懐かしの外語祭を振り返る:佐々木秀彦さんインタビュー(シリーズ企画「99回を迎えた外語祭」)
世界にはばたく卒業生
「外語祭にハマることなく、外語大卒業ナシ。」と語る本学外国語学部ヒンディー語1992年卒の佐々木秀彦(ささきひでひこ)さん(東京都歴史文化財団事務局)。
佐々木さんは、外語祭にはさまざまな形で参画されたそうです。1年生の時には料理店、2年生の時には語劇を経験されたのち、3年生の時には第69回外語祭実行委員会の語劇係(現:語劇局)に所属され、当時フィルム映写だった語劇の字幕出しをパソコン経由のプロジェクター投影に改めたそうです。また外語祭の「第3の柱」として「スーパー万博」を企画・運営され、外語祭の新たな目玉作りに尽力されました。外語祭での取組みをきっかけに、学芸員としてキャリアを積まれる中でも外語祭の経験を活かすことが多かったそう。
佐々木さんご自身の外語祭の記憶、外語祭との関わりについてインタビューしました。
取材担当:市川尚寿(いちかわなおひさ)さん(国際日本学部2年、広報マネジメント・オフィス学生取材班)
料理店の思い出
——まずは料理店に関する思い出をお聞かせいただけますか。
1年生の時にはヒンディー語科で料理店をしていました。料理店は教室を占有し行うので、料理だけではなくて、教室の装飾も重要でした。壁画を模写してみたり、ステンドグラスを作ったりしましたね。内装も料理も学科で競い合う風潮がありました。なので料理もかなり凝っていましたね。ヒンディー語科なのでカレーを出すのですが、先輩から代々受け継がれている秘伝のレシピ(?)があって、スパイスなども直接現地から輸入していました。フードプロセッサーを使ってはいけないという掟があって、玉ねぎ150個をみんなでみじん切りしていました。ほんとに「みんなで」作業するんです。結局間に合わなくて、家族や近所の人に手伝ってもらいました(笑)。みんなで作業するのでコミット感のようなものはあったと思います。先輩方が試食してくださるのですが、夏頃は「まあ、いいんじゃない?」と言っていた先輩が、外語祭が近くなると「これじゃあお客さんには出せないよ」と厳しくなり、試作のカレーを作っていた女の子が涙を浮かべていました。今思えば、よく料理を仕込みながら教室の装飾もしていたなと思います。はじまる2,3日前から家に帰れず仮眠していました。若さゆえというのもあったでしょう(笑)。
他の学科もなかなか凝っていました。フランス語科なんかは1000円くらいでフレンチのフルコースを出していたと思います。モンゴル語科はすごかったですね。中庭にゲルを建てて、現地の方が羊の解体ショーをしていたのは衝撃でした。
当時は教室を丸々貸し切って使わせてもらっていたのですが、固定の机や椅子を外して、料理店にしていました。学生総出の重労働です。当時の実行委員会の事務局は外した机と椅子を外語祭が終わってから全部ちゃんと戻していくのが使命でした。ナットの一つでもなくしてはいけないということで、厳しく管理していましたね。当時のキャンパスは移転することが分かっていたこともあり、大学の対応もゆるくて、ある意味で使いたい放題でした。
語劇の思い出
—–続いて、語劇の思い出についてお聞かせください。
2年生の時には同じヒンディー語科で語劇をしていました。料理店も語劇もそうなのですが、小語科はとにかく大変です。ヒンディー語科は15人くらいしかいませんでしたし、男女比が3:7で7が女子でしたので、大道具を作るのもキャストも男子で、大忙しでした。あとは語劇の話とは直接関係ないのですが、語劇は講堂でやっていましたが、自分が卒業する年に講堂の屋根が崩壊してしまい、卒業式ができなかった記憶があります。確か北区のホールを借りてやったんだと思います。
—–佐々木さんは現在の語劇局である「語劇係」にも所属されていたとのことですが。
3年生の時には語劇係をやらないかと誘われ、外語祭実行委員会に入りました。当時の字幕はフィルムに焼き付けてそれを映写する仕組みでした。そのため、間違いを修正するのがものすごく難しいし、セリフを追いかけるのに、フィルムを行ったり来たりしていたんですね。当時ようやくノートパソコンが学生でも買えるようになって、プロジェクターで投影したらどうかということになりました。あの時はまだバブルの時代で、企業がプロジェクターを提供してくれました。
それから外語祭実行委員(以下「本部員」)として第3の柱を作ることにしました。外語祭には料理店と語劇、サークルの出店などがありますが、言語・地域のことを伝えないのはもったいない。学科の壁を超えて参加できる本部企画(外語祭実行委員会が主催する企画)をしようと思い立ちました。全学科に呼びかけて多少強引に実現させました。
本部企画を作る時に、日米安保問題についてシンポジウムをしたいという話がありました。これはちょっと違うんじゃないかと。このテーマなら他の大学でもできる。本祭(実行委員会の用語で、外語祭本番のこと)は、外語祭でしかできないこと、自分たちが学んでいることを伝えるべきで、わざわざ実行委員会のお金を使ってやることではないと思ったんですね。
「スーパー万博」
そこで提案したのが「スーパー万博」です。目的は、料理店で「食べる」、語劇を「観る」のに加えて、各学科から委員を選んで横断的に「知る」「考える」場を作ることにありました。意識したのは国立民族学博物館(民博)で、向こうが国立の研究機関による「正統な」展示であるとすれば、こちらは世界各地の人々のリアルな暮らしがわかるようなものにしよう、と思ったんです。いわば「B級の民博」で、民博が伝統文化を扱うのであれば、こちらは同時代文化を扱う、ということです。この「スーパー」は、「超」ではなく、「スーパーマーケット」を意識していました。展示を見れば世界一周できるような、気軽でお安いものを目指していたんです。
具体的な内容は、全学科共通でパネル展示を行いました。これは各学科で3-4枚のパネルを作成するというものです。ドイツ語科は当時ベルリンの壁崩壊がタイムリーなものであったことから、「ベルリン生写真‘90」という企画が生まれたりしていました。
そして、もう一つ意識したことは、従来の外語祭は、料理店や語劇が学科の中で完結してしまうということでした。「インターナショナル」であるはずの東京外大に「インター」がない、ということです。そこで先ほども述べた通り、学科横断的な企画に取り組むことにしました。最初の年は「世界の牛乳容器」という企画でした。モンゴルでは巨大な三角のパックに入っているとか、紙パックではなくて缶や瓶が健在なのか、あるいはそもそも牛乳を飲む習慣があるのかないのかなど、様々な視点から世界を切ってみよう、というものでした。翌年は「世界の歯磨き・歯ブラシ」をテーマに、世界に切り込みました。アジアでは葉っぱを歯磨きに使っているということで、歯磨き粉と歯磨きという思い込みが崩されることになりました。ただ、どちらの企画も集めただけで深い分析ができなかった。「スーパー万博」は、企画自体が負担の大きいものだったということもあり、3回くらいで終わってしまいました。学生発の自由な企画の良さはあるが、定着しませんでしたね。
この企画で得たものも大きかったです。自分の学科以外の友達が増えました。実行委員同士でのやり取りというのは今までもあったのですが、さらに広い繋がりを持つことができました。社会に出てからのエネルギーにもなりましたし、当時の仲間とは、今でもやり取りしています。
—–他にも本部企画として企画されたことがありますか。
さまざまな試みをしました。
料理店関連の企画として、料理店のスタンプラリーを企画しました。言い出しっぺだったので全部の学科の分を食べてみたのですが、タイのカレーが動悸が激しくなるほど辛かったのを覚えています。
5日間で全部回らないといけないので1日5食。どのように回るのか、順番を考えるのが大変でしたね。カレーにカレーが続くのはしんどいですから。お客さんがパンフレットに載せた専攻言語で話しかけたら、ドリンクサービスをしてもらえるなどの試みがありました。
外語祭では様々な刊行物が出されていると思うのですが、学生による翻訳や評論をまとめた「煌(きらめき)」という文芸雑誌を刊行していました。私は編集長を務めました。イメージとしては「紙上の外語祭」でしょうか。今は発行されていないのであれば、とても残念です。
地域との思い出
—–その他に外語祭に関連して面白い思い出などがあればお聞かせください。
輪タク(自転車タクシー)で、外大(北区西ヶ原キャンパス)と巣鴨駅との間を走らせていたということですかね。いわば体験する展示です。学園祭の企画を実現するコンテストに入賞して賞金をもらいました。インドのリキシャーとマレーシアのベチャを輸入して、5日間ひたすらお客さんを乗せて走らせました。値段も決まっていなくてお客さんと交渉するんですね。お客さんもはじめは怪しがるんですが、珍しいので結構乗ってくれるんです。警察に通報されるようなことはなく、大らかでしたね。とても自由でした。
当時の外語祭には前夜祭があり、民族衣装を着て巣鴨の商店街にサンバのパレードをくりだしました。これから外語祭が始まるという前ぶれです。ブラジル研究会に演奏をお願いしていました今でもかつどうされているということで嬉しいですね。
外語祭の閉場の時には、自分たちで楽団を組織して、蛍の光を演奏していました。私はこの演奏会のために中古のサックスを買ったんですね。そのためだけに練習をして、実際に吹いたのですが、それ以来一切吹いてないですね。ノリだけでやっていました(笑)。
外語祭と現在のキャリア
—–外語祭と現在のキャリアとの関係についてお聞かせください。
「スーパー万博」の経験があまりにも濃かったので、これを職業にしたいと、博物館の学芸員を目指すことにしました。東京学芸大学の大学院で博物館学を学び、学芸員の資格を取りました。幸い江戸東京博物館に採用されました。
外語祭で面白いことをやれたという手応えがあって、就職してから何かやってやろうと思っていました。常設展示室に輪タクの展示がありますが、体験用のレプリカを作ってもらって、解説つきでお客さんを乗せて、展示室を走らせました。若さゆえの企画だったと思うのですが、上司の理解があって、ゴーサインを出してもらえました。所属している財団は劇場も運営していますので、語劇の経験が活きていると思います。財団は東京都の芸術文化活動を担う団体です。いわば、東京の学園祭実行委員会。今でも外語祭の延長を生きているということですかね。
外語祭へメッセージ
—–来年、外語祭は、ついに100回を迎えます。外語祭に対してメッセージをお願いいたします。
今の外語祭の状況を伺ったのですが、進化していると思います。料理店や語劇専用の設備があったり、大学が語劇を教育活動としてバックアップしたり、外語祭実行委員会でも細かいマニュアルが引き継ぎで用意されていたりと、時代に沿って変化をしています。緊急用のマニュアルなどは、文化事業に関わる人間として見てプロレベルです(笑)。自分たちの時代にはありませんでした。
コロナ禍で本当に大変だと思いますが、全力でコミットしてみてください。社会人になってその経験は必ず活きてくると思います。ためらわないで、突き進んでください。「外語祭なくして卒業することなし」です!
インタビュー後記
外語祭実行委員会。今年で99回を迎える東京外国語大学の由緒ある学園祭です。私も今、そのたゆみない歴史の上に乗り、新たな1ページを作り出す一員となるのかもしれません。私の所属する事務局は、98回、99回と2年連続で料理店を扱わないという前例なき対応を迫られました。事務局だけではなく、外語祭実行委員会全体が新型コロナウイルス感染症を通して、過去に積み上げられた歴史と伝統を見直すことが求められています。
しかしながら、こうした歴史と伝統の中にはこれまで確実に蓄積されてきた先代の「思い」があります。今回私は期せずして30年前の本部員でいらっしゃった大先輩にお話を伺う機会を得たのでした。30年間温められ、埋もれていた話が、本日このような形で記事として世に解き放たれます。料理店や語劇だけではなく、第3の柱を樹立しようと尽力された熱い「思い」を、たとえ形が変わろうとも、私たちは100回、101回へと継承しなければならないと気が引き締まる思いです。この記事からそうしたさまざまな「思い」を感じ取っていただければ幸いです。ひいてはそれが現役の本部員である私たちと先代を繋ぐ「想い」に繋がるはずだと信じて。
取材担当:市川尚寿(国際日本学部2年)