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第二の人生、カンボジア 〜博士後期課程修了、調邦行さんインタビュー〜

外大生インタビュー

人生に再び学問を、心にはいつも喜びを

カンボジア語を学び、カンボジアの役に立ちたい。その思いから、定年退職を機にカンボジアのことを学びはじめた調 邦行(しらべ くにゆき)さん。カンボジアの日本語学校に勤めたあと、本学の大学院で学び、今年9月に博士号を取得しました。今回はそんな調さんに、心揺さぶる人生のエッセンスをお聞きします。

取材担当:国際社会学部 東南アジア第2地域/カンボジア語科4年 野口 亜依(のぐちあい)

第二の人生で歩み始めた、学問の道 ―カンボジアとの出会い―

―――このたびは、博士号を取得されたとのこと、おめでとうございます。調さんはいつ頃から、カンボジアについて研究を始められたのですか。

私がカンボジア語を学び始めたのは、会社を定年退職したときでした。第二の人生を通して、何らかの形で人の役に立ちたいと考えていたとき、本屋さんで偶然、坂本武信さんが書かれた『63歳・東京外語大3年 老学生の日記』という本に出会いました。坂本さんは、63歳で東京外国語大学に学士入学し、ポーランド語を学ばれた方ですが、その本を読む中で私自身、定年後に学問という道があることに気づかされました。カンボジア語を学び、カンボジアの役に立ちたい。それが私自身の行動目標になったのです。

―――第二の人生で、カンボジア研究の道に進まれたのですね! なぜ、カンボジアだったのでしょう。出会いやきっかけがあったのですか。

そうですね、私は2003年にカンボジアへ旅行したことがありました。アンコールワットの壮大さには感動しましたね。一方で、両足の無い物乞いの方がいる傍ら、自分は立派なホテルで美味しい料理を食べている。そのことが、自分の心の中に深く残っていました。また、私の娘が東京外国語大学の出身でして、家にカンボジア語の辞書があったのです。興味本位で開いてみると、そのユニークな文字の形にびっくりしました! いつか、この文字を学びたい。漠然とした思いを抱き、定年をきっかけに迷わずカンボジア語の学習を始めました。

奥深きカンボジア語の世界 ―独学から留学まで―

―――カンボジア語は本学で学ばれたのですか。

はい、2008年からの1年間、科目等履修生としてカンボジア語を勉強しました。ただ、履修コースは中級レベルだけだったので、語科の先生と相談し、受講前に文字を覚えて、辞書を引けるようになるところまで、独学で練習しました。

―――文字は独学で覚えられたのですね! カンボジア語を学ぶうえで、どんなことが大変でしたか。

文字に関しては、テキストにある、くねくねとした綴りを書き順から練習し、少しずつ覚えていきました。辞書を引くのは大変でしたね。カンボジア語には、単語間のスペースが無いので、区切りの見当をつけて辞書を引いても、載っていないことばかりでした。時には、たった10行しかない1ページを読むのに1日かかることもありましたが、その練習を繰り返すことで徐々にカンボジア語に慣れていきました。

―――毎日、少しずつ、カンボジア語の基礎を固められたのですね。そしてその後、本学のカンボジア語授業を受講されたのでしょうか。

ええ、春から3年生が10名ほどのクラスで授業に参加し、カンボジアの物語を読解しました。最初は気恥ずかしかったですけど、すぐに慣れました。それに若い人に混じって学ぶことで大変刺激を受けました。授業ペースは速くて、ついていくのは大変でしたが、物語がとてもユーモラスで、先生の解説も面白い。授業を受けるのが、毎週とても楽しみでした。

―――会話の練習もされたのですか。

はい、発音は種類が多くて難しかったです。例えば、パーリ語やサンスクリット語起源の単語には、発音しない文字「黙字」があります。綴りがあるのに発音はしない、この文字の存在は私にとって不思議で、周りの学生さんや先生方に何度も聞きながら覚えていきました。夏の終わりには、周りの学生さんに少しでも追いつきたい思いから、カンボジアへの短期留学を決意しました。

―――短期留学では、どのような勉強をされたのでしょう。

王立プノンペン大学の、外国人向けカンボジア語コースを受講しました。日本人は私一人でしたが、周りには現地のNGO活動を行う外国人の方々がたくさんいらして、カンボジア語を学ぶ外国の人がこれほどいるのかと驚きました。

王立プノンペン大学の外国人向けカンボジア語コース

このとき用意してもらったホームステイ先は、旅行会社の社長さん宅だったので、行ってみると想像もしていなかったホテルのような部屋でした。そこでお祖母さんが毎日美味しいカンボジア料理を作ってくれて、ときにはお孫さんたちとカンボジア語を交えておしゃべりをし、非常に勉強になった1か月でした。

―――実際にカンボジアで学び、文化に触れる機会は唯一無二ですね。

カンボジア語コースのクラスにて

カンボジア日本語学校の挑戦 ―希望を胸に、日本語を学ぶカンボジア学生たち―

―――1年間の科目履修を終えたあとは、どうされたのでしょう。

夏休みの短期留学を終えた3か月後、ホームステイでお世話になった社長さんから連絡がありました。なんでも出張で来日するということで、久しぶりに再会すると「実はカンボジアで日本語学校を開くことになった、あなたにも手伝ってほしい」と言われたのです。カンボジア語を学び、カンボジアの役に立ちたい。そう考えていた私にとって、それは願ってもないお話でした。妻は、私の思いを以前から理解してくれていましたから、およそ2年で帰国するという約束で、私のカンボジア渡航を承知してくれました。

調さんが勤めた日本語学校

―――カンボジアで日本語学校ですか、聞いていてこちらまでワクワクしてきます! 調さんが勤められた日本語学校は、どのような学校だったのでしょうか。

私が勤めた学校は、日本語を学び日本で働きたい学生たちを、新聞奨学生として送り出すための学校です。新聞奨学生とは、住込みで朝の新聞配達を行い、その傍ら日本の大学へ通う学生のことで、授業料や給料が保証されます。カンボジアには、高校を出ても大学へ行けない子どもたちがたくさんいます。しかし、そうした子でも、この学校を経て日本で学び、家族へ仕送りもできる。彼らの手助けができることは、非常にやりがいのある仕事だと感じました。

―――貧しい家庭の学生にとって、学びの機会をつかむ大きな希望だったのですね。カンボジアにおいて、日本語を勉強したいという学生は多いのでしょうか。

カンボジアの学校で、最も人気がある第2言語は英語です。ただ、英語を学べる学生の多くは家庭に恵まれ、小さい頃から英語に慣れ親しんでいます。カンボジアの教育にとって、お金の問題は今なお、とても大きな課題です。一方で、日本は当時NGOが盛んに出ていた時代であり、日本の支援で「カンボジア・日本友好橋」が架けられるなど、カンボジアでの日本の評判は高くなっていました。日本語を勉強することで、明るい世界が開ける。そんな思いから、たくさんの学生さんが入学してくれました。

―――学生のみなさん、希望を胸に日本語を学ばれるのですね。

はい、貧しい家庭の学生さんが非常に多かったですが、みなさん涙ぐましい努力を重ね、一生懸命に勉強する姿には、私の方が励まされました。他にも、新しく開講した一般クラスでの日本語教育や、カンボジアにある日本企業へ就職あっせんも行いました。2010年以降というのは、日本の企業や工場が少しずつカンボジアにも進出するようになり、日本語を使って働くことに対して徐々に希望が見え始めた時代だったのです。

―――なるほど、カンボジアと日本の結びつきも、より強くなっていったのですね。

日本語学校の学生集合

カンボジアでの暮らし ―思い出と喜び、そして悲しみを乗り越えて―

―――日本語学校で勤務していた頃、カンボジアで暮らす中でどんなことが印象的でしたか。

一つには、毎週、市場で買い物することが楽しみになりました。カンボジアに住み始めた頃は、外国人向けのスーパーに出かけていたのですが、値段は高いし、肉や魚が新鮮じゃないのです。思い切って近くの地元市場に出かけてみました。最初は市場特有の匂いや活気に圧倒されましたが、肉や魚は新鮮で、頼めば欲しい分だけ取り分けてくれます。ときには、生きた魚が元気いっぱいに道に飛び出してきたこともあって、そうした光景を見ながら買い物するのが楽しい習慣になりました。

また、カンボジア人のパーティー好きも、良い思い出ですね。あるとき、私の誕生日に、学生が突然「先生、授業は終わりにしましょう」と言い出しました。私は自分の誕生日を伝えたことがなかったので、何のことか見当もつかず、どうしたのだろう、失礼な子だなと流していました。けれど、どこで調べたのか、明かりが消えたかと思うと、合唱とともに大きな誕生日ケーキが運び込まれてきたのです。午後のクラスでも、きれいな誕生日セッティングが施され、盛大なパーティーで授業になりませんでした。学校が終わり家に帰ろうとすると、今度は空手部の学生たちが、私の誕生日パーティーを開いてくれました。1日で3回も誕生日パーティーを開いてもらったのは、それが生まれて初めてでした。ヘトヘトに疲れましたが、とても嬉しかった思い出です。

日本語学校の学生たちが誕生日パーティを開いてくれた

―――どちらも、とても素敵なお話ですね! 日本語学校の学生さんたちが、調さんのことを大好きだったのが伝わってきます。

一方で、悲しい出来事もありました。カンボジアの伝統行事、水祭りのイベントのあとで大事故があったのです。見物に来ていた多くの人が、橋の上で押し倒しになり亡くなりました。私はその日、親切な学生から「先生、あの辺りには行かない方がいいです」と連絡があったので、自宅にいました。しかし数日後、空手部の学生がその事故に巻き込まれていたことを聞きました。彼のお葬式には私も参加しましたが、本当に悲しかったです。

―――そうだったのですか。カンボジアには教育面やインフラ面にまだ、解決すべき課題がたくさんあるのですね。

カンボジアで交通事故は非常に多いです。私自身もバイクタクシーに乗っていて車と衝突したことがあります。家の前にある木に、車がぶつかったこともありました。悲しい出来事や、解決すべき課題はありますが、だからこそ、私はカンボジア語を学び続けなければならないという思いになりました。何より、夢を持って一生懸命にがんばる若者たちに出会えたことは、私にとって一生の支えであり宝物です。

―――カンボジアでの経験や、人との出会いが、調さんの思いを強くしたのですね。貴重なお話を、ありがとうございます。

青空空手教室 ―日本文化は海を越えて―

―――お話の中で空手部が登場しましたが、調さんは空手指導もなさっていたのですか。

はい、私は元々、横浜の空手クラブで指導をしていました。日本語学校の最初の授業で「趣味は空手です」と言ったところ、授業直後に2人のカンボジア学生がやってきて、「先生、私たちにも空手を教えて下さい」と頼んできたのです。私は、彼らに場所の確保をお願いして、カンボジアで空手指導を行うことにしました。

空手の練習は本来、屋根のある所がよいですが、体育館は数が少なくて借りるのにお金がかかります。学生たちが見つけてきたのは、プノンペンのカンボジア・ベトナム友好記念碑のそばにある公園の一角でした。足場はレンガでゴツゴツしていましたが、上には青空が広がり遮るものが何もない、私はそこを「青空空手教室」と名付けて練習をはじめました。

青空空手教室

―――青空空手教室、とても素敵なお名前ですね!

3人で始めた教室も、徐々に参加者が増えて20人ほどまで集まりました。あるとき、王立プノンペン大学の学生が、うちの大学でも教えてほしいと頼んできたので、週に2回、そちらでも指導することにしました。最初は吹き抜けの建物スペースで練習していたのですが、翌日、空手の気合(声)が大きいとクレームが入ったので、それからは外のコンクリート・ステージで練習しました。参加学生の多くは、日本語学科の学生で日本文化を学びたい方が多かったですね。

王立プノンペン大学での空手教室

―――日本文化を学びたいカンボジア学生の輪が、徐々に広がっていったのですね。

あとは、更に毎週日曜日に幼い子どもたちにも空手を教えました。きっかけは、以前、東京外国語大学で指導されていたペン・セタリン先生が開いている、アジア文化支援プロジェクトの活動を知ったことでした。先生は自宅の1階を図書館にして、子どもたちのための識字教室を開いていたのです。私は何かお手伝いしたい思いから、そこで子どもたちの空手指導を始めました。

子どもたちへの空手指導

―――小さいお子さんへの空手指導はどんなものでしたか。

5歳から16歳くらいまで、さまざまな年齢の子が参加していました。一生懸命に学びたい子もいれば、興味本位で飽きっぽい子もいたので、毎週お菓子や飴を配って、「飴とムチ」ならぬ「飴と飴」で楽しい空手指導を心がけました。実際は、お菓子目当ての子も多かったですかね。

―――お子さんが楽しく練習している、かわいらしい光景が目に浮かびます。青空空手教室、王立プノンペン大学、お子さんの教室と、毎週非常に多忙な空手指導だったのですね!

涙の閉校 ―未来へ羽ばたけ卒業生―

―――その後、カンボジアの日本語学校はどうなったのでしょう。

実は、社長の側に事情があって、日本語学校運営の資金が続かなくなってしまったのです。日本のスポンサーもしばらく手助けしてくれましたが、どうにも経営できなくなり、日本語学校は創立2年での閉校を決意しました。非常に悲しい決断でしたね。

―――そうだったのですか。学校に通う学生さんたちは、どうなったのですか。

幸いにも、既に多くの学生は新聞奨学生として送り出され卒業した後でした。ただ、学校に残っていた学生さんも9人ほどいて、彼らに学校閉鎖のことを告げると、「先生、まだ私たちに教えてください」と頼んできたのです。私は自宅を使って、帰国までの間、彼らに日本語を教え続けました。

―――本当に熱心な学生さんたちだったのですね。現在でも、そうした学生さんたちとは、連絡を取り合われているのですか。

はい、新聞奨学生を終えたみなさんは、カンボジアに帰国して就職したり、日本の企業で働いたり、親戚を頼ってアメリカに渡った教え子もいましたね。今でもお互いに連絡を取り、カンボジアに行くときは現地で会ったり、日本にいる教え子とはコロナが流行する前はよく会っていました。

―――皆さん、各地でご活躍されていて、素晴らしいです!

新たな夢を抱いて ―カンボジアの偉人研究にかける思い―

―――そして、日本語学校の勤務を終えられたあと、調さんは大学院へ進まれたのですか。

はい、約2年半の滞在を経て日本へ帰国したのですが、そのあとも、カンボジアで出会ったあの熱心な若者たちのために何かできないかと、ずっと考えていました。大学院の道に気づかされたのは、これも本屋さんでの出会いがきっかけです。帰国後、本屋さんで、内館牧子さんが書かれた『養老院より大学院』という本を手に取りました。54歳で大学院を受験し、好きな研究を突き詰める彼女の姿に感銘を受け、当時65歳だった私自身も今しかないと考え研究の道に進むことを思い立ちました。

入学式では、会場整理係の方に「ご父兄はこちらへ」と案内され、うつむき加減に「いや、学生です」と言って案内を受け取り、新入生の席に小さくなって座りました。その後はよく先生に間違われて、エレベーターに乗り合わせた方に挨拶をされました。内心とても申し訳ない気持ちでした。

―――実際に、本学ではどのような研究をされてこられたのですか。

研究では、カンボジアで仏教実践の改革を担い、最初の国語辞典を作った僧、チュオン・ナート師の業績や思想について研究しました。20世紀のはじめ、上座部仏教のお坊さんは自分の悟りのために修行をするのが一般的でした。しかし、師は若い頃からカンボジアの発展と人々の幸福を願い行動しました。例えば、師が編纂した辞書の中には多くの語彙例文が載っていますが、そこには仏教の教えだけでなく、国の安寧を願う気持ちや非暴力の訴えなど彼の思想が反映されています。ポルポト時代を経て多くの資料が失われましたが、復刻したものや現地調査を通じて、研究を進めることができました。

―――辞書にも、著者の思いが反映されているのですね!研究テーマをカンボジアの僧チュオン・ナート師にされたのは、なぜですか。

ふと、カンボジアの日本語学校で教えていたときの、ある授業を思い出したのです。授業の中で「尊敬する人物」という題材で、学生たちに作文を書かせました。すると、学生たちの尊敬する人物が、両親と国王、この二択しかなかったのです。カンボジアには偉人がいないのだろうか、私は偉人の存在について考えました。いや、僧チュオン・ナート師や詩人クロム・ゴイ氏のように、カンボジアにも確かに有名な偉人がいます。ですが、学生たちに聞いてみると、こうした偉人の業績は知っていても、その人の考えや思想、行動背景まではわからない、それが書かれた本があるならぜひ読みたいと言うのです。そう訴える学生が何人もいたので、私はそれを研究テーマに選びました。これが私の研究の原点です。

―――博士課程を修了された今後の展望というのはございますか。

はい、現在は新たな論文執筆や、東京外国語大学の先生が進めておられるカンボジアの短編物語やエッセイの翻訳のお手伝いをしております。今後は博士論文の書籍化も計画中です。そして、その後で、カンボジアではまだ発行されていない偉人チュオン・ナート師について、カンボジア語で本にしたい。できれば、お子さんでも読めるようなかたちにして、カンボジアの偉人のことを、カンボジアの方々に伝え届けたい。それが、私が生きているうちにカンボジアのために成し遂げたい、今の目標です。

―――カンボジア語を学びカンボジアの役に立ちたい、その思いから学び、行動してこられた調さんだからこそ、できる取り組みだと思います。本ができましたら、ぜひ読ませていただきたいです!

学問への原動力 ―心に留める言葉―

―――ここまで、調さんの第二の人生について伺ってまいりました。第二の人生を通して、調さんがこれほど深く幅広く、カンボジアに打ち込まれる原動力はどこにあるのでしょうか。

私にとって原動力は大きく二つあると思います。

一つは、カンボジアの人々の役に立ちたいという思いです。カンボジアの人たちに、一人の人間としてのチュオン・ナート師の考え方や生き方について伝え届けることが、今の目標ですね。

もう一つは、研究自体が楽しいのです。論文執筆は難しく、何度ももうだめだと思うことがありました。ですが、それをクリアしようと努力し考え続けるうちに、ふとひらめくものがある。関係のない資料から、参考になるものが突然見つかったりする。そうしたことが大きな励みとなり、すっと視野が開けることに喜びを感じます。その繰り返しが楽しくて、研究の面白さと奥深さに、この歳になって気づかされております。

―――最後に、読者の方へメッセージをお願いいたします。

Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.

「明日死ぬ如くに生き、永遠に生きる如くに学べ」

私がいつも心に留める、ガンジーの言葉です。若い方々はいま現在、学問やお仕事にとても一生懸命に励まれています。ただ、人間は歳を取りますから、将来どこかで一区切りつくときが必ず来るでしょう。今後の人生をどう生きていくかと考えたとき、人生でもう一度、何かを学んでほしい。学問という選択肢を、みなさんに持っていてほしいと思います。

―――本日は、貴重なお話を誠にありがとうございました。

インタビュー後記

早いもので、私が東京外国語大学に入って4年が経とうとしています。今回、調さんのお話を伺う中で、私自身これまでの大学生活を振り返り、そして今後の人生について考える機会をいただきました。一つの言語に邁進し、互いの文化に触れあい、その国のために何かしたいと学んだ日々は、私にとって人生の宝物でした。これから新たな世界へ足を進めるとき、そのことを決して忘れず、いつかまた学問の道に帰ってきたいと、そう思うのです。この記事を通じて、何かを学ぶことの底知れぬ魅力や奥深さが、少しでも多くの人に伝えることができれば幸いです。

取材担当:野口亜依(国際社会学部 東南アジア第2地域/カンボジア語4年)

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