〈樹じたい〉、フランク・ザッパ、李白 〜覚醒と美のフローやがて抗熱のち哄笑(続)〜
ピエリア・エッセイ
橋本 雄一
いつも行く道に必ず確認する一本の樹がある。巨大だ。川べりに立つ。
その樹に近づいたことが無い。近づけない。いつも電車の中から眺めるだけ。スピードをつけた箱のなかにこちらは閉じ込められ、それはすぐに視界の外に遠ざかり、すぐに大きく鬱々とした人工物の影に邪魔されて行き、見えなくなる。
だが分かる。樹はいつもそこに立っている。息をしている。と。川辺にひとり、無数のカラスが夕焼けの太陽に向かって飛び立つようなささくれ立った手を延ばし、時に葉を茂らせ時に葉を落とし再びの自分の魂のような痩身の鋭き杭の身体。何かを笑いながら怒っている。
ニーチェが反対した、カントの「モノじたい」とは、別の言葉で認められねばならない。「モノ」ではない。〈樹〉だ。そう、〈キじたい〉。〈樹〉とはニンゲンに関係なくこの世にずっと在り、ずっとこの地球と宇宙と共に在りつづける。原生林のなかに生き、オノレを太陽のほうへ同化させようと何事をも突き抜ける太い針のように紺の夜空と地中に延びてゆく樹……ニンゲンの民たちが地球の一角を美しい呼吸の場所と確かめるため紺の土に植えて生きる樹……
近づけないのは、日々アクセク・クヨクヨする自分の情けなさもある。JR最終便にカードのおアイソで改札を渡る時、果たして通れるのかな・通ることを誰に許されてるのかな、とビクビクする。後ろの人を気にする。部屋では電源のありかを気にする。だがそんなことはどうでもよいのだった。いちばんは夜の川べりに立つ巨大な一本の樹。人間と政治の汚さをよそに、まっすぐ空に向かう巨大。恥ずかしくて軽々に会いに行けぬ。9条のこともそれが良い。それは誰が創ったとかましてやナニ人が作ったとか、はいい。そこに畏れ多き空あるのみ。その空を揺るがせては、日々電車で通う道さえ無し。畏れつつ遠くから沿うて視てしかも必ず守るべき水・風・猫・空ではないのか、その思想とはついに! あわせて、過去と今の沖縄とアイヌの場所が、9条と13条から阻隔させられている現在を考える。
どんなに足掻いてもこちらがかなわない、そこに吹く《列子》の高き蒼き風。その風に乗って宇宙からやって来ていつか宇宙に帰って行く文学や音楽。それらも川辺に立つあの〈樹〉だ。
遠き出自のイタリア語とフランス語・ドイツ語・中国の漢字(「不乱苦雑派」)・英語(はもちろん)……あらゆる言語で喋り弾き奏でたフランク・ザッパは、高笑いしながら宇宙に帰って行った。地球史上最も美しい曲の一つ”Project X”(1969年”Uncle Meat”所収)の、珍しい緑色の透明なブリーズから始まり展開する各ヴァースはすべてが、あらゆる音と語が渾然一体となって星雲になる。君よ聴くべし。他者どうしたる多言語と心の同志たる多楽器・多人間・多性別でもって宇宙を進む。ドラッグ逮捕の友人演奏家を、一日だけ釈放金を払ってやって刑務所から連れ出し、そいつの美しい見事なヴァイオリン演奏をスタジオで一発録り。一曲のけりをつけたら、その友人を同じ刑務所の同じ部屋の同じ時間にまたキチンと送り返すザッパ。彼自身の指先によって分裂し突き抜けて行くギター音。過剰なまでの多声言語が地球のすべての夜と昼をトレースする。そしてそのような美を揺るがす政治に対していつも闘った、あの優しい眼とアナアキイな耳とあの声で。それらは今、夜の川べりのあの巨大なひとりの樹に変身して立つ。それが分かるから、会いに行かなくて良い。
いのちの持続の不安とそこからのアナアキイな多声とを、一つの詩の中に揃えた李白も奏でる。
倶懐逸興壮思飛,欲上青天攬明月
抽刀断水水更流,挙杯銷愁愁更愁
人生在世不称意,明朝散髪弄扁舟
《宣州謝朓楼餞別校書叔云》部分
こだわりと大志を胸に、宇宙の空に昇ってお月さまを抱こうとし
剣を抜いて水を切るも流れは同じ、麗杯で憂いを消すも憂いなお深し
いのちはこの世にところを得ず、明朝こそ髪を解いて小舟で出立す
決して近づいてはいけない月。そうと知ったうえは心で抱こうとし、でもやはり大きすぎて抱けない。畏れよ。それをザッパ、李白、今日の川べりに立つあの樹、が君に伝えてくれる。
はしもと・ゆういち 総合国際学研究院准教授 中国文学・植民地社会事情
音盤案内
Frank Zappa, Uncle Meat, Bizarre/Reprise, 1969
2019年春号掲載