2020年3月18日

代議士の戯言

代議士は、研究者ではない。
研究者が求められるように、
データの正当性を説明する義務は無い。

でも、あまりにも酷すぎる。

「選択的夫婦別姓は犯罪増えないか」 導入求める請願審査で愛媛県議暴論、不採択に
https://mainichi.jp/articles/20200316/k00/00m/040/216000c

研究者ではなく、議員ですから、
と言うか、議員って言うのは、
一般人の代弁者ですから、
「常に」なんでも正当性を説明・証明できる
ことは求められていない。

だからと言って、よく知らない事柄に関して
思いつき、思い込みで
発言してばっかりいられては困る。

まあ、この夫婦別姓に関しては、違う方向性で
アヴェが雑誌『Will 2010年7月号』に
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-01-04/2016010401_04_1.html

夫婦別姓は家庭の解体を意味します。 家庭の解体が最終目標であって、家族から 解放されなければ、人間として自由になれないという、 左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)。 これは日教組が教育現場で実行していることです。

と寄稿している。
これは、カルト宗教的な妄想でしかなく、
様々な価値観を持った国民の上に立つべき人の
言葉としては赦しがたい。

--

メキシコの政治家がこんなことを言ったことがありました。

「ゲイの人たちに結婚を許すことはできない。なぜなら
 彼らは性交中にお互いの顔を見ていないから」(英語記事です。)
https://www.independent.co.uk/news/world/americas/mexican-politician-says-gay-people-should-not-be-allowed-to-marry-because-they-dont-face-each-other-8773982.html

これは、思い込み以外の何者でもないでしょう。

その政治家は、「後背位」しか想像できなかったんですね。

もっとゲイアダルトビデオを見てお勉強してください!

実際のMSMは、ワギナを使わないことを除いては、
異性間でもできる様々な体位をすることができますし、
お互いの顔を見ることだって、頻繁に起こります。

とはいえ、一般人の代弁者である代議士は、
よく知らない事柄に関して
結構思いつき、思い込みで発言をして、
それが少なくともその場では大した問題にも
ならないっていうことが結構ありそうですし、

日本の議会の中継などでも、
我々は頻繁にそのような情景を見せられています。

2020年2月29日

ことば3題

1.

象は鼻が長い―日本文法入門 (三上章著作集)
Amazon.co.jpによる
詳細はこちら: https://www.amazon.co.jp/dp/4874241174/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_udHwEbTR6YB5P

という本があります。

「二重主語文がある言語」があるという風に言われたりします。
そして、それが無い言語もあると。

日本語の様にそれが「ある」言語では、「象」と、「鼻」を動詞の
二項のように表現できるが、

「無い」英語などでは、

Elephants' trunks are long

みたいに、工夫して一項にしないといけない、と。

ところで、最近上記の「象は鼻が長い文」ではなくて、
「象は長い文」っていうのがあるように観察しています。

この、「象は長い文」は、
「象は鼻が長い文」を持っていない言語でも
観察されます。

ちょっと脇道に逸れますが。

「big in Japan」
http://bit.ly/38fIQWs

というのは、世界の他の地域では売れていないけれど、
日本でだけ売れているミュージシャンを指す
表現だそうです。

これ自体は、「象は長い文」ではないです。

他方、これをモジったTシャツなどが出回っています。

https://www.google.com/search?q=huge+in+japan&client=safari&rls=en&sxsrf=ALeKk03Pe3wUTNTIuToqu9E7rTELShqf6w:1582960977506&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjlqoeWnfbnAhXYQN4KHS_0Cp8Q_AUoAXoECA0QAw&biw=1138&bih=735

「I'm huge in Japan」

これは、「象は長い文」と解釈すると
理解ができます。

「鼻が」の部分が表現されずに
ほのめかされているだけです。

でも、わかる人が多いでしょう。

漢字で「巨◯」なんて書いてあったら、
「まんまやん」ってなわけで。

標準英語ではなく、
ハワイ・ピジン英語という名前の
クレオール語での例があります。

https://books.google.co.jp/books?id=QAcJSXpYoucC&pg=PP171&lpg=PP171&dq=small+petoot+pidgin+max&source=bl&ots=uWuHygAJmr&sig=ACfU3U2V3Ciik9n_P8m-amp6rcLBrVY-tQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjEw4ijoPbnAhVZyosBHTCIB-UQ6AEwAXoECAkQAQ#v=onepage&q=small%20petoot%20pidgin%20max&f=false

3コマ漫画のなかで、

「Oh dat Warren! He so small petoot」

という例があります。

「あぁ、あのウォーレン!あいつは小さいよ」

という、「象は長い文」になっています。

2.

次は、今週のラジオからです。

直ぐに書かなかったので、月曜日までしか
radikoには残っていないので、
申し訳ないです。

TOMAS presents High School a Go Go!! | TBSラジオ | 2020/02/24/月 21:00-21:30 http://radiko.jp/share/?sid=TBS&t=20200224210000 #radiko

https://www.tbsradio.jp/459080

母語情報、言語背景も分かりませんが、
この番組の中で、少なくとも2人の人が
あるフレーズを面白い感じで発音しています。

「エンターテインメント集団」

なんですが、

/エンター/ /テインメントシュ]ーダン/

「高低」で書けば、
/エンター/ /テインメントシューダン/
/低高高高/ /低高高高高高高 低低低/

規範的には、

/エンターテインメントシュ]ーダン/
/低高高高高高高高高高高 低低低/

となるところですが、

2人の人が、/テイン/のところで、/低高高/と
発音しています。

この/低高/というパターンは、「句」の始まりを
示すと、通常説明されているものです。

ということで、その前に「句切れ」があるように
感じられるようになっています。

(この「句」というのは、統語論上の句ではなく、
 音韻論で、イントネーション等について論じるときに
 使われる用語で、いろいろな人が様々に呼んでいて、
 誰もが分かる、定番の術語はありません。)

--

「特殊犯罪」

という複合語があったときに、
これは通常の複合語的なアクセントパターンを採って、

/トクシュ ハ]ンザイ/
/低黙高  高 低低低/

となります。

これに、「集団」を後続させると、

/トクシュ ハンザイ シュ]ーダン/
/低黙高  高高高高 高  低低低/

と1句にしてしまうか、

/トクシュ/ /ハンザイ シュ]ーダン/
/低黙高 / /低高高高 高  低低低/

と、/ハンザイ/(/低高高高/)の前に句切れを
入れて、2句にするかは、揺れがあるでしょう。

しかしながら、「特殊」と「犯罪」の間に
句切れが入ってしまうのは、両者が元々
複合語であるにしても、それぞれを分けても
語として独立して存在できるものであるので、
それほど「変なこと」ではありません。

他方、

/エンターテインメントシュ]ーダン/
/低高高高高高高高高高高 低低低/

と1句で発音するか、

/エンター/ /テインメントシューダン/
/低高高高/ /低高高高高高高 低低低/

と2句に句切って発音するかは、
「特殊犯罪集団」が2様に発音されるのと
同様の現象だとは思うのですが、

こちらの例での問題は、
英語からの外来語「エンターテインメント」
が日本語の中では、「エンター」と「テインメント」との
間で、「意味を持つ単位」の切れ目としては
切り様が無いということです。

この現象は、音韻論的「句」の「句切れ」が
必ずしも、直に意味に関与はしないということの
証左になってしまう可能性があります。

3.

以前、ラジオを聞いていたときに、
どうやら出演者が

「アザーズ」

と言おうとしていたものが、
どうしても

「アズアズ」

に聞こえてしまうということがありました。

音素的に書けば、

/aza:zu/

/azuazu/

で違った分析をされるべきものですが、
よくよく「内省」すると、

音声器官の動きは、ほとんど同じで、
ただ、動くタイミングが違う可能性が
あるものだと考えられます。

/aza:zu/

には、母音音素/u/が含まれていませんが、
母音音素/u/、すなわち異音としては[ɯ]の
構えは、それが円唇母音でないことも手伝って、
/z/から/a/に移行する途中、瞬間通過している
と考えることもできます。

2020年2月18日

性の境界線を超えてWS

総合文化研究所共催 映画上映会&ワークショップ
性の境界線を超えて:マグヌス・ヒルシュフェルトとアヴァンギャルド

http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics/events/event20200217/event20200217.html

日時:2020年2月17日(月)14:30-18:00
場所:東京外国語大学 総合文化研究所 研究講義棟422

プログラム
①14:30-16:00 映画『他の人とは違って』上映会
        映画解説:西岡あかね(東京外国語大学)
②16:00-18:00 ワークショップ
  小松原由理(神奈川大学)
   ダダはクィアか? ヒルシュフェルトと同時代アヴァンギャルド
  熊谷謙介(神奈川大学)
   「男たちの前衛」のなかで:シチュアシオニスムのジェンダー布置をめぐって

主催:研究グループ「歴史的アヴァンギャルドの作品と芸術実践におけるジェンダーをめぐる言説と表象の研究」(科研・基盤B:19H01244 代表:西岡あかね)
共催:東京外国語大学総合文化研究所

--

上記の学内のワークショップに参加してきました。

表象文化研究に関しては、全くの門外漢なのですが、
前世紀から、LG団体の片隅でクイア研究的なものを
聞かされてきた身としては、
マグヌス・ヒルシュフェルトという名前が刺さったので
映画を見に、そして、その他のご発表を聴きに行ってきました。

この、Anders als die Andernという映画、ウィキによると(笑)
ゲイを、肯定的に描写した映画としては初めてのものだったそう。
それでも、死が付き纏いますけどね。

動画を探しまくっちゃいました。 http://bit.ly/2vEfSBQ
ドイツ語字幕は、全部は理解できなかったので、
他の言語で見返そうと思います。

欧米に遅れること数年で、日本でも、ゲイが笑われず、
悲劇にも見舞われない作品が
『弟の夫』、『きのう何食べた?』、『his』と出てきています。

ちょうど今、ゲイを笑いのネタにした映画『バイバイ、ヴァンプ』
が大炎上しているところですけれどね。

--

ところで、ヒルシュフェルトという性科学者は、女と男という隔絶した
2項対立があるのではなく、どんな個々人も、m%の女性性と、
n%の男性性を持っていると唱えていました。

その割合が変わってくると、LGが出てきたり、
トランスが出てきたりすると考えていた模様です。

そして、20世紀の初頭から、同性愛は、治療できるものではない
と主張していた。

ドイツとその周りでは、そういう主張もいくばくかの影響力を持って
いたんでしょうね。

--

他方、アメリカ合衆国では、同性愛の、conversion therapyというのを
信奉するキリスト教会や、親御さん達がいて、多くのLGが被害に逢いました。

その非合理性を描写する映画『ある少年の告白 Boy Erased』が
あります。

http://www.boy-erased.jp

--

米国はそんなでしたが、欧州では、チェコにも、conversion therapy
に反対する医師Kurt Freundが、20世紀半ばにいました。

Kurt Freund: The Beginning of the End of 'Gay Conversion Therapy' in the 1950s
https://brewminate.com/kurt-freund-the-beginning-of-the-end-of-gay-conversion-therapy-in-the-1950s/

--

ところで、ヒルシュフェルトによる、女と男という隔絶した
2項対立があるのではなく、どんな個々人も、m%の女性性と、
n%の男性性を持っているという言説、
更には、100%女、100%男というものも存在しない、
全ての人間は女性性と男性性のMischformである
というのは、

エティック・イーミックの見方で捉えれば、
エティックには、女性と男性を両極としたグラデーションが
あるだけであり、

イーミック的な認識という切り取りによって、
「女」と「男」がカテゴライズされるということ
なんだと思います。

その「女」と「男」というカテゴリーしか安定して存在しないところに、
(その中間相も、様々な時代の様々な文化では、個々にカテゴライズ
 されていますが、)

今、現代では、「ノンバイナリー」というカテゴリーや、
「Xジェンダー」という(これは日本的な?)カテゴリーが出てくる
ことによって、積極的にMischformを表現する人たちが出てきています。

--

トランスジェンダー(or トランスセクシュアル)であっても、
例えばユーロビジョンで、20世紀末に、
ダナ・インターナショナルというイスラエル人MTFが出てきていました。
http://bit.ly/2uS6DOg

トランスと言ったら、基本、MからFへ、また逆にFからMへ
振り切らなければならないという、社会・文化的な圧力のせいもあるのか、
Danaは、MからFに振り切っています。

他方、時代が下って、2014年にユーロビジョンで優勝した
オーストリア代表、コンチータ・ヴルストは、
http://bit.ly/3bKEDwB

女装をしながら、(汚くなく、きれいに)髭を生やしており、
ノンバイナリー的であり、またMischformを積極的に表現しています。

--

日本でも、当初、美少年、美青年で売っていた人が、
汚いおっさんにならないために、女性形態に移行した人たちが
いました。

美輪明宏とか、池畑慎之介(ピーター)とか。

他方、ここ近年では、ノンバイナリー(ひいてはMischform)を
表現する、氷川きよしのような人も出てきています。

--

英語圏では、「自分が使って欲しい3人小単数代名詞」を
プロフィールに書くことが流行っています。
she/herなのか、he/himなのか、they/them(単数)なのか。

they/themを選ぶということは、ノンバイナリーであるということの
宣言なのでしょう。

2020年2月11日

Buttigiegのカタカナ化

Buttigiegの発音を、今日2020年2月11日時点のウィキペディア英語版は、
https://en.wikipedia.org/wiki/Pete_Buttigieg

/ˈbuːtəˌdʒɛdʒ/ と、音素表記とも、音声表記ともわからない書き方で
書いている。まあ、アメリカ英語を知る人には当たり前な
/t/の有声はじき音化[ɾ]は反映していないので、そこは
音素表記的ですね。

カタカナ化するときの可能性は、

ブ/ブー
ティ/タ/ダ/ラ
ジッジ/ジェッジ

をどう組み合わせるかですね。

「ブ/ブー」

に関しては、今のところ、文字メディアは、
 「ブ」一択にしている感があります。
ttと、後続子音が重ねて書かれているので、
短くした方がいいと考える人が多いのかも知れません。

「ティ/タ/ダ」

は、「ティ」か、「ダ」を良く見かけます。

「ブタ」は、豚に通ずるので、避けられている感が
あります。

これは、コリア系の전 [tʃɔn]さんが、チョンを避けて
ジョンと名乗ったり、

チンポー語が、ジンポー語になったり、
(これは中国語からの転写より、
 当該の言語の音を転写したという
 ことなんでしょうけど。)

というのと同じ流れですね。

後は、綴りに近い「ティ」にするか、
[ɾə]に近く、「ダ」にするか。
でも、「ラ」にまではしないんですね。

t, ttを、有声化、(はじき音化、)を反映した
カナにすることって、今まではあんまりして
いないですけど。

アニタをアニーダにしたり、
ベティーをベディーにしたりは
普通しないです。

なので、そこは新しい。

第二強勢のある[dʒɛdʒ]は、ジェッジ一択でしょうかね。

ということで、ブティジェッジと、ブダジェッジを
今後目にすることが多くなるのでしょう。

自分をカテゴリーに入れたり、他人を別カテゴリーで排除したり

こんなツイートがあった。

DJ Karaage粉 @adisomak 『パラサイト』のアカデミー賞受賞について「アジア人として誇りに思う」ってツイットを複数目撃したけど、作品が評価されたことに、なんで急に「アジア人な自分」がのっかれちゃうんだろ。功績のある人は無理やりでも「日本人」にしたがる心性と同じで、自分が線を引ける側だという傲慢さにゾッとする 午後2:57 · 2020年2月10日·Twitter for iPhone
DJ Karaage粉 @adisomak 「手柄」をあげたことに対して一斉にむらがる感じとか、「同じ◯◯人としてうれしい」とか言い出すの、ほんとにちょっと考えてほしいわ。逆に犯罪をおかした人なんかは、被疑者の段階でわざわざ外国籍の本名を報道したり平然とする社会だから気持ち悪いっつってんです。「日本人」、何様なのよ。 午後5:18 · 2020年2月10日·Twitter Web App

人は、誰かが何かいいことを成し遂げたときに、
自分も同じカテゴリーに含めることができれば、
そのカテゴリーを強調したりする。

今回のパラサイトでのオスカー受賞者を
「同じアジア人」と言ってみたり、

ノーベル賞を受賞した、
日本に起源を持つが、現在は米国籍の人を
「日本人」と、誤った呼び方をして
括ったりする。

他方、犯罪者などは、本当に在日コリア人だったとして、
本名を暴いてみたり、

コリア系ではない人を執拗に、「在日」呼ばわりしたりする。

--

私が以前アラスカで、インディアン言語の調査をしていたときには、
私に好意を持っている人は、「お前はインディアン dinehだ」と言い、

それほど好意を持っていない人は、「外人(白人) nǫǫdlee」と
言ったりしていました。

これも、似たようなメカニズムによるものですね。

2020年2月10日

「みんな同じでみんないい」のか?

先日、ブログにこう書きました。

「みんな違ってみんないい」 ではなく、 「みんな同じでみんないい」 っていうのが、特に右寄りの人、保守層の目指す 日本の根本的な原理なんじゃないかと思ったりします。

(それが、日本会議のようなカルトや
 親学のようなカルト道徳に裏打ちされている
 可能性もありますが。)

この原理に従うと、やっぱり、一部の人の例外を認める
「夫婦別姓」や、「同性婚」はそもそも議論の俎上に
載せられないってことなんじゃないかなあと思っています。

このネモトを揺るがさないと、議論は進まないんじゃないかと
思っています。

このラインで、
「単一民族神話」や、
「万世一系神話」が
繰り返し繰り返し、特に与党政治家の口から
出てきます。

単一民族って、あーた、一般的な知識としても、
それも、日本の主要な人口、
即ち、アイヌではない和人、
ウチナーンチュ(等の琉球諸集団)
ではないヤマトゥンチュも、

元々いた狩猟最終民の縄文人に、
数の上でかなり勝る農耕民族の渡来人がきて
混血してできた人間集団であることは
常識的でもあるし、ちょっと調べれば
わかります。

(参照: DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html )

渡来人の来る前の縄文人は、文化面と、形質面で、
中々下位区分をすることは難しいでしょうが、
それこそ記録にほとんど残っていないけれど、縄文人は、
どんな言語集団に分かれていたのかは、
想像することしかできません。
(ヤンフネンは、数百の言語に分かれていたと
 推測しています。)
(日本語の中にも、同じ意味を表わしていそうな
 語が2つ(あるいはそれ以上)あることが見て取れるという
 指摘もあります。それは多言語に起源が行き着く
 可能性を秘めています。)

純ジャパと俗に呼ばれることもある和人且つ
ヤマトゥンチュも、歴史に辿れる形で
混血民族です。

形質面では、縄文人と渡来人の特徴は異なるところがあって、
耳垢が湿っているか、乾いているか、
体毛が濃いか、薄いか、
背格好が低身長でずんぐりむっくりか、高身長で細身か、
二重瞼か、一重瞼か、
濃い顔立ちか、薄い顔立ちか、などなど、

多くの和人且つヤマトゥンチュも、
両方の特徴を、混ぜこぜに持っているでしょう。

最近、「純ジャパ・混ジャパ」などという
挑発的な用語を使って、炎上しちゃった案件が
ありましたが、その純ジャパってのは、
元々、わかっているだけで二つの集団が
混ざってできているものなのです。

我々が今知ることができる範囲を超えて、
もっと多くの集団が混ざっている可能性も
もちろんあります。'

こんな鼻濁音もあるのか

前川守賢 - 遊び庭(あしびなー)
https://www.youtube.com/watch?v=nf3Zh245Er0

今日のRBCiラジオ、「民謡で今日拝なびら」で、
出演者は、座喜味米子さんと、前川守賢さん。
(民謡で今日拝なびら | RBCiラジオ | 2020/02/10/月 16:00-17:00  http://radiko.jp/share/?sid=RBC&t=20200210160000

最初の曲、前川守賢さんの「遊び庭」を掛けた後に、

♪あしびなーに んな ゆてぃくー♪
(遊び庭に 皆 寄って来い(集まって来い))

の「んな」は、「んな [n̩ˑna]」であって、
「'んな [ʔn̩ˑna]」ではないって前川さんが
説明しているんだけど、

それに、座喜味米子さんが、「鼻濁音の「ん」ですね」
って応じていて、

「それを鼻濁音って呼ぶこともあるのか!」と
ちょっとびっくりしました。

じゃあ、声門破裂音がある[ʔn̩ˑ]の方は、
何て呼ぶんだろう。

正確に定義されるべき音声学用語ではなく、
市井の人たちの間で使われている言い方に
ちょっと興味を持ちました。

2020年2月 6日

エッセイ

1。
映画「his」を観てきました。
https://www.phantom-film.com/his-movie/

完全に同性愛者の実生活からは乖離した
フィクションとしてのBLではなく、
フィクションながら、ありえる話として、
ゲイを描いているように見て取りました。

しかしながら、宮沢氷魚が美しすぎて、
「3」次元の次元数が、小数点以下漸減して、
脳内で、「2」あるいは「2.5」に近づいてきてしまう
錯覚も、何度も襲ってきました。

最後は「こういう終わり方するか〜!」と思いました。
観た人が、各々、その後のストーリーを想像できるような
余韻のある終わり方だったなあ、と。

いずれにせよ、もはや「笑い飛ばされる対象」としてのゲイでも、
「非業の死を遂げる」ゲイでもなく、
普通に生活、それもど田舎で生活しているゲイを描いて
いたなあ、と。

私生活での宮沢氷魚も、私の前のブログで書いたように、
学習してアライになったのではなく、ネイティブなアライなのですが、
ど田舎で、思わぬ人が、これは学習してアライになった人なのでしょうが、
アライになっていくのが小気味よかったです。

--

2。
「みんな違ってみんないい」
ではなく、
「みんな同じでみんないい」
っていうのが、特に右寄りの人、保守層の目指す
日本の根本的な原理なんじゃないかと思ったりします。

(それが、日本会議のようなカルトや
 親学のようなカルト道徳に裏打ちされている
 可能性もありますが。)

この原理に従うと、やっぱり、一部の人の例外を認める
「夫婦別姓」や、「同性婚」はそもそも議論の俎上に
載せられないってことなんじゃないかなあと思っています。

このネモトを揺るがさないと、議論は進まないんじゃないかと
思っています。

--

3。

日本赤十字の、献血キャンペーンでの、巨乳キャラ
宇崎ちゃんに関する、フェミニストからの「違和感表明」
ばかりが目立っていますが、実は、赤十字が「甘く見ている」のは、
女性ではなく、ヲタク男性じゃないかと考えています。

赤十字は、「できれば、いろんな病気に感染している可能性の少ない
血液」が欲しいのです。

「二十歳の献血」もその一環だし、大学や学校によく献血車が
来るのもその一環でしょう。

私が想像するに、詰まるところ、ヲタク男性は、
ドーテーが多そうだから、「血がキレイそう」ってことではないかと
想像しています。

これは、「血が汚染されている可能性の高い」と彼らが思う
男性同性愛者を排除することと両極端をなしています。

これは、私のブログで書いた、「カテゴリー」による「区別」です。

「汚染されていそうなカテゴリー」よりは、「キレイそうなカテゴリー」が
好まれているという、そういう単純な図式なのじゃないかと。

--

4。
家父長主義、男性中心主義から、人権を重要視した多様性のある社会へ。

遅々として進んでいませんが、今の(西洋を中心とした)世界と、
その1つの末端である日本は、その変化の過程にあるのではないかと。

その変化の過程の中で、家父長主義、男性中心主義では問題と
ならなかった、様々な行動パターンが、「ハラスメント」と
認識されるようになってきているのではないかと、
(この辺りの社会的事情に関しては、私は学識のあるものではなく、
 ただ生活する一市民ですが)考えています。

--

5。
某大学の諸サークルで、同大の女子が排除されるということが
問題として報じられていました。

そのようなサークルは、他大学の女子は入部させることが多いようです。

これって、身も蓋もないことを言っちゃうと、
男子が、マウンティングできる相手の女子とじゃないと、
ちかしい関係になりたくないっていうことじゃないかと思います。
マウンタビリティーが大事なのです。

そんな、マウンティング・マインドの男子たちが多く
日本の国の省庁の官僚になっているんですよね。
女子に対してだけでなく、誰に対しても
「マウントを取らずにはいられない」人たちなんじゃないかと。

政府が旧態依然としていて、変革していかないことの
ネモトにはそんな事情もあるんじゃないかと。

それこそ、僕の「カテゴリーによる認識」ですが。

--

という僕は、その大学の学生・教職員になったことは無いですが、
ゲイであるという、30年以上前には、言うことも憚られる、
言えば必ずマウントを取られる「カテゴリー」に分類される
人間でしたから、他の属性で、マウンティングが取りやすそうな
ものを、意識的、無意識的に、身につけてきてしまったのではないかと
思い、ちょっと悲しくなったりもします。

--

6。
「間違い探し」という遊びがあります。

あれって、2つの絵を比べて、違っているところを
見つけるものですが、正確には、

「違い探し」

ですよね。決して間違えてるところは、1つも無い。

「違っているのは間違い」というのは、
上で書いた、
「みんな同じでみんないい」というイデオロギーと
連なっています。

--

7。
某ジャニーズのグループのラジオ番組を聴いていたら、
リスナーから募った「心理テスト」とやらをやっていました。

テレビ番組などでは、Fラン大学の心理学教員を連れてきて、
「専門家のお墨付き」を付けつつ、
「心理テスト」を放送したりしているわけですが、

もはや、人々は、そんな「専門性」すらも求めておらず、
「偶然」で「分類」されて、「ご宣託」を受けることに
快感すら覚えているのではないかと思わざるを得ません。

案外「バーナム効果」に浴してしまうことを
望んでいるんじゃないかと。

占いの御宣託に一喜一憂したり、
おみくじに一喜一憂したりしている人多いですよね。

「いや、それは、マジじゃないから」
「話題を作るためだから」

と、コッチがマジになって批判することを
いなす人たちもいますが、
実は、実のところ、かなりマジにご宣託を
受け取っている人も多いんじゃないかと思っています。

日本人の宗教観って、そういうトコロなんじゃないかと。

何千年の歴史を背負い、かっちりとした体系を持った
神学に裏打ちされたものを提供する旧来の組織宗教ではなく、

ランダム性によって出てくる、ご宣託や占いの方に、
「神秘さ」を感じて陶酔してしまうのではないかと。

(おみくじは、旧来の組織宗教の一部が提供するものですけどね。
 でも、それは何か神学に裏打ちされたものではないですよね。)

2020年2月 1日

カテゴリーによる差別

新型コロナウイルス 伊の国立音楽院「すべての東洋人へのレッスン中止」

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story-coronavirus-france_jp_5e338415c5b69a19a4ac9d4f?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

カテゴリーによる区別・差別的扱いは何も珍しくない。

日本でも、「中国人」というカテゴリーを切り離すことによって、
今回の新コロナウイルスパンデミックを収めようとする
商人などがいる。

すべての「客」にウイルスチェックをすることは煩雑だし、
また、ウイルス量がまだ少ない感染者はチェックをスルーしてしまう。

だから、カテゴリーで切り離して、安心しようとする。

日本で、「中国人」を切り離そうとすれば、
イタリアでは、「東洋人」を切り離そうとしたって、
何も不思議ではない。

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赤十字社は、未だに、男性同性愛者による献血を排除している。
当該の男性同性愛者が、お互いに決まったパートナーとしか
性行為をしない、閉じた関係であっても、
そんなことにいちいち関心を寄せず、

カテゴリーとして、男性同性愛者は排除している。

異性愛者は同様の排除は受けていない。

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お給金をもらっている人が、商材となるウリ専ではなく、
客同士がお互いに商材となる、ゲイのハッテンサウナ、
某所のオーバン会館では、(今も続いているかわからないが)

HIVのパンデミックの初期に、「外国人お断り」という
カテゴリーによる排除を行った。

これも、全ての客に、ウイルスの抗体検査をすることは煩雑だし、
検査をしたとしても、感染から、陽性になるまでに、
3ヶ月から6ヶ月のウインドウピリオドがあるから、
徒労である可能性がある。

だったら、感染者が「多そうな」外国人を排除すれば、
日本人は安全、ということだったのであろう。

しかし、なんたる皮肉だろうか。

今や、同店は、日本人同士で、コンドームによる
感染予防をせずにいたしたい人たちが集まるように
なっているらしい。

それは利用者の、出会い系サイトでの呼びかけで
見てとることができる。

ここ数年で、やっとPrEPをする人も出てきたが、
大半は、PrEPをするわけでもなく、
ただ、コンドームによる感染予防をしない日本人であろう。

実情はどうであれ、感染者の館になっているように傍からは見える。

今や「HIVでは死なない」「U=U」などというスローガンも
あるが、様々なウイルスの亜型や、薬剤耐性を持ったウイルスに
複合感染をしたら、いろいろ厄介なはずなのにねえ。

2020年1月27日

ネイティブ・アライ、親密関係保護説

再び宮沢氷魚と「his」。

https://movie.walkerplus.com/news/article/220805/

1つ前のブログ記事には、radikoで「宮沢氷魚」でタイムフリーを
検索した結果が出ています。

数日で、今聞ける番組は聞けなくなりますが。

宮沢氷魚は、LGBTに偏見を持っていたのが、
当事者に出会うことによって、段々と偏見が無くなっていったという
習得アライではなく、

もっと若いときから、インターナショナルスクールで、
周りにカミングアウトをしているLGBTがいて、
それが当たり前であり、偏見を持ったことがないという、
ネイティブ・アライであるようだ。

(アライ [ally] というのは、LGBTQ+当事者ではないが、
 その人達に連帯する非当事者という意味です。)

そんな自分にとっては当たり前であるLGBTが、
世間の中では、自分とは比べ物にならない生きづらさを感じていることが
わかってきたという。

習得アライが悪いということを言っているのではないですよ。
でも、生育環境によっては、最早、偏見を一度も持ったことがない
ネイティブ・アライが生まれてくる時代になってきているということが
言いたいのです。

(以上、習得アライとネイティブ・アライというのは私の造語ですが、
 他は、ラジオ放送、ニュース記事で読み聴きしたものを
 要約しています。)

数年前に、ミュージカル「RENT」が日本で上演されて、
その出演者と、LGBT当事者が壇上にあがって
上演後トークをしていたことがあったのですが、
ある出演者が、「自分の周りにはLGBTはいないっす。
知らないっす」と言って、全く興味が無いようでした。
いやいや、その時の座組にいたじゃないの!
クローゼテッド・ケースではなく、オープンな人が!
みたいに思ったものでした。
そんな無知偏見者のような人たちも、
段々とpasséのものになっていくんでしょう。

(以上は、私の観察と意見です。)

閑話休題。

木村草太教授が、ラジオで、同性婚訴訟について話していました。

ロンドンブーツ1号2号 田村淳のNewsCLUB | 文化放送 | 2020/01/25/土 13:00-14:55
http://radiko.jp/share/?sid=QRR&t=20200125132905
#radiko

(これも、1/25から1週間のみの公開です。それ以降は聞けません。)

まだ広がっていない概念ですが、同性婚訴訟を突き詰めていくと、
結婚の依拠するところに、2つの説が出てくると。

「親密関係保護説」と、「生殖関係保護説」。

生殖関係保護説とは、子供を作るカップルが結婚することを
保護するべきだという説。

親密関係保護説とは、親密な関係にあるカップルが結婚することを
保護するべきだという説。

よくよく考えると、従来からの異性婚であっても、
生殖することだけが保護されているのではなく、
結婚した2人の、様々な事柄が保護されている。

子供を持たない・持てないカップルもいるし、
血縁によらない養子を育てているカップルもいる。

そう考えると、生殖関係保護説だけを主張していると、
主張の基盤がどんどんと崩れ去ってしまう。

他方、親密関係保護説を取ると、同性婚をことさら
排除することに、根拠が無くなる。

政府はその辺りが(言語化されてはいないだろうけれど)
争点になることは望んでいなくて、
のらりくらりと、説明をせずにはぐらかし続けてきている
というのである。

(以上は、ラジオ放送からの要約とパラフレーズです。)