チリ軍政年表
1985/08/26 チリの野党10党は「全面的民主化のための国民協定」を締結
1985/09/05(木) チリ大学工学部で学生10/8人が逮捕。(UMU 1985/09/08)
1985/09/07(土) 64人の政治指導者、労組指導者、ポブラドーレス指導者などが抗議デーのデモを組織したとして逮捕。チリ大学7学部の学生は無期限ストに入る。逮捕された学生が軍事法廷に送られたことに抗議。(UMU 1985/09/08)
1985/09/09/(月) 64人のうち15人が釈放。学生70人が釈放。27人は武器統制法違反で拘留。(UMU 1985/09/10)
1985/09/18(水) テデウム。ラジオ・テレビ中継されず。民族音楽を流す。
1985/09/26(木) MDP系の婦人、学生組織がサンティアゴ中心街でデモ。カラビネーロスが弾圧。R.セゲルとM.ブストスが収監。治安撹乱を問われて。(UMU 1985/09/27)
1985/10/09(水) 前日に引き続いて学生がSergio Gaete教育相の辞任、軍の大学介入中止、拘留中の労組幹部釈放を要求してデモ、警官と衝突。(UMU 1985/10/10)
1985/10/15(火) 民主同盟、労働者全国闘争本部が呼びかけた連帯デー。中心部でデモ。キャンパスで警官と衝突。(UMU 1985/10/16)
1985/10/15-16(火、水) 逮捕された労組指導者との連帯デー。17人が負傷。400人が逮捕。セゲル、ブストスら12名が拘留中。(UMU 1985/10/17)
1985/10/19(土)(?) 刑務所で暴動。8人が死亡。うち1人は政治囚。(UMU 1985/10/20)
1985/10/21(月) ローマ法王が1987年にアルゼンチンとチリを訪問することが発表。(UMU 1985/10/22)
1985/10/21(月) セゲルら8人の労組幹部の釈放が認められる。ブストス、Jose Ruiz dei Giorno、ポブラドーレス幹部Eduardo Valenciaの釈放は認められず。(UMU 1985/10/22)
1985/10/25(金) CNTは11月5,6日にセゲル釈放を要求する抗議行動実施を発表。(UMU 1985/10/26)
1985/10/31(木) 医師会、専門職組合連合、トラック業者連合は11月5,6日の行動を支持。(UMU 1985/11/1)
1985/11/1(金) セゲルら拘留中の6人の労組幹部はハンストに入って5日となった。チリ大学学生連合(FECH)の選挙が行われ、政府支持派3,800票、反政府派(3リスト)13,000票。勝利したのはキリスト教民主党と社会民主党の連合で5,658票。次点は共産党、社会党の連合で5,584票。(UMU 1985/11/2)
1985/10/末-11初にかけて爆弾事件が続発。(UMU 1985/11/5)
1985/11/5-06(火、水) 連帯デー。死者5人、負傷者40人、逮捕者数百人。チリ大学工学部学生339人も逮捕。政治囚釈放を要求して総会を開こうとキャンパスを占拠しようとして。(UMU 1985/11/8)
1986/04 「全国市民会議」(ANC)が結成され、「チリの要求」と題する要求書を発表。
1986/09/07 マヌエル・ロドリゲス愛国戦線はピノチェトを襲撃するが未遂に終わる。
1988/10/05 国民投票で、軍政支配の延長に反対する「ノー」が勝利。