「ピノチェト・ノー」の運動

 

チリよ、喜びはもうすぐやって来る (『文化評論』)

民衆のメディア国際交流報告(1991年12月1日 東京)

「ノー」の15分 (ビデオプレス)

 

チリよ、喜びはもうすぐやって来る

十月七日,サンティアゴ市最大のオヒギンス公園は数十万人の人波で埋った.二日前の国民投票で「ノー」が勝利したことを祝うサンティアゴ市民の大集会である.集会は「民主主義と和解をめざす喜びの祭」と名付けられていた.  

集会はその名の通り喜びにあふれた祭となった.何百,何千という旗が揺れている.赤青白三色のチリ国旗,青地に赤い矢印のキリスト教民主党の党旗,赤地に南米大陸がデザインされた社会党の旗,鎌とハンマーの共産党の旗,そしてカラフルな虹の下に大きく「NO」と書かれた「ノー」の運動の旗.色とりどりの風船が空に放たれる.チリ国旗のついたボール紙製の帽子をかぶり,虹の小旗をもった人々.道化師の扮装をした者,天使の格好をした者もいる.太鼓を叩く人.ラッパを吹きならす人.歌声が湧き上がり,人々は踊り出す.喜びで抱合う人々.様々なシュプレヒコールが即興であちこちから湧き起る.  

「われわれはあいつを鉛筆で追い出した!」  

「自転車に乗って行っちまえ!」  

最後のシュプレヒコールは,ピノチェトが選挙運動で安物の自転車をバラまいたことを皮肉ったものだ.  

特設された舞台には,多彩なアーティストたちが登場した.今日は演説は一切ない.ロック・グループをはじめ,シンガー・ソングライター,「新しい歌」のグループなどが次々に壇上にのぼって演奏した.漫談師は風刺のきいた笑い話を語った.聴衆はともに歌い,笑った.「ノー」の運動のスターとなったフロルシータ・モトゥーダは,すっかりお馴染みとなった大統領の肩章姿で登場し,「ノーのワルツ」を歌った.ピノチェトのものまねもあった.「チリ国民よ,今,私は空港から諸君に話している.パラグアイに向けて出発するところだ.政治家諸公に挨拶をおくる.なにがどうなったのかわからない.どうやらわたしは誰にも好かれていないらしい」.言うまでもなく,パラグアイはチリと並んで南米に残った最後の独裁国である.  

長い亡命生活を終えて帰国したインティ・イジマニ,キラパジュンも出演した.イサベル・パラは「人生よありがとう」を歌い,ティト・フェルナンデスは自由を歌った.   

それは誰もせき止められない河   

流れに逆らって泳ごうとした者たちは   

ついには奔流に流される  

集会の最後はキラパジュンの「不屈の民」だった.「統一した民衆はけっして敗れることはない」.数十万の聴衆が力一杯声をはり上げてこれに唱和した.  

一年前,いったい誰がこうした光景を想像できただろうか.いや,国民投票の直前まで,世界中でどれほどの人が「ノー」の勝利を予想したであろうか.いったい軍政独裁政権の下,権力側が仕掛けてきた国民投票に何が期待できるのか.どのように公正さが保障されるのか.何しろ,一九八〇年,新憲法草案が国民投票にかけられた際には,投票者数が有権者数を上回った地方もであったくらいである.  

今年のはじめの時点でなら,こうした疑念ももっともだった.国民投票に向けてピノチェトの筋書通りに進んでいたからである.しかしそれからわずか九ヵ月後,ピノチェトは惨めな敗北を喫っし,反政府勢力はまぶしい初夏の青空の下で勝利を祝っている.この九ヵ月の間に何が起ったのか.  

それは「ノー」の側での創意性が最大限に発揮された九ヵ月だった.  

まず,反軍政勢力の統一が実現した.八八年1月末,右派から左派までの十四政党(後に十六政党に拡大)が,「ノー」の勝利のため統一して運動するとの協定を結んだのである.「ノーをめざす運動本部」が結成され,さっそく行動が開始された.  

まず,有権者の選挙人登録を最大限すすめることが必要だった.有権者が実際に投票の権利を持つためには,事前に選挙人登録を行なうことが定められている.ピノチェト支持派は積極的に登録するであろうし,批判的な者は逆にあまり積極的ではないだろう.当初,選挙人登録の見通しについては悲観論が強かった.約八〇〇万人の有資格者のうち,最終的な登録者数はせいぜい三五〇万人だろうと予想されていた.だが六〇〇万人を達成すれば「ノー」の勝利は間違いないだろう.  

「ノーをめざす運動本部」は登録推進キャンペーンをすすめた.チリ全土で,各地区ごとに人々がいくつもの小グループを編制し,地区の家を一軒一軒まわって登録を働きかけた.キリスト教民主党員も急進党員も社会党員もあるいは無党派の人々も,党派に関係なく一緒にグループを組んで行動した.過去には激しく対立しあった人々が,文字通り腕を組んで活動した.登録は八月末で締め切られた.登録者数は七四三万人,有資格者の九割以上に達していた.誰もが予想しなかったほどの高い数字である.  

つぎに運動が公平に行なわれるための条件を創り出す必要があった.戒厳令こそ解除されていたものの,一九七三年以来,チリは十五年間にわたって非常事態令の下にあり,集会の自由,報道の自由は大きく制限され,いまだ五〇〇人近くの政治家,芸術家が帰国を禁止されていた.テレビは政府の厳しい統制下にあり,ニュース番組は軍政の宣伝番組と化していた.「ノー」の側は,非常事態令の解除,すべての亡命者の帰国許可,テレビの平等な開放などの条件を整えるよう要求した.これらの条件が満たされない状況下で行なわれる国民投票の結果は認められない,と政府を牽制した.  

政府は国民投票の一月前になってようやく一連の自由化措置を取った.非常事態令が解除され,亡命者の帰国が許可された.これによりアジェンデ未亡人をはじめ旧人民連合の幹部,インティ・イジマニ,キラパジュンの音楽グループなどが相次いで帰国し,「ノー」の運動に合流した.テレビを「ノー」の側にも公開するよう定めた法律が制定された.テレビ局が放送時間を毎日三十分間ずつ,信任派(「シー」)と不信任派(「ノー」)の宣伝に無償で開放することが義務づけられたのである.これにより「シー」と「ノー」のそれぞれに十五分が割り当てられることとなった.  

投票と開票そのものの公正さを確保するための努力も払われた.そのために,「ノー」の側の立会人をすべての投票箱におくことがめざされた.投票箱の数は全国でおよそ二万三千にのぼる.だから,最低二万三千人の立会人を組織し,訓練しなければならない.  立会人を置くためには政党登録が必要だったが,社会党ヌニェス派は独自の方式を編み出した.国民投票のためだけに独自の政党を結成するのである.こうして「民主主義をめざす党」(PPD)が生まれた.同党は,民主主義の復活の一点で一致するあらゆる立場の人々を結集する場となった.同党の党員には無党派層をはじめ様々な政党の党員が,いずれも個人の資格で参加している.  

政府による開票結果のごまかしを防ぐために,「ノー」の側は独自の開票結果集計システムを創り上げた.各投票箱の立会人は開票結果が出るやただちにそれを伝令を通じて各地の連絡所へと集中する.そしてそこからサンティアゴの「ノーをめざす運動本部」の集計センターへと連絡する.集計作業をのために,本部にはコンピュータが並ぶ集計室が特設された.政府による不正は,不可能とはいえないまでも,著しく困難となった.  

こうして国民投票の公正な実施を保障するための体制が一歩一歩創り上げられていった.そうした中,「ノー」の勝利にとって決定的な役割を果したのが,九月の選挙期間中一月近くにわたって行なわれたテレビでの宣伝放送である.そこでは,「ノー」の運動が持っていた創造性が十二分に発揮されていた.  

テレビの画面一杯に,色鮮やかな虹のアーチがかかる.その下に,大きく「NO」の文字が浮び上がる.虹は「ノー」の運動のシンボルマークだ.カラフルな虹は希望と喜びを象徴している.と同時にそれは,「ノー」に結集する反政府諸政党の複数性,多様性の象徴でもある.やがて,コーラスが聞えてくる.「ノー」の運動の主題曲歌,「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」だ.手拍子とともに,リフレインで歌が始まる.   

チリよ,喜びはもうすぐやって来る   

チリよ,喜びはもうすぐやって来る   

チリよ,喜びはもうすぐやって来る  

歌をバックに,画面にはチリの様々な人々が映し出される.登場する人たちは年齢も,職業も,服装も多様だ.いずれも,どこにでもいる普通の人々である.どの表情も明るく,誰もが笑顔である.セーター姿の学生,フライパンを手に,虹のデザインのTシャツを着たコック,ジャズダンスを踊っているレオタード姿の若い男女,ボクサー,若い女性,母親,子供たち,老人,ヘルメットを被った鉱山労働者,経営者,手にしたスパナで歌に合わせて拍子をとっている労働者.そして最後に,様々な服装をした多様な職業の人たちが,数人ずつのグループごとにまとまって,歌のリフレインに合わせて手拍子を打ちながら登場してくる.  

続いて,「ノーのワルツ」の原曲となったヨハン・シュトラウス作曲「美しき青きドナウ」のメロディーが流れる.軽快なワルツのリズムにのせて,ピノチェトをはじめとする陸海空三軍の司令官と警察軍長官の姿が順番に映し出される.八月三十日,候補者決定の会議に出席するため国防省の建物に入っていくときの映像だ.一人一人の映像に,以前彼らが語った言葉がナレーションでかぶせられる.   

スタンゲ警察軍長官 「共和国大統領の職を占める人物は司令官を兼任できない」   

マテイ空軍司令官 「(全国民合意の候補をという)司教会議の声明を注意深く読んだが,非常に興味深いと思う.われわれ司令官の会議で,もちろん私は考慮に入れるだろう」   

メリーノ海軍提督 「候補者は,できれば五十四歳位の若い人物で,民間人でなければならない」   

ピノチェト陸軍司令官 「はっきりとお答えしたい.私は一八八九年には引退するだろう」  

ナレーションは続ける.  

「二時間足らず後に,チリ国民への声明が出された.その内容は国民にはすでに分かっていた.スタンゲ将軍の言葉にもかかわらず,指名されたのは陸軍司令官だった.マテイ将軍の言うところとは異なって,司教の呼びかけは考慮されなかった.メリーノ提督の言葉とは違って,指名された人物は若くもなければ民間人でもなかった.そして引退すると語ったこの人物は一九九七年まで留ろうとしている」.  

ピノチェトの写真が出る.その上から画面いっぱいに大きく「ノー」の文字が書かれていって,ピノチェトの姿は消されてしまう.  

「ノー」の代表をつとめるエイルウィン・キリスト教民主党総裁が語りかける.  

「われわれチリ国民は真実を望んでいます.人権の尊重を望んでいます.経済成長を望んでいます.社会正義を望んでいます.ずべての人間が参加する真の民主主義を望んでいます.残念ながら,ピノチェト将軍が立ちはだかっています.過去へ後戻りすることへの恐れ,誰も望まない対立状況へとチリが後戻りすることへの恐れに乗じて彼は支配しています.われわれチリ国民は平和を望んでいます.そして平和は正義と尊敬と共存の上になりたつことを知っています.チリ国民は戦争状態の継続を望んではいません.戦争の論理は圧倒的多数によって拒否されています.『ノー』は平和への意思であり,全員の参加にもとづく共存へと向けて前進することを意味しているのです」.  

反ピノチェトのデモ,鍋叩きの記録フィルムが流される.  

貧しい身なりの一人の老婆が紅茶とパンを買いに店に入ってくる.でも紅茶を箱で買う余裕はない.ティーバッグをバラで二袋求めようとする.でも財布の中には一袋分の金しかない.  

ナレーションが締めくくる.「だから,私たちはみな『ノー』を投じる」  

二十七日間にわたる「ノー」のテレビ宣伝がこうして始まった.九月五日から十月一日まで毎晩,「ノー」のメッセージがブラウン管を通じて,北から南までチリ全国の家庭に送り届けられた.十五年間の軍政の中で初めて,チリの反政府勢力はテレビを通じて自らの主張を伝える機会を手にした.時間は毎晩わずか十五分間だった.「ノー」の番組のキャスターが言ったように,それは「十五年間の中での十五分間」であり,確かにあまりにも短かった.だが,この十五分間が,十五年間におよぶ軍事独裁体制を大きく揺さぶった.  

資金的,時間的な面から見れば,「シー」が圧倒的な優位に立っていた.「シー」の番組は政府の広報機関である「全国社会通信局」(DINACOS) の直接指揮の下に,制作の大半が国営テレビ局によって行なわれた.巨額の国家予算がバックにあり,チリで最新式のビデオ制作設備を利用できた.しかも,「シー」と「ノー」双方に認められた無料宣伝の三十分以外は,まったくの「シー」の一人舞台だった.「ノー」の側の有料広告は一切認められなかったのに対し,「シー」の宣伝広告は通常番組の合間にひっきりなしに放送された.また,ピノチェトの演説がしばしば特別番組として長時間放送されたし,ニュース番組は政府の立場の宣伝の場でしかなかった.  

だが,「ノー」の側にはすぐれた才能をもつ有能な制作スタッフがいた.「ノーをめざす運動本部」は,テレビ宣伝が可能になることを予想して,すでに数ヵ月前から番組制作チームを編制していた.このチームには,プロデューサー,ディレクター,俳優,音楽家,ジャーナリスト,技師,脚本家など百人を下らない映画,演劇,マスコミ,広告業界の専門家たちが参加した.その中には第三回ラテンアメリカ広告祭で四つの賞を獲得した著名な広告人も加わった.いずれの人々も無償で協力を申し出た.  「ノー」の番組の成功の大きな要因となったのは,チリの様々な人々の表情をとらえた映像とともに流れる「ノー」のテーマ曲,「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」だった.この曲と映像には多くの人々の知恵と才能が注ぎ込まれていた.  

まず,歌詞について言えば,これは誰か一人の作詞者が個室の中で自分の頭だけで創作したものではなかった.使われている表現や言葉はいずれも,事前の調査にもとづき国民の間の気分や感情を充分に検討分析する中から選び出された.調査が示すところによれば,人々が求めているのは戦いではなく融和であり,何よりも嫌悪されていたのは権力の横暴,専横だった.そこから,「専横はたくさんだ」,「今が流れを変える時」,「尊厳を取り戻す」,「すべての人のための祖国」,「平和という武器で暴力を打ち負かす」といった歌詞が生まれてきたのである.  

検討の基になった調査は,政治的理由により大学を追われた優秀な学者,研究者たちがこれまで実施してきたものだった.これらの人々は民間の研究所や調査機関で働いており,以前から,チリの現実の様々な諸問題に関して研究,実態調査を行なってきていた.こうして蓄積された研究,調査の成果は「ノー」の運動の方針を決定する上で堅固な土台を提供したが,「ノー」のテレビ宣伝もこの土台の上に制作されたのだった.「ノー」の宣伝は,現代的な広告の手法を巧みに取り入れていたが,単なるムードとかフィーリングにのみ頼っていたのでは決してなく,現実の綿密な調査と分析によって裏付けられていたのである.  

歌が完成すると,今度はこれをどのようにして映像化していくのかが検討された.結局,十一人のディレクターがそれぞれの個性を生かして,チリの様々な人たちの表情を独自に撮影した.こうして撮影された映像は二分二十秒に編集された.スタイルの違うディレクター十一人が撮影したものでありながら,全体の仕上りは見事なものだった.完成までに二十五日間かかった.すべてが無償の仕事であり,唯一かかった費用は現像代だけだった.映像に登場する人々はプロの俳優ではなく,ふつうの人々だった.その表情は作り物ではなく自然だった.そのことが映像に説得力を与えていた.  

十五分の番組の中には,ニュースのコーナーも設けられていた.これは「テレアナリシス」社のチームが担当した.同社は反政府系の雑誌社が設立したニュース・ビデオ制作会社である.テレビのニュース番組が政府の宣伝の場と化していた中で,カウンター・メディアとしてビデオを利用し,独自のニュース番組を制作する目的で設立された.制作されたニュース番組は,ビデオ・カセットの形で労働組合などの組織を通じて配給されていた.七十年代末に軍事政権がすすめた輸入振興により大量のビデオ機材が輸入されたが,それがこうした形で反政府運動の重要な武器となっていたのである.  

番組制作の過程でたまたま,テレアナリシス社の一人が,過去のビデオの中にピノチェトの演説があるのを思い出した.それは,国民投票ではなく自由な大統領選挙を反政府勢力が要求していた時期のもので,ピノチェトはそこで次のように演説していた.「(国民投票が)もしお気に召さないのなら,ノーと投票すればよろしい.そうすれば,自由な選挙ということになる」.自由な選挙実現のためにはノーを投ぜよとピノチェト自らが呼びかけたこのビデオはさっそく放送で使われた.  

こうして,芸術家,知識人,ジャーナリストの間の見事な協力関係によって「ノー」の番組が制作された.チームは毎日毎日,状況の展開に合わせて番組を制作していった.そして放送の三十六時間前にテープが全国テレビ会議に引き渡され,そこから各放送局へと送られた.そして,九月五日,第一回の放送が開始されたのである.  

「シー」と「ノー」の無料宣伝番組は,夜が早いチリ人の大半がテレビを消す十時四十五分以降という遅い時間帯に設定された.「ノーをめざす運動本部」はこれに抗議したが聞き入れられなかった.視聴率は低いのではないかと懸念された.  

そうした懸念は,放送が始まるやたちまち吹き飛んだ.「ノー」の放送は大きな反響を呼んだ.放送の翌日,街頭で,商店で,タクシーの中で前日の番組が話題になった.日が経つにつれて,新しい現象が急速に広がっていた.夜の三十分間,家族そろって,友人同士で,あるいは近所の人たちと一緒に皆がテレビの周りに集まり,「シー」と「ノー」の番組の出来ばえを比べながらワイワイ批評し合うのが習慣となった.わざわさレストランに集まって皆で一緒に番組を見る光景も見られた.  

十五分の短い放送にもかかわらず,いやまさに十五分という短い時間だったからかも知れない,「ノー」の番組は絶大な効果を生んだ.皮肉なことに,軍政側がこれまで権力と資金力にものを言わせてテレビ放送を独占してきたことが裏目に出た.十五年間にわたってブラウン管からは軍政側の決まり切った宣伝文句しか聞こえてこなかった.その同じ画面から,突然,それまで沈黙を強いられてきた声が,豊かなイメージ,美しい色彩,新鮮な表現でとびこんできた.十五年間,テレビの世界には,弾圧も,拷問も,殺害も,行方不明も,国外追放も,亡命,貧困も一切存在しなかった.しかし「ノー」の番組は視聴者一人一人が抱えている問題を正面から取り上げた.十五年間で初めて,人々は自分たちが蒙っている問題をテレビの画面に見た.それまで自分のまわりの狭い範囲だけで語られていたことが,おおやけにテレビの画面で取り上げられるのを見た.そして自分たちが一人ぼっちの存在ではないこと,自分の問題が他の人たちの問題でもあることを確信したのである.  他方,「シー」の番組はといえば,資金面での圧倒的優位にもかかわらず,出来上がった番組の質は完全に「ノー」に劣っていた.  

初日の「シー」のプログラムでは,まず,「『ノー』が支配する国」として人民連合時代の暴力事件,物資不足,行列などのフィルムが流された.次に「勝利の国チリ」として,過去十五年間の経済発展が強調された.「行動する大統領」と名付けられたコーナーでは地震の被害状況を視察するピノチェトが映された.「御存知でしたか」のコーナーでは近年めざましい成長をとげた果物の輸出額が示され,「あなたが質問し,政府が答えます」では,ブッキ蔵相が若者たちに輸出の重要性を説いた.あとは,「シー」の政党代表者たちとのインタビューである.  

初日の番組を見て,「シー」陣営の中心勢力である国家革新党は落胆の色を隠さなかった.自分たちも登場した「シー」の番組が,動きと迫力に欠けていたからである.それに対して,「ノー」の番組には「夢と希望」があることを同党幹部は認めざるをえなかった.  

「シー」の番組では輸出の増大が現政権の成果として強調されたが,同党幹部はこれがむしろ逆効果にならないかと懸念した.ほとんどの視聴者にとって輸出の増大など縁遠い話であり,むしろそれが自分たちの日常生活に反映しないことをあらためて思い知らされることでかえって逆効果になりかねない,というのである.  番組に登場した同党のホープ,アラマン幹事長の口調も力強さに欠けていた.テレビ・カメラは,浮かない顔のアラマンの表情を忠実に写し出してしまった.もともと国家革新党はピノチェトの擁立に積極的でなく,アラマン自身,候補者がピノチェトに決まったことで「シー」の票がかなり減るだろうと公言していたからである.  

「シー」の番組の流す映像は,いずれもまったく新鮮味がなかった.人民連合期の混乱の模様を伝える映像は,反人民連合キャンペーンとしてこの十五年間連日のように繰返し繰返しテレビで流されてきたのと同じものだった.ピノチェトの行動については,ふだんのニュース番組が毎日,これまた飽きるほど放送してきた.さらに,「ノー」の番組では,進行役をつとめるキャスターが画面に登場し,視聴者の一人一人に語りかけるような口調で話しかけたのにたいし,「シー」の場合は,ナレーターは声だけの出演でまったく画面に顔を見せず,親しみやすさを欠いていた.  

「シー」の番組が劣っていることは「シー」の支持者も認めるところだった.第一回目の放送が行なわれた翌日の九月六日,ピノチェトは支持派の企業家たちをモネダ宮での昼食会に招き,運動のすすめ方を議論した.その際,企業家たちは「ノー」の方が芸術的に勝っていたとし,「シー」の番組の内容の改善をピノチェトに進言した.早速,改善が試みられた.テレビ界では,「シー」の番組の質向上のために協力してくれるディレクターを,五十万ペソから百万ペソという多額の報償金で募っているとの噂も流れた.ともかく,数日後の番組からは新たにキャスターが起用され,画面のテンポにも改善のあとが見られた.もっとも,その効果となるといささか疑問だった.なにしろ,新らに起用されたキャスターが過去に麻薬取引で逮捕された経歴の持主であることが判明したりしたからである.  

「ノー」の番組の十五分間はいくつものコーナーに分けられていた.ニュース,インタビュー,記録映画の映写,証言,反政府指導者の談話などが盛り込まれ,その合間にコントやアニメが挟まれていた.それらのコーナーを一つに結びつけ,全体を進行させる役目を担ったのはキャスターのパトリシオ・バニャードスだった.彼は落着いた口調で視聴者に語りかけ,見ている者に親しみと信頼感を感じさせた.  

バニャードスはチリでのテレビ放送開始当初からアナウンサー,キャスターとしてテレビ界で働いていた人物である.しかし軍事政権に批判的な立場をとったため最近ではブラウン管から姿を消していた.  一九八〇年,新憲法をめぐる国民投票の際,反政府派の反対集会でフレイ元大統領が演説を行なった時のことである.これを報じたニュース原稿をテレビ局の副社長が書き換え,フレイは共産主義者でありケレンスキーだとの一節を入れた.バニャードスはこの部分を読むことを拒否し,解雇通告された.しかし入社時に交わした契約書の中に,根拠なく他人を侮辱し攻撃するような文章は一行たりとも読まないとの一項を入れていたため,その時は一週間でもとの職場に戻った.  

しかし一九八三年,彼はついに失職した.それは翌日の新聞の見出しを紹介する番組だった.その日のトップはカセレス蔵相が新たな借款を獲得して帰国したというニュースで,どの新聞の見出しもこれを賞賛していた.バニャードスはこれらの見出しを読み上げた後,最後にこう付け加えた.「実のところ,この新しい借款をこんなに嬉しがるなんてどうも解せません.この金はいつか私たちが返さなければならないのですから」.十二時間後,彼は解雇された.  

「ノー」の番組の中で,キャスターのバニャードスは言う.軍政の下,これまでチリのテレビは美しいチリだけを描いてきた.しかし,それだけが現実ではない.  画面にはポブラシオンが映る.ポブラシオンとは,チリの都市の周辺部を取り囲むようにして存在している低所得者層の居住地区のことである.首都のサンティアゴ市では,住民の三分の一以上がポブラシオンに住んでいると言われている.  

木造の堀立小屋の中で,ポブラシオンの住民が白黒テレビを見ている.テレビはちょうど政府の宣伝番組を放送しているところだ.一日中放送の合間に流されている政府の広告である.ポブラシオンの粗末な狭苦しい小屋の中に,テレビのナレーションが流れる.「チリでは貧困が減少しました.今の政府ほど住民の生活向上のために資金を投入した政府はありません」.  

「ノー」の番組は,十五年間にわたってテレビが無視してきたチリの抱える様々な問題を取り上げた.  画面に名前を書いた札をもった女性が現われる.「わたしはアルフレド・ロハスの母親です.息子は一九七五年三月四日に逮捕されて行方不明になりました」.別の女性の姿と声がこれに重なる.「私はニコメルシオ・セグンドの姉です.弟が逮捕されて行方不明となったのは……」「私の夫エンリケ・ガルシアは……」.無数の顔と声が次々に重なり合っていく.いずれも,逮捕されたまま消息を断った肉親を持つ女性たちである.  

部屋の中に女性たちが集まっている.その前で一人の女性が,別の女性のギターを伴奏にたった一人でクエカを踊っている.クエカはチリの民族舞踊で,本来は男女が組になって踊るものだ.だから「クエカ・ソラ」(一人で踊るクエカ)は,一緒に踊るはずの男性が今はいないというメッセージである.それは,亡命した恋人,投獄された肉親,行方不明になった夫を思っての,女たちの沈黙の抗議をこめた踊りである.  

ロック歌手のスティングがバルセロナで開かれたコンサートで歌っている場面が映し出される.スティングはスペイン語で歌っている.曲の題名は,「彼女は一人で踊る」.クエカ・ソラを見て,スティング自身が作曲した曲である.   

彼女らは行方不明者と踊っている   

彼女らは死者と踊っている   

彼女らは見えない人と踊っている   

彼女らは父親と踊っている   

彼女らは息子たちと踊っている   

彼女らは夫と踊っている   

彼女らは一人で踊っている   

彼女らは一人で踊っている  

ある日の番組で一人の女性が登場した.彼女は,一九七三年のクーデター直後,治安機関によって家から誘拐され,拷問を受けたことを証言した.「私は多くの拷問を受けました.その全部は語ることはしませんでした.こどもたち,夫,家族,そして自分自身を大事に思ってのことです.実際,肉体的な拷問は消し去ることができました.でも,精神的な拷問はそれほどたやすく消し去ることができるとは思いません.私は忘れることができません.まだこころの中に刻み込まれているからです.ですから,私は『ノー』を投じます.明日という日に,民主主義を取り戻し,わたしたちすべてが自由で,憎しみなしに,愛と喜びをもって生きていけるよう,私を含め全国民が『汚れなきチリは青空』と歌うことができるようにです」.  

その時,横から一人の男が画面に出てきた.その瞬間,番組を見ていた人たちは誰もがあっと驚いた.男が,チリで人気ナンバーワンのサッカーチーム「コロコロ」の元スター・プレーヤ,カルロス・カスリーだったからである.カスリーは母親に代って口を開いた.「だから,私は『ノー』を投じます.まもなく訪れる母の喜びは私の喜びですから.母の気持は私の気持ですから.明日という日に,自由で,健やかで,兄弟愛にあふれ,わたしたちすべてがお互いに分かち合うことのできる民主主義の下で生きることができるのですから.そして,この美しい婦人は私の母なのですから」.  

「ノー」の番組は,チリのテレビが検閲制度の下に置かれていることを自ら実地に証明することにもなった.九月十二日,「ノー」の番組の放送時間になると,テレビ画面には,その夜の「ノー」の番組は放送されないとの文字だけが出た.番組を管理していた全国テレビ会議が放送禁止処分を下したからである.  

禁止の原因となったのは,その日放映予定の「ノー」の番組のなかで,国家情報局(CNI)が拷問を行なっていることを現役の判事が証言していたからだった.全国テレビ会議は,禁止の理由として,法により判事の政治関与が禁止されていること,選挙宣伝に関する規定で国家機関に対する侮辱が許されていない点をあげた.だがこの判事の証言は以前に録画されたもので,海外ではすでに公開済みのものだった.また軍政寄りの判事の政治的発言はこれまでもしばしばなされたが,何の規制も受けてこなかった.放送禁止の真の理由が,チリで拷問が行なわれていることを現職の判事が証言したという衝撃的な事実にあったことは明らかだった.  

証言の中で,ガルシア判事は,CNIが行なった拷問事件五十件について調査中であることを明らかにし,拷問を受けた者の身体にどのような傷跡が残っていたかを語っていた.「(自分の担当した事件の件数は)五十人以上だ.全員CNIで拷問された.CNIの建物においてCNI部員によって拷問された.絶え間なく拷問された者もいる.拷問は一日中続き,夜通しで午前三時か四時まで続き,独房のベッドにボロのように投げ出される.数時間休息させて,それからもう一度始まる」.  

放送中止のテロップが出ると,サンティアゴ中で抗議の鍋叩きの音が鳴り渡った.  

亡命の問題も取り上げられた.両親の亡命先のスェーデンで育った子供のパウロが登場する.画面から語りかける彼の言葉はスペイン語ではなくスウェーデン語である.今,パウロは両親とともにチリに「帰国」する.長い間祖国を離れ,亡命していた人々が再びチリの社会に復帰することは難しい.職業もなければ,家もない.その上に子供たちの問題がある.物心ついてから,あるいは生まれてからずっとこれまで外国で生活してきた子供たちは,チリに帰っても自分は外国人であると感じている.親しかった友達と別れ,外国なまりのスペイン語を話さなければならない.  

夫が獄中死をとげ,自分自身も亡命の苦労をなめたモイ・デ・トアが自分の経験を語る.彼女は言う.私たちは苦しい経験をしてきました.これ以上,チリの人々が亡命の苦しみをなめることがあってはなりません.今の政権が倒れた時,かつて自分たちを国外に追放した人々が亡命することも私たちは望んではいないのです.  

「ノー」の番組の特徴は,ユーモアである.どんな深刻な問題を取り上げるときでも,ユーモアは忘れられていない.  

八月三十日の大統領候補指名後,ピノチェトはイメージチェンジを図った.非妥協的な厳格な軍人から,誰からも愛される物分りのよい好好爺へと変身を試みたのである.ピノチェトは軍服を脱ぎ,背広姿で現われた.ワイシャツには大胆な縞柄のもの,胸には大きな真珠のネクタイピンを,とファッションにも気を配った.表情,語り口もつとめて穏やかなものとなった.  

「ノー」の番組は,この変身をユーモアたっぷりに皮肉った.ピノチェトがカメラに向かってテレビ演説をしている画面が出る.その画面は左半分と右半分とを合成したものだ.左半分には軍服姿のピノチェトが,右半分には背広姿のピノチェトが映っている.ただ画面の左半分と右半分とはズレており,なかなかうまく一つの絵にならない.画面の左右が何とか一つに合うようにと,しきりに上下にうごかして調整が試みられている.調整している人のものらしい声が聞える.「ちゃんと合うかなあ,合わないかなあ」.しばらく調整が試みられた後,また声がする.「合わないな,ああ駄目だ,やっぱり合わない」.  

ネクタイをしめている男の上半身が映る.首から上は見えない.ナレーションが流れる.「背広を着ても民主主義者は作れない」.  

政治的,社会的なメッセージの間にはコントが入る.  

一人の男が女に言い寄っている.   

男 「うん(シー)と言ってくれよ.いいじゃないか.もちろん,うん(シー)だろう?」   

女 「いや,いや,いやよ,いやだってば!(ノー,ノー,ノオー,ノオオー)」   

男 「なんてこった,おれだってもうゴメン(ノオオー)だ!」  

「ノー」が依拠しているのは事実の持つ力である.「ノー」の番組を貫いているのは,チリの本当の姿を客観的に,事実をもって語らしめていくという明確な姿勢である.  

「ノー」の番組はいたずらにスローガンを叫ばない.「ピノチェト政権はブルジョアの政府だ」と告発する代りに,ポブラシオンの状況を映像で描き出す.「ピノチェト政権は大嘘つきである」と絶叫する代りに,粗末な堀立小屋でポブラシオンの住民が見ている白黒テレビから政府の宣伝番組が流れてくる場面を見せる.  

「ノー」の口調は絶叫型でも告発型でもない.「独裁打倒」と叫ぶ代りに,「ノー」は「チリよ,喜びはもうすぐ来る」と呼びかける.  

何人もの警官が一人の青年を警棒でメッタ打ちしている記録フィルムの映像がスローモーションで出る.青年にスポットがあたって画面がストップし,ナレーションが入る.「彼はチリ人だ」.次いで警官にスポットがあたって,同じナレーションが入る.「彼もまたチリ人だ」.そしてこう続ける.「どちらも自分の信念のためにたたかっている.これらの人々は平和に生きる権利がある.自分の信じることのために働く権利がある.チリ人が互いに怖れを感じることがなくなった時,祖国は偉大になるだろう」.女性の声が続ける.「私たちは和解を望んでいる.だれもがチリ国民だ」.  

警察の弾圧を声高に非難する代りに,だれもが傷つけ合うことなく平和に生きることのできる社会を実現するよう呼びかけている.そこにあるのは,自分の視点を絶対化してその正当性を言い張る態度ではなく,自分の立場を客観視しつつ,その深く信じるところを誰の心にも響く言葉で説いていく姿勢である.そこには固い信念と柔らかい心がある.  

「ノー」の番組を貫いていたのが喜び,明るさ,希望であったのとは対照的に,「シー」の番組を支配していたのは恐怖,暴力,死であった.「シー」の側は視聴者に「ノー」への恐怖心を植付けようと躍起になっていた.「ノー」が勝てば暴力と混乱に引きずり込まれる,という恐怖キャンペーンである.「ノー」の番組がカラフルな虹の色に象徴されるとすれば,「シー」の番組の基調となったのは陰気な灰色と血の色だった.例えば,虹の色から黒と赤の二色(これは極左を象徴する)に変った「ノー」の旗が映り,上方から垂れてきた血で画面が真っ赤に染まる,といった工合である.不気味な黒いマントに身を包み大きな鎌を持った男とか,覆面をした男たちに追われて必死に逃げる子供連れの母親の姿とか,まるで安手のホラー映画のようなシーンがこれでもかこれでもかと流された.  

デマにも事欠かなかった.「シー」の番組は,人民連合時代の混乱状況を示す映像をくりかえし流した.その中に,大統領官邸のモネダ宮前で暴力行為を働く暴徒の映像があった.五十人ほどの覆面をした男たちが車をひっくり返し,路上でタイヤを燃やし,パンフレットをばらまき,赤と黒の旗を振りながら,シュプレヒコールをあげている.それにナレーションがかぶさった.「あなたが投票するとき,もしノーが勝てば最初の犠牲者はあなたの家族の一員かもしれないことを考えてごらんなさい」.しかし,これは始めから底が割れていた.このシーンは,放送の一月前,警官に警備されながらモネダ宮の前で広告会社によって撮影されたヤラセであった.そして,そのことはとっくに反政府系新聞「ラ・エポカ」紙によって暴露されていた.同紙の記者が撮影現場の近くに駐車してあった二台の乗用車のナンバー・プレートから,制作者が,これまでもチリ政府の宣伝番組をたびたび請け負ってきたアルゼンチン人の広告業者であることを突き止めたのである.  

嘘はこれに限られなかった.元プロサッカー・チームのスタープレーヤーだったカスリーの母親の証言が放送された数日後の「シー」の番組に,彼女の家の近くに住むという三人の女性が出演し,彼女の話しはまったくのでたらめだと口々に語った.しかし,これもすぐに真相が判明した.住民たちが,問題の三人の女性が地区ではまったく見慣れぬ顔であり,近所に住んでいるというのはまったくの嘘であることを新聞記者に証言したからである.しかも,三人のうちの一人は以前,学校の父母会の金を横領した前歴のあることも明らかとなった.カスリーは,「ノー」の貴重な十五分をこんなことへの反論で無駄にしないで欲しいと語った.彼は言った.「ノー」の十五分は「明日に向けて平和と希望を求める喜びの時間なのですから」.  

こういう例もあった.夫が陸軍将校だったという若い女性が小さな子供と一緒に登場した.彼女は涙ながらに語った.この子は父親を知りません.パパと言ったことがないんです.父親はこの子が生まれる前に爆死しました.バラバラになり遺体も何も残りませんでした.私たちは人間です.他の人間をこんな風に破壊するなんて人間のすることではありません...二日後,「ラ・エポカ」紙が彼女とのインタビューを掲載した.その中で,彼女は夫の死が,放送でほのめかされていたように反政府テロ組織のテロ活動によるものではなく,勤務中のヘリコプター事故によるものであり,事故の原因は機械の故障であったことを認めた.どうして番組の中でそのように明言しなかったのかと記者に聞かれて,彼女は「言うまでもないと思ったから」と答えている.  

興味深いのは,「ノー」の番組が,これら「シー」の番組のデマへの反論を一切おこなわなかったことである.真相の解明は反政府系の新聞が独自の調査にもとづいて行なった.「ノー」の番組はひたすら,自分たちが伝えたいメッセージを説得的に送りだすことに専念した.そこで語られる衝撃的な事実,しかしユーモアと明るさを失わない語り口,番組を通じて流れる豊かな人間性は,それだけで,「シー」の側の低俗さへの何よりも雄弁な反論となった.  

「ノー」の番組のこうした明るさ,喜び,豊かな人間性は「ノー」の運動全体を特徴づけるものであった.「ノー」の運動のシンボルとなったのは,十六政党の代表をつとめるキリスト教民主党のエイルウィン総裁ではなく,シンガーソングライターのフロルシータ・モトゥーダだった.彼は「ノー」の運動の主題曲の一つとなった「ノーのワルツ」の作詞者であり,あらゆる場で自らこの歌を歌った.ヨハン・シュトラウス作曲の「美しき青きドナウ」のメロディーで「チリ中がノーと言い始める」と歌い始めるこの「ノーのワルツ」は,軽快なリズムにのせて「ノー」を叫ぶことで,本来は否定語である「ノー」という言葉に明るさと希望を与えた.  

「ノー」の集会があるたびに,モトゥーダは大統領の肩章を身につけ,上は燕尾服,下はタイツ姿というコミカルな格好で舞台に上がり,女声コーラスをバックに,ユーモアたっぷりにこのワルツを歌った.九月四日の「ノー」の大集会では,母親のアジェンデ大統領未亡人と一緒に帰国したばかりのイサベル・アジェンデが,社会党幹部で「民主主義をめざす党」(PPD)党首のリカルド・ラゴスを相手に歌にあわせて「ノーのワルツ」を踊った.モトゥーダは他にもピノチェトを皮肉った歌を色々つくった.いずれも,サンバをはじめとする軽快なリズムの曲である.サンバのリズムで「あの人は大統領なのに外国訪問に出かけることがない.誰も迎えたがらない.だれも会いたがらない」とやるのである.これらの歌を集めて売り出されたカセットはあっという間に売り切れてしまった.  

「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」にしろ,あるいは「ノーのワルツ」にしろ,「ノー」の運動の主題曲となった歌は,歌詞の面でもメロディーの面でも,人民連合のテーマ曲だった「ベンセレモス」とは対照的である.その明るさ,ユーモアは,「ベンセレモス」の「祖国を裏切るよりわれらは死を選ぶ」といった歌詞に見られる気負った悲壮さとは異質のものだ.  

「ベンセレモス」から「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」へ.  

十五年間の軍政はチリの社会,人々の意識,政治のあり方,社会運動の性格,発想を大きく変えた.「ベンセレモス」から「チリよ……」への変化は,そうした大きな変化の表われである.しかし,この変化自体について語るための紙数はもう残されていない.ただ,軍政下の「暴力と死の文化」の中で,チリの人々が,以前にも増して色鮮やかな「生の文化」の花を咲かせたことだけは分っていただけたであろう.  

国民投票は「ノー」の勝利に終ったが,「ノー」の番組の制作チームはまだ解散していない.「ノー」の勝利の後,次の焦点は来年十二月に予定される大統領選挙へと移った.「ノーをめざす十六政党」は「民主主義をめざす十六政党」へと衣がえし,統一候補擁立の準備を進めている.統一候補が決定されるやただちに,制作チームもまたその活動を開始するはずである.

 

民衆のメディア国際交流報告(1991年12月1日 東京)

今日ご覧に入れるのは,南米のチリの映像です.

チリは1973年から,昨年1990年3月まで軍事政権の支配下にありました.

今日のテーマは,そうした軍事政権のなかで人々はどのようなメディアを通じて,どのようにして自分たちのメッセージを伝えていたのか,ということです.

しかしその問題に入る前に,簡単に歴史的な背景について説明しておきたいと思います.

しばらく前までは,チリという国は独特の響きを持っていました.それはアジェンデの名前と結びついています.

1970年,社会党のアジェンデが社会党,共産党など左翼政党の連合(人民連合)をバックに大統領選挙で勝利します.アジェンデは,ロシア革命とは異なった平和的で民主主義的な社会主義の旗を掲げ,当時,全世界から注目されました.  しかし,その3年後,アジェンデ政権がピノチェト将軍の率いる軍によるクーデターで倒されます.このクーデターはも世界的に大きな衝撃を与え,各国でチリとの連帯運動が展開されます.

チリはこの1973年のクーデターから昨年3月まで,16年半にわたって軍政の支配下にありました.

しかし1988年,情勢は大きく転換します.1988年10月,チリの人々は,国民投票でピノチェト軍政に「ノー」の声を上げました.そして翌89年12月の大統領選挙では,反軍政勢力が一致して推すエイルウィン(キリスト教民主党)を当選させ,90年3月,16年半におよぶ軍政に終止符が打たれることとなりました.

軍政期,私たちに伝わってきたチリに関する多少とも詳しい事情といえば,あのミゲル・リティン監督による「戒厳令下チリ潜入記」の本と映画ぐらいだったでしょうか.あの本から受ける印象は行き詰るような圧迫感だったし,映画を流れていたのは一言でいって「哀しみ」とも呼べるものだったと思います.

今日お見せする映像はリティンの映画の映像とはかなり違っています.

今日ご覧に入れるビデオは,軍政下でチリのビデオ制作者,映画人,コマーシャル制作者,ジャーナリスト,研究者たちが共同して創り上げたものです.

これからお見せするビデオは,「平和の武器」と題するビデオです.これを作ったのは「テレアナリシス」というグループです.

軍政下で,テレビは100パーセント政府の統制下にありました.ニュース番組はピノチェトの宣伝番組といってよかったほどです.

そうしたなかでチリジャーナリストたちはビデオを使いました.ビデオを利用して人々にテレビでは報道されないチリの現実や反軍政の運動について知らせていこうとしたのです.反軍政の立場にたつ雑誌に『アナリシス』という雑誌がありましたが,この「アナリシス」社が設立したのが「テレアナリシス」というビデオ・ニュース制作の会社でした.「テレアナリシス」は1984年から活動を始めています.人権抑圧の実態,労働者,農民,インディオなどのおかれた現状,反軍政のデモ,集会,ハンストなどの模様をビデオ取材し,カセットを労働組合,住民組織,人権団体などを通じて配給したのです.軍事政権がすすめた自由開放経済制作により大量のビデオ機材が輸入されましたが,それがこうした形で反政府運動の重要な武器となっていたのです.

今日お見せするビデオはこの「テレアナリシス」(現在では独立して「ヌエバ・イマヘン」という名前ですが)が作成したビデオ「平和の武器」をもとにしています.

これは1988年10月の国民投票がテーマとなっています.1988年,ピノチェト将軍があと8年間大統領の地位にとどまることの是非について軍政側は国民投票を行ないました.もちろん,勝つだろうと思ってのことです.しかし,結果は「ノー」が過半数を占めて,ピノチェトは不信任されました.これがきっかけで民政移管の動きが加速し,結局,1990年に軍政が終ります.

ビデオはこの国民投票の1日(10月5日)を描きながら,そのなかにアジェンデ時代や軍政下のさまざまな事件についての映像を織り込んでいます.

ただ,今日ご覧にいれるのはもともとの作品そのものではなくて,これをベースに僕が勝手に再編集したものです.「ヌエバ・イマヘン」の人たちとは友人なのですが,この前行った時,君は僕らの作品を切り刻んでくれた,と言われました.

切り刻んだだけでなく,付け加えた部分もあります.

それは,国民投票に向けての「シー」と「ノー」のテレビ宣伝番組の部分です.

国民投票に向けて反軍政の野党は「ノー」をめざす運動を共同してくり広げることと合意しましたが,その際,国民投票が公正に行なわれるようさまざまな努力を行ないました.全国でおよそ二万三千にのぼる投票箱すべてを監視するための立会人を組織し,訓練することや,独自の開票集計のための体制がつくりあげられた.各投票箱の立会人は開票結果が出るやただちにそれを伝令を通じて各地の連絡所へと集中し,そこからサンティアゴの運動本部へ連絡する.本部にはコンピュータが並ぶ集計室が特設された.政府による不正は,不可能とはいえないまでも,著しく困難となった.

反軍政勢力はまた運動が公平に行なわれるために,非常事態令の解除,すべての亡命者の帰国許可などと並んで,テレビを反軍政側にも利用させるよう要求しました.こうした条件が満たされずに行なわれる国民投票の結果は認められない,と政府を牽制したのです.

これに対して,軍政側は,毎日30分,国民投票の無料宣伝番組の枠を設け,信任派(「シー」)と不信任派(「ノー」)にはそれぞれ15分が割り当てられることとなった.

こうして9月5日から10月1日までの27日間にわたって,毎晩「ノー」のテレビ番組が流されたました.15年間の軍政の中で初めて,チリの反政府勢力はテレビを通じて自らの主張を伝える機会を手にしたわけです.今回のビデオにはこの番組で放送されたものの一部をつけ加えました.「シー」の番組の方も比較のためにちょっと入れておきました.

資金,時間の面から見れば,「シー」が圧倒的な優位に立っていました.「シー」の番組は政府の広報機関の直接指揮の下に,制作の大半が国営テレビ局によって行なわれました.巨額の国家予算がバックにあり,チリで最新式のビデオ制作設備を利用できたのです.しかも,「シー」と「ノー」双方に認められた無料宣伝の30分以外は,「シー」のまったくの一人舞台でした.「ノー」の側の有料広告は一切認められなかったのに対し,「シー」の宣伝広告は通常番組の合間にひっきりなしに放送されました.また,ピノチェトの演説がしばしば特別番組として長時間放送されたし,ニュース番組は政府の立場の宣伝の場でした.

でも「ノー」の側にはすぐれた才能をもつ有能な制作スタッフがいました.「ノーをめざす運動本部」は,テレビ宣伝が可能になることを予想して,すでに数ヵ月前から番組制作チームを編制していました.このチームには,プロデューサー,ディレクター,俳優,音楽家,ジャーナリスト,技師,脚本家など100人以上の映画,演劇,マスコミ,広告業界の専門家たちが参加していました.みな無償で協力を申し出ました.

昨年,日本で「100人の子供が列車を待っている」という1時間ほどの記録映画が公開され,新聞の映画評で高い評価を受けていましたが,この映画の監督をつとめたイグナシオ・アグエロもこのチームの責任者をつとめていました.  彼らの協力で毎日15分の番組を27回にわたって制作していったのです.軍・警察に連行されたまた行方不明となった人々に関して,拷問について,亡命者について,貧困問題,住宅問題についてなど,毎回異なったテーマが設けられました.

まず最初に「シー」の側の番組を少し見てもらいます.

まず「シー」のキャンペーン・ソングが流れ,その後は,コマーシャルの形式を借りたプログラムです.中国産の豚肉の缶詰の宣伝というわけです.背景にあるUPとはアジェンデ時代の人民連合の略号.アジェンデ時代には食料が不足して,中国から輸入した豚肉の缶詰を食べさせられた.「ノー」が勝てばまたこうなるよ,というわけです.

この後は「ノー」の番組を紹介します.

最初に流れるのは,「ノー」のテーマ曲「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」をバックにチリの様々な人々の表情をとらえた映像です.

ここでは,さまざまな「ノー」の表現が出てきます.これに注目して下さい.人差し指を立てて,横に振るジェスチュアが一つのポイントです.ともかく「ノー」という否定表現にいかに肯定的な意味とイメージを盛り込むかというのが番組制作者たちの苦心した点ですが,それが成功しているかどうか,みなさんで判断して下さい.

なかでも,タクシ運転手のシーンに注目して下さい.「リブレ」と出ているのは英語の「フリー」.「空車」という意味ですが,同時に「自由」という意味もあります.

次に出てくるのが,軍服姿のピノチェトといまや背広に着替えて民主主義者として登場したピノチェト.この場面は,画面制作をしているところという設定になっています.

それから歌が続きます.いずれも反軍政の内容のキャンペーン・ソングで,最初は「あの人はきらい」.「あの人の冷たい笑いがいや」など,ラブソングをひねって,ピノチェトのことを皮肉った歌です.次が,「検閲なんてないさ」という歌.これにどういう映像が重なるかはご覧になって下さい.

その後に,警官によるデモ弾圧の場面が出てきます.その描き方はご覧の通りですが,ただ最後に「ノー」と出る箇所に注目して下さい.ノーの上に一本縦線が出ます.これは投票用紙に書き込むときのやり方です.投票用紙は「シー」「ノー」と書かれ,それぞれに横線がつけられていますが,投票者は自分の選択する側の横線に縦線を書き加えてつY評します.画面でこの横線になっているのが何か,注目していて下さい.

その後はヨハン・シュトラウスの音楽「美しき青きドナウ」が流れます.これも独自の歌詞を載せて「ノー」のキャンペーン・ソングに使われました.

アメリカ人の俳優が2人出てきて,「ノー」への投票を呼びかけますが,その後が,「一人で踊るクエカ」の場面です.胸に写真をつけた女性が次々に登場し,「私は何年何月何日に行方不明になった誰々の妹です,妻です,母です」と自己紹介をします.行方不明者とは軍・警察によって連行されたまま消息を絶った人たちのことです.

彼女たちが踊るのが,「一人で踊るクエカ」.クエカというのはチリの民族音楽で,ふつうは男女がペアになりハンカチを振りながら踊ります.それを一人で踊るというのは,パートナーがいない,というメッセージです.

これに題材を得て,イギリスのロック歌手スティングが「彼女たちは一人で踊る」という曲をつくっています.

最後に,番組のキャスターがでてきます.最終日の放送の最後の部分で,これ以後は,すべてテレビは官製の声だけになる.チリが自由なテレビを持つことができるかどうかはあなた方によっています,と呼びかけ,「また近いうちにお目にかかりましょう」といって番組を終えます.

「ノー」の番組の大きな特徴の一つはユーモアです.それに注目して下さい.

 

「ノー」の15分(ビデオプレス)

南米チリは73年のクーデター以来16年半にわたって軍政支配下にあった.当時わ れわれが接することのできた情報といえば,ミゲル・リティン監督による「戒厳令下チ リ潜入記」の本と映画ぐらいだった.あの本から伝わってきたのは息づまるような圧迫 感だったし,映画の基調となっていたのは「哀しみ」だった.だがあれだけが軍政チリ のイメージだったかというと,それは違う.  テレビが政府によって完全に統制されていた中で,若手ジャーナリストたちはビデオ を使ってニュース番組を制作していた.彼らは1984年に「テレアナリシス」社を設 立し,軍政下での人権抑圧,労働者・農民・インディオの状況,反軍政運動の模様をビ デオに収め,労組や人権団体を通じてカセットを配給していた.

この「テレアナリシス」社(現在では「ヌエバ・イマヘン」社と改称)は軍政末期, 「平和の武器」と題するドキュメンタリーを制作している.これは「軍政ノー」が勝利 した1988年10月の国民投票をテーマに,投票から開票までの1日の動きを追いな がらこれに過去の映像を織り込んだもので,軍政による暴力支配の現実とこれを平和的 に打ち破ったチリの人々の姿を描いている.12月の集会では,この「平和の武器」を 短く編集し直したものに,国民投票に向けて制作された「ノー」のキャンペーン・ビデ オの一部をつけ加えて紹介した.

この国民投票にあたって,反軍政勢力は毎日15分のテレビ放送枠をかちとった.そ して27日間にわたって毎晩,人権抑圧,貧困,社会問題,政治犯罪など様々なテーマ を取り上げた番組を制作して放送した.この番組制作にはプロデューサー,ディレクタ ー,俳優,音楽家,脚本家,ジャーナリストなど映画,演劇,マスコミ,広告業界の有 能な専門家たち100人以上が無償で協力を申し出た.数年前に日本でも公開され好評 だった記録映画「100人の子供たちが列車を待っている」の監督イグナシオ・アグエ ロも中心スタッフの一人として参加している.

番組は軍政チリの苛酷な現実を描きつつ,同時にユーモア,優れたセンス,芸術性に あふれていた.ジャーナリズムの手法によるドキュメンタリーや各界各層の人々とのイ ンタビューの間には,歌,踊り,漫画,寸劇,絵などが挟み込まれた.また毎回,テー マ曲「チリよ,喜びはもうすぐやって来る」をバックに,チリの様々な人々の表情をと らえた映像が流された.

放送は大きな反響を呼んだ.15年間,ブラウン管からは軍政側の決まり切った宣伝 文句しか聞こえてこなかった.その同じ画面から,突然,それまで沈黙を強いられてき た声が,豊かなイメージ,美しい色彩,新鮮な表現でとびこんできた.毎日,街頭で, 店頭で,タクシーの中で,前夜の番組が話題になった.人々は,毎晩,家族そろって, 友人同士で,近所の人たちと一緒に,あるいはレストランに集まって一緒に番組を見た. それは「15年間におよぶ独裁のなかでのわずか15分間」だった.だがこの15分が 15年間の軍政支配に大きな風穴を開けた.