奪われたままの知と身体
ピエリア・エッセイ
小田原 琳
イタリアの革命家/思想家アントニオ・グラムシは、一九二六年にファシスト政権によって逮捕される直前に「南部問題についての覚え書」という論考を書いた。一九世紀半ばに統一されたイタリアでは、文化や社会、諸制度にさまざまな地域差があったが、これを北部に対して南部が劣位に置かれる「格差」と単純化したのが「南部問題」である。グラムシは南部問題を、主に北部で発展した工業資本家による、農業を中心とする南部の搾取と捉えたうえで、南部の農民は体制を支える知識人たちによって、そうした構造に対抗して集合的な力をもつことを阻害され、北部のプロレタリアートのような組織的な運動を展開することができないと、「覚え書」で述べた。彼はのちに獄中で、革命の最大の課題として、支配的社会集団の発動するイニシアティヴによって絶えず粉砕され断片化され、その声を歴史にのこすことのできない「従属的社会集団(サバルタン)」にかんする議論を展開する。
グラムシの思想は半世紀後、帝国主義の空間的‐知的権力を告発するポストコロニアル批評家たちの手によって蘇る。帝国主義が労働の国際分業によって植民地化された地域を経済的に搾取しつづけたのみならず、宗主国(の白人男性)を頂点とする差別的な知のヒエラルキーを植民地住民に課したこと、近代知とそれをもって世界を認識する知識人(本学の教員や学生のような…)はそうした差別構造のうえに自己を形成していることを、ポストコロニアリズムは厳しく指摘した。スピヴァクは、とりわけ労働の国際分業の最底辺で下請け作業を担っている第三世界の女性たちのうちに、現代の「サバルタン」を指し示す。一九二六年にコルカタで自殺した無名の若い女性が死を通して訴えたかったことが、いかにその自律性において読みとられなかったか、という鋭い批判に、「植民地的近代(コロニアル・モダニティ)」(先進国の近代は植民地主義(コロニアリズム)なくしては成立しなかったという概念)を生きる私たちは、いったいなにを忘却し、どのような声に耳を塞いできたか、自問せねばなるまい。
歴史のなかで女性や植民地住民が沈黙させられてきたのは、資本主義というシステムが本質的にもつ暴力による、と論じたのが、『キャリバンと魔女』である。マルクスは封建制から資本主義への移行にあたって、生産手段(かつては土地、その後は工場)を有する資本に対して労働力しかもたない労働者という関係が成立する「本源的蓄積」という段階を理論化した。資本主義の開始には土地を農民から、そして植民地から収奪するという暴力的な過程があるということだが、フェデリーチはマルクスが、もうひとつの根源的な暴力を見逃しているとする。資本主義社会において、労働力そのものの再生産、つまり、ひとが労働者として明日も働くために必要な食事や休息、将来労働者になるひとを産み育てることなど、「家事労働」と総称される労働は、賃金を支払われる「労働」とはみなされていない。資本は、必要不可欠な労働力を再生産することにかかわるコストを負担しないことでさらなる発展を遂げる。妊娠・出産を女性に課し、圧倒的に多くの場合女性によって担われている家事労働を無償化することもまた「本源的蓄積」であるとフェデリーチは論じたのである。
コロニアリズムによって開始され、資本主義の暴力が吹き荒れるグローバリゼーションのなかに、私たちの知と身体は投げ出されている。現代世界への問いは、世界のサバルタンの、そして私たち自身の、傷つけられた存在から始められなければならないのである。
おだわら・りん 総合国際学研究院准教授 イタリア近現代史/ジェンダー・スタディーズ
文献案内
アントニオ・グラムシ『知識人と権力–歴史的‐地政学的考察』上村忠男編訳、みすず書房、1999年
ガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』上村忠男訳、みすず書房、1998年
G・C・スピヴァク『ポストコロニアル理性批判–消え去りゆく現在の歴史のために』上村忠男・本橋哲也訳、月曜社、2003年
シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女–資本主義に抗する女性の身体』小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社、2017年
2018年春号掲載