自然の営みへの畏敬を忘れた私たちに
―ユーモアと想像力、身体性を駆使したアフリカの知恵
ピエリア・エッセイ
坂井 真紀子
科学技術の革新による人類の進化、私たちはそれを享受して日常を生きている。だが私たちはそれを盲信し、この世のすべてを自分たちでマネージできると勘違いした。そして何を失ったのか。自然とともに生きるすべ、他者と真にわかり合うこと、寄って立つ共同体、遊び、余白、深呼吸……。思いつくままにあげればきりがない。
だが、アフリカには、欧米が実現したような〝発展〟に惹かれつつも、真に大切なものを守るストッパーが仕込まれている。
● 自然、死と生への畏敬
アフリカの小説には、チュツオーラの作品のように、野生動物や精霊、祖先のいる森、すなわち見えない世界への冒険譚がいくつもある。主人公が、日常世界を飛び出して、人間の理解の及ばない異界に足を踏み入れ、わかり得ない何かと出会う。『やし酒飲み』を初めて読んだ時は、想像のはるか上を行くエピソードの連続に腰が抜けた。
カメルーンでは、みな「見える世界と見えない世界」、二つの世界を生きている。友人の老いた母親は、私が会いに行った時「私の葬式にはぜひ来てね!」と明るく誘ってくれた。まわりは「サカイは次にいつ来ることか。そのとき死ぬとは限らないよ!」と笑った。案の定、次に訪問した時、彼女は旅立ったあとだった。
西洋にとって病や死は技術で乗り越えるべき障害だ。医学の進歩はたしかに様々な病を克服してきたが、死そのものを受容するすべはない。どんなに医療費をかけても、その恐怖は拭い去れない。他方、彼らは誰にも平等に訪れる自然の摂理としての死を日常の先に見通し、命を終える親族や友人を、見えない世界へと明るく盛大に送りだす。
● 人間関係にユーモアを仕込む。
タンザニアで、ある老人のインタビューに同行した。スワヒリ語が堪能なメンバーと、その老人との会話は次第に辛辣な掛け合いに変わっていった。しかも笑顔で。それは冗談関係といって、ある特定の関係では、年齢差や立場を超えたユーモラスな罵り合いや、売り言葉に買い言葉が許されるという。この場合は疑似的な祖父と孫らしい。人類学の本でそんな話を読んだ気がするが、実際に目の当たりにして心底驚いた。
タンザニアでは、民族間の冗談関係にも遭遇した。一〇四歳のゴゴの老人の壮大な葬式に参列した時だ。香典の相場は決まっているが、ゴゴと冗談関係にあるスクマは相場の二倍の金額を支払う決まりがある。スクマの友人が葬式を仕切り、冗談満載のスピーチで彼の大往生を讃えた。タンザニアには様々な民族が共存する。日々小さな諍いもあるだろう。そんな摩擦を未然に防ぐためか、特定の民族間に冗談や無礼講を仕込み、人生の節目にはより相手にコミットする。よくできた仕組みだ。インド洋と内陸を往復した長距離キャラバンの全盛期に、様々な民族同士が自分の土地を離れてポーターとして参加し、異民族と出会った。それが冗談関係の契機だろうか? 個人レベルでも婿と嫁の母親の間など、さまざまな冗談関係があるらしい。この社会の潤滑油には、ついクスッと笑ってしまう。
● 子どもたちへ、染み入るメッセージ
スワジランド(現エスワティニ)の家庭にいた時、夕食後、小さい孫たちは祖母のまわりに集まり、民話を熱心に聞いていた。子どもたちの困った振る舞いも、直接叱るのではなく、歌や物語を介して、ユーモアを交えて伝えるのだという。タンザニアのある村の舞踏集団は、新しい楽曲を作る時、子どもたちに伝えたいメッセージを歌詞にして入れる。子どもたちは大人たちのパフォーマンスにワクワクし、その曲に合わせて一緒に踊る。その体験は心と体の奥に直にしみこんでいく。
坂井 真紀子(さかい・まきこ)総合国際学研究院教授 アフリカ地域研究、農村社会学
文献案内
エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』土屋哲訳、岩波文庫、2012年
エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』土屋哲訳、岩波文庫、2015年
ラドクリフ=ブラウン『未開社会における構造と機能』青柳まちこ訳、蒲生正男解説、新泉社、1975年
ピエリア pieria 2026年春号
特集「不穏な時代のライフハック」第Ⅰ部 視点の在処 掲載
