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[追悼] むのたけじさん~本学での学びの記憶、いま伝えたいこと、未来へ

世界にはばたく卒業生

2016年8月21日、本学卒業生で101歳ジャーナリストのむのたけじ(本名:武野武治)さんが逝去されました。

むのたけじさんは、1936年、本学前身の東京外国語学校スペイン語学科(文科)を卒業後、報知新聞社を経て朝日新聞社に入社しましたが、敗戦を機に戦争責任を感じて退社。その後、地元の秋田県で1948年に週刊新聞『たいまつ』を創刊し、反戦の立場から言論活動を続けていました。

昨年度10月に行われた立石学長との対談を機に、ホームカミングデイにおいて、80年越しに卒業証書を授与することもでき、80年前の東京外国語学校時代の記憶などもお伺いすることができました。

むのたけじさんを偲んで振り返ります。

  1. むのたけじさんの来歴
  2. 80年越しの卒業証書授与
  3. 本学学生と語る:むのたけじさんインタビュー
  4. [対談] むのたけじさん×立石学長:学生時代の記憶、本学へ期待すること

むのたけじさんの来歴

むのたけじ(武野武治)

1915年 秋田県生まれ。1936年 東京外国語学校西語部文科卒業。報知新聞を経て朝日新聞社に入社。中国、東南アジア特派員となるも敗戦を機に太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任を感じて退社。1948年秋田県で週刊新聞『たいまつ』を創刊、反戦の立場から言論活動をおこなう。1978年『たいまつ』を休刊。その後も旺盛な執筆・言論活動を続ける。戦中戦後の混乱期において卒業証書の授与がおこなわれなかった本学卒業生の一人として、2015年10月、学内にて卒業証書が手渡された。享年101歳。

80年越しの卒業証書授与

武野武治さん 東京外国語学校・スペイン語学科(西語部文科)、1936年3月卒業

卒業する年の2月末に「2・26事件」が発生。当時皇居の堀のすぐ隣にあった東京外国語学校の周辺には兵隊がいて近づけなかったとのことです。

2015年10月31日に行われた東京外国語大学ホームカミングデイ、戦後70年企画:東京外国語学校・東京外事専門学校卒業証書授与式において、ようやく80年越しに卒業証書を授与することができました。卒業生代表挨拶で「軍国主義に個人が翻弄される惨めな時代だった」、「感謝と尊敬を母なる学校に捧げたい」と熱く語ってくださいました。

卒業者代表ご挨拶の様子はYouTube:TUFS Channelで動画でご覧いただけます。

本学学生と語る:むのたけじさんインタビュー

東京外国語大学出版会&附属図書館『pieria』2016年春号 企画

―2016年2月18日 むのたけじ氏自宅にて

聞き手:村津颯(言語文化学部日本語専攻4年)、太田悠香(言語文化学部スペイン語4年)、倉畑雄太(外国語学部ヒンディー語専攻卒業)

いま伝えたいこと–外語大生へのメッセージ

―外語大、そして、むのさんの学生時代についてお聞かせください。

いまの毎日新聞社の近くに東京外国語学校[現・東京外国語大学]はあったんですね。そこは徳川時代の蕃書調所があったところで、歴史をさかのぼってみれば、「鎖国はしているけれど、外国のことは勉強しよう」と、外国人と実際に会ってみたり、また海外の資料を集めたりするような場所でした。

神田区[現・千代田区]にはいくつもの大学が集まっていて、地域全体がまるで「大学のデパート」とも言えるような場所でした。

いろいろな大学がそこにありましたが、外語学校の評判はよかったと思いますよ。「外語の学生は真面目だ、勉強家だ」とね。ただ、学生には貧乏人の子が多くて、世間的にもそういう評判だったと思います。建物は非常に粗末で、風が吹くと屋根が揺れるくらいでした。1学年が12か、13種類の外国語で構成されていて、一クラスが30人くらいだったと記憶しています。

私は1936年の卒業ですが、1920年代から30年代にかけて、日本の社会は非常に揺らいでいました。ヒューマニズム、デモクラシー、ソシアリズム、コミュニズムなど、政治や社会を変えるためのさまざまな動きが出てきた時期です。不安定な社会情勢に呼応するように、学生運動もありました。

卒業した1936年には軍がクーデターを起こした二・二六事件がありました。卒業試験の何日目だったか、まさにその2月26日に、軍隊が学校の入口前にも陣地を張っていたのです。卒業試験どころじゃない。軍人から「帰れ」と言われて、結局学校へ入れずに帰りました。そんなことが起きる時代でしたから、卒業式などもできなかったのでしょう。それで昨年、なんと卒業してから80年後ですが、学校へ呼ばれて学長から卒業証書をもらいました。外語大は、非常に時代の流れに揺さぶられたことがあったんですね。

―学生時代で楽しかったことはなんでしょうか。

おもしろかったのは語劇です。フランス語科ならフランス語でといった具合に、自分が所属する専攻語の劇をやるわけです。実際に上演するとなると費用もかかり、これは大変でした。でも、各国の大使やその家族なども観にくるものだから、外語学校でも語劇については大いに力を入れていたのだと思います。

私たちスペイン語科は四年生のとき、おかしなスペイン語劇、たしか、ビセンテ・ブラスコ・イバニェスの『血と砂』をやったような記憶があります。親友の江原君と私は「どうせうまくできないから端役でもやろう」なんて言って、私はお茶目な女性の役を演じました。

芝居が終わったら、おかしなことが起きましてね。スペインの大使館関係者の家族と思われる娘さんたちが5、6人やってきて、「この中には本物のスペインの女の子が隠れてる!」と言う。あの当時、学校には女子学生は一人もいなかったから、男子学生が女性の格好をするわけです。衣装や化粧などは築地小劇場の人たちが手伝ってくれましたので、本当にそっくりだったのでしょう。それで、その娘さんの一人が「スペインの女の子だ」と言うんです。そこで私は服を脱いで、胸のふくらみを出すために使っていた綿を見せてあげた。それを見て、スペインの娘さんたちはキャッキャッと笑っていましたね。

語劇出演時の集合写真(前列右から2番目がむのさん)

―どうして、外語大に入り、ことばを学ぶようになったのでしょうか。

私は、中学入学当初、外国語がこわかったです。それでも、登校途中でアルファベットを暗記するなど、いろいろ工夫しながら、とにかく横文字に親しむことをしておりました。そしたら、二年になったときは、得意になっておりました。

それで、当時の日本は中国の進出で世界各国から非難されていましたが、外務省の態度はよろめいてみじめでした。それで、ここの分野で働こうとした気持ちがありました。

―異なることばを学ぶとは、どのようなことなのでしょうか。

外国語を身につける、外国語を正確に理解しようと努力する。そこから身に付いた能力はかならず役に立つと思います。自分が何のためにこの学校に入って、将来をどうするのかは人によって違いますから、個人で学びつつ、友達などと経験を語り合えばいろんな可能性が出てくるでしょう。

私自身は語学を専門として活かす職業に就いたわけではないですが、この学校を卒業してジャーナリズムの道へ入ったことはよかったと思っています。それを示す一つの話をします。

ある授業で、スペイン人の先生から呼び出しを受けたことがあります。なんだろうと思っていると、先生から「日本人はこんな馬鹿な考え方をするのか!」と怒鳴られたのです。作文の授業で、私は「半信半疑」というような内容をスペイン語で書いたのですが、先生はそれを読んでとても怒っていました。先生によれば、「信じることとは疑わないことであり、半分疑うなどというのはありえない。それはすべて疑っていることではないか。どうして日本人はそんないいかげんなことを言うのか」ということをおっしゃった。これには本当にショックを受けましたね。

異なる文化やことばを学ぶことによって、日本人のもっているいいかげんさ、あるいはあいまいさについて、自分の考え方を抉えぐられたと感じました。ショックはありましたが、外国語を学ぶこととは、人間形成のうえで役に立つということを知りました。ものの見方や生き方を考えるうえでも、外語学校で学ぶことができてよかったと思っています。

―印象に残ったり、むのさんに影響を与えた本はなんでしょうか。

世の中を変える運動に関する本ですね。むかしは神保町にある古本屋をよくまわっていました。古本屋街に行けばいい本が安く見つかりましたから。当時は貧乏で教科書以外の本など買えませんでしたが、社会主義や共産主義、発売禁止になった本が全部そこに並んでいて、そうした本に大きな影響を受けたと思っています。

作家としてとくに影響を受けたのは文学者の魯迅です。魯迅は、孔子の考え方、儒教の価値観に対して、1人で反対して、1人で闘っていました。魯迅は人間を本気で受け止めて、ごまかさない。私は魯迅さんとまったく友達ですよ。『魯迅選集』は全一三巻で、よいのが出ていますから、手にとってみるといいでしょう。

―いま、外語大にどのようなことを期待していらっしゃいますか。

いま国際連合に加盟している国家は約200ですが、国家の枠を越えて、世界全体、人類全体という立場からの働きは、さっぱり進歩しませんね。国家エゴイズムを乗り越えるために、ことばの働きや文化の交流について何が必要か、こういう分野について外語大は積極的な働きを開拓するべきではないか。

もう1つは、私が重視する少数民族と呼ばれる集団の存在のことです。国家には、多数を占める民族のほかに、1グループの人数が数十万人から数千万人の規模で存在している民族がいることが多いです。このような民族はロシアには約100の集団、アメリカと中国には、おのおの50のグループと記憶しています。

これらのグループは、多数を占める民族と異なる、人種、言語、宗教をもっているため、差別的、不平等な扱いを受けている場合が多いです。そうした扱いに対する反発が世界の混乱を高めているようにみえます。だから、人類全体の共存には、少数民族との相互理解と協力へ導くことがもっとも大切ではありませんか。外語大は、ことばの研究を土台にしながら、さまざまなグループの文化活動、生活実態を明らかにする努力をすでになさっていると聞いていますが、もっと力を注いでいただきたいと思います。こうした問題について教師と学生が存分に語り合っていただききたい。

―最後に、学生へのメッセージを聞かせてください。

学生ら社会人への歩みは、人生の大事な結び目ですね。私の経験を言えば、この時期はとくに中途半端な態度がいけないと思います。自分を駄目にするだけでなく、まわりの人々にも迷惑を及ぼすことになります。これをやろうと決めたら、まっしぐらに命がけでがんばりとおす態度が大事です。

私はよく「諦めることを諦めなさい」と言っています。そうすれば、きっと道は開かれますよ。

もう1つ、人間には一生に何度かはいい気分なるときがあります。そんなとき、自分を甘やかしてうぬぼれたら駄目ですよ。他人を馬鹿にするような人間がいちばん馬鹿だと私は思っていますから。

地球上には80億以上の人間がいる。でも自分は1人しかいない。あなたはあなた1人です。学生のみなさんにはご自分を丁寧に、大切にしながらも自分を見つめて、死に物狂いで生きていってもらいたい。これが私の願いです。

[外語大生に薦める本]『魯迅文集』全6巻、竹内好訳、ちくま文庫、1991年(『魯迅選集』全13巻[岩波書店]は現在品切れ)

[対談] むのたけじさん×立石学長

学生時代の記憶、本学へ期待すること

– 2015年10月1日、東京外国語大学本郷サテライトにて

東京外国語大学の前身である東京外国語学校のスペイン語科を1936年に卒業され、報知新聞記者を経て、1940年朝日新聞社に入社するが、敗戦を機に戦争責任を感じて退社。その後、地元の秋田県で1948年に週刊新聞『たいまつ』を創刊し、反戦の立場から言論活動を続け、執筆・講演等を通じて、100歳を迎えた現在もジャーナリストとして活躍しています。今回の対談では、むのさんの学生時代の記憶や今後本学へ期待することを伺いました。

立石博高学長(以下、立石学長) 今日は、東京外国語大学の私たちにとって大先輩に当たり、今年100歳をお迎えになり、現在もなおジャーナリストとして活躍されている武野武治(むのたけじ)さんにお話を伺いたいと思います。

武野武治さん(以下、むのさん) はい、100歳半になりました。1915年に秋田県で生まれ、1932年の4月に東京外国語学校(以下、「外語」)へ入りました。1936年に外語を卒業し、新聞記者として有楽町の新聞社で働き始めました。その後、朝日新聞社の従軍記者として中国やインドネシアに行きました。敗戦したあの8月半ばに朝日新聞を辞め、もう一度自分を洗い直そうと、2年後に秋田県で小さな新聞の発行を始め、日本社会を組み立て直すための勉強を若者たちと一緒に続けてきました。

立石学長 週刊新聞『たいまつ』ですね。1948年に創刊されて、78年まで続けられ、その後も著作や講演などでご活躍されています。今年7月に朝日新書から出版された『日本で100年、生きてきて』を読ませていただきました。それとシリーズ本『むのたけじ 100歳のジャーナリストからきみへ』の1冊『学ぶ』を持って来ました。

むのさん はい、このシリーズは、13歳以下の少年少女にメッセージを伝えるという趣旨で制作しています。5巻シリーズで最後が『人類』なのですが、その原稿を扱いながら、外語時代のことを何度も思いました。やはり一国民とか一個人であると同時にわれわれは人類の一員であり、人間の感覚、生き方が考えられなければならないと思うのですが、私にとってそれは外語で育てられたものが大きいです。

立石学長 20ページに「人の観察眼は三種類ある。望遠鏡の眼と顕微鏡の眼と肉の眼。遠くから広い視点で見ることと、できるだけ近づいて細部に眼を凝らす。それから、もう1つ面白いのは等身大の視点で見る。その3種類の眼で人や出来事に向き合わなければならない」。とても感心させられました。

むのさん そういう眼で見ろと教え、最初の痛棒を食らわせたのは、外語の外国人の先生でした。後でお話ししますけど、今なおショックを受けている出来事です。

なぜ外語へ入学したのか

立石学長 まず、むのさんがどうして外語へ入学されたかというところからお話を聞かせていただけますか。

むのさん 私は秋田県の農耕地帯の小百姓のせがれとして生まれました。当時、小百姓のせがれというと、小学校を卒業した後は、下男・下女として地主の下働きに行くのが当たり前でした。中学校や女学校へ進学できるのは生徒の1割いるかどうかだったので、私は当然入れません。ところがある日、お寺の和尚さんが来て、私の父に「お前の息子は学校の成績いいそうだ、育てなきゃ駄目だぞ」と言ったもので、中学校へ進学することになりました。秋田県立横手中学校に進学しました。約40人いた先生の中に外語を出た教師が3人いました。

立石学長 3人も。

むのさん ええ、3人もいました。1人は小野譲先生、英語科で横手中学校の校長です。それと、英語教師が2人、英語科出身の増田さんとインド語出身の五日市清志さん。当時から外語の卒業生は各国で様々な仕事に就いている方が多かったのですが、それらの同級生と先生が各国の経験などについて英語で手紙のやり取りをしました。そして増田先生が、その英語の手紙を、生の英語の勉強になるから、と私たち生徒に読んで聞かせてくれました。それがおもしろくてたまらないのです。その中で、海外で働いている外語の卒業生が日本国の「外務省」を英語でなんて呼んでいたかというと、「Kasumigaseki Bakayarou(霞ヶ関馬鹿野郎)」というのです。それを聞いてきゃっきゃと笑いながらも、国際連盟で日本が世界から理解されずに孤立しているような感じがして大変情けない気持ちになりました。だから外務省を自分の手で変えたい、そう思ったわけです。ただどこの学校へ行って何を学べばよいかわからない。そんな時、父が先生と懇談する機会があり、家へ帰ってくるなり、「武治、今日、五日市清志という先生と話をした。こんな筋の通った立派な人が我々の近所にいるとは知らなかった。今日は本当に勉強になった」と言うので、「五日市先生は東京外国語学校を出たよ」と教えたところ、「お前もそういう学校へ入ってみないか」と父が言うのです。

立石学長 情熱的な方ですね。

むのさん そして、米一俵ずつ売ってそのお金を毎月送るから外語へ入ってみろと言うのです。私はただ「Kasumigaseki Bakayarou」の外務省で働きたいという一心で、進学することにしました。

立石学長 やがては外交官になろうと思ったわけですね。

むのさん はい。ところが、毎月米一俵12円の仕送りが2年になったら遅れだし、とうとう2年の1学期末に学費を送れないと父から連絡がありました。悲観しておりましたところ、ちょうど外務省が各国の大公使館で働く「書記生」の募集を行うという話を聞き応募してみました。ところが、明日試験だという日になって外務省から「あなたは年が若過ぎるから駄目だ」との手紙が届きました。「Kasumigaseki Bakayarou」じゃない外務省を作ろうと思って一生懸命やってきたのに、それをぽんと断られたものだから、外務省を恨んで。「くそったれ。日本国外務省は年齢で外交をやるようです。日本中の老いぼれを集めたら、さぞかし立派な外交ができるでしょう。頑張りなさい。」なんて悪態の手紙を書いてしまいました。

立石学長 その後、秋田へ戻られたのですか。

むのさん とりあえず夏休みに帰りました。そして、秋田県のある貴族院議員が個人で育英会をやっていて1人15円ずつ20人の学生に出しているというのを聞いて相談に行き、卒業までの学資を支援してもらえることになりました。その後は卒業まで何をすればよいのかわからず本当に迷っていましたが、社会の矛盾を正すためには新聞記者として世の中のことを調べて記事を書いたりすることに意味があるだろうと思い、新聞記者になることにしました。

学生時代は

立石学長 外語へ入学した頃の話を教えていただけますか。なぜスペイン語を選ばれたのですか。

むのさん スペイン語を選んだのは、スペイン語を公用語としている国が一番多いので外務省で働くには都合が良いだろうと考えたからです。南米はほとんど全部そうだし、フィリピンも外交語はスペイン語でした。

立石学長 東京では下宿されていたのですか。

むのさん 東大崎のたばこ屋の2階に下宿していました。アルバイトをして稼がなければならなかったのですが、不況で何も仕事のない時代でした。結局、支出を節約して、食うや食わず本当の貧乏書生で4年を過ごしました。

立石学長 下宿先の部屋の広さはどのぐらいでしたか。

むのさん 六畳一間。1ヶ月5円でした。東大崎から外語のある東京駅までの定期券が2円70銭で、部屋と定期券だけで7円70銭。父からの仕送りは12円でしたから、残りは4円ほど。それで三度三度の飯を食べなければならない。労働者の多い五反田や大崎付近は朝飯がわずか2、3銭で食べられたので住まいとしては都合が良かった。それと、外語は神保町のすぐ隣でしたから、古本屋で安いけど高く売れそうな本を見つけては、別の古本屋に売って差額を稼ぐ、そんなこともやっていました。外語には金持ちの学生より貧しい学生の方が多かったので、そういう情報交換をよくしました。

立石学長 外語時代の同級生のお名前は覚えてらっしゃいますか。

むのさん 「江原武」。私の一番の親友でした。

立石学長 『東京外語スペイン語部八十年史』のスペイン語科の中に江原さんの「川柳ブエノス」というものが残っています。「革命児、非業に死んで美しい」「母校では海外雄飛のその1人」「海外において君が代は無条件」。そんな川柳を残されています。

むのさん 彼は前橋の出身で、お父さんは陸軍少将でした。彼は法科で私は文科で隣り合わせでしたけど、彼は将軍の子ということが分かり何となく避けていました。1学期間あまり口利かなかったのですが、明日から夏休みという時に、やはり何か心引かれるものがあったのでしょうね、手紙のやり取りをしようということになり、前橋と秋田県で手紙のやり取りをしました。そしたら、本当に話が合うものですから、結局私の最初の親友となりました。

立石学長 書籍の中で「友というものはどこにいるか分かりません」と書いていらっしゃいますね。「反発を感じる相手が一番の友になることもある」と。すごく印象的なお言葉です。

むのさん 江原は将軍の息子ですが、歌舞伎や能や日本の音楽などがとても好きでした。卒業後はブエノスアイレスに行ってしまって、手紙のやり取りは続けましたけど、とうとう会えずに終わってしまいました。本当の親友が生まれたのも外語でした。

立石学長 学生時代の勉学はどうでしたか。

むのさん そうですね。私は本を存分に買えるような余裕はなかったので、図書館をよく利用していました。金澤一郎という名物先生がいました。それから、笠井鎮夫先生と高橋正武先生。それから翻訳家の永田寛定先生。

立石学長 セルバンテスの『ドン・キホーテ』を訳されましたね。私も『ドン・キホーテ』を読みますが永田さんの訳が一番好きです。

むのさん それから、スペイン人ではドン・ホセ・ムニョス。ムニョスさんの授業でスペイン語の作文をする授業があったのですが、2年のある日、作文をムニョスさんのところへ持って行ったら、突然スペイン語で「武野武治、ここへ来い」って大きな声で呼び出されました。怒られるようなことを書いた覚えがないのに。「君、日本人はこんなでたらめな物の考え方をしているのか」と。説明を受けてよく分かりました。作文の中で私が「半信半疑」、要するに半分信じて半分疑う、それをそのままスペイン語に訳したのですね。それをムニョスさんが「考えてみろ、信ずるということは全く疑わないことだ。半分疑ったら何で信ずるになるのか。日本人は、半分信じて半分疑う、そんなでたらめな態度なのか」と怒るのです。他の学生も皆びっくりしていました。私は、あれほど鋭く胸を刺されたことはありませんでした。全くムニョスさんの言うとおりです。その後、文章を書く時はいつもそれを思い出しました。100歳になった今も。言葉を飾って偽物を持ち出しちゃ駄目だという私の人生観を作ったのも、外語でのたった1時間の授業でした。

立石学長 むのさんの文章を書く時の姿勢にも表れているわけですね。授業以外に課外活動などはされましたか。

むのさん 部活は「弁論部」に入っていました。1930年代はちょうど中国と戦っていましたから、戦争反対や平和運動といったことが好まれず、学生運動はあまりできませんでした。ただ1つだけ、どこの学校にも弁論部があり、各学校主催で弁論大会をやり交流しました。それも我々が卒業する頃までじゃないでしょうか。

立石学長 その後は、さらに厳しい環境が生まれたのですね。

むのさん 卒業する1936年に二・二六事件がありました。外語はその日試験日でしたが皇居の隣にあったので兵隊に占領されていて学内に入れませんでした。結局は3日間ぐらい学校へ行けませんでした。

卒業後

立石学長 卒業後、報知新聞社を経て、朝日新聞社に入社され、その後、敗戦を迎えましたね。その辺りは、いろいろなところでお書きになっていらっしゃいますけど、その後、外語との関わりで記憶に残ることはございますか。

むのさん 戦争中は外語との関わりはありませんでしたね。スペイン語の知識を新聞記者として使う機会も10回あるかないか程度でした。朝日新聞社を辞める2年前に、外語の中国語の夜間部へ通う許可を新聞社からもらい、中国語の勉強を始めました。今後中国との関係がとても重要になると感じていました。丸1年通って、翌年1945年、外語が焼けました。そのため上野の美術学校に外語が臨時校舎を持ちますが、勉強が続けにくくなり、結局は通学ができなくなりました。

立石学長 その頃、東京外国語学校から東京外事専門学校と名称が変更されましたね。そこの夜間部で中国語を学ばれたということですね。

むのさん はい。中国語の先生が60歳代ぐらいの年配の先生で、包(パオ)さんという方でした。世界中で一番きれいで正確な中国語の発音をすると評判な方でした。毛沢東政権ができた時に、パオさん宛てに毛沢東から中国に戻ってきてほしいとの説得の手紙が来たという話を聞きました。パオさんは「私は40歳の頃に日本の青年に中国語を教えようと決意して東京に移り住んだ。その決意は変わらない」と応えたそうです。そのパオさんから私、中国語の発音は非常にいいと褒められてね。

今の東京外大に期待すること

立石学長 最後に、今の東京外大に期待することがありましたら、お聞かせいただけますか。

むのさん 人類全体の歴史の歩みの中で、人類の歴史を導く文明・文化の基本に触れてほしい。73億の人類の言葉全体を対象とする大学、「人類語学院」です。今後間もなく人類の大問題になるのは「少数民族」だと思います。その時に、その人々がどういう生活をしてどういう言葉を使いどういう物の考え方をするのか、専門家が育つと良いですね。現実に存在している民族のどこの言葉についても研究者がいるような、そういう大学になったらいいなと思います。

立石学長 そうですね。今現在、東京外国語大学では学生定員を持つものとしては27の専攻語があります。そのほかに研究言語的な形で授業として提供しているのが約60あります。ただ、今むのさんが言われたように、世界には他にも無数に言語がある。東京外大に来れば、そうした無数の言語の数多くを学ぶことができる、或いはたずねることができる、そんな大学になればいいなと思います。東京外大に「ワールド・ランゲージ・センター(世界言語教育院)」というセンターを作る計画がございます。近いうちに、先ほど申しました60言語を80言語ぐらいには増やそうと思っております。そしてトルクメン語など日本ではあまり知られてないけど重要な言語を開講していきたいと思っております。世界諸地域の言語をできるだけ開講するとともに、その言語を使用する人間集団の文化についても扱っていけたらと考えています。

むのさん 言葉は生活、生命そのものですから。ぜひ、そのような道を開いてほしいと思います。

立石学長 むのさん、今後もお元気でご活躍ください。そして、東京外大を温かく見守っていただければと思います。長い時間ありがとうございます。

むのさん 若かった時代を思い出させて本当によかった。どうもありがとうございました。


むのたけじさんのご冥福をお祈りいたします。

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