2017年3月 刊行

「アジア諸語学習者におけるCEFR自己評価と社会・文化的コミュニケーション能力の測定指標の開発」
 
 富盛伸夫(東京外国語大学、科研代表者)、
 YI Yeong-il(東京外国語大学大学院修士課程) 



【『アカデミック日本語能力到達基準の策定とその妥当性の検証ー成果報告書(2017)-』より転載】


1. 本研究の動機と背景
2. 本研究の目標と実施方法           
3. 学習者アンケート調査(2014)の観察から(定量的分析」
4. アジア語圏の社会・文化的特質の学習者意識(直感的分析)
5. 社会・文化的コミュニケーション能力測定指標の開発に向けて
6. 考察と展望

5. 社会・文化的コミュニケーション能力測定指標の開発に向けて

 前章で見たように、本研究では、CEFRをアジア諸語の教育に援用するにはアジア語圏各国の社会内人間関係の言語的反映(敬語、性差等)や潜在的な社会序列的反映、商慣習など、「社会・文化的多様性」を考慮した能力記述分の調査項目を加えなければならないのではないか、という認識に達した。それでは、どこから、どのようにアジア諸語に特有な社会・文化的要素を取り出して俎上に載せることができるか、という課題に答えねばならない。
 まずは、実際の言語使用の実体がある会話文コーパスを検討したが、言語ごとに各言語のオープンソースとして各種各様のデータが公開されている現状では、複数の均質的な集合体を手に入れることは難しい。本格的な研究コーパスであればあるほど、研究目的に沿ってコーパスごとに目的が異なり、質的、内容的なばらつきが大きいことは事実である。
 では、一般向けに販売されている会話教材や入門書から会話文・対話文を抽出すべきであろうか?多言語のレパートリーがある出版社の書籍からは、やはり当然のことながら、発話状況の言語対照的なコーパスとしては、全体として利用するには不適であると判断された。欧米で古くから出版されている多言語シリーズの多くは、欧米向けに編集されていることや今日的なアップデートがなされていないことから、採用に難があった。
 そこで、実際に灯台下暗しといえるかもしれないが、東京外国語大学が21世紀COE活動の成果物として制作・公開している「TUFS言語モジュール」[21]の活用を検討した。これは2003年以来開発が続いている一種の言語学習プログラムで、東京外国語大学のサーバーに置かれ、学部学生の身近な学習ツールとして利用されているオンライン教材である[22]。音声、語彙、文法などの概説とトレーニング部分を有する機能的な構成であるが、その最大の特徴は、26言語の記述と教材としての組み立てが通言語的観点から個々の言語の特質を把握できるように、同じ骨格でなっていることである。特に、本研究にとって関係の深いコンテクスト・場面の中で使用された対話文がほぼ均質的に配置されている。
 本報告では詳細な紹介は控えるが、その発想は機能主義的コミュニケーション遂行の分析から由来するようである。Halliday (1885)らの選択体系機能理論(Systemic Functional Theory)から説明を借用すると、3つの発話に関わる機能要素(パラメーター)として、「発話の場」(Field)、「対人関係」(Tenor)、様態(Mode)が設定され、これらの組み合わせ(configuration)からコミュニケーション機能が生成されることになる。実際のTUFS言語モジュールの構築では、«Field» は「機能的発話場面」として、26の各言語に共通の40の「機能的」場面・状況が設定され、«Tenor» は対話者の社会的立場が明確に定義されている。«Mode» は発話伝達の様式・媒体が関与するが、ここではコミュニケーションのタスクが設定されており「問題解決のシークエンス」が構成される。
 加えて、本研究の視点からは、第4番目の機能要素といえる「ストラテジー」«Strategies»が各会話文の流れに組み込まれていると解釈され、これは「各言語圏の社会・文化的特質」が深く関わるといえる。例えば、店頭で店員と客が売買行為をする場合、いわゆる値引き交渉をシークエンスに含めるかどうかは、上記の機能的要素に加えて、社会・文化的背景が強く作用する。アジアの多くの国で商取引は、値段や数量の交渉が総じて不可欠の言語行為である。それらの言語の学習者は留学先で、A1段階からすでにその社会的言語能力を身に着けねばならないだろう。残念ながら、ほとんどの欧米のアジア諸語教材にはこの観点が抜けており、なおかつ、CEFRにもこの能力を測る直接の評価項目はない。この意味でTUFS言語モジュールの会話文利用には意義があると判断した。
 ここで、このオンライン教材の研究利用にあたって、本研究の枠内での評価をしておこう。利点は、上記の点に加えて、対話文では40の「機能的場面」が音声つきの動画として提示され背景とともに情報を補っていることで、発話の状況・発話場面・発話意図が明確であることである。さらに、一見して、対話者の人間関係・社会的位置が明確に読み取れる。そして、一連の対話文の流れに語用論的組み立てが簡潔になされていることが核心的重要性を持っている。
 反面、コーパスとしての利用にあたっては以下の点に注意すべきである。第一に、対話のペア数が少ないことにより、コンテクスト量が不足している。次に残念ながら、会話のシチュエーションが言語ごとに異なり均一ではないことは通言語的な対照研究には欠点となる。したがって、このTUFS言語モジュールのみをとって言語対照的なコーパスとして使うのは不十分と判断している。細部であるが、制作上の制約からか、登場人物の役者が限定されているため、同じ役者が別の名前で登場したり、日本人ネイティブと二重の役を演じたりすることもある。しかし、制約に留意しながら慎重に利用すれば、「アジア諸語の特質としての社会・文化的指標の抽出をする」という目的の作業の出発点として使えるであろう。現在、この対話文データをコーパスとして利用するための再編集作業を行っており、エクセル表の列(カラム)に発話要素、場面状況、社会的地位、対人役割、男女別、人物像の項目を各対話文に列記している。
 
 上記の作業と並行して、検証作業の3番目である定性分析を進めている。この工程には本科研に参加している分担者を中心に現場で(日本語を含む)外国語教育にあたっている教員の協力を得ている。TUFS言語モジュールの中から個別言語(日本語・朝鮮語・中国語・ベトナム語・マレーシア語・インドネシア語・カンボジア語・ビルマ語・ベンガル語・ペルシア語・アラビア語など)において社会・文化的特徴の濃い場面の会話文を観察し、状況や場面の機能分析から抽出された社会・文化的要素が、担当の言語に適用可能か、という点について記述式アンケート調査への協力要請をしている。例えば、年齢、住所、出身地、収入、趣味、週末の行動、を尋ねることが一般の会話の中で適切かどうか。また、言語習得でどのレベルに関わるか。社会的関係がはっきりしたら待遇表現、性差文体、適切な称号を使うかどうか。初学者が、商取引や売買で値引きの交渉や数量の増加を交渉するかどうか。その土地の慣習に適した言語表現と共に語用論的駆け引き行動を適切に行えるかどうか。話し言葉と書き言葉の文体差を認識して使い分けられるかどうか。時候の挨拶文、はがき・カードなどで文章の待遇表現や文体を適切に選べるかどうか。故人や故人に関わる事柄について婉曲に、又は忌避することがあるかどうか。この文化的慣習は学習上の必須項目かどうか、などである。この調査結果については別の機会にまとめて公開してゆくつもりである。

 

  • [21]東京外国語大学のサイトのhttp://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ で公開され利用可能である。
  • [22] TUFS言語モジュールの開発の経緯と理論的枠組みは、結城健太郎(2004)を参照。