苦さと甘さ
ピエリア・エッセイ
沼野 恭子
ロシアの結婚式には、客が「Горько(ゴーリカ)! Горько(ゴーリカ)!(苦い! 苦い!)」と叫びだすと、新郎新婦が皆の目の前でキスをしなければならないという習わしがある。かなり古くからあり今なお続いている「伝統の儀式」である。酒がほどよくまわってくると、客は何度も「ゴーリカ!」と繰り返してふたりの口づけを要請する。「酒が苦いので口づけで甘くしてくれ」を意味しているという(ふだん非合理的なロシア人が「合理化(ゴーリカ)!」と叫んでいるようで面白いなどという友人もいるが……)。
私がこの風習を知ったのは、大学二年のとき、所属していたロシア語劇団「コンツェルト」が、劇作家アレクサンドル・ヴァムピーロフ(1937―1972)の『六月の別れ』を公演することになったときだ。魅力的で反抗的な主人公の大学生が学長の娘と知りあって恋をするも、ひょんなことから退学処分を食らうという青春ドラマで、友人の結婚パーティの場面に「ゴーリカ!」のセリフがあった。キスが苦い酒を甘くするなんて面白い発想だと思ったものである。
もっとも現実には、苦いものを甘くしてくれるような魔法などめったにない。ヴァムピーロフは、バイカル湖の水難事故で若くして亡くなり、生前その戯曲が上演されることはほとんどなかった。ソ連時代は、「真実」を誠実に描こうとすれば、イデオロギーに縛られた偽善的な建前と対立し、作品を発表することさえままならないことがしばしばだったのだ。
ソ連が崩壊して十数年後、私はイルクーツクを訪れる機会に恵まれた。街を歩いていたら偶然、ドラマ劇場の前にヴァムピーロフの記念碑があることに気づき、旧友に再会したような熱い思いがこみあげたのを覚えている。
そういえば、『長男』という彼の戯曲には、「甘い噓より苦い真実のほうがまし」というロシアの諺が出てくる。苦い真実を甘くしてくれるキスがこの世に存在しないのなら、苦い真実に甘んじなければならないだろう。甘い噓ほど怖いものはないのだから。
ぬまの・きょうこ 総合国際学研究院教授 ロシア文学
文献案内
アレクサンドル・ヴァムピーロフ『去年の夏、チュリームスクで』『長男;鴨猟』宮沢俊一・五月女道子訳、群像社(1987/1989)
2019年春号掲載