2023年11月17日

Kooikerhondje

某Xで、大谷翔平選手が抱えているKooikerhondjeが話題になっています。

日本語では、コーイケルホンディエ、短縮してコイケルというので定着しているようです。

元綴りには、jeという、オランダ語の指小接尾辞が付いているのですが、それを説明する動画を色々と見てみました。

https://www.youtube.com/watch?v=jTo31XqnhEk

https://www.youtube.com/watch?v=1e-IHWg80eo

https://www.youtube.com/watch?v=XdbuRtt-fJ0

どれも、言語学的な視点ではなく、母語話者視点(学校教育での規範文法も含む)で語っています。

結論から言うと、hondjeは、hond「犬」の指小形で、「子犬」ぐらいの意味でしょうか。

綴りとしては、jeが加わっているだけですが、その前のdは無声化して、hondjeは、ホンチェとなるようですね。

koning「王」の場合は、綴りも変えて「koninkje」とするようです。文字を変えるか変えないかというのは正書法上の問題ですね。

ということで、オランダ語に一番近いカタカナ化は、コーイケルホンチェでしょうかね。でも、英語などを経由しているとどうなるのかわかりません。

2023年9月20日

アダルト不快語よしなしごと

アダルトGなよしなしごと、及びそのほかの不快にさせかねないことを書きますので、不快になるかも?と心配な方は、下を読み進めないようにしてください。


1. GMPD顔専っていう人がいた。ジーエムピーディーかおせん(LHHHHHH]L LHHH=)ってことなんだろうけど、ちょっとした拍子に、ジーエムピーディーがおせん(LHHHHHHHHHHH=)と読んでしまった。前者は、GMPD専門かつ(イケてる)顔専っていう意味だと思うけど、後者だと、(身体がGMPDかどうかは大事ではなくて、顔が)GMPD(っぽい)顔の人専門っていう意味になりそうです。

どうでもいいことでした。

GMPDとは、ガチ・ムチ・ポチャ・デブの頭文字語で、その界隈の人には、それぞれ違いがあるそうなんですが、遠い人から見ると、「全部おんなじじゃん」となるやつです。

2. G界隈の社会方言で、スジ筋とスリ筋という用語がある。前者は、そんなに沢山筋肉のついたボディービルダーみたいな筋肉質ではなくて、一見細く見えるけれど、脱いだら筋肉質な、「スジばった筋肉質」という意味です。(昭和か、平成初期の用語でしょうね。最近あまり聞かないです。)後者は、それよりも更に細めな「スリムな筋肉質」という意味です。(こちらはまだ聞きます。)

外界の用語だと、ソフトマッチョとか言うやつでしょうかね。また、ボディービルディングの中でも、最近別立てで競われているフィジーカーに近いでしょうか。(でも、競技に出ているフィジーカーは、スリ筋、スジ筋という人たちよりは、もっと沢山筋肉つけてらっしゃいますけどね。

それはそれとして、スジ筋とスリ筋って、子音が一個違うだけなので、子音が一個違うだけのオノマトペのペアなんかと同じ効果も兼ね備えたペアだと思うのです。バリバリとバキバキみたいな。

3. 最近の若い人の言葉のツイートかポストで、「クソ食った」というのがありました。これは、(LH H]LL)で、「クソ」は強めの副詞的な要素ですね。「沢山食べた」という意味です。

もしこれを、(LH]LLL)と発音しちゃうと、名詞の「糞」が指し示すものを食ったという意味になります。

前者は、「クッソ食った」と、促音を挿入することができますが、後者ではそれができません。

また後者では、「クソー食った」と、「ソ」を伸ばすことができます。これは、「を」が発音されているとも考えられるし、目的語を表わす、母音の長音化とも考えられます。この長音化は、副詞の場合できません。

4. 「境界を曖昧にする」
境界を曖昧にする、あるいは、境界を繋ぐ架け橋的なものを創出するということが行われています。

1つは、「健全な」と言われるマッサージと、ガチでフーゾクと捉えられる売り専を繋ぐもので、マッサージ(最後のリフレッシュあり)というやつです。リフレッシュ(あるいは稀にハッピーエンディング)の内容、時間的割合がどの程度になるかは、お店によって、また施術者によって違いがあるようです。

とはいえ、家族やパートナーなどに、「マッサージに行ってくる」というのは、「売り専に行ってくる」というよりは、かなり軽く言いやすいのかな?と思われます。

それとは別方向なのですが、最近、パーソナルトレーニングで、トレーニングした後にエロなご褒美があるという業態が出てきています。これは、「トレーニング業界」の業態から広がってきたものかな?と当初思っていたのですが、いや、もしかしたら違うかもと考え始めています。

最近は、これはフーゾクの中での、シチュエーションで特化したフェティッシュをお持ちの方向けのサービスなのではないかと。

とはいえ、これも、パーソナルトレーニングと謳っていますから、家族やパートナーには、「パーソナルトレーニング行ってくる」と言えますね。w

Fact or opinion? fact or myth?

アメリカ合衆国に行き始めてから、数十年の間、現地のメディアや親が、子供に一貫して問う問いがあった。

(それは)
Fact or opinion?
(事実か意見か?)

(それは)
Fact or myth?
(事実か神話か)

そのように、小さい時から、「何が事実か」ということを考えさせる訓練をしているのだなあと、感心したものだった。

神話というのは、ギリシア神話とか、日本の創世神話とかいうものではなく、「人々によって広く信じられているが、事実ではない事柄」のような意味である。

この「事実か否か」という境界が、最近意図的にblurryにされていて、わからなくなってきている。

「ポスト真実の政治(Wikipedia)」
https://bit.ly/46kEFXy (漢字等が入るので短縮しています。)

というのが広まっている。

もはや、事実がどうかというのは蔑ろにされていて、「言ったもん勝ち」、「広めたもん勝ち」な感じになってきている。

これは、米国のみの問題ではなくなっていて、

そもそも日本では、事実か否か?というものを子供達に考えさせる訓練などしてきていないも同然だが、

「広く信じられていれば『真実』」という風潮は、米国に劣らず、かなり根強く根付いている感がある。

関東大震災時のデマによる朝鮮人の大虐殺は史実なのだが、それを否定したり、薄めて重んじない国会議員、地方自治体の首長がいる。

これは、米国で、「Black lives matter」の標語を伴った運動が広まったときに、それを打ち消すかのように「All lives matter」を言い出した人たちにも似ている。全ての人の命が大切なのは当然なのだけれども、権力によって差別的な待遇を受けていたのはアフリカ系アメリカ人なのだから、そこから目を逸らさせようとする動きは、やっぱり政治的に正くない。

ただ、実証可能な事実よりも、多くの人が信じる「真実」を支える土壌は米国にある。それは、宗教が強いことと、宗教が政治と分離していないことにも依ると思われる。

宗教的な信仰の対象というのは、多くの場合、科学的に実証可能なものではなく、古くからの神学者や修道者の言葉や、教派によっては最近の神学者の言葉が「納得できるもの」であるから信じられている面がある。

そこに、(神学者らによるものではないが、)実証不可能な「真実」や「ポスト真実」が入り込む余地がある。

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ドイツでは、ナチスの犯した様々な罪を学習することができるために、ナチスの遺構が残されていて、人々が訪れて学習することができるようになっている。

ドイツの「ARBEIT MACHT FREI(労働が自由にする)」というアウシュビッツの標語は(ポーランド領内ではあるが)今でも見ることができるが、

日本の福島での「原発は明るい未来のエネルギー」という標語は、現地の住民たちの意向によって、取り除かれてしまった。

ケガレを消し去るかのように。

同様に、オウム真理教のサティアン群などは、歴史的学習の場として残せば良かったのに、全て取り壊されてしまった。

上九一色村という地方自治体すら解体分割されてしまった。

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日本では、そもそも「事実か否か」ということを子供に問うということはあまりされていないと思われるし、既成の大宗教が大きい力を持っているわけでもない。

その曖昧な状況の中で、しかしながら、広めたもん勝ちな風潮は、声の大きな人たちによって加速されている。

それはテレビなどに出ている人だったり、
インフルエンサーと呼ばれる人だったり、

国というか、政権与党もそのような手法を使っていますよね。史実ではない「江戸しぐさ」を広めようとしたり、第二次世界大戦中の史実を教科書から抹消したりして。

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それから、大学等の研究機関に所属していない「研究家」がメディアに露出していたりします。その人たちの特徴は、自分の考えついたこと、発見したことと、先人による記述を丁寧に選り分けるという作業をしないことなどです。(発表メディアの制約にもよるでしょうが。)

(研究機関に所属していても酷いセオリーを垂れ流す人はいますけどね。)

また、番組などのコメンテーターも、タレントが使われたり、また大学所属の研究者であっても、自分の専門のことしか発言しない人よりは、縦横無尽に、様々な「意見」、それも番組制作側が言って欲しいことを言ってくれる人の方がもてはやされます。

お気楽極楽

「女には任せられない」というのも、
「世襲なら安心」というのも、
「女系天皇は認められない」というのも、
「純ジャパ以外は日本人じゃない」というのも,
「ノーベル賞を受賞した日系米国人は日本人」というのも、
「顔で投票して何が悪い?」というのも、
「元アイドルに投票して何が悪い?」というのも、
「朝日健太郎に投票して何が悪い?」というのも、
「吉村はんようやったはる」というのも、
「障害者は足手纏い」というのも、
「少数者の権利主張は鬱陶しい」というのも、
全部根っこは一緒。

2023年7月26日

罵倒か隔離か

カトリックのLGBTQ+の人や、プロテスタントのLGBTQ+の人が、SNS上で他人から「お前らは罪人だ」的に罵倒されているのは、時々見かけ、心が抉られる感があります。

ウチの耶蘇寺ではどうかと言うと、正面から罵倒してくる、断罪してくるっていうのはあんまり見聞きしないですね。

それは、どうしてそうなるかを考えると、カトリックと共通している「告解」のミステリー/サクラメントの際に、「他人を断罪する」、「他人に対して、自分が審判者になってしまう」ことも罪であるということは、学んでくるからだと思うのです。

じゃあ、どうするかと言うと、あるメンバーがLGBTQ+のどれかに該当していると言うことをたまたま知ってしまって、それに違和感がある人は、その当該の人からできるだけ「離れよう」とします。

私も、職場その他で、「苦手な人がいます」と言うことを告解で言うと、「嫌いな人をこそ愛しなさい」とは言われることはむしろ少なく、「次善の策ではあるけれど、できるだけ関わらないようにした方が良いのでは?」とアドバイスされたりします。

それを地で行っているのでしょうかね。

以前、親しい人だと思っていた人が、近づいて行ったら、「スルッと」どっかへ抜けて行っちゃうことは何度か経験していますし、

SNSなどで、できるだけ「関わりを持たないように」されている方もいます。

まあ、正面切って罵倒されるよりは、まだベターかもしれないけど、ベターなだけですよ。それを感知した時には、心寂しくなります。

また、とあるパリッシュでは、「私のG性」が、噂として広まって、人々の間で共有されているようなのです。

と言うのは、面識の全くない、そのパリッシュから来た人に、その「スルッと」をされたことがあるのです。

当事者のいないところで、噂話として広めると言うのは、教会の教え的には、大きな「悪事」としては捉えられていないと思いますが、

最近、一般社会では「アウティング」による被害が労災で認められたと言うことがありました。

「アウティング」後に精神疾患 初の労災認定か
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20230724/1000095136.html

アウティングとは、特に、誰かが「LGBTQ+」であると言うことを、当人の承諾を得ずに、他の人に伝えることです。

「アウティングとは」
https://www.outjapan.co.jp/pride_japan/column/2023.html

今回もアウティングをした人に、刑事罰が課せられたわけでも、民事の罰金が課せられたわけでもなく、被害者の方が労災を受けられるようになったと言うだけですが。

私の場合、ブログを書いています。そこで、LGBTQ+に関することも書いていますから、「全方位向けに」カムアウトした人だと認識されてもし方のない面もあります。

でも、職場や、一般社会では、できるだけ多くの人に知ってほしいなと思ってはいますが、

未だ偏見の強い教会内では、進んでカムアウトもしませんし、広めてほしいとも思いません。

「そんなこと言ったって、お前の名前で検索すれば、ブログが出てくるんだから、そんな自分にだけ都合のいいこと言うな!はい、論破!」

って言ってくるかもしれません。

でも、面識も無い人ってって言うのは、当然私の名前も顔も知らないわけで、検索することもあり得ません。

名前と、「あそこの教会では、日曜日どこどこに立っているから気をつけてね」的に伝えるのは、やっぱりアウティングです。

これは、教会的な「罪」としての断罪ではなく、「一般社会的な」ハラスメントだと言うことをお伝えしているだけです。

教会内で、どういう扱いをすべきかと言うことは、カトリックのようにカテキズムに書かれることも無いので、教役者ごとに、対応も違うと思いますけどね。
(国を挙げて、教会でも弾圧を勧めている国もありますが。)

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ところで、そうやって、僕を「隔離」してくる人たちのことですけど、井戸でサマリヤの女の素性を言い当てたイエスの様に、「情報が漏れてきていない人」に関して、LGBTQ+のどれかだと言い当てる能力は、通常の人には備わっていないと思われます。

当然の様に、バレていない人たちのことは、そういう人たちは「隔離」しないんですよね。

って言うことは、彼らは、「LGBTQ+」の人たちとは関わり合いたくないと思ってらっしゃるのかも知れないけれど、実際のところは、「LGBTQ+であるとの情報のある」人たちを、その他の人たちとは別扱いにしているだけということになります。

一般社会とは違って、教会ですので、違う掟があって当然ですけど、そこから伝わるメッセージは、「カムアウトしなければ、変な扱いを受けることはない」と言うだけです。

ひいては、教会村の掟として「LGBTQ+のどれかであるということは、言わないでおきなさい、またヒントとなるようなことも見せないようにしなさい」と言うものができあがっている感じになっています。

これって、「一般社会」的には、ものすごい抑圧ですよ。

そう言う人たちは、LGBTQ+の人たちには、うちの教会に来ては欲しくないと考えているかも知れません。

でも、ところがどっこい、他の教派の教会で疲れ果てた人たちが、結構集まってくる可能性はあるのです。心の癒しを求めて。それは、当教会が、他教派よりもベターなところがあるかも?と言うイメージが持たれる場合があると言うことなのです。

そこにその仕打ちですか。胸が痛みます。

2023年7月 3日

話の内容ではなく、他のところに注目すること

家人が、外国人がラジオで日本語を喋っていると
訛りを真似しだすと何度か書きましたが、

その経緯は、想像ができます。

1つ目は、話の内容に興味が無い。
あるいは、訛りが気になって、内容が入ってこない。

ってことで、訛りを真似するって言う「遊び」を
してしまうんでしょう。

本人に面と向かってはしないんだろうけど、
本人に面と向かってしてしまったら、
アジア人に対する、ching chang chongと
同方向になってしまうし、シボレテにも
近くなるので、やっぱり差別性は孕んでいる。

「訛りが気になって内容が入ってこない」っていえば、
政治家さんが、記者会見で、日本語が母語でない
外国人の記者による日本語の質問に対して、
「Do you speak/understand English?」
みたいな返しをしたことがありましたよね。

それも同様の理由、且つ、外見で判断したのかも
知れない。

むかーし昔のことなのですが、実家のテレビで
ドラマを見ている時に、父に、

「よくあんなに長いセリフ覚えられるよな。
 俺にはできない」

って言われて、「なんでそんなこと言うの?」
ってしばしば思っていたのですが、

それも、「内容に興味が無い」か、
あるいは、「内容を聞こうにも、長いセリフを覚えている
ことの方がフック(異化)になってしまって、
聞けなくなってしまった」ってことなんでしょう。
今考えれば。

僕は、橋田壽賀子が俳優に言わせている、不自然に長い
セリフだろうが、内容を聞くことに興味があったので、
「いや、そんなことに同意を求められても...」と
思っていたのでした。

言語の訛りに関しては、日本語ででも、英語ででも、
他の言語ででも、非母語話者との交流を普段から
している人たちは、そんな「フック(異化)」に
引っかかったりはしないんですけどね。
あるいは、引っかかりそうになっても、
反応はできるだけ抑えようとする。

普段、そう言うことをしていない人たちは、
「フック(異化)」に流されちゃうことも
あるんでしょうね。

誰も聞いていないラジオ

昨日「げんじぶ」のラジオを聞いていたら、家人が
「また、誰も聞いていないラジオ聞いてる」と
囃し立ててきた。

そうやって、数字があるでもない、仮定のマイノリティーを
バカにするんじゃないよ!って怒っちゃったんだけど、
そうしたら、「いや、誰も聞いていないラジオを聞いていて
『いいな』と思った」って申し開きをするんだけど、
それって、後付けで、「意図がバカにするつもりじゃなかったから
問題ないでしょ?」って言っているようなもの。

それって、よく政治家などが「差別する意図は無かった」って
言うのと同じじゃん。

この前書いた、家人が外国人の日本語の真似をする問題も、
指摘したら、「僕は愛情を持って真似しているんだよ」って
言ってきたんだけど、それも「差別する意図は無いから
問題ないでしょ?」っていう問題のすり替えである。

そういうカテイの内情を公開するんじゃないよ!
って言う人もいるかもしれないけど、
言っても、話をすり替えられるし、
同じような「立ち位置」で合意に至ることは
難しそうだし、なんだかなあ、という感じなのです。

2023年3月17日

訛りについて

今、ラジオで、日本語が母語ではない外国人が日本語で喋っているんだけど、幸い一人で聞いている。

家人と一緒にそう言う番組を聞くのは物凄いストレスになる。

僕は、訛りにはできるだけ集中しないで、内容を聞こうとするんだけど、家人は、訛りの真似を執拗に始める。

まあ、訛りって、「異化」だし、「フック」だし、「スキーマの不一致」だし、それは「素直な反応」なんだと思うけど、ナイーブすぎる。

自分だって、英語を喋ろうとすれば、訛り無しには喋れないのに。

まあ、面と向かって、外国人本人の前では、そんなことはしないんだろうけどね。でも僕にはストレスです。

2023年3月 9日

Englishman in New York

よく考えもせずに、StingのEnglishman in New Yorkは、Stingについての歌なのだと思っていたのですが、昨日、2023/3/8 26時というか、今朝早朝2時の、FM FukuokaのRoom Hで、松本大が、これはQuentin Crispに関する歌だと言っていて、真相を初めて知りました。

ENGLISHMAN IN NEW YORK(Sting)(日本語です)
http://blog.livedoor.jp/isreal/blog-entry-273.html

英国でまだ同性愛が違法であった時代にゲイとして生まれ、育ち、様々な芸術活動をして半生以上を送り、1981年、71歳の時にNew Yorkに移り住んだのだそうです。

Sting Discusses MY SONGS - Englishman in New York(英語です)
https://www.youtube.com/watch?v=8mZgbIRUiNk

Sting - Englishman in New York [公式MV 和訳付き]
https://www.youtube.com/watch?v=s-fF5HTRvDI

ミュージックビデオに女装したQuentin Crisp自身が何度も登場しています。

困難な時代に隠れていなかった先達に敬意を表します。

2023年3月 7日

「異化」に関して

「自動化」と「異化」という概念は、1910年代に、ロシアのシュクロフスキーによって文学(および他の表象文化)に提案され、1930年代に、チェコのハブラーネックによって言語学に提案されています。

「自動化(露 avtomatizm、チェコ automatizace)」とは、身の回りにある当たり前の事柄のことで、そこにひねりを加えたものが「異化(露 ostranenie、チェコ aktualizace)」したものとなります。自動化したものより、異化したものの方が、人の関心を惹きつけます。

ハブラーネックは、千野榮一によって「元祖ゴキブリラーメン考」という言語学エッセイで紹介されています。

その異化と同じような概念が、コピーライティングや、商品のネーミング(その他)で、「フックがある」と呼ばれているようです。

「強い言葉、フックのある言葉」
https://ameblo.jp/hansoku555/entry-11743390896.html

でも、フックが効きすぎてもダメで、適度なものが効果的だと考えられているようです。

それをまた、マーケティングの界隈では、スキーマの不一致と呼ぶようです。

【東大教授が教えるヤバいマーケティング】レクサスとトヨタ、天然水の躍進はスキーマ不一致がカギ
https://gonjitti.com/blog/2020-11-06-schema/

スキーマの不一致は、適度な不一致が好ましくて、極端な不一致は却って効果的でないとされているようです。

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