チリの野党10党が全面的民主化のための国民協定」を締結(1985年8月26日)

 

去る八月二十六日、チリの野党十党は「全面的民主化のための国民協定」を締結した。これにより、八三年以降急速な展開を見せてきた反軍政運動は新たな段階に入ったといえる。

協定には、民主同盟(AD)に結集する七党に加えて、右派の国民連合と国民党、左派の社会党(マンドゥハーノ派)が署名したほか、社会主義プロック、MAPU、キリスト教左派などの左派勢力も支持を寄せた。右から左まで実に幅広い勢力が結集を見せたわけである。これに対し、「(左右)両極のみが除外」と『オイ』誌が報じた通り、ピノチェト支持派の極右政党二党と左派の共産党、革命左翼運動が反対した。

協定は三部からなる長文のもので、前文に続いて、第一部で議会・大統領選挙など将来の政治体制に関わる課題が、第二部で貧困克服、経済発展、緊縮経済、混合経済体制、労使間の合意、労働者のスト権強化などの経済・社会的課題が、そして第三部では「当面の要求」として例外事態解除、自由回復、大学の自治、亡命者帰国、政党活動自由化、選挙人名簿作成、選挙法制定などの要求が掲げられ、最後に、協定の内容に関する国民投票の実施を要求している。

ここからも分るとおり、今回の協定は、単なる当面の民主化要求にとどまらず民政移管後の政府大綱ともいえるものである。これまでピノチェトは、軍政の後に来るものは混乱状態であると国民の恐怖感を煽ってきたが、この協定により軍政以後の政治・経済体制の輪郭が具体的に国民の前に提示されることになった。しかも、この協定に野党の多数が同意した。いいかえれば、野党の多数が軍政後の民主政権の統一綱領を持つに至ったということである。このことの持つ意義は非常に大きい。ポスト・ピノチェトのいわば受け皿ができたからである。

さらに今回の協定締結は、ピノチェトの力による弾圧がもはや機能しないことをはっきりと示した。八三年以降の反軍政抗議運動の盛り上がりに対してピノチェトは、昨年十一月、戒厳令を布告して力による押えこみに出た。だが、内外の非難の前に、結局、半年後の今年五月に戒厳令を解除せざるをえず、しかも戒厳令によって反政府勢力の弱体化を果すどころか、それまで軍政支持派であった国民連合をも野党側に走らせる結果となった。そして、この国民連合をも巻き込む形で、今回の反政府勢力間の合意が実現していくことになるのである。

とはいえ、今回の協定の持つ意味は決して単純ではない。そこには様々な勢力の様々な思惑がこめられている。  まずカトリック教会である。今回の協定締結の立役者はフレスノ大司教だった。フレスノは、失業、貧困、抑圧に対する不満が暴動の形で爆発することを何よりも懸念した。政府が力での押えこみを図るかぎり、この爆発は不可避であり時間の問題である。こうして、昨年十一月の戒厳令布告後、フレスノは、政府と野党間の対話の基礎となる反政府勢力の合意を実現しようと、戒厳令の間に各党への打診と働きかけを積極的に行った。今回の協定の作成と締結は何よりもこうしたフレスノの努力によるところがきわめて大きい。

次に、共産党をめぐる諸勢力の思惑がある。右派勢力、およびキリスト教民主党などの中道勢力は共産党の非合法化には反対しているものの、軍政後の政権構想に共産党を参加させることには終始反対だった。それは、持前の反共主義によるだけでなく、合意に共産党が加わわれば、軍が交渉の席につくことはまず考えられなくなるからである。それゆえ、今回の協定締結にあたっても、これら諸党は、すべての反軍政勢力の結集を口にしながらも、本音では共産党の排除を望んでいた。

実際のところ、今回の協定締結に共産党は加わらず、右派・中道勢力の思惑通りに事は進んでいったわけだが、それには共産党の側の態度もあずかっていた。フレスノ側が共産党と接触した際、同党は、軍政下では武装闘争を含めた「あらゆる闘争形態」を行使するとの立場を堅持すると表明し、フレスノ側はそれならばそれ以上話合いの余地はないと接触を絶ったからである。協定発表後、共産党は声明を発表し、協定の積極面を認めながらも、協定署名者が八十年のピノチェト憲法を受け入れたと批判を加え、これは一部の左翼勢力が中道に引きずられて右派に屈服したものだと論評した。

現在までのところ軍事政権側は協定に積極的に応じる姿勢を見せていない。ピノチェトは九月十一日のクーデター十二年記念式典での演説で協定に否定的な評価を下した。だが、いまやピノチェトが明らかな守勢に立っていることは否定できない。また、政府部内でも、マッテイ空軍司令官などは協定についてのコメントを求められて「好感をもって見ている」と答えるなど、態勢は必ずしも一枚岩というわけではない。