1944年12月、ダカール郊外のティアロワイ(Thiaroye)基地で、フランス兵士が多数のアフリカ人兵士を殺害する事件が起こった。事件から80年後の今日、改めてフランス側の対応が問われている(11月7日付ルモンド)。
アフリカ人兵士はいわゆる「セネガル騎兵」で、仏領西アフリカから徴集されて、ヨーロッパ戦線へ送られた。その後セネガルに戻った兵士たちが待遇への不満から蜂起し、鎮圧によって多数が殺害されたのである。犠牲者の数は30人とも300人とも言われ、正確にわかっていない。この事件は以前「反乱」と呼ばれたが、2014年に当時のオランド仏大統領が「血なまぐさい抑圧」であったと認め、現在では「ティアロワイの虐殺」と呼ばれることが一般的である。
今年の6月、フランス側が、犠牲者のうち6人に対して「フランスのために死す」という称号を与える決定をしたことで論争が再燃し、ソンコ首相はフランスの対応に不満を表明した。
ソンコ首相やジョマイ・ファイ大統領は、これまでこの問題が正当に扱われてこなかったと考えており、フランスが植民地期の文書を完全に公開していないとの不満を持っている。
コロンビア大学のセネガル人歴史学者ママドゥ・ディウフによれば、「ティアロワイの虐殺は、過去数十年、政治的にアンタッチャブルだった。歴代のセネガル大統領は、この問題に触れてフランスとの関係を悪化させることを恐れてきた。初代大統領で詩人のサンゴールは自作の詩の中でこの虐殺を糾弾したが、彼でさえ在任中にこの問題を持ち出すことはなかった。ミッテラン政権下、ウスマン・センベーヌの映画「ティアロワイ基地」は、上映禁止処分を受けた。今日、新たな政権の下で、この記憶を妨害する試みが解体されている」とコメントした。
ソンコ首相の側近は、「何人が殺されたのかもわかっていない」として、完全な文書開示を求めている。10月半ばには、ジョマイ・ファイ大統領とマクロン大統領が電話会談し、セネガル側は改めて文書の完全開示を求めた。セネガルの歴史家やアーキビストがフランスを訪問して、文書を確認することになっている。
フランス側では、メランシャン党首率いる左派政党「不服従のフランス」(La France Insoumise)がセネガルの動きを支援し、議会での調査委員会設置も提案する構えである。
12月1日の虐殺80周年式典には、フランス大統領も招かれている。マクロンはまだ出欠を明らかにしていないが、いずれにせよ難しい対応を迫られることになる。
植民地期の記憶をめぐる問題は、マクロンが力を入れて取り組んできたものだ。しかし、旧宗主国側がコントロールできる問題ではないことは、例えば日韓関係を考えても明らかだ。フランスとアフリカの関係も、日韓関係とパラレルな局面に入りつつあるのだろう。(武内進一)
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