国民投票で「ノー」 が勝利

 

十月五日の国民投票で「ノー」が勝利し,チリは民主主義へに向かって大きな一歩を踏み出した.  

当初,チリ国外では,軍事独裁政権下で公正な国民投票が行なわれる可能性に疑問を投げかける論調が支配的だった.国民投票に向けて,ピノチェトは国・地方の行政機関をあげて選挙運動マシーンに変え,テレビを最大限に利用した大キャンペーンをはった.  

だが,チリの反軍政勢力は,元来はピノチェト続投のための単なる手続きに過ぎなかった国民投票を,独裁打倒の武器へとつくりかえていった.戸口から戸口へと訪問して有権者登録運動をすすめ,登録者90%以上という記録的な数字を達成し,不正防止のため数万人にのぼる立会人を組織し,コンピューターによる独自集計システムを作り上げた.そして,公正な投票を監視する国際的なオブザーバーの派遣を各国に呼びかけた.  

このオブザーバー団の派遣は,現段階において国際世論がチリでの民主主義の闘いに寄与できる具体的な支援活動だった.それゆえ,ラテンアメリカ諸国はもちろん,欧州諸国,米国,そして国連も代表を送って投票監視活動に参加した.投票日の2日前には,「チリにおける民主主義をめざす第3回議員国際会議」がサンティアゴ市で開催され,欧州議会のペラエス議長をはじめ,欧米・中南米から348人の議員が参加して,監視活動の進め方を協議した.  

それゆえに「ノー」の勝利のニュースは各国で大きな喜びをもって受け入れられた.オランダの首都アムステルダムでは,公共建築物を旗で飾って勝利を祝った.フランスのロカール首相が「ノー」の勝利を「素晴らしい希望だ」と評したのを始め,ヨーロッパ諸国政府はそろって歓迎声明を出した.イタリアのデミタ首相は「(イタリア)政府は民主主義をめざして闘っているチリ国民につきそっていたい」と述べ,七三年のクーデターに抗議して引き揚げて以来空席だった駐チリ大使に,クーデター当時のイタリア大使だったマサモルミーレ氏を任命した.  

「ノー」の勝利はとりわけラテンアメリカ諸国において熱烈に歓迎された.七〇年代末以降の南米における民政移管の流れの中で,残った軍政はチリとパラグアイの二ヵ国のみとなっていた.それゆえ,チリにおける反軍政勢力の今回の勝利は,三〇年におよぶストロスネルの軍事独裁下にあるパラグアイの民主化運動を強く鼓舞する結果となった.パラグアイの反軍政指導者は喜びに溢れた声明を発表し,近い将来,パラグアイもチリの後を追うだろうとと言明した.  

八〇年代に民政移管を実現したブラジル,アルゼンチンをはじめとする南米諸国にとっても,今回のチリの勝利は大きな意味を持った.これら諸国は民政移管を実現したものの,その基盤はいまだ弱い.しかも現在どの国も深刻な経済危機にみまわれ,民主主義体制への信頼がゆらぎ始めており,再び軍の介入の恐れが生まれ始めているからである.  

九月末,ブラジルで秘密文書が暴露された.これは昨年十一月,アルゼンチンのマル・デル・プラタで行なわれた第17回米州陸軍会議で採択された文書で,アルゼンチン,ブラジル,チリを始め米国を含む十五ヵ国の軍代表が署名している.文書では,ラテンアメリカにおける国際共産主義運動は米州の安全保障にとって主要な脅威となっているとして,米州各国の軍の間での国境を越えた共同行動をうたい,さらに軍の政治介入の可能性も示唆している.経済危機と政治不安が深刻化すれば,ふたたび軍政へ復帰する危険性はなくなってはいないのである.  

十月九日付けの『ニューヨーク・タイムズ』紙は,民政移管を実現した南米諸国はチリで「ノー」が勝利したことで安堵のため息をもらした,と書いた.もしもピノチェトが勝ったならば,政治的安定と経済発展を名目とした軍の政治介入が正当化されたことになるだろう.軍政支配下のチリでは,過去四年間に急速な経済成長を経験した.だが,チリ国民は民主主義の道を選んだのだった.  

今回の国民投票で,日本は完全に傍観者の立場に立った.公正選挙を監視するための国際オブザーバー派遣の動きは,政府はもちろん政党の間でも保革を問わずまったくなかったし,「ノー」の勝利にあたっても声明ひとつ出なかった.欧米諸国との際立った対照が目立った.