巡り巡ってためになりたい場所〜天涯比隣の屋久島:日高杏さんインタビュー
外大生インタビュー
みなさんは鹿児島県の屋久島(やくしま)を訪れたことはありますか?世界遺産にも登録されていることで有名なため、訪れたことがなくてもご存知の方は多いことと思います。今回の「私のふるさと〜外大生にインタビュー〜」第9段では、屋久島出身の日高杏(ひだか・あん)さん(言語文化学部4年)に、屋久島での幼少期の経験、郷土の魅力などを伺いました。
取材担当:国際社会学部中央ヨーロッパ地域/チェコ語3年 金澤鼓(かなざわつづみ)
記事担当:大学院総合国際学研究科世界言語社会専攻国際社会コース1年 照井美優(てるいみゆう)
(以上、広報マネジメント・オフィス学生取材班)
屋久島での幼少期
−−−屋久島にはどれほどの期間いらっしゃったのですか?
生まれてから中学校卒業までです。高校進学を機に、父を島に残して鹿児島本土の鹿児島市に引っ越しました。島ではこのようなケースがたまにあります。今は母も島に戻っています。両親共に屋久島出身なのでまさに地元です。
−−−こちらはどこの写真ですか?
これは屋久島にある私の地元の集落においてシンボルのような山です。正式には「本富岳」という名前なのですが、「モッチョム岳」という愛称で親しまれています。小学6年生になると卒業行事としてみんなでこのモッチョムに登ります。朝から夜にかけて登ったので結構大変でした。でも、校庭で子どもたちを待つ保護者の方々が旗を持っているのが山の頂上から見えて、今考えてもあの景色は良かったなと思います。
−−−屋久島において学校数は少ないですか?
そうですね、私が小学生の時点で統合や廃校で段々少なくなっていきました。小学校は山の円周に沿って点在していますが、中学校は3校のみです。山が円錐型なので、人が住めるのはその外側に限られますし、山を挟んで反対側に向かうにも山の麓に沿って行かなければなりません。
−−−屋久島と聞くと観光の印象があるので、そこに住む人々のことを考えたことがありませんでした。
確かに観光は主要産業ですが、近年はコロナの影響で停滞しています。以前は地元のスーパーに登山用のリュックを背負った外国人観光客がいて、身近に観光があるような場所でした。
−−−これは竹馬ですか?
はい、私の小学校では竹馬大会がありました。竹馬は裸足で乗らなければならないので、冬の寒い中、砂利の上を裸足で歩いて竹馬に乗っていました。高学年になると竹馬でサッカーをしたり、リレーをしたりします。私は運動が苦手でしたが、1年生から体育の授業や休み時間に練習して上達しました。
−−−竹馬の数がとても多いですね。こんなに並んでいるのは見たことがないです。
でも、これはほんの一部です。親が山から竹を採ってきたり工務店で入手したりして子どものために竹馬を作ります。私の竹馬は木製でした。1年生の竹馬はやはり小さく、6年生になると体も大きくなってサッカーもするようになるので、耐久性を考えて、何年かおきに作り直すご家庭もあります。竹馬にテープが貼られていますが、これは自分の竹馬がわかるようにするための目印になっています。
−−−こちらは何の写真ですか?
これは地元の公園です。建設に父が関わっており、幼い頃から遊び親しんできた思い出深い風景です。特に夏休み中は小学生や中学生がこの川で遊んでいます。奥に映っているのは先程話したモッチョムです。
−−−お父様の作った場所で遊べるのは良いですね。
小学校高学年のとき、父と一緒に散歩をしていて「ここ、俺も作ったんだよ」と言われ、幼心ながらに父に感心しました。それまでそれを知らずに遊んできたので本当に驚きました。とても好きな場所です。
−−−こちらはどこの写真ですか?
これは集落の神社です。鳥居は寂れていて緑がうっそうと茂っているのですが、お正月はみんなここに来てお参りしています。すれ違う集落の人に年始の挨拶をしたり、お着物を着た小さい子に「もうこんなに大きくなったの!」と新年のやりとりをしたりしていました。集落の人との交流を経て、やっと上の神社に着きます。
−−−ここにある木は屋久杉ですか?
屋久杉というのは屋久島に標高500m以上の山地に自生する杉で、島の外の人から「屋久杉見たことある?」と聞かれることがありますが、それはおそらく縄文杉のことです。一本有名な縄文杉がありますが、島の外の人はそれを屋久杉だと思っているみたいです。屋久杉はたくさん生えています。
上京して気づけた、故郷の「当たり前」
−−−この写真について教えてください。
これは集落の夏祭り、盆踊りの写真ですね。大学1年生のとき、小中学校を共にした2人の同級生と行きました。小規模で出店の数もわずかですが、子どもからお年寄りまで集落のみんなが集まる場所なので終始盛り上がっています。
−−−集落の連帯感が深まりそうですね。
盆踊り中心なので、みんなで声を出し合いながら輪になって踊り、集落の一員としての連帯感はありました。毎年同じ3曲で踊るのですが、覚えていない人は事前に公民館に集まって覚えて、当日を迎えていました。1回踊っては、出店や持参の食べ物で休憩し、おしゃべりをする流れを繰り返します。他にもビンゴ大会や小学校のクラブ活動の発表会もあり、私は和太鼓を披露したことがあります。小さい子どもが前に出るようなお祭りでした。大学1年生以来参加できていないので、また行きたいです。
−−−郷土料理はありますか?
1月7日に「祝い申そう」という行事があります。夜に小中学生と数人の青年団・親でグループごとに集落特有の新年の祝い歌を歌いに家を一軒一軒訪ねた際、その家の方々がご馳走やお菓子をお礼に振る舞ってくれます。イカやトビウオのお刺身などご家庭によって特徴があり、毎年行われるので、その日の夕飯は楽しみでした。一番好きな集落の行事です。歌は訛りが多く、メロディーも集落によって異なるため一度聴いてみてほしいです。
−−−長い期間屋久島で過ごしてきて、土地の雰囲気や住み心地について、どのように感じていますか?
自然の多さは実際肌で感じていましたし、「屋久島は自然が多くて…」という説明もよくあるので認識はしていたのですが、鹿児島本土や東京に出てきてから身に染みて感じるようになりました。成人式で島の同窓会があり、同級生と一緒に夜道を歩いていたのですが、星で埋め尽くされるのではないかというくらいの満点の星空で、「こんなところに住んでいたのか」と思いました。昔はそれが当たり前で特別何も思わなかったのですが、離れてみてその豊かさに気づけました。
−−−故郷の好きなところを教えてください。
同級生が家族のような存在だということです。幼い頃から少人数で一緒に年数を重ねてきたので、久しく会っていなくても、再会すると分け隔てない空気感があり、家族ぐるみの遠慮なく付き合えるこの環境だからこそ育めたものだと思います。離れていても親密さが薄れることはありません。
−−−特に印象に残っている同級生との思い出はありますか?
中学校の卒業行事で島を自転車で1日かけて1周したことです。もう足が使い物にならなくなるくらい過酷なのですが、同級生と励まし合って何とか全員でゴールできました。高校進学で島を出る人もいるので、みんなでできる最後の行事としてとても達成感があります。
−−−上京後、故郷が恋しい瞬間はありましたか?
家族のチャットで「今日は集落の〜の行事だったよ」と送られてくる写真や、同級生のSNSに何気なく映る風景から「帰りたい」と思います。普段私は文面のみでやりとりをすることが多いのですが、恋しくなったときは自分から家族に電話することが多いです。同級生にもメッセージを送って、行けない分コミュニケーションはとっています。
故郷での経験が「言葉」の勉強の原動力に
−−−なぜ上京して東京外大に進学しようと思ったのですか?
東京にこだわってはいなかったのですが、何か言葉の勉強をしたいと考えたときに受験科目が私に合っていました。幼少期から島の英語塾に通わせてもらっていたので、英語が単純に好きでした。観光が資源の島で育つ中で、外国人観光客と接する機会も多く、その際に感じた心の高揚から「言葉」に興味を持ちました。親の話を聞くと、英語に限らず、小さい頃から音読をするのが好きだったらしいです。言葉自体が好きだったのだと思います。
−−−なぜ専攻を中国語にしたのですか?
幼い頃から英語に親しんできたので、中学校での英語は外国語学習という感覚がなくて、大学入学を機に英語以外の外国語を学んでみたいと思いました。地理的にも漢字文化圏という点から精神的距離感も近かったのが中国語でした。現在は現代中国語の文法を研究するゼミに所属しています。東京外大は言語学に強いですし、先生に気兼ねなく質問や相談ができるのでとても良い環境です。
−−−4年間かなり中国語にコミットしていたのでしょうか?
1年次は中国語が嫌いで、毎日現実逃避を考えていました。好きになれたきっかけは、友人と「もう嫌だね、難しいね」と辛さを分かち合いながら一緒に勉強できたことです。今となっては続けてきて良かったと思いますし、中国語自体も好きになれました。仲間の存在は心強いです。
恩返しへの模索
−−−将来屋久島に戻りたいですか?
正直、今は自分が数十年後どこにいたいかよくわかりません。島の人口が減少し産業規模の縮小が懸念される中で、何も考えていない自分が戻ってもいずれ困るのではないかと考えています。来年東京で就職する予定なので、若いうちは自分の「好き」を追求しようと思っていますが、だからと言って何十年も東京にいるつもりはありません。移動先が屋久島なのかはまだわかりませんが、魅力的な場所であるのは確かなので候補の1つにはなると思います。
−−−好きなことができる場所というのは重要ですよね。
私は映画館や博物館・美術館に行くのが好きなのですが、島にはほとんどなく、映画は金曜ロードショーで観るものだと思っていました。上京して、休日や学校の遠足で行ける環境を羨ましく思いました。島と東京では入ってくる情報量の差が大きすぎます。そこでしかできない体験があると思うので、それをもう少し楽しんでいきたいです。私の祖父母は「頑張るなら頑張りなさい」と応援してくれていて、自分自身島にいることが全てではないと考えているので、知見を広げていこうと思います。
−−−日高さんにとって故郷とは?
巡り巡ってためになりたい場所です。屋久島のために何か動けるような人でありたいと思っています。ただ、ためになる形態が会社なのか自分で何かを起こすのか、どこで働きかけるのがベストなのか曖昧になってはいますが、経験を積む中で数十年後屋久島に還元することが最終的な目標です。両親は直接的に地元の人々のために働いているので、屋久島を起点にせずともそこに住む人のために何かしたいと一生思い続けますね。
−−−屋久島とのつながりを大切にされたいのですね。
切ろうと思っても切れるものではないです。人生で成し遂げたいもの、自分が死ぬときに後悔なくやり遂げたと思えるものは屋久島に関連することだと思います。
編集後記
いかに屋久島へ貢献できるか、自分自身と向き合う姿が印象的でした。私も地方出身ですが、離れた地に身を置きながら地元の方々とのつながりを維持するのは簡単なことではありません。学業に奮闘する中でそのつながりが心の拠り所となっているのが伝わってきました。現時点で今後の展望を思慮深く考えているのは、日高さんが故郷と今の環境両方の良さを十分に理解しているからこそだと思います。置かれた場所で自分が大切にしているもののために動ける人でありたいと切に感じました。
照井美優(大学院総合国際学研究科世界言語社会専攻国際社会コース1年)