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世界とっておき情報―移行するメキシコ-半世紀隔てた2つの弾圧事件をつなぐ学生の熱意

私は2018年7月末からメキシコシティーに家族と暮らしている。学部生だった2001年に1年間留学して以来のメキシコだ。これまでも幾度となくこの国を訪れて、変わりゆく人々や町並みを記憶に刻んできた。しかし、社会変革に寄せる人々の期待を今以上に感じたことはない。

今年7月1日に行われたメキシコ大統領選では、国民刷新運動(MORENA)のアンドレス=マヌエル・ロペス=オブラドール(AMLO)元メキシコ市市長が3度目の出馬にして勝利を収め、来る12月1日から6年間の任期に就く。次期政権は、1930年代以来の左派であり、メキシコ政治に根付く汚職や腐敗の一掃、人民のための政治を掲げている。政権移行を待つ今は「TRANSICION(移行期)」と呼ばれ、大統領選と同時に実施された国会議員選挙で選出された議員による国会が9月に始まるなど、新しいメキシコの輪郭が現れつつある重要な時期である。

そんな最中の10月2日は、1968年のトラテロルコ事件から50周年だった。トラテロルコ事件とは、端的に言えば、パリの五月革命に始まった学生運動がメキシコにも波及し、諸権利を訴え三文化広場に集った学生に向けて軍が無差別に銃撃し殺戮、逮捕した事件で、メキシコの人々が本格的に民主化に目覚めることになった出来事だ。現在は国としてこの出来事を悼み、公的機関では毎年10月2日は国旗を半旗にすると法律で定められている。私はこの日、事件現場となったメキシコ市北部の三文化広場へ行った。

何やら報道陣が集まっているので尋ねると、AMLOがやってくるという。間もなく彼が到着するや、バリケードで囲われていた追悼碑周辺が解放され、演説を誰もが近くで聞ける配慮がなされた。大衆の声を聞くと期待されている次期大統領は、50年前に国家テロが起きた場所で、軍隊が人民を弾圧するようなことは2度とさせないと決意表明して黙祷した。AMLOのこの日の予定は直前まで報道陣以外には知らされず、SNSなどでその動向が注目されていただけに、多くの人は彼の行動に納得したことだろう。

同日午後には、三文化広場から大統領府のあるソカロ(中央広場)まで市民による行進が行われるというので見に行った。政府の推計で約4万5千人がこの行進に集まり、その多くが現役の学生だった。「10月2日を忘れない」と叫ぶ学生たちの声が街中の建物にこだまして、肌に突き刺さるようだった。若者が声を上げると凄まじいエネルギーが生まれるのだと、身をもって感じた。

なぜ現役の学生たちがこのような行動に突き動かされているのか。それはアヨツィナパ事件と関連する。これは2014年9月26-27日にかけて、ゲレロ州イグアラ市一帯で起きた農村教員養成学校生43人の強制失踪事件のことで、国内外から批判を浴びながらも、国家は真相解明に及び腰だ。これには大統領指揮下の陸軍と連邦警察が麻薬組織と共謀した疑惑があり、国家が人道に反する罪を犯したという点で、半世紀前の事件と現代がつながっているというわけだ。

本学で歴史を勉強する自分にとって、メキシコの今が問いかけるテーマは深い。新天地での刺激的な毎日を研究につなげるべく、移りゆくメキシコと日々向き合っていきたい。

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2018年10月2日のデモ行進(国立芸術院前で筆者撮影)※写真は加工しております

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻
博士後期課程 松枝 愛

【掲載日:2018.10.26】

世界とっておき情報ーもはや「おそロシア」ではない?モスクワのサービス精神

2018年4月末から5月初めにかけて、ブルガリアでの学会発表の帰りにモスクワに寄った。まず驚いたのは空港で電車のチケットを買う時の窓口の対応であった。なんとお釣りを数えながら渡してくれたのである。私は2009年から2010年までモスクワに留学をしていたのだが、お釣りを投げ渡されたことはあるが「確認してくださいね」と言われながら渡されたことなど1度もなかったのである。その後もスーパーで買い物をした時に「袋はいりますか?」と言われて「いいえ」と答えたのだが、「本当に袋がなくて大丈夫なの?」と聞いてもらえたり、地下鉄の駅で荷物の検査をされたとき、検査が終わった後に警官が「良い旅を」と言ってくれたりと、1つ1つのことに感動を覚えながら短い滞在期間を過ごした。しかしサッカーのW杯前だったので、もしかしたらW杯が終わったら元に戻ってしまうのでは?という一抹の不安を覚えたのは事実である。

そしてその4か月後、9月7日~14日まで博士論文のためのアンケート調査で再びモスクワを訪れることができた。結果は、W杯前のままであった。どこに行っても店員の対応がよいのである。お釣りを数えて渡されることも1度ではなかったし、「またお越しください」とも何度も言われた。9年前に留学していた時には10か月の滞在でたった1度しか聞くことのできなかったフレーズである。聞くたびにいちいち感動していたのだが、もはやそれが普通なのかもしれない。

そして、格段に便利になったと感じたのが地下鉄である。英語の車内放送が始まり、「トロイカ」というチャージ式交通カードが登場したのである。50ルーブル(約100円)がデポジットとしてとられるが、メトロだけではなくバスや路面電車にも使える。さらにこれを使うと1回の運賃が安くなるのである。モスクワの地下鉄は1回いくらというシステムで、どこまで行っても同じ値段なのだが、1回券を買うと55ルーブル(約110円)なのがトロイカでは36ルーブル(約72円)になるのである(2018年9月現在)。ただし、窓口でしか買えないので注意が必要である。

トロイカと言えば、日本人には「走れトロイカほがらかに鈴の音たてて」という歌詞の同名の歌がよく知られているが、なぜトロイカという名前なのか?と友人に聞いてみたところ、昔は3頭立ての馬車がポピュラーだったからカードの名前もトロイカなのだと思うと言っていた。カードのデザインも3頭の馬である。さらに、ロシア語学が専門の私にとって真っ先に思い浮かぶのは、ロシア語の動詞のアスペクトという分野でよく聞く「体(たい)のトロイカ」である。これは、1つの完了体動詞に2つの不完了体動詞が関係している場合に用いる術語であるが、学問の分野でも使われるほどトロイカという言葉はロシア人にとって馴染みの深いものであるということがわかる。

さて、この国は政治の世界では恐ろしい印象がぬぐえないかもしれないが、私が1週間のモスクワ滞在を通じて抱いたのは、少なくともサービス面では「おそロシア」が影を潜め、ソフト路線を強めているという期待である。ちなみに、日本でよくコマーシャルで用いられるロシア民謡「一週間」はたいていのロシア人は知りません。歌ってみせても首をかしげられるのでご注意を。

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写真:トロイカカード

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
言語文化専攻
博士後期課程  光井 明日香

【掲載日:2018.10.11】

世界とっておき情報ーメキシコ大統領選、夜通しのクラクション

メキシコに住み始めて11カ月となる2018年7月1日、6年に一度の大行事がやってきた。メキシコ合衆国大統領選挙である。2012年12月1日就任のエンリケ・ペニャ・ニエト第57代大統領(制度的革命党=PRI)の後継を決める日がやってきたのである。

メキシコに到着して以来、訪れる先々で選挙の話を耳にし、選挙キャンペーンを目にしてきた。信号で車が止まれば、垂れ幕を持ち、顔を青く塗った若者たちが立候補者の名を唱え、投票を訴える。独自のリュックや帽子などのグッズをつくり、市民に配ることで投票を訴える政党もあった。2017年11月からは労働行政機関前に、貧しい州として知られるチアパス州、オアハカ州から大型バスに乗ってやって来た農民たちが労働条件の改善を求めて何日も、時には何週間もデモに参加していた。選挙日が近づくにつれ、地下鉄や街中のポスターは各党の立候補者の笑顔と名前を大きく掲げたものに変わっていった。

私の住むメキシコシティは、周辺地域から毎日多くの人が仕事で集まるため、人口過多と公害が社会問題になっている。その数はシティ在住の者と合わせて2000万人を超える。市内を走る地下鉄やバスはラッシュ時になると溢れんばかりの人でごった返し、喧嘩が繰り広げられる。

そんなメキシコでの大統領選挙。さぞかし盛り上がるのだろうと期待していたのだが、私の予想より穏やかにそして静かに7月1日の朝を迎えた。この日は日曜日であった。平日は朝からサルサが流れる中心街の露店はほぼすべて休業。「今日は選挙だね、メキシコはこれからどうなると思う?」と私がメキシコ人の友人に尋ねると、「どの政党も同じ。何も変わりはしないよ」と冷めた返事。選挙に何も期待しない若者も多く、それを理由に投票に行かない風潮もあるのだとか。ただし、選挙を一つの大きな祭りとみなし、騒ぐためだけに市内の中心地に足を運ぶ若者も少なくないという。

夜になり、急に外の様子が一変した。各報道局のヘリコプターが空を飛び、市内中心地に位置するヒルトンホテルの前には報道陣と一般客が集まっていた。いよいよ次期大統領の発表である。夜9時をまわる頃にはヒルトンホテル前と国立宮殿前は人で溢れ、選挙結果の発表を今か今かと待ち構えていた。

12月1日付で就任する第58代大統領には、新興左派政党である国民再生運動(MORENA)のアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール氏が当選した。その発表を待ちわびて中心地に集まっていた人たちは一気に歓声を上げた。というのも、実は今回の選挙の結果はいわば織り込み済みであり、国民再生運動の勝利を予想する支持者ばかり集結していたからだ。

発表後は街中の至る所で同じリズムの車のクラクションが一晩中鳴らされていた。それは睡眠が妨害されるほどであった。大統領選挙翌日から再び労働行政機関前に大型バスが押し寄せ、チアパス州、オアハカ州から来た農民たちのデモが始まった。彼らのプラカードには「終わりなき戦い、このデモに期限はない」と書かれており、何日も道路にテントを張って泊まり込んでいた。

貧困にあえぐ人々が左派系大統領に寄せる期待は大きい。貧富の格差が大きいこの国に変化は訪れるのか。7月1日は始まりの第一歩にすぎない。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻 国際社会コース
博士前期課程2年  八角 香

【掲載日:2018.8.20】

世界とっておき情報ー中国のスマホ決済と個人の信用度

中国の春節(旧正月)は従来、爆竹や花火で新年を祝い、CCTV(中央テレビ)の春晩(紅白歌合戦に相当する番組)を一家で見ながら過ごすのが一般的であった。私のルーツは中国にあり、今年の春節は上海で両親と一緒に過ごしたのだが、今までと様子が大きく異なっていた。驚いたことに爆竹や花火は市政府により禁止され、いつもならにぎやかな歌声がテレビから聞こえるのに、静かな演奏しか流れなかった。その代わり、家族や親戚はスマホ片手に何やら忙しくしていた。話を聞くと、友人知人と中国のWechat(微信)を通じて「お年玉」を配ったり、受け取ったりしているとのことであった。

Wechatは中国のIT大手テンセント(騰訊)運営のスマートフォン用インスタントメッセージアプリであり、日本のLINEのようなメッセージ交換・通話機能のほか、決済サービスの機能もある。ユーザーが銀行口座情報を登録すれば、インターネットを通じた買い物、高速鉄道の予約・支払い、タクシーの相乗り、店舗・レストランでの支払い、他のユーザーへの送金などが可能となる。筆者が春節の期間中、上海でレストランを利用した際は、Wechatを使って店の予約、料理の注文に加え、支払いまでスムーズにできた。

総務省の「IoT時代における新たなICTへの各国ユーザーの意識の分析等に関する調査研究」(2016年)によると、スマートフォン利用率は日本の60.2%に対し中国は98.3%である。特に60代でその差が顕著で、中国は96.8%と日本の35.0%を大きく上回る。中国の中商情報網の統計によると、2011年にサービスを開始したWechatの浸透ぶりは目覚ましく、普及率は2015年に75.9%に達している。

Wechatの決済機能はユーザーの信用度と紐付いている。信用度はユーザーの学歴、職業、車や住宅の保有状況に加え、購買履歴や納税状況などにより点数化されている。その点数に応じてETC(有料道路の自動料金収受システム)、自転車シェアリング、宿泊施設の利用などで様々な優遇サービスを受けることができる。信用度を上げることは中国人が自らの行動を律する動機づけにもなり得る。

Wechatの他にAlipay(アリペイ)のサービスも中国ではよく利用される。これらの決済サービスが中国で一気に普及した理由は何であろうか。かつては「ATM(現金自動預払機)に偽札が混入している」「従業員が売上金を着服する」といった金銭トラブルが深刻であり、こうした問題の未然防止・対応に多大な労力を費やさなければならなかった。タクシー乗務員は、降車時の支払いで百元札を乗客から受け取ると何度も表裏を目で確認し、親指と人差し指で一枚一枚触って真偽を確認するのが常だった。しかし、ネットの決済サービスでこれらの課題が一気に克服されようとしている。

中国は社会秩序を維持するため、次々と発生する問題に対して迅速に対応する必要がある。さもなければ不満が鬱積し体制に影響が出かねないからだ。日本が世界一といわれる精巧な紙幣で偽造を防ぎ、「お天道様が見ている」といった道徳観で信用度を維持しようとするのに対し、中国はシステム(しくみ)によって信用問題の早期解決を目指しているのかもしれない。技術と道徳観の醸成を待つほど悠長に構えていられないのが中国の実情だろう。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
国際社会専攻 
博士後期課程  村上 昂音

【掲載日:2018.6.11】

世界とっておき情報―ブラジルの「スマホ」コミュニケーション

「スマホ」のない生活は考えられない。中でも、メッセージや通話が無料で利用できるトークアプリは欠かせない。2018年1月中旬から2カ月弱、フィールドワークを目的に、ブラジルのバイーア州サント・アマーロという村に滞在したが、小さな村でもそんなスマホ事情は大きくは変わらなかった。日本に比べて通信速度に差を感じたのは否めないが、人々はFacebookに写真を上げ、WhatsApp (日本でいうLINEのような存在) を使った日常的なコミュニケーションをしていた。

ひとつ気になったのは、多くの人がこのアプリのボイスメッセージ機能を活用していたことだ。大勢での食事会の最中だろうと、騒々しいバスの中だろうと、お構いなし。みんなスマホを口に近づけてつぶやいている。確かに機能はシンプルで便利なものだ。マイクのアイコンを押している間は録音され、離せば送信される。1回に送る音声の長さは個人差があるが、筆者が経験した中では10 ~ 20秒が平均的、少し長く語って40秒程度というところだ。しかし、正直なところ、筆者はボイスメッセージを使うのに抵抗があった。通話であれば相手から返ってくるはずのリアルタイムな反応がないため「スマホに向かって話している自分」にどことなく不自然さを感じてしまう。

しかし、今回のフィールドワーク中、このボイスメッセージを使ったコミュニケーションがブラジルでは不可欠だと思い知らされた。調査の主な目的は研究者を含め現地の関係者にインタビューすることである。そのため、出発以前からメールやメッセージアプリを用いて文面でその旨を知らせていたのだが、いまいち反応が悪い。やっと返信が来たかと思えば「休暇中だから旅行に出ようと考えている」といったボイスメッセージ。これでは研究が進められない。そこで意を決して、こちらもボイスメッセージで対応してみた。するとどうだろうか。文面とさほど変わらぬ内容を送ったはずだが、ある人は知る限りの連絡先を提供してくれ、またある研究者は「〇〇日には滞在先の近くに行くから会おう」と誘ってくれた。(先ほどまで旅行に出ると言っていたのに!) とにかく、ボイスメッセージを使ってからというもの、当初予定したよりも広いつながりを築くことができ、フィールドワークを実りあるものにしてくれたと思う。

なぜこれほどまでにボイスメッセージ機能が使われるのか。ひとつは、機能の便利さだろう。キーボードで文字を入力する手間がない。しかし、それだけではないブラジル特有の理由があるのではないかと考えずにはいられない。協力者の一人は「文面よりも音声の方が人となりが把握でき信頼できる」と言う。あくまで直接対面での会話が大前提であり、スマホの先にある現実のつながりを強く意識しているからかもしれない。どれほどスマホが発達しようと、そういった人とつながったコミュニケーションを忘れずにいたい。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻
博士前期課程2年 徳梅 元気

【掲載日:2018.5.21】

世界とっておき情報ーリオデジャネイロの配車アプリ事情

現地調査のためにリオデジャネイロに来てから1カ月半。日々の出費を記録している。その中でダントツに多い出費項目が「ウーバー(Uber)」。ブラジルで人気の高い配車アプリの一つで、移動に使うのは見知らぬ個人が運転する自家用車である。利用方法は、アプリをダウンロードし登録するだけ。現在地と目的地を入力すると、近くを走行中の運転手がその注文を受けて、迎えに来てくれる。アプリには、行き先までの予測料金と、運転手の名前、車種、ナンバープレートが表示される。概ね8分、早い時は3分くらいで迎えの車が到着する。

このサービスは利用者だけでなく、運転手も登録制だ。事後にお互いを評価する制度も採用している。これらの仕組みによって、運転手と客の双方に安心を提供する点が評価され、治安が悪く、何者か分からない他人への抵抗が強いブラジル社会において急速に普及したものと思われる。

評価されるという意識が働くからだろうか、運転手はサービス精神が旺盛だ。「エアコンの温度は適切か」と気にかけたり、「良かったらどうぞ」と車中に用意しているキャンディーをすすめてくれたり、何かと親切だ。走行が終わると、スマホに評価画面が現れ、5つの星マークで評価する。ある運転手の話では、優良さを示すバロメーターは4.7以上で、4.5以下はもっての外なのだとか。5段階中の4.5とは、相当厳しい評価ラインだ。

インタビュー調査の場合、初めて行く場所が多く、公共交通機関だと手間取るが、配車アプリなら住所さえ分かれば、目的地に簡単に到着できる。ウーバーの場合、運転手はwazeというGPS利用のカーナビ・アプリを使っていて道に迷う可能性も低い。クレジットカードで月ごとの決済が可能なので、現金を所持していなくても利用できる。料金も高くない。
もちろん、いいことばかりではない。私の知人は事前に予約した日時に運転手が現れなかったり、実際には通っていない道を走ったとして課金されたりといった経験をした。架空のアカウントを作った客が運転手を襲ったという話も聞く。

それでも配車アプリが普及したのは、利用者にとっての利便性に加え、サービスを提供する運転手の供給も潤沢だからだろう。その背景には、近年の不況が影響しているらしい。運転手に聞くと、本業は獣医だがそれでは食べていけないのでウーバーを始めたところ本業よりも稼げるのでやめられないという若者や、小売店舗を構えていたが店をたたんで乗り換えたという男性など、副業というより主要な収入源として選ぶ場合も少なくない。現時点では、アプリ提供元のウーバー・テクノロジーズが差し引く手数料(ある運転手の話では運賃の25%程度)を考慮しても、もうかる商売だと受け止められているようだ。

しかし利用拡大につれ、タクシー業界との摩擦も激化する。ウーバー運転手から聞いた話では、ブラジルでは、ウーバー側からタクシー事業者側に協定金のようなものが支払われており、このためウーバーが事業展開する他国よりも運転手が支払う手数料の比率が高いのだという。タクシー業界の抵抗にあいながらもブラジルで配車アプリが合法化されたのはつい最近(今年3月下旬)であり、そこに至るまで既成事実の積み重ねや水面下の交渉など、ブラジル流の駆け引きがあったのかもしれない。そんな想像を巡らせながら、サービスを利用するのも楽しい。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻
博士前期課程2年 宮下ケレコン えりか

【掲載日:2018.4.16】

世界とっておき情報―ブラジルの「秩序立った無秩序」

2016年10月、約2年半ぶりにブラジルの地を踏んだ。前回は交換留学生として最南端の州リオグランデドスルのポルトアレグレという町に、今回は修士論文のためのフィールドワークのためブラジル経済の中心地サンパウロに。ブラジルは世界で5番目に広い国土を誇る国。前回とは降り立った場所も季節も違うが、空港を出たときの匂いは変わらない。騒音と、活気と、排気ガスの混じり合ったこの匂いにまだ惹かれている。

ブラジルに着くや否や、出発までに綿密に練り上げた私の研究工程は音を立てて崩れ落ちる。最初の訪問先で、少々堅苦しかった私の研究姿勢はあっけなく肩透かしを食い、ブラジルのペースに取り込まれた。インタビューをしにきたつもりが、到着するやいなや大勢の見ず知らずとの昼食に誘われたあげく反対に質問攻めにあってしまう。博物館に研究に関する展示を見に来ただけのはずが、館長とコーヒーを片手に博物館の未来について午後中語り合うことになってしまう。さらには、現地の中学校で生徒に聞き取り調査を試みるも、気づけば先生の家に招かれその子どもの世話を任されてしまっている。

こんな調子を「なんて雑なんだ」と悪く言う人もいるが、良い風に捉えれば非常に「柔軟」で「自由闊達」。前回の留学でブラジルのこの気風を嫌と言うほど学んでいたはずだったが、帰国後幾年か日本で過ごすうちにきれいさっぱり忘れてしまったらしい。凝り固まった思考が滞在を通してほぐれていく。視野が広がり多角的に物事を考えようとし始めてしまうのは、そういったブラジルの気風がそうさせるのか、はたまた空が広く起伏の激しいブラジルの町の様子が私の思考とリンクしてしまうのかはわからない。

以前ブラジル人の友人が自身の国の生活様式を評した言葉が忘れられない。ブラジルは「秩序立った無秩序で成り立っている」と。他の国からしたら一見乱雑そのものであるものにも、実は確固とした秩序が存在し、ブラジル人はその秩序立った無秩序を受け入れ、それに沿って生活している。ブラジルで生活すると、嫌でもその無秩序の存在を感じることになるだろう。しかし、途上国と侮ることなかれ。無秩序を生む「柔軟」で「自由闊達」な気風は日本にとって致命的に足りない部分でもある。ブラジルでの生活は、そういった日本の可能性を提示してくれる。ブラジルの気風にさらされて私の研究工程は見事粉砕したわけだが、彼らの流儀を受け入れることで、かえって豊かな成果を得られたと感じている。

どんな相手からも、自分に足りないところを学びとる姿勢とその大切さ。これは個人と個人の間のみならず、地域と地域、国と国、という大きな枠組みにも適用できる視点でもある。今回のフィールドワークで再確認したこの視点を、社会に出た後も持ち続けていたい。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
地域国際専攻
博士前期課程2年 片岡 龍之介


【掲載日:2018.3.2】

世界とっておき情報―四半世紀ぶりにアスンシオンを訪れて

2017年8月13日に成田を発ち、我が研究地域であるボリビアに10日ほど滞在した後、四半世紀ぶりにパラグアイのアスンシオンを訪れた。企業の駐在員として家族帯同で生活していたチリのサンチャゴから旅行で訪れた1992年以来である。当時は、パラグアイ観光というよりも、日系移住者が多いだけにサンチャゴでは食べられない美味しい日本料理と、日本のODAで建設された道路を一路東に向かった先のイグアスの滝がお目当てであった。その後、一度も足を運ぶ機会がなかったが、サンチャゴで家族ぐるみでお付き合いして頂いた知人が、退職後、奥様の故郷アスンシオンに住んでいるので久々にお会いするべく足を延ばしてみたのだ。

到着早々、知人ご一家が、アサドと呼ばれる炭火バーベキューで歓待してくれた。料理人を志している息子さんが腕を振るってくれた。現地の料理学校でも最近、日本の和食料理人たちの努力でUNESCOに認められた日本が世界に誇る「うま味」を教えはじめたらしい。既に洋食ではキャリアを積み、近々、日本の料理店で和食を修業予定とのこと。面白い料理人が誕生してくれそうだ。実際、彼が味付けしてくれた炭火バーベキューは、どの部位も塩加減が絶妙で訪問初日からベルトの穴がきつくなってしまった。

25年前のアスンシオンには、コロニアル風ののどかな田舎町という印象しかなかったが、ここ7-8年の目覚ましい経済成長の結果、中心街には、ブランドもののショップが建ち並び、ニューヨークの一角或いは、東京で言えば代官山あたりの風情を感じさせるほど変貌していた。とは言え、経済成長を支えるのは、ブラジルとの巨大公共事業であったイタイプ水力発電所が生む電力のブラジルへの売電収入と、かつての同国最大の密輸入港プエルト・ストロエスネル(現在のシウダー・デル・エステ)を中心とする密輸がらみの収入の二本柱だとの声もある。裏経済を排除しきれないとすれば、それも中南米の一つの顔だろう。しかし経済成長の結果、市民生活は、豊かになり幸福そうに見えた。

アスンシオン市内の一等地のショッピング・アーケードとスーパーに入ってみたが、店によっては、日本よりも洒落ている。並ぶ商品も日本に劣らずセンスの良いパッケージに納まっている。本来、農牧業の国だけに肉類、果物、野菜類も驚くほど新鮮だった。この経済成長を背景に現在パラグアイ政府は、更なる経済発展のために外国企業を誘致しようと法人税率の低減や海外から進出した製造業のために原材料輸入税免除などの優遇制度を設けている。日本企業も自動車用ワイヤハーネスのメーカーや造船メーカー等が進出(一部はブラジルから移転)している。更に日本企業を誘致するべく日本大使館、JICA、JETROがセミナーを開いたり、日本企業のミッションを招いたりして尽力している。しかし、スペイン語の壁、日本からの距離、そしてまだ人材開発が日本企業の望む水準に達していない等の問題が立ちふさがり、思うような企業誘致には至っていないようだ。7000人を超える日系人社会は存在すれど、地球の反対側パラグアイは、やはり遠い国なのだ。そして教育の質向上を基礎にした人材開発が如何に大切であるか。そんなことを考えながら帰国の途についた。

東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻
博士前期課程2年 上崎 雅也

【掲載日:2017.10.13】

世界とっておき情報―メキシコ独立記念日、国民の思い

今から5年前にスペイン語と出会い、ラテンアメリカの魅力に取りつかれてから初めてやってきたメキシコ合衆国。私にとってラテンアメリカ初の滞在国である。これまでこの国、この地域に関する資料は多く目にしてきたものの、やはり百聞は一見に如かずと思う点が多い。

メキシコに来て約1カ月が経つ9月16日。この日はこの国にとって重要な日である。メキシコ独立記念日だ。2~3週間ほど前から町は緑、白、赤で装飾が施され、道端ではメキシコの国旗や三色のアクセサリー等が販売され始める。私の通う学校でもメキシコカラーに飾り付けがなされ、中庭ではメキシコの伝統料理や民芸品が販売されていた。

前夜、メキシコシティの中心地ソカロや、私の住む観光地区コヨアカンでは真夜中まで屋台が立ち並び、移動遊園地が設置され、野外コンサートが行われ、数え切れないほどの人で町は大賑わいとなる。サルサの演奏が始まるとすかさず踊り出し、有名な民謡が演奏されると老若男女問わず口ずさむ。陽気な夜の始まりだ。皆、思い思いの独立記念を祝った衣装に身を包み、深夜を今か今かと待ち望む。

午後11時、ソカロではメキシコ大統領が、またメキシコシティの各地区ではそれぞれの首長が簡単な挨拶の後、鐘を鳴らし、「メキシコ万歳」と叫ぶ。その掛け声に合わせ、広場に集まった人たちも一緒に「VIVA !(万歳)」と叫び出す。次に独立に携わった数々の人の名前とともに、「万歳」と繰り返す。広場は数分間、万歳の掛け声の嵐に包まれる。これは1810年9月16日の早朝、司祭イダルゴがドロレスの教会の鐘を鳴らし、スペイン人の追放を訴え、「メキシコ万歳」と発声したことで有名な「ドロレスの叫び」に由来する。万歳がおさまると、国歌の大合唱だ。子供たちも元気いっぱいに国歌を歌い出す。歌が終わると、拍手喝采となり、間もなく夜空に花火が打ち上がった。メキシコカラーの花火がこれでもかと言わんばかりに夜空を染める。広場に集まった人は皆、曲に合わせて上がる花火を見つめて自国の独立記念を祝う。

独立記念日当日の9月16日。中心地ソカロでは朝から報道陣が集まり、軍事パレードが執り行われる。予想以上に規模の大きいパレードに正直私は驚いた。家に居ながらテレビで生中継を楽しんだのだが、日本では見ることのない軍事パレードのパフォーマンスに釘付けになった。私は3年ほど前にフランスに1年間滞在した経験があり、7月14日の革命記念日にシャンゼリゼ通りで行われた軍事パレードもテレビで見たのだが、映像を通した印象では、フランスよりもメキシコのパレードの方が規模や迫力、軍事パレードにかける思いが大きく感じられた。

メキシコに到着してまだ間もないが、時折この国の人々は愛国心が強いと思わせられることがある。理由はまだ今の私にはうまく説明できないが、この1年でさらに「メキシコ」とはどんな国なのか肌で感じながら過ごしていきたい。土着の文化を持ちながらも、植民時代を経験し、独立を迎え、発展し、数多くの人種が混ざり合い、国際社会において大きな存在感を示すまでとなったこの国を知ることは、これからの社会を考える上で必ずや大きなカギとなると信じている。


東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
世界言語社会専攻
博士前期課程2年  八角(やすみ) 香

【掲載日:2017.9.22】

世界とっておき情報―キューバの「もったいない精神」

私は観光のためキューバを訪問した際、キューバ人の家に立ち寄り、自動車を使い続ける執念の一端に触れることができた。知り合いに日本で学ぶキューバ人留学生がいて、滞在中、偶然その親族を訪ねるチャンスに恵まれた。その家が自動車の所有者だったのだ。

ハバナ郊外の自宅を訪ねると、親族夫婦が歓待してくれた。夫の自慢はルノーの小型車だった。マイカーは誰でも持てるものではない。彼は日本から来た珍客を呼び寄せると、ボンネットを開けて、自分がいかに手間をかけてルノーを維持し続けてきたかを説明してくれた。彼自身が修理する技術を持っており、オリジナルのパーツが使えなくなったら、ロシア・東欧製などに少しずつ置き換えているが、それでもまだオリジナルがたくさん残っていると話していた。まるで我が子をいつくしむように大切に使っている様子がうかがえた。
連続してどのくらいの時間を走ることができるかを尋ねると、正直に「20分くらい」と答えてくれた。長めに走るときは20分走ってはエンジンを止めてクールダウンし、また20分走るのだという。近場であれば買い物や通勤に十分使えるそうだ。交通渋滞がほとんど発生しないため、たとえ20分の走行時間であっても、東京の感覚からすればそこそこの距離を走ることができると思われる。

話を交わしながら、ここ半世紀以上、キューバ国内の自動車を維持してきた人々の思いが伝わってくるようで、私は強い感動を覚えた。「アメリカ合衆国の人々にはとても真似できない技ですね」と声をかけると、彼は大きくうなずいた。「彼らは使えるものでも古くなるとすぐ捨てちゃうからね」。

同じような精神を東南アジアで実感したことがある。フィリピンのジープニーと呼ばれる乗合自動車である。フィリピン人は第二次世界大戦後に米軍から払い下げられたジープを改造し、自国民好みの装飾を施して庶民に欠かせない交通の手段に発達させていった。フィリピン人は自動車修理・改造に熱心で、私は以前、ボディーが使えなくなった小型車からドアやフロントガラス、屋根を含む車体ほぼ全体を取り除き、エンジン部分だけをブリキ板で覆った粗末な自家用車に乗せてもらったこともある。

使える限りはものを捨てずに使い続けようとする精神。資源や物資が足りない国ではどこでも受け入れられる姿勢だろう。さきほどのルノー所有者に「Mottainai(もったいない)」という言葉の意味を説明すると、大いに共感してもらえた。


東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
国際社会専攻
博士後期課程 松野 哲朗

【掲載日:2017.7.11】

世界とっておき情報―メキシコの日系人医師に歴史あり

日系人が神様のように見えた経験をした。メキシコ大学院大学(COLMEX)での資料収集を主目的に、メキシコ・シティを訪れた2017年2月のことである。土地特有の大気汚染、空気の乾燥、昼夜の寒暖差、高地ゆえの酸素不足に加え、何かよくないものを食べてしまったらしい。日に日に体調が悪化していくなか、数日間はアポ等を何とかこなしたものの、ある日、限界寸前に至った。のど、腹、頭など全身がどうかなってしまったようだった。

気がつけば民泊先の住人は仕事で出払っていて誰もいない。そこで、契約している保険会社に連絡を取って市内の診療所を紹介してもらった。這うようにして行ってみると、教えられた場所にあったのは看板も何もない民家で、中に入ると高齢の日系人医師が迎えてくれた。日本語がぺらぺらなのに驚く間もなく、からだの具合は限界に達し、自らの体調を説明しながら不覚にも意識を失ってしまった。

振り返ると、先生を訪ねるのがもう少し遅かったら、もっと厄介なことになっていたかもしれない。そのときは臀部に注射を打たれ、いくつかの薬を処方してもらっただけだったが、すぐに効果が出始め、2日後にはほぼ復調した。そして、残りの3週間近く、調査計画をほぼすべてこなすことができた。診断が的確だったのだろう。

後日、この経験をメキシコ通の元外交官に話したら、興味深い歴史的背景を教えてくれた。日本とメキシコ両国は戦前、「医師自由営業協定」(191728年)を結んでいたため、日本の免許を使ってメキシコで医業を営むことができた時期があった。当時、メキシコは革命期の内戦のあおりで、農村部が荒廃し、医師不足に悩んでいたことが協定締結の背景にあった。協定に基づいて海を渡った日本人医師の子孫が親の職業を受け継いでいった結果、メキシコには日系の医師・歯科医が多いという。元外交官ご自身もメキシコ駐在中に日系人医師に何度も世話になったとのことだった。

実は、私は診療所で先生の生い立ちを少し聞いていた。意識がもうろうとしていたため、不正確なところがあるかもしれないが、概略は以下の通りである。話を聞いたとき先生は84歳だった。メキシコ生まれである。戦前、まだ子供だったころ、親の実家がある九州に里帰りしたことがあった。しかし、メキシコに再び戻ろうとした直前、真珠湾攻撃により日米開戦に至り、帰国できなくなったという。先生はそのまま10代の大半を戦時下の日本で過ごした。日本語が達者なのはそのためだ。20歳前にメキシコ帰国がかない、そこから猛勉強して医師になったそうだ。父親が医師であったかどうかは尋ねなかったが、帰国してすぐに医学の勉強を始めたようなので、日系人に医師が多かったことと無関係ではないはずだ。

先生の診察手法は「徹底的に聞く」ことだった。こんな症状はあるか、あんな症状はあるかと畳みかけ、持病や過去の健康診断の結果も細かく質問することにより、原因を絞り込んでいく。当初は、民家風の診療所のうえ、先生が高齢だったため、的確な診察をしてもらえるのかと不安を覚えたのだが、今思うと大変失礼な思い違いだったと反省している。日系人の名医と出会えたことは幸運だった。


東京外国語大学 大学院総合国際学研究科
国際社会専攻
博士後期課程 松野 哲朗

【掲載日:2017.7.11】

知られざるトルコの大作家 アフメト・ハムディ・タンプナル

アフメト・ハムディ・タンプナル。20世紀トルコ文学を代表するこのビッグネームの名前を知る日本人、まして実際に作品を読んだことがある人は一体どれほどいるだろう?タンプナルは、トルコで日本文学史における夏目漱石(その作風・文体などは当然全く異とするが)のようなポジションにいる小説家、つまりはトルコ近代文学の父である。オスマン文学(漱石ならば、日本の古典文学)をその教養の出発点としつつ、漱石同様に、西洋文学から(漱石がディケンズをはじめ深くイギリス文学に傾倒していたのに対しタンプナルは特に、ボードレール、プルースト、バルザックなど、フランス文学を愛してやまなかった)大きな影響を受けて、栄華を極めたオスマン帝国崩壊後、猛烈な勢いで「近代化」「西洋化」を進める、共和国トルコを舞台に、「西」と「東」の文明の相克を描く、独自の文学世界を創造した。トルコ人初のノーベル賞作家となったオルハン・パムクも彼から多大な影響を受けたことを公言している。

現在私が研究対象としている、『時間調整機構(Saatleri Ayarlama Enstitüsü)』は1961年に出版された、タンプナルの事実上遺作となった長編小説だ。トルコ共和国内の時計を、それまでのイスラム暦から西洋時間に変えるため設立された「時間調整機構」(複雑な罰金システムを用いて西洋時間に合わない、国内全ての時計に罰金を課す作品内の架空の巨大官僚機構)を舞台に、建国間もないトルコの、オスマン以来の伝統と「近代化」の軋轢、「西洋」と「東洋」、イスラムの相克とその問題を、エンターテイメントとしても読める作品のうちに描き出している。
 彼のもう一つの代表作『心の平安』の英訳が出版されたのが2008年、『時間調整機構』の英訳が出たのが2013年であり、タンプナルはまだ、国際的な認知・評価自体が、始まって間もない。9月に藤原書店より『心の平安』の邦訳が出版され、日本でもようやく一般の読者も彼の作品を楽しむことが出来るようになった。この流れが続くことを心から期待したい。

東京外国語大学大学院総合研究科地域・国際研究専攻地域研究コース (現代トルコ文学研究)
博士前期課程 堀谷加佳留

外国大学での講師経験で考えたこと

1990年代末、ポルトガルの新リスボン大学(New Lisbon University) で1年間非常勤講師として教鞭をとった。担当は日本語・日本文化であった。ポルトガルでは13世紀創立の歴史あるコインブラ大学や1991年創立のリスボン大学が欧州でもよく知られるが、これに対し、新リスボン大学は新しい国立大学であり、ポルトガルを離れれば知名度も低かった。この大学から講師の話があった時は、新しい大学の支援という観点でも、日本事情の広報という観点からも、関心を持った。
しかし、やってみたいからといって、他に仕事があればすんなりOKを出せることにはならない。1回の講義ということであればあまり負担もないが、1年間、毎週大学に行かなければいけないとなると、話は簡単にはいかない。これをクリアするには結構時間がかかった。結局、仕事は週一回夕刻の時間休をとり、且つ、大学からは無給で引き受けた。大学のためのボランティア講師である。
大学で担当した学生は高学年生であった。3、4年生である。2~3年間の日本語の授業をとってきており、ある程度出来る学生たちであった。しかし「これなら楽!」というものでもなかった。ある程度しゃべることができる、文章も読むことができる、しかし、それと理解度は別であった。学生にとって、日本語は欧州言語とは根本的に異なるものであり、彼らにとって英語等ならSecond languageというレベルに持っていき易いが、日本語はそうはいかない。あくまでForeign languageである。学生が講師の言うことを理解する以上に、講師が学生のことを理解することが重要であった。
また、講師がnativeだからといっても教えるということは容易ではない。日本ではnativeによる英語授業が好まれる傾向にあるが、nativeよりも日本人講師の方がうまく指導できることもある。nativeの外国人よりもその国の講師の方が、学生の弱い点、強い点をよく識別できるからである。ポルトガルでの講義においても、日本語を理解するポルトガル人講師の方がいい授業をできたのではないかと思うこともあった。
講師がその国の言葉(ポルトガル語)を理解していることは有効であるが、その使い方もよく考えるべきである。実際、講義の中でポルトガル語を多用しすぎたということは大きな反省点である。あとから思えば、日本語の授業かポルトガル語の授業かわからないようなこともあったような気がする。
日本語を教えることで、学生の対日関心度を高めることはできたであろう。しかし、外国語を教えるという面に着目すれば、講師としては言語能力以上に学生を理解する力やメソッドを応用する力が求められるのではないかと考えるようになった。日本語は、普遍性という面では、欧州言語に比べて限定的なものとなる。コミュニケーションのための言語をひとつの言語のみに限定しない欧州複言語主義(Plurilingualism)の範囲には日本語は入らないであろう。学生は面白くないというだけで簡単に離れていく可能性もある。それだけに、教える側の学生に対する接し方は重要であり、責任も大きい。国際貢献やボランティアだとしても、ただ教えるというだけでなく、幅広い観点から物事を考えていくことが必要となろう。(社会・国際貢献分野)

名井良三 (みょうい りょうぞう)
社会・国際貢献情報センター 副センター長

アフリカの紛争:ブルンジ紛争とAU(アフリカ連合)

1. 中東で混乱が起これば日本でもよく報じられるが、サブサハラ・アフリカとなると、多数の死傷者が出たとしても報道で目にすることは少ない。しかし、悲惨な事態は2016年に入っても現実に起こっている。ブルンジ で今起こっていることは、2016年のアフリカの中で最も懸念される紛争のひとつである。
2. アフリカ東部に位置するブルンジは過去の混乱から脱し和平の道を進んでいたかに見えていたものの、昨年来事態が一転し大きな政情不安に陥った。この状況を前にアフリカ連合(AU)は積極駅姿勢を示し、平和維持部隊派遣も具体化しつつあった。しかし、本年初めこのAUの動きにも変化が出始め部隊の派遣は見送られることとなった。ブルンジ側の予期せぬ強い反発に腰が引けた形になったのである。
過去、この地域ではどちらかと言えば隣国ルワンダが注目を浴びていた。ツチ族、フツ族の対立により大規模の死傷者が出た。しかし、このルワンダでは、今はそれを克服し、安定した政情の下で経済も良好な様相を示すようになった。世銀の"Doing Business"でもルワンダはアフリカ上位に位置するまでになった。対照的状況になったのが同じ地域のブルンジである。
ブルンジは、1962年の独立後、民族対立の構造の下で混乱し、それが今では異民族間の対立という枠を超えた混乱へと姿を変えてきている。昨年4月、ンクルンジザ大統領は3期目の大統領選出馬表明をした。憲法規定から外れる行為であり、これにより国内は再び混乱し始めた。大統領は野党ボイコットの中で選挙を強行し、混乱は収まらなくなった。今や大統領派と反大統領派の対立は顕著で、昨年以降、今年2月までの死者は数百人、近隣国への流出難民は20万人を超える。
これに対し、AUは介入の姿勢を見せた。アフリカの平和維持軍による事態の収拾を試みようとしたのである。正に「アフリカによるアフリカ問題の解決」がAUの方針でもある。しかし、当面はこの具体化はなくなった。紛争処理にも積極的に介入すべく過去のアフリカ統一機構(OAU)からAUに転換したはずであった。物事は簡単には進まない。これが国際政治というものであろう。
3. AUは、2002年に発足した。前身のOAUは「統一機構」との名を持ちつつも内政不干渉の下で紛争処理のためには効果的行動がとりにくい状況にあった。強い権限をもたせるべく新組織が構想され、これがAUとして身を結んだのである。AU創設の推進者は今は亡きカダフィ大佐である。彼は元々汎アラブ主義推進者であったが、AUの強い推進者として動いたことは彼の汎アフリカ主義への転向ともとれるものである。AUは、紛争解決、平和構築の分野における機能強化のため平和安全保障理事会が設けられ、平和維持部隊の派遣も可能となった。アフリカの問題に対しアフリカ自身の手で解決を導くよう歩み出したのである。
4. ブルンジの国家経済は、最貧国レベルではあるものの、近年国内が安定してきたもあり、5%前後という高い成長率を示してきた。経済成長のためにも政情安定は重要な要素となる。この国の不安定化は近隣諸国にも少なからず影響を与えるため、AUとしては地域の安定という面からも調整にあたりたいところである。今回のブルンジ問題に対し、AUは当面平和維持軍の派遣は見送るもののハイレベルの代表による対話による解決を模索することとなった。これは、強い介入から静かな介入へと姿勢を転換したことになる。
ただ、冒頭でAUの腰が引けたかの如く書いたが、見方を変えてみれば、今のAUの動きも決して過少評価すべきものではなく、アフリカ主導による動きのひとつとして見ることもできるかもしれない。少なくともそのように期待したい。(国際動向・国際事情分野)

名井良三 (みょうい りょうぞう)
社会・国際貢献情報センター 副センター長