ピノチェト暗殺未遂事件 (1986年9月7日)

 

去る九月七日のピノチェト暗殺未遂事件をきっかけに、チリは再び戒厳令下に入った.

今回の暗殺未遂事件を引き起こしたのは,マヌエル・ロドリゲス愛国戦線(FPMR)と呼ばれる左翼軍事組織である.同戦線は,一九八三年末にチリ共産党が中心となって創設された.組織の名称は,十九世紀初頭のチリ独立戦争で活躍したゲリラ指導者の名前からとられている.

ピノチェト暗殺未遂事件は、九月七日の夕方六時半過ぎに起きた。週末をアンデス山麓の別荘で過ごしたピノチェトは、護衛の車四台を従えてサンティアゴへ向かっていた。突然、一台のトレーラーが道路に乗り出して行手を塞ぎ、それと同時に激しい銃撃が始まった。待伏せていた二十五人のゲリラ部隊が、バズーカ砲、手投げ弾、機銃掃射による猛烈な鉛の雨を一行に浴びせかけた。銃撃は約十分間続き、先頭の護衛車は全焼した。残りの護衛の車もすべて破壊され、五人の護衛が死亡、十一人が重軽傷を負った。特別に装甲を施された重量三トンのピノチェトの車だけは銃撃を持ちこたえ、Uターンして脱出に成功した。無線で連絡を受けた軍と警察の車が現場へ急行したが、パトカーに偽装した車に分乗したゲリラ・グループはまんまと包囲網を通りぬけ、全員逃走した。

マヌエル・ロドリゲス愛国戦線によるピノチェト暗殺の試みは今回が二度目である.同戦線は昨年十月にも暗殺を計画したが、その時には直前になってピノチェト一行のルートが変更されたために計画が中止となった。今回の犯行声明で、愛国戦線のスポークスマンはこう言明した。「三度目は成功させる」

今回のピノチェト暗殺未遂劇はチリの政治情勢に様々な影響を与えた.

ピノチェトにとって,今回の事件は自らの権力維持強化のための絶好の機会となった.事件直後,ピノチェトは直ちにチリ全土に戒厳令を布告した.常々,ピノチェトは,自分の生命とチリの命運は共産主義によって脅かされているとして,盛り上がりを見せる反軍政運動に対し強硬措置をとることを主張してきた.今回の事件はそうした主張を事実によって裏付ける結果となり,ピノチェトへの権力集中を危惧する海空軍も,今回はピノチェトによる戒厳令布告に同調せざるをえなかった.

激しい弾圧が再び始まった.ピノチェトは言った.「今度は我々の側から戦争をしかける番だ.断固とした行動をとる.人権だの何だの言っている連中は残らずチリから追放するか,幽閉するだけだ」

労働者居住地区では連日のように家宅捜索が実施され,多数が拘束,連行された.反政府系の六誌が発行禁止となり,反政府指導者が多逮捕された.ロイターなど一部の外国通信社も閉鎖された.スラム地区で活動していた外国人神父は国外に追放された.

極右軍事組織や秘密警察による反政府活動家の誘拐,殺害事件も続発した.とりわけ衝撃的だったのは,反政府系週刊誌「アナリシス」誌の編集者でチリ・ジャーナリスト協会幹部のホセ・カラスコの暗殺である。戒厳令布告直後,カラスコは,私服の武装した男たちによって自宅から連れ出され,翌日,全身に銃弾を打ち込まれた死体で発見された.

他方,今回の暗殺未遂事件は,反政府勢力の二大潮流の間の溝を一段と深めることとなった.

八三年の第一回全国抗議デーの成功以降、反軍政運動が大きな高まりを見せる中で,反軍政勢力は,キリスト教民主党、社会党など右派,中道,左派を広く結集した穏健派の民主同盟(MDP)と、共産党を中心に社会党の一部,革命左翼運動と純粋の左派連合である急進派の人民民主運動(MDP)の二つのブロックにまとまった.民主同盟が軍との交渉によって民政移管を実現しようとしているのに対して,人民民主運動は武装闘争を含む実力行動による軍政打倒を主張してきた.

そうした対立をはらみながらも,反軍政勢力の間の統一は最近になって大きく前進していた.特に今年の四月には、同業組合、労働組合など三百組織によって「全国市民会議」が結成され、医師、弁護士、教師、ジャーナリスト、労働者、サラリーマン、学生、小売商、女性、農民、文化人、芸術家など、チリ社会のほとんどあらゆる階層がこれに結集した。そして、民主主義の復活を前面に掲げた「チリの要求」を政府につきつけ、七月にはゼネストを成功させたのである。

これに対してピノチェトは,特に八月以降,反軍政勢力の間にクサビを打ち込む作戦に出た。市民会議の結成によって社会組織間の統一は実現したとはいえ、政党レベルでは,すでに見たように,反軍政運動の闘争形態をめぐって、平和的方法を主張する民主同盟と、武装闘争を含む「人民反乱」路線をとる人民民主同盟の間で対立が続いている。ピノチェトはここを突いた。八月末、軍は,チリ北部で三千丁を越す米国製自動小銃と二百万発の弾薬など大量の武器を発見したと発表し、マスコミを通じて反極左テロの大キャンペーンを展開し始めた。この作戦が一定功を奏し、民主同盟を中心とする野党穏健派は九月四日に予定されていたゼネストへの参加を見あわせた。

そうした中で勃発した今回の襲撃事件は、民主同盟と人民民主運動の間の対立を一層深刻化させることとなった.人民民主運動が愛国戦線によるピノチェト襲撃を評価したのに対し,民主同盟は愛国戦線の行動を激しく非難する声明を発表した.民主同盟はまた,軍との交渉路線をより鮮明に打ち出し,十一月に入ると,右派の国民党などとともに「民主国民協定」を締結した.同協定のスポークスマン,ホルヘ・モリーナは、「民主主義への平和的移行のため軍部とも関係を持つ」ことを明言した.協定締結にあたって共産党、社会党左派などの人民民主運動は完全に除外されており,反軍政勢力間の穏健派と急進派の間の溝はかってなく深まった.

こうした状況と対応する形で,軍内部でも変化が見られる.今回の戒厳令布告ではピノチェトに同調したものの,軍内部ではピノチェト独裁への批判がしだいに強くなりつつある。国際的孤立、経済困難、米国政府の批判,反軍政運動の圧力の中で,海軍・空軍・警察軍は,ピノチェトが辞任し,穏健野党との交渉で民政復帰を実現することで,軍が名誉ある撤退を実現することを望んでいるのである.

今後,ピノチェトの暫定大統領としての任期の切れる一八九八年が近づくにつれて,これにどう臨むか、との問題をめぐって軍内部の意見対立は一層激しくなっていくことであろう.ピノチェトが八九年以降も居座りを策しているのにたいし、海軍、空軍、警察軍は複数の候補者による大統領選挙を行うべきだと主張しているからである。

以上から見て,今後もっとも有力な可能性として考えられるのは,左翼勢力を排除した反軍政勢力穏健派と軍の交渉による民政移管の筋書である。そしてまた米国政府が望んでいるのもこの道である.こうした動きに対し,あくまでも権力にしがみつこうとするピノチェトがどう抵抗していくのか,今のままでは民政移管交渉から除外される恐れの大きい人民民主運動がどう対応していくのか.確実に近づいている一八九八年に向けて,戒厳令下のチリの舞台裏では、今,様々な動きが進行しているに違いない.