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国際社会学部4年の花原薫さん。卒業研究の一環として、インドに起源を持つチベット文字と悉曇(しったん)文字の個展「天竺字展」を開催しました。中学時代にチベット文字の美しさに魅了されてから約10年。高野山の阿闍梨(あじゃり)から直接伝授された悉曇文字の修行を経て、千年の時を越えた文字の形に宿る美と、その奥に流れる精神性を伝える花原さんに、文字への情熱と2028年の卒業論文執筆集大成に向けた歩みを伺いました。


北京五輪の紙幣から始まった、10年来の文字への情熱

──まずは、花原さんがチベット文字や悉曇文字など、インドに起源を持つ文字に惹かれたきっかけを教えてください。 

きっかけは中学1年生の時、地理の教科書に掲載されていた2008年北京五輪の記念紙幣を目にしたことでした。紙幣にはチベット文字が書かれていたのですが、その美しさに感銘を受けたのが始まりです。
その後独学でチベット語の学習を始め、深く学んでいくうちに、チベット文字が「インド系文字」という大きな文字体系の一つであることを知り、その体系そのものに強い関心を持つようになりました。「インド系文字」は紀元前3世紀のアショーカ王碑文に見られるブラーフミー文字を共通の祖先にもつ文字体系で、現代でもヒンディー語のデーヴァナーガリー文字をはじめ、ベンガル文字、タミル文字、チベット文字、クメール(カンボジア)文字、タイ文字など、多くの言語で使われています。今回の卒業研究では、この広大な体系の中から、私の原点でもあるチベット文字の書体について扱う予定です。

二つの意義を込めたデモンストレーション:「天竺字展」の役割

──今回の個展「天竺字展」は、10年前から抱いていた情熱が形になったものなのですね。 

実は書道展を開催するという構想自体は、ゼミに入る前からずっと抱いていました。チベット文字との偶然の出会いをきっかけに、約10年もインド系文字への関心を持ち続けてきたので、こうして大学で個展という形にすることができて非常に感慨深いです。
もともとは、卒業時に研究成果として展示を行いたいと指導教員の大石高典先生にご相談したのですが、「今年9月からの留学前に一度やってみてはどうか」と背中を押していただき、今回デモンストレーションとしての開催が実現しました。 

── この個展には、単なる展示以上の「二つの目的」があると伺いました。 

その通りです。一つは卒業研究のステップとして、チベット文字の書体や書道に関する探究の成果を示すこと。そしてもう一つは、今年3月に高野山において阿闍梨(師匠)より梵字悉曇の「面授(めんじゅ)」を受けた修得成果を公表する機会にすることです。展覧会名の「天竺」も、これらインドに起源を持つ文字たちのルーツを象徴して名付けました。

設営日の夜
朝の展示会場

高野山での「面授」:2週間で6,400字を書き上げる過酷な修行

──梵字悉曇とはあまり聞き馴染みのない名前ですが、どのような文字なのでしょうか。 

「梵字」という用語は厳密に言うと、インド系文字を広く表す総称です。日本の密教で使われている梵字には、サンスクリット語で「シッダ・マートリカー」、和語で「悉曇文字/梵字悉曇」という名称もありますが、日本では「梵字=悉曇文字」として定着しました。私の習った慈雲流のように毛筆で書かれることもありますが、漢字や仮名とは全く系統の異なる文字です。

──チベット文字は独学と伺いましたが、この梵字もご自身で学ばれたのですか。 

いえ、そこが梵字の最も特殊なところです。真言宗において梵字は単なる記号ではなく、身・口・心の「三密」で唱える真言の根幹をなすものと考えられています。そのため聖性を帯びており、「阿闍梨」と呼ばれる、徒弟を導く資格を持つ高僧から面授(師が弟子に対面して口ずから伝授すること)されなければ、習得したことにならないという厳格な掟があります。

──独学ではなく、師匠から直接受け継ぐ必要があるのですね。それで、実際にその「面授」を受けに行かれたと。 

はい、正統な継承者として創作活動を行うため、今年3月に2週間、聖地である和歌山県の高野山に滞在しました。そこで伝燈大阿闍梨(でんとうだいあじゃり)である静慈圓(しずか じえん)先生に師事し、朝から晩まで文字と向き合う修行の日々を過ごしました。 

──高野山での行程はいかがでしたか。 

最も重要なのは「梵字悉曇十八章」という五十音表のようなものを手書きで作る行程で、最終的には合計で約6,400字もの梵字を書くことになります。通常は数ヶ月かけるものですが、私は1日の大半を費やし、2週間で修了しました。本学でサンスクリット語を履修していた知識も大きな助けになりましたね。この修行を経て免状を授かったことで、正統な継承者としてようやく創作活動を世に出すことが認められたのです。

免状と展示解説

文字の構造と「自己」の重なり:薫香(gandha)と五大の教え

──高野山での修行を経て生み出された展示作品「薫香(gandha)」には、ご自身のお名前が込められているそうですね。 

はい。私の名前である「薫」を、サンスクリット語(gandha)とチベット語(དྲི་ཞིམ་)で表現しました。単なる香りではなく、特に心地よい「芳香」を意味する言葉です。これは仏教における五感「五境」の一つである「香境」としての意味を持ち、香りを食べて音楽を奏でる神「乾闥婆(けんだつば, 梵:gandharva)」の語源にもなっています。

──展示では、「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五文字も非常に目を惹きました。 

仏教には、万物を構成する「地・水・火・風・空」という5つの要素を指す、「五大(ごだい)」という教えがあります。この5つの要素それぞれを、一文字で象徴する特別な梵字を「種子(しゅじ)」と呼ぶのですが、その5文字を並べたものが今回の作品です。高野山に滞在している間、この「キャ・カ・ラ・バ・ア」の五文字を町の至る所で目にしましたので、私にとって、まさに高野山での日々を象徴する文字として、今回の個展に展示することに決めました。 

──日本で受け継がれてきた「読み」にも特徴があるそうですね。 

はい。日本では伝統的に「キャ・カ・ラ・バ・ア」と読まれることが多いのですが、実は原語であるサンスクリット語に忠実に転写すると「カ・ハ・ラ・ヴァ・ア(khaha ra va a)」となります。真言の唱え方も阿闍梨によって伝承されますが、師匠も日本読みで教わったとお聞きしました。言語によって音韻が変化することは往々にして起こる現象ですが、梵字を見れば元のサンスクリット語音に遡れます。真言の「原型」を継承するためにも、梵字は重要だといいます。

「薫香」
「キャ・カ・ラ・バ・ア」
下から見た「キャ・カ・ラ・バ・ア」

──チベット文字の作品も、書体によって全く表情が違って驚きました。文字の構造にも特徴があるのでしょうか。 

チベット文字には1000年以上の歴史があり、書体は大きく「ウチェン(有頭字)」と「ウメ(無頭字)」に分けられます。この「ウ」とは「頭」を意味し、文字の上部にある横線のことを指します。今回は、シャープな「ウチェン」、装飾的で力強い「ドゥツァ」、直線的な縦画と曲線的な横画の美が共存する「ツクリン」、曲線美が魅力的な「キュクイー」の4種類を作品にしました。これらのチベット文字と漢字の書道は、すべて独学で研鑽を積んできたものです。

「タシデレ」活字体(ウチェン)
横から見た「ツクリン」体
「タシデレ」草書体(キュクイー)
2つの書体で「タシデレ」

──チベット文字や漢字の書道をすべて独学で研鑽されてきたというお話に、並々ならぬ熱量を感じます。展示作品の一つである『サキャ格言集』の「学問の成就には苦しみを伴う」という一節は、自らを律して文字の世界を切り拓いてこられた花原さんの歩みそのものを象徴しているように思えますが、いかがでしょうか。 

そうですね。「学問の成就には苦しみを伴う。楽をしていては、学識は手に入らない。小さな快楽を求めていては、大きな幸福は手に入らない」というこの格言は、チベットの方に教わったものです。言語や書道など、大変な道のりも必ず実を結ぶという励みになっています。実際、私は大学入学後2年間クメール語を学び抜き、昨年カンボジア大使館でのスピーチコンテストで優勝しました(*1)。この経験があるからこそ、私にとって非常に重みのある言葉です。

*1:本学学生がカンボジア語スピーチコンテストで入賞 

──その真摯な探究の成果は、来場者の方々にもしっかり伝わったようですね。 

個展開催時は梵字悉曇を習い始めてまだ4ヶ月ほどでしたが、その成果を作品として発表できたことを嬉しく思います。チベット文字と梵字悉曇はどちらもインドに共通の祖先をもつ文字体系ですが、一方はヒマラヤの地で、もう一方は日本の密教という伝統の中で、それぞれ独自の美しさを磨いてきました。今回の展示では、ビジュアルの魅力はもちろんのこと、これら共通のルーツを持つ文字たちが辿ったそれぞれの歴史や、文字の背後に宿る精神性を、作品を通じて感じていただきたいと考えていました。

──反響はありましたか。 

ありがたいことに、多くの方から「作品の題材や見た目、大きさに目を惹かれた」「説明書きがわかりやすかった」という声をいただくことができました。
一方で、広報の仕方など具体的なアドバイスもいただけたので、それを次回の「本番」に向けた課題として、さらに磨きをかけていきたいと考えています。

サキャ格言集より「学問の成就には苦しみを伴う。楽をしていては、学識は手に入らない。小さな快楽を求めていては、大きな幸福は手に入らない。」
「宝珠」と「金剛」
六字真言「オン・マニ・ペメ・フム」

留学、そして2028年の卒業展覧会へ

──今後の展望を聞かせてください。 

はい、卒業展覧会の構想については、すでに練り始めています。私は今年9月から、自分の専攻地域であるカンボジアの王立プノンペン大学へ1年間留学に行きます。
留学先では、古代クメール語やサンスクリット・パーリ語など、あらゆる言語的側面からクメール語を多角的に眺めて学ぶことを、今からとても楽しみにしています。また、年代によって字体が異なる古代クメール文字やクメールの伝統模様についても学びたいと考えていて、それらをどう展示に盛り込んでいくか思考を巡らせているところです。
さらにこの留学の後は、復学する直前までの短い期間ですが、中国の青海省に滞在して、チベット書道を本場で学ぶ予定もあります。
こうした一連の展望を経て、2028年の卒業展覧会ではさらに専門性やオリジナリティの高い展示ができるのではないかと楽しみにしています。今回よりもさらに多様なスタイルの作品を用意したり、個展に関連したイベントを企画したりして、より規模の大きい展示を構想しています。


(インタビューを終えて)

「文字を書くこと自体が宗教的な実践である」と語る花原さん。高野山での厳しい修行を経て得た精神性と、中学時代から真摯に向き合ってきた文字への想いが、作品の一つひとつに宿っていると感じました。2028年、カンボジアや青海省での学びを経て、その「筆」がどのような進化を遂げているのか、今から期待が膨らみます。

関連リンク

  • 花原さんの高野山留学の様子はこちら

お問い合わせ先

東京外国語大学 広報・社会連携課
koho@tufs.ac.jp

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