阿部大樹xたらレバ「日記と随筆とSNSと精神科と犬」『now loading』(作品社)刊行記念
という対談が、下北沢の本屋B&Bであり、会場で参加してきました。
まず、本の話の前に、Harry Stack Sullivanという精神科医の話があった。
この人は、精神科を、社会科学の人や、文学者などにもアクセシブルなものにしたかった。
人間の精神、心の仕組みがどうなっているか?というより、患者が、まず社会の中で生活できるようにというプラグマティックな視点を持っていた。
当人、20世紀前半にゲイだということを隠さずに生活していた。
言語学者、Edward Sapirや、人類学社Ruth Benedictなどと交流があった。
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たられば氏(@tarareba722 at X)が、「父親との関係」という話題をちょっと出していたが、そこで私は、「父親殺し」という言葉を思い出してしまった。キニマンス塚本ニキによると、最近の英語圏では、decenterというより劇的でない用語を使うようになっているということ。つい最近まで、「実の父親殺し、教会の父親殺し、指導教官という父親殺し」なんていう物騒なことを考えていたが、それは、decenterすればいいのですよねw
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その後、本の話に段々と移っていった。
阿部医師は、子供が初語を発したときから、初めて嘘をついたときまでの日記を書きたかったとのこと。
たられば氏は、何度も阿部医師に
「誇張したり(もったり)、虚構で書いたことはなかったのか?」
「書くときに別なペルソナを作り出していなかったのか?」
ということを執拗に聞いていた。
文学の中では、性別を変えて創作する人も、古典文学にもいるし、
現在のSNSなどは、それこそアカウント毎に別なペルソナを作っている人がいるだろうと。
阿部医師はその都度、盛ってもいないし、虚構も書いていないと。
それができる人は、小説家などにたくさんいるだろうし、自分でする必要は無いと。
また、相手毎に、話し方が変わるのも、別なペルソナを作ることになるのでは?
という問いがあったが、
それは、言語学的観点から言えば、もっと振り幅が大きければ、コードスイッチングだったりするし(相手によって話す言語が変わること、例えば日本語から英語に変わるようなこと)
最近、「方言コスプレ」という用語を提唱した人がいるが、言語的にコスプレに使えるのは、地方方言に限らず、外国語だったり、社会方言だったり、場合によっては人工的に作った方言や言語だったりもする。
そうやって、コードスイッチしたり、「言語」コスプレしたりすることで、別個の新しい人格ができてきてしまうのかどうかというのは、私には判断できない。
そこまででなくても、社会言語学でいうコンバージェンスというのは、誰しもが大なり小なりして生活をしている。
小学校の校長先生が、挨拶の中で、来賓向けに使う「言語」と、子供達に向かって使う「言語」が違うということは知られているし、容易に観察できる。
私が96歳の父に話すときには、わざと古い語彙項目を使ったりする。
新宿のアルタのことは、二幸と言った方が簡単にわかってもらえる。
(そのアルタも閉館するようだが。)
真実という点では、20世紀末の米国では、子供達にfactか、opinionか、あるいはfactかmythかを判別させる教師や、親がいたが、今や米国も世界も、それらの二者がアウフヘーベンならぬ「ウンターへーべんか???」したかのような、posttruthが溢れている。factとopinion/mythの境目がわからなくなったposttruthによって、一国の政治や、世界政治が動くようになってきている。
もはや、何が真実かということに興味の無い人が多くなってきていて、説得力がある物事、フニオチする物事を信じる人が増えてきているように思われる。
閑話休題。
阿部医師は、言語というのは、原理として嘘をつくことができるということを言っていた。
それは、言語学の意味論でいう、発言された命題が、真であることもあるし、偽であることもあるということと同列である。
鈴木俊貴博士が研究しているシジュウカラの言語では、私のprematureな憶測では、全文性(holophrasis, holophrase)が発揮されていると考えている。博士は、2語分があると言うが、それは、述語に項や付加語句が付随したものではなく、節(≒単文)相当の全節的な語が二つ並んだ複文だと推測している。その上で、シジュウカラは、事実でないことを伝えること(≒嘘を吐く)ことはあるのだろうか?
また言語以前のジェスチャー(それは身振りだけでなく、様々なモダリティーで表現できると思うが)で、嘘を吐くことはできるだろうか?
人間は嘘泣き、嘘微笑みそのほか、やっているだろう。
他の動物はどうだろうか?
と、取り止めのないことを、たくさん考えさせて貰えた、刺激の多い対談でした。