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インドネシアを拠点にマルチに活躍:加藤ひろあきさんインタビュー

世界にはばたく卒業生

本学卒業生の加藤ひろあきさんをご存じですか。現在インドネシアで歌手、タレント、翻訳家、通訳、大学講師、俳優など多数の顔をもち活躍されている加藤さんは、今年、インドネシアと日本の友好関係促進に大きく貢献されたとして在インドネシア日本国大使館より「令和3年度在外公館長表彰」を受賞されました。
今回のTUFS Todayでは、そんな加藤ひろあきさんへのインタビューが実現しました。

インタビュー・取材担当:国際社会学部東南アジア地域/インドネシア語3年・渡辺麻友(わたなべまゆ)さん(広報マネジメント・オフィス学生取材班)

インタビューの様子  左:加藤さん 右:渡辺さん

——令和3年度在外公館長表彰の受賞、おめでとうございます。加藤さんはご自身のどのような貢献が今回の表彰に結びついたとお考えですか?

自分で振り返るのも照れくさいですね。音楽を軸として活動を行っていますが、音楽はインドネシアと日本の垣根を下げられると思っています。様々な場面で交流を深めるのに繋がったのかなという思いがあって。SNSのダイレクトメッセージや投稿で、僕が翻訳したインドネシア語の楽曲をインドネシア人が歌って日本の人に喜んでもらったり、逆に日本人が歌ってインドネシア人に喜んでもらったりしている動画をたくさん頂くんですよ。そのような意味で音楽は両国の交流に有効であったと思います。

在外公館長表彰の受賞式の様子

その他の活動としては、2020年5、6月に個人的に募金活動を行っていました。インドネシアの人権擁護団体と組んで、労働契約を結んでいないインフォーマルセクターの方々に一日分の食料や、石鹸、消毒液、洗剤などを1パックにして配布しました。新型コロナウイルス感染のリスクを考え、僕が直接配布していたわけではないのですが、募金を集めるためにファンの方をはじめとする人々に呼びかけを行いました。最近は日本のメディアへの出演も増えたので、日本のお茶の間にインドネシアの魅力を届けることもできたかなと思います。メディアに登場してインドネシアとの距離を縮めるという点でも評価して頂けたのだと思います。

——現在はジャカルタにいらっしゃるのですか?

そうですね。7月3日から「緊急公衆活動制限」が発令されていて、セミロックダウンのような状態であまり外出できません。

——お仕事に影響はありますか?

ないといったら嘘になります。インドネシアは日本より制限が厳しく、インドネシアに新型コロナウイルスが入ってきた2020年の3月から1年半、オフラインのイベントが開催できていないんです。ミュージシャンは出る場所がないからきついですね。

——音楽には幼少期から親しまれていたのですか?

カラオケは好きでしたね。僕が中学生の頃カラオケが流行っていて、気軽に安く歌える環境がありましたが、ちゃんと音楽の勉強をしたことはありませんでした。あとはギターを中学2年生の時に趣味として始めました。ギターは小学校の用務員のおじさんに習いました。その方は小学校にサッカーを教えに来てくれていたのですが、クラブチームの忘年会の時に聴いたギターがすごく上手だったんです。それを思い出して、中学2年生で始めるときに習いに行ったんですよ。高校ではサッカー一筋で。全国大会を目指すチームの一員でした。だから音楽を本格的に始めたのは高校を卒業してからですね。

——音楽を仕事にしようと思ったきっかけは何だったのですか?

小学生の時から歌うことが好きで、いつかチャンスがあったら芸能活動にもチャレンジしたいという思いがありました。でも芸能界に入ることに対しては現実味がなく、夢として持っていました。2006年にインドネシアのガジャマダ大学での留学を開始して、渡航して3か月が経った時にジャワ島大震災で被災するという経験をしました。その震災で生活が一変し、友人の誘いで救援物資と音楽を届ける学生団体に所属し活動を始めました。日本では震災の後すぐに音楽を届けることは不謹慎と見なされる風潮がありますよね。ミュージシャンやアーティストが活動するのはもっと後のフェーズというか。でもインドネシアは違いました。批判されるのかなという不安も大きかったのですが、行ってみたらとても感謝されました。非常に感謝されて、初めて音楽のパワーを実感したんです。日本でも路上ライブを行っていたので音楽のパワーを言葉としては使っていましたが、音楽はお腹を満たせないし、パワーを実感できていなかったんです。その経験によって、音楽は人の心を動かすんだ、力を与えるんだと実感して、じゃあそれと一緒に生きていきたいなと。そこで音楽を仕事にしていきたいと考えました。

災害ボラティアの際に現地の方々と

——留学を終えて、別の職業に就くことは考えなかったのですか?

留学後は教員免許を取りました。教師も幼少期からの選択肢の一つとして大きかったです。父の家系も教師が多く、教えることにも抵抗がなかったため、教師は自分に合っているかもしれないと思っていました。自分の中でインドネシア語と音楽という2本の柱でご飯を食べたいと思ってはいましたが、とはいえ自分の気持ちを100%信じられていませんでした。とりあえず教育実習に全力で取り組みました。結果的にとてもいい経験になりました。当時の生徒がフェイスブックで「テレビ観ましたよ先生!」とメディア出演後に連絡をくれることもありました。教育実習に手ごたえは感じましたが、インドネシア語と音楽を仕事にしたい、という思いは消えず、教育実習が終わって改めてインドネシア語と音楽を二本の柱にしようと決めました。

——留学中である2006年にラジオのパーソナリティを務めたご経験があるそうですね。これは留学前からの繋がりで進んでいたプロジェクトだったのですか?

いえ、元々プロジェクトが進んでいたことは一切ありません。留学先の大学内にラジオ局があったんです。大学のラジオ部が発祥ですが、独立して今ではジョグジャカルタでトップ3の聴取率を誇る名の通ったラジオ局です。その中に日本の楽曲を紹介するコーナーがあり、週替わりのゲストに留学生の枠もありました。日本の留学生が出る枠で一度順番がまわってきたのですが、芸能活動を夢見る自分にとっては、これは大きなチャンスだと思いました。出演が終わった後、自ら売り込みに行ったんです。日本のことを扱うコーナーだから日本人の方がいいだろうということもあって、プロデューサーの方が快く承諾してくれました。それから毎週日曜日に2時間、インドネシア人と二人で放送を行いました。インドネシア語がとても鍛えられましたし、色々なゲストの方もいて音楽にも詳しくなって輪が広がりました。とてもいい経験でしたし、この経験が無かったら今に繋がっていないかもしれないですね。それくらい大きなターニングポイントだったと思います。その代わり他の留学生のように週末や週明けに学校を休んで旅行することはできませんでした。一年中ジョグジャカルタ(留学先大学の所在地)にいましたね。

——留学中で印象的な出来事は何でしたか?

留学時代

基本的にインドネシアの方々は物凄く優しく接してくれました。日本のことが好きと言ってくれる人もたくさんいました。でも一度だけ、カフェでインドネシア人の友達と談笑している時におじいさんに「お前日本人か」と話しかけられて。日本人ですと答えたら「お前らのことは絶対許さないからな」と。第2次世界大戦中、3年半の日本による植民地時代の話ですね。面と向かって言われたのはその一度だけです。そこで思ったのは、自分はインドネシアの方々に優しくして頂いて良い気分で過ごしていたけれど、そこに3年半の植民地時代があったことは事実で。インドネシア人も歴史として植民地時代に日本人がもたらしたプラスの面も習うので、日本にとって100%悪の歴史観ではないからこうして親日として慕ってくれていますが、そういうことの上に成り立っている今の関係なんだなということを心に刻んでくれた非常に重要な出来事でした。
その他は幸せな思い出しかないです。インドネシアの方々に良くしてもらったのに自分は何もできていないという思いもあって、だからこそインドネシアで色々なことをやりたいなと思い、それが現在のモチベーションにも繋がっています。留学は本当に僕の人生を変えてくれました。だからこそ皆さんにも留学を楽しんでほしいですね。

——留学前はどのようにインドネシア語を勉強されましたか?

予習復習にすごく時間をかけて、単語も調べてボロボロになるまで辞書を引いて、皆さんと変わらないようなことをやっていましたが、インドネシア語が鍛えられたのは留学中でしたね。現地の人が物凄いスピードで話している中にずっといて、その中で鍛えられました。その時に留学前のベースが役立ったとは思いますが、行く前は劣等生でしたよ。

——旅行として行くのではなく、インドネシアを拠点に働こうという決断に迷いはありませんでしたか?

迷いも不安ももちろんありましたが希望の方が大きかったです。2013年で30歳になり、2014年に31歳になってすぐ移住しました。転機としては30歳の節目ですね。30~40歳までの10年間をどこで何をして過ごすのか、2013年はずっとそれを考えていました。20代を振り返って、果たして20~30歳までのプロジェクトは成功だったのか?自分のやりたいことはできていたのか?と自問自答していました。2013年は上智大学でインドネシア語の非常勤講師として勤務して、並行して音楽活動を行っていました。芸能活動としても舞台役者や短編映画に出演して地道にやっていましたが、それではご飯は食べられなくて。インドネシア語関係のお仕事でご飯を食べていました。生きるためにやっていたことは次第に比重が上がっていき、評判も上手い具合に上がり肩書もついてキャリアを築いていたのですが、自分の夢である芸能活動は鳴かず飛ばずで。
そのような時に、大相撲ジャカルタ巡業での横綱の白鵬、稀勢の里の囲み取材に、通訳として帯同しました。その期間で色々な日本人、インドネシア人に会い、初めてジャカルタに長期間住み、その時初めてチャンスはここにあると思って、自分以外の誰かが自分のやりたいことを先にやったら後悔して死んでも死にきれない、その可能性は十分にあるなと。だったら行かないと、行かない後悔より行く後悔だと思い、日本での活動を全て辞めてインドネシアへ飛び立ちました。30~40歳の10年間は少なくともインドネシアで勝負する、そこに全てを賭けると決意しました。そこが決断のポイントですね。インドネシア人のアーティストの友達も、「ヒロ、お前の能力は日本よりインドネシアで輝くから来い!」と背中を押してくれました。後悔したくないのが一番でしたね。

インドネシアのテレビ番組に出演時の様子

——インドネシアとの接点は大学入学前からあったのですか?

東京外国語大学でインドネシア語を専攻してからです。小学校1、2年生の間、父の仕事関係でアメリカで過ごしたのですが、日本人学校ではなく現地の学校に通いました。何も分からぬまま浴びるように英語を聞いて覚えました。その経験が響いていて、言語を習得するにはそこに入り込まないといけないなという感覚がありました。だから自分の時間とお金で比較的簡単に留学ができるのは東南アジアだなと思い、インドネシア語を選びました。前期試験で落ちてしまったのですが、とにかく東京外大に行きたいと思い、後期試験で合格することができました。それが僕の人生を変えてくれましたね。あの時の自分を褒めたいと思います。

——現在のお仕事はオンラインが中心とのことですが、具体的にはどのような活動をされていますか?

これまでの活動ではタレント、ミュージシャン、司会の三本柱がありました。今はその柱は変わらなくてもオフラインのイベントがない上に、メディア出演等の数も減りましたね。以前と比べて空き時間が増えて家にいることが増えたので、滞っていた小説の翻訳の仕事をしています。この機会に小説としっかり向き合って自分の作品を出版していきたいなと思っています。

——今後は翻訳のお仕事の比重が大きくなりそうですか?

一時的にそうなっていますが、やはり自分のパッションは音楽にあります。ライブができないので今年は創作の方をやっていきたいと思います。忙しさもあって創作活動に取り組めず2017年からアルバムを出せていないので、自分の経験を活かして音楽の創作活動をメインに据えて行いたいです。コロナウイルスと上手く付き合えるようになった時に発表できる作品を創っていくのが今後の活動になっていくかなと思います。俳優としての活動も今後の視野に入れています。

——最後に、受験生、在学生にメッセージをお願いします。

東京外国語大学に入学して、多様な価値観を学んで、国を問わず色々な人に出会えました。日本人の中でも色々な人がいて、国を超えて様々な人たちと交流する機会は求めれば求めるだけいくらでもある環境なので、そこを楽しみに東京外国語大学での生活を目指してほしいなと思います。こんなに世界に目が向いて、世界に出て行くことがある種当たり前というような環境というのもそう多くないと思います。今後の日本にとって非常に貴重な人材が東京外国語大学から出てくると思うので目指す人たちはそこを目指してほしいなと思っています。
東京外国語大学はアットホームで、勉強にも集中できるし自分のやりたいことを実現する上ですごく理想的な環境だと思います。在学生には自分の情熱を注げるものを見つけて、それに向かって進んでいってほしいなと思いますね。僕自身がそうでした。東京外国語大学に入ってインドネシア語と出会って、それがそのまま人生の柱になってパッションになって今の人生があります。そういうものに大学の経験で出会ってほしいと思います。ジャカルタにも、商社や外務省の一員として活躍している東京外国語大学の卒業生がたくさんいらっしゃいます。要所要所で非常に重要なポジションを占めている上にキャラクター的にも面白い人たちがたくさんいて、そういう人材がたくさん出てくる大学であるのは間違いないです。自分のパッションに正直にやりたいことを突き詰めてほしいなと思います。絶対に無駄なことはないはずです。

インタビュー後記
インドネシア語専攻として入学した皆様は特に、加藤ひろあきさんのお名前を知らない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。東京外国語大学の先輩であり、インドネシア語専攻の先輩であり、かつ人生の先輩である加藤さんにお話を伺えたこと、至極光栄に存じます。本学インドネシア語専攻以外の方々にとっても、留学を経て、パッションと共に夢を叶えられたお姿は、これからの人生を輝かしいものにしたいと活力が沸くものであったのではないでしょうか。最後に、加藤ひろあきさんの益々のご活躍をお祈り申し上げます。
取材担当:渡辺麻友(国際社会学部インドネシア語専攻3年)

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