランスは、ハビャリマナ政権に肩入れし、RPF(現政権与党)を敵視する政策をとったが、ハビャリマナ政権の要人がジェノサイドに加担したために、フランスはその外交姿勢を厳しく批判されることになった。本日掲載された記事では、元国防省の要人が、1993年1月の人権団体による報告書を読んで、ハビャリマナ政権に肩入れする危険性を指摘したにもかかわらず、聞き入れられなかったと述懐している。当時のフランスのアフリカ政策は大統領府のアフリカ担当局が主導しており、特に対ルワンダ政策に関してはその担当だったミッテランの息子(ジャン=クリストフ・ミッテラン)の影響力が強かったことがかねてから指摘されてきた。ジェノサイドから四半世紀が経とうとしている現在もなお、ミッテランという偉大な大統領の外交をどう評価するかをめぐって議論が続いているわけで、この「過去の克服」がフランスにとって容易でないことを示している。
今日のアフリカ
フランスの対ルワンダ政策
2018/03/17/Sat