今年の四月、チリにおける反独裁闘争は注目すべき前進を遂げた。チリのほぼすべての社会組織を結集した「全国市民会議」(ANC)が結成され、「チリの要求」と題する要求書を発表して政府に突きつけたのである。一九八三年以降大規模にくり広げられてきた反軍政の運動はここに新たな局面に入ったといえる。

すでに昨年の末、反独裁勢力は今年を反独裁闘争の「決定的年」と位置づけていた。チリ労働者の大多数を結集した「労働者全国闘争本部」(CNT)は,全国ストの八六年実施に向けて全力を尽すと声明していたし、反政府諸政党は労働者、学生、婦人、中間層など広範な社会層の動員の準備をすすめていた。こうした中で、今年三月末、医師会、ジャーナリスト組合、弁護士会などの連合体である「専門職者同業組合連合」が集会を開き、労働組合、同業組合をはじめとする広範な社会組織を結集した「全国市民会議」の結成を呼びかけた。

この呼びかけは予想を上まわる反応を引き起こした。各界各層からあいついで賛同の声が寄せられ、ただちに、提唱者の専門職者同業組合連合をはじめ、CNT、全国農民委員会、小売商組合連合、トラック業者連合など各分野にわたる十八(やがて二十二に拡大)の全国組織の代表から成る「全国市民会議幹事会」が発足した。そしてその下で、各層から出された諸要求の集約調整作業がすすめられ、こうして、呼びかけから一ヶ月後の四月二十六日、「全国市民会議」総会が開催されて、「チリの要求」が発表されたのである。

この全国市民会議結成と「チリの要求」提起はきわめて[次の点で]大きな意義を持っている。

まず第一に指摘できるのは、その構成メンバーの層の厚さと広がりである。

四月二十六日の結成総会には、二十二の全国組織に結集する三百組織の代表およそ五百人が出席した。これら三百組織は、医師、弁護士、教師、ジャーナリスト、研究者、労働者、公務員、サラリーマン、学生、小売商、女性、農民、法律家、年金生活者、トラック業者、ポブラドーレス(低所得居住地区の住民)、芸術家、人権擁護運動家など、それこそチリ社会のほとんどあらゆる階層にわたっている。ただ経営者団体だけは参加を拒否した。それ以外のチリのほぼすべての社会層が結集したと言っても過言ではない。これほど広範な社会層が一つに結集したことは、現在の軍政下のみならず過去のチリの歴史においてもかつてなかったことである。

第二に、参加者の党派色を一切問題にしなかったことが挙げられる。

これまでのところ,チリの野党勢力は、中道のキリスト教民主党を中心に保守と左翼の一部を結集した民主同盟(AD)と、共産党を中核に左翼だけからなる人民民主運動(MDP)の大きく二つの潮流に分かれている。民主同盟の内部では右派を中心に共産党との共闘を拒否する勢力が存在し、共産党とMDP抜きでの民主化構想を押し進めていこうとする一方、共産党やMDPの側では、民主同盟が民主化の中心戦略を軍政当局との交渉に求めていると批判してきた。このように政党間の対立が,反軍政勢力の統一にとってこれまで大きな障害となってきたのである。

昨年八月、フレスノ枢機卿の仲介により「全面民主化協定」が締結され、民主同盟を中心にさらにこれをひとまわり広げた諸政党が調印して野党間の合意が前進したときも、民主同盟側ではMDPへの働きかけに熱心ではなく、また、共産党の側でも協定の内容に問題があるとしてこれに調印しなかった。協定の中に暴力否定を明言していた箇所があったことが、武装闘争を含む「あらゆる闘争形態」を主張する同党の路線に抵触していたからである。

しかし、今回の市民会議結成にあたってはこうした党派色は一切問題にされることなく、事実上、すべての反軍政勢力が合流する場が形成された。反軍政勢力の統一は大きく前進した。

市民会議結成の持つ第三の意義は、こうした統一がいわば「下から」形成されたことである。民主同盟にしても、人民民主運動にしても、その組織的実態は、事実上、上部の政治指導者の連合にとどまっていた。それに対して、今回の市民会議は、一般大衆レベルにまで根をおろし多数の組織メンバーを擁する労働組合、同業組合など様々な社会組織が、その組織的な内実をもって結成したものである。

次に、「チリの要求」の意義について簡単に押えておこう。

一読して分る通り、ここには、経営者層を除くチリの最大限広範汎な社会層の要求が一つにまとめ上げられている。これまでにも、様々な社会層がそれぞれの要求を掲げて運動してきたが、これほど包括的で詳細なものは初めてである。

しかも、これらの要求は、民主主義と人民主権の復活を前面に掲げている。そして,軍事政権がこれまで推進してきた新自由主義経済政策、労働政策、教育・医療の民営化政策、一連の強権政策など、現在の軍政の基本原理に対して根本的な転換を迫る内容を持ったものとなっている。要求されているものは軍政の政策の部分的手直しなどではなく、軍政の終結そのものなのである。

また、「チリの要求」は、単に,様々な社会層の個別要求を列挙しただけのものではない。見ての通り、要求書は、将来の政治制度、外交、経済政策、社会政策、教育、文化、などすべての分野における基本方針を掲げているのであり、その意味で、軍政以後に樹立される民主政権の政策綱領原案ともいうべき性格を持っているのである。

すでに見たように、この「チリの要求」は、反政府政治勢力の二大ブロックである民主同盟と人民民主運動の両者が共に全面的に支持している。しかしながら,これによって両者の立場の違いが克服された訳ではない。

まず指摘しておかなければならないのは、この市民会議の結成が、何よりもキリスト教民主党の戦略にそって同党のイニシアチブの下にすすめられたということである。

そもそも,この市民会議結成にあたって主導権をとった専門職者同業組合連合は,キリスト教民主党の強い影響力の下にある。さらに市民会議結成後、その議長と書記長には同連合の代表が就任しており、市民会議幹事会のメンバーもキリスト教民主党が多数派を占めている。

キリスト教民主党の路線は、一言でいって、現在のピノチェト独裁の主柱となっている軍に対し、ピノチェトを見限り名誉ある撤退の道を選ぶよう、広範な社会層の圧力をかけていく、というものである。アジェンデ政権当時、同党は、医師会、小売商、トラック業者など中間層の要求を「チリの要求書」としてまとめあげ、これら中間層の社会的動員によってアジェンデ辞任を実現しようとした。今回もそれとほぼ同様な戦略がとられているといってよい。もちろん、今回、市民会議に結集した勢力が年当時よりもずっと幅広いものであることはいうまでもない。

社会的圧力をかけることで軍をピノチェトから切り離し、軍との交渉によって民政移管を実現していく、というキリスト教民主党のこうした戦略は、この「チリの要求」にも色濃く反映されている。要求の前文では、軍の立憲的伝統への言及がなされ、事態がこのまま続けば軍は国民の意思から決定的に離反し、軍の存在そのものが危機に陥るだろうと警告している。そして軍が再び立憲主義の伝統へたち戻るよう呼びかけている。つまり、この要求書は何よりも軍への呼びかけなのである。

なお、こうしたキリスト教民主党の路線が米国の立場と基本的に一致していることは言うまでもなかろう。[カーター前政権の人権外交を批判して登場したレーガン政権は、当初、独裁国であろうと反共国であれば友好国と見なすとの態度をとり、ピノチェト政権とも親密な関係を強めていた。しかし、アルゼンチンを始めとして南米諸国の民政移管への動きが高まる中で、米国政府のチリに対する態度もしだいに変化を見せ、特に八三年の第一回全国抗議デーの成功以後は、ポスト・ピノチェトに備えて、民主同盟系の野党勢力と接触を深めてきている。エイブラムズ?Elliot Abrams米州担当国務次官補?が明言したように,]米国政府は、ピノチェト独裁が長引けばそれだけ反政府運動が過激化し、共産党がヘゲモニーを握ることになるだろう、と懸念しており、共産党抜きの、民主同盟主導による民政移管の道を望んでいるのである。

こうしたキリスト教民主党の路線に対して、チリ共産党とMDPは、市民会議と「チリの要求」を全面的に支持する立場を表明しながらも、これにキリスト教民主党とは異なった位置づけを与えている。キリスト教民主党があくまでも軍との合意を重視し、市民会議の主導下での社会動員が平和的な性格を持つものであることを強調しているのに対し、共産党とMDPは軍との交渉による解決は幻想であるとして、「人民反乱」の路線をとっている。今回の市民会議の結成についても,これにより広範な社会層の動員が一層容易になり、全面的な「人民反乱」への道が開かれるといった観点から評価しているのである。

一九八○年、ピノチェト憲法の国民投票が行われた直後、共産党は、キリスト教民主党との連合を中軸とする広範な反独裁戦線の結成をめざしていたそれまでの路線から、武装闘争を含む「あらゆる闘争形態」に訴える「人民反乱」路線へと転換した。そして、それまで一貫してその極左主義を批判してきた革命左翼運動(MIR)との同盟に踏みきり、八三年にはMIRおよび社会党左派のアルメイダ派とともに左翼の政治ブロック「人民民主運動」を結成するとともに、同年末の軍事組織「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」(FPMR)創設にも積極的に関わり、高圧送電塔爆破などの軍事行動に本格的に乗りだした。

共産党のそうした路線転換の背後には、軍の国政参加、マルクス主義政党の非合法化などを定めたピノチェト憲法が成立した条件下では平和的な政治闘争で軍事政権を打倒することはもはや不可能であり、武装闘争を含む「人民反乱」による以外に道はないとの認識があった。そうした認識は現在においても基本的に変っておらず、共産党とMDPは、市民会議の主導下での広範な社会層の動員を最大限バックアップしながら、同時にそれをステップに動員を一層拡大し激化させることによって、全面的な「人民反乱」へと転化させていこうと考えているのである。

このように、政党レベルでは、反独裁闘争の進め方をめぐって基本的な見解の対立が続いており、民主同盟と人民民主運動の二大ブロックの並立という基本構図には今なお変化がない。

もっとも、変化の兆候が全く見られない訳ではない。民主同盟の内部でも、社会党(ブリオネス派)などは以前から、MDPとの合意実現により全野党勢力の統一を図るよう主張してきたが、今年に入って、同党ならびに急進党がMDPの代表とあいついで会談して接触を強めている。しかし、キリスト教民主党は、共産党が武装路線放棄を明言しない限り共同行動はありえないとしており、民主同盟と人民民主運動の正式な合意実現の可能性は今のところ少ないといえよう。

だが、それだからこそ、今回の市民会議の結成の意義もまたそれだけ大きいのだといえる。市民会議の場では、キリスト教民主党員も社会党員も共産党員も,ともに肩を並べて闘っているのである。

市民会議は 四月末に「チリの要求」を発表した際、政府が五月三○日までに回答するように期限をつけていた。しかしピノチェトはこれを無視したばかりか、一層の弾圧をもって反政府勢力に応じてきた。五月のメーデーには武装した兵士を配備して集会とデモを弾圧し、市周辺のポブラシオン(低所得者居住地区)では大規模な家宅捜索を行った。CNTが「平和のための行進」を呼びかけた五月二十日にも、国家警察軍の反対を押し切って軍を投入し、都心部の立入を全面的に禁止した。六月には学生運動弾圧のために学園に軍隊を導入することさえした。

五月末、指定された期限が切れると、市民会議は七月二日、三日の両日に全国ストを実施することを決定した。

この全国ストに向けて多様な闘争がくり広げられた。五月から六月にかけて、中等学校生徒が教師や父兄とともに、国立中等学校民営化に向けての自治体移管政策に反対してストライキやデモなどの抗議行動をくり返し、六月には、学生が、大学の民主化と政府任命の軍人学長辞任を要求して無期限ストライキに入った。

こうした盛り上がりを背景に、七月二日、三日の両日、チリ全土はゼネストに突入した。市民会議によれば、労働者の七割、学生の九割がストに参加し、商店の七割以上が閉店した。市内の交通は大半がストップした。そして夜に入ると街中に鍋叩きの音が響き渡った。運動はサンティアゴだけではなく地方でもくり広げられ、コンセプシオン市などではデモ参加者が多数逮捕された。

軍政に抗議する全国ストは、これまでにも数回実施されたことがある。しかし、いずれも単独勢力の呼びかけによるものであり、軍政の力による押えつけの前に、今一歩盛り上がりに欠けていた。今回のように、右派から中道、左派にいたる幅広い政治勢力に支持され、広範な社会勢力を結集して、これほどの規模と広がりで実施された全国ストは初めてのことである。

反軍政勢力の前進を前に、軍政支持勢力の内部では、しだいに意見の相違が表面化してきている。その主要な争点は「八九年問題」である。八○年のピノチェト憲法によれば,あと二年半後に迫った一九八九年三月、ピノチェトの大統領の任期が切れる。その後の八年間、誰が大統領の座に就くことになるのか、というのである。

いうまでもなく、ピノチェト自身は居座りを狙っている。八○年のピノチェト憲法によれば、八九年には、軍事評議会が推薦する単独候補に関して国民投票が実施されることになっている。ピノチェトにとってその単独候補とは自分以外にいない。これに対し、軍政支持派の右派政党の間には、八九年には国民投票でなく複数の候補者による大統領選挙を行うべきであり、そのための憲法改正が必要である、との意見が強まっている。こうした立場には海軍のメリーノ司令官、空軍のマテイ司令官も同調する動きを見せている。

他方、陸軍のダヌス将軍は、七月のゼネスト直後、反政府勢力にたいし早期民政移管に備えてプログラムを明確化するよう呼びかけた。数日後、ダヌスはこの発言を撤回するが、こうした発言がこれまで一枚岩と見られていた陸軍内部から出てきたことは、ピノチェト支持で固まっていた陸軍内部でも動揺が生じ始めている兆候ととることができよう。八九年問題をめぐる軍政内部のこのような不協和音は、反政府勢力への対応のあり方をめぐる問題ともからんで今後一層拡大していくことであろう。

去る九月四日,反政府勢力は、この日を「民主主義の日」と名づけ、ゼネストを含む大規模な抗議行動を予定していた。しかし、ピノチェトは完全武装の陸軍と警察軍を大量動員し、力によってゼネストを押え込んだ。だが、こうした一進一退をくり返しながらも、反独裁の流れは確実にその水位を増し,勢いを強めている.「チリの要求」も言うように、チリの人々は「自らの運命を自らの手に掴もうと決意している」。そして、「もっとも基本的な権利である、個人として、国民として、文化の担い手として生きる権利を行使」しようとしているのである.