2019年度 活動日誌

3月 活動日誌

2020年3月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【大学の様子】

リヴィウ大学では、11日(水)まで通常の授業が行われました。しかし、11日に翌日から全国の大学・学校を閉鎖すべしという決定が突然、政府によりなされたために、12日(木)からリヴィウ大学も閉鎖することになりました。当時ウクライナではまだ新型コロナウイルスへの感染が確定した患者数は1人だったので、この措置には少々驚きました。当日午後からは、構内への立ち入りもできなくなりました。先生によっては、オンライン授業を行ったりもしているとのことです。

学校(日本の小中高に当たる)も閉鎖されており、3月に予定されていたセンター試験(外部独立評価、ЗНО)模試は4月初頭に延期され、さらにこれも延期、4月24日に今後の実施の有無が決定されるとのことで、入試本番(ウクライナでは大学入試はセンター試験に統一されています)も例年より遅れる見込みであると教育省は説明しています。受験生は、いつ受験があるのかわからないので、保護者ともどもやきもきしているでしょう(模試が中止された場合、すでに支払った受験料が返金されるのかとかも)。

【検疫措置】

ウクライナでは、新型コロナウイルスの感染拡大防止の為、3月12日には「検疫措置」(карантин)がとられ(3週間、4月3日まで)、その後、同措置は4月24日まで延長、全国の「非常状態」(надзвичайна ситуація)が宣言されました。その期間中、ウクライナの国境は閉鎖され、永住資格や一時滞在資格のある者、外交官や国際機関の職員を除く全ての外国人の入国が禁止されています。なお、「非常状態」は「非常事態」(надзвичайний стан)ではないと説明されており、市民個人の権利の制限などの措置は取られておりません。「検疫措置」というのは、東京で最近話題の都市封鎖(ロックダウン)のようなものかと存じます。ウクライナでは市町村が互いに比較的離れて点在しているため、そのあいだを連絡する交通機関を停止すれば比較的簡単に封鎖ができるようです。現時点では、多くの州では自家用車などの通行は止められておりません。

検疫措置の骨子の一つが交通網の遮断で、3月17日には定期国際航空便が停止され、18日には国内の鉄道・航空・バス旅客輸送が停止されました。その後も国外にいるウクライナ国民の帰国希望者を輸送したり、ウクライナにいる外国人の出国希望者輸送するための特別便がウクライナ国際航空、スカイアップ航空を中心にウクライナの国内外の航空各社によって運行されていましたが、27日にはそれも原則全便が運行停止となりました(一部、その後も旅客便の運航がある模様ですが、すべてチャーター便かもしれません。詳細把握しておりません。なお、ここで特別便と呼んだのは個人が切符を普通に購入できる旅客便のことで、チャーター便というのは個人が通常、切符を購入することができない便のことです)。

市内交通も一部運休や間引き運転がなされ、一度に乗ることのできる乗客数が制限されるなどしています(厳守されているかは不明です。警察が検査しているような現場を見掛けましたが、取締りに関する正確な情報は把握しておりません)。キーウ、ハールキウ、ドニプロー各市では地下鉄が運休していますが(これは、3月30日にジョージアが地下鉄を運休するまで、ヨーロッパで唯一の措置だったようです)、リヴィウにはそもそも地下鉄などというものは存在しませんので、関係ありません。リヴィウ電気交通(市電、無軌条電車)は実質的に通常運行しており(乗車人数制限あり、また子供や老人の運賃免除は停止、乗車券の車内販売停止)、バスは減便して運行しているようです(感染防止のためというより、乗客が激減して走らせても採算が取れないためではないかと思われますが、減便の実際の理由は不明です。公共企業の運行路線の方が、私企業の路線より運行本数が確保されているような気がしますが、正確には未調査です)。駅前に普段たくさんいる近郊路線のバスも少ししかいません。駅には電車や気動車が並んでいますが、なぜか日によって停まっている編成が変わっています。旅客輸送は中止して全列車運休しているはずなのですが、業務上の運行があるのでしょうか? 一時期、新型車両が3編成も並んでいたのですが、翌日には1編成に減り、30日に見たときには一つもいなくて従来型車両だけになっていました。

渋滞する交差点もすいているホロドーツィカ通り。右の看板は、「命を守れ!家にいよう!」
市街地付近のホロドーツィカ通り。普段は渋滞している場所

感染拡大防止のもう一つの骨子が、店舗・公共施設などの閉鎖です。食料品店(スーパー含む)、薬局、ガソリンスタンド以外の店舗は閉鎖が命じられました。ショッピングモールでは、スーパーのみ営業しています。開店している店舗は徐々に減っているようです。店舗によっては、営業時間の短縮もあります。今のところはまだ、買い占めや流通の滞りによる商品の枯渇は特に起こっておりませんが、人々はそろそろ起こるだろうと考えています。実際はどうでしょうか。役場などの公共サービスも縮小されています。

ウクライナではこれまでマスクをするのはよほど病気がひどい人と思われていて、マスクをして電車やバスに乗ったりするとそれだけで席を譲られたりするほどでしたが、今ではマスクをする人が大幅に増えました。ただ、マスクは品薄で入手できないためにマスクをしない人もいるようです。また、必要ないと考えてしない人もいると思われます。しかし、鼻の高い西洋人は、マスクがしにくそうで気の毒ですね。鼻を出してマスクしている人が一定数います。

政府や自治体などが市民に外出を控えるよう呼び掛けており(広告を出したり、市内に車を出して放送で呼び掛けたりしています)、リヴィウ市内も人通りが少なく、いつも渋滞のひどいホロドーツィカ通りも比較的すいています。聞いた話では、80年代はこんなだったかも、とのことです。空気も改善したように感じます。
 リヴィウ市では、感染者のペットを預かって世話をしてくれるサービスを提供するそうです(事前登録必要)。

リヴィウ駅前。車が少ないので、石畳が広く見える。歩道の人影もまばら
駅前バスターミナル。バスも人も少ない。写真のバス2輛は、近郊・中距離路線の特別便の車輌の様子(定期便は全運休)
閉鎖され、利用者のいないリヴィウ駅。駅員(または警備員)だけがいる

ウクライナでは日を追って感染者数が増大しており、この記事が公開される頃にはどうなっているかわかりませんが、聞いた話では、リヴィウの医師たちはウクライナもイタリアのようになるだろうと話しているそうです。尤も、事態を常に悲観的に語るのを好むのもウクライナの国民性の一つ(?)のような気がするので、実際にはそこまでひどくはならないことを期待したいです。

【参考リンク】

新型コロナウイルス感染者数等に関するデータ
https://www.pravda.com.ua/cdn/covid-19/cpa/
2020年3月31日閲覧(以下同じ)。

新型コロナウイルス感染者数および分布
https://public.tableau.com/profile/publicviz#!/vizhome/monitor_15841091301660/sheet0​​

検疫措置実施の決定(ウクライナ政府)。2020年3月11日13:43
https://www.kmu.gov.ua/news/uryad-prijnyav-nizku-rishen-shcho-mayut-ubezpechiti-ukrayinciv-vid-covid-19-11-03-20?fbclid=IwAR31alZLy55xNAlW82qQAhLH1fKbFxzPtG-YtR5XDvuNj-1CJIagF-_Q6Bs

国際航空旅客輸送の停止(報道)。2020年3月13日20:14
https://www.pravda.com.ua/news/2020/03/13/7243562/

旅客輸送停止の決定(ウクライナ政府)。2020年3月16日00:12
https://www.kmu.gov.ua/news/uryad-prijnyav-rishennya-pro-zaboronu-pasazhirskih-perevezen-ta-obmezhiv-kilkist-uchasnikiv-masovih-zahodiv-10-osobami?fbclid=IwAR1eWu-SvtQysV484eHUFM73zPdS0B9klXeZscm_NEJBS9ah_O31Z8BiI94

検疫措置の4月24日までの延長(報道)。2020年3月25日13:44
https://www.pravda.com.ua/news/2020/03/25/7245063/​​

検疫措置の4月24日までの延長(日本国外務省)。2020年3月26日
https://www.anzen.mofa.go.jp/od/ryojiMailDetail.html?keyCd=84292

日本国外務省のウクライナに関する安全情報
https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_182.html#ad-image-0

リヴィウ市長アンドリーイ・サドヴィーイ氏のfacebook
(リヴィウ市の新型コロナウイルスに関する情報を提供している)
https://www.facebook.com/pg/andriy.sadovyi/posts/

12月 活動日誌

2019年12月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【大学の様子】

リヴィウ大学は、10日まで授業期間でした。そのあと、期末試験の期間になります。実際には、我々はその期間も少々授業を行いました。

期末試験は、ザーリク(Залік)と呼ばれる試験とイースペィト(Іспит)と呼ばれる試験が行われます。ザーリクは実際には平常点から算定されることが多いようです。学生によると、期末試験は試験(口頭が多い)が実施される場合と、レポートが課される場合があるそうです。その辺はだいたい日本と同じようです。

【スケーリウカ】

先月の話の続きです。

スケーリウカ(Скелівка)は、リヴィウ州、スタレィーイ・サーンビル地区の村です。

ここはかつて、ヘルブルト家の本領、フェルシュティン(Felsztyn, Фельштин)またはフルシュティン(Fulsztyn, Фульштин)でした。旧名は、ドイツにあったヘルブルト家の祖先の知行地に由来するとのことです。ウクライナにはもう一つフェルシュティンという町があり、その建設者もヘルブルト家でした。

フェルシュティンは1390年に文献上に初めて登場します。1551年には、マクデブルク法が与えられました(したがって都市になったものと思われますが、町と書いてあることが多いです)。かつては市庁舎があり、町には城もあって町の周りは城壁に囲まれていました。しかし、ヘルブルトの建てた城郭は1649年にコサックの攻撃により破壊されました。

街道沿いに立つのが、煉瓦造りの聖マルティヌス教会です。1500年前後にヤン・ヘルブルトによって建立されました(ヤン・ヘルブルトという人物は何人もいるのですが、これはヤン・シュチェンスヌィ・ヘルブルトの祖父のことだと思います)。このヘルブルト家の菩提寺は、厚い壁と高い塔を備え、かつては城郭とともに町の防衛機能を担っていました。

聖マルティヌス教会。外観は比較的よく保存されている。鐘楼は煉瓦造りの四角柱で、元は防衛用の城塔であったと思われる。

今日では、少なくとも建物の外観は比較的よく保存されているように見えます。しかし、実際には第一次世界大戦時にロシア帝国軍によって破壊され、その後、原状回復はされていません。屋根は瓦葺きからトタンに変更され、小塔は縮小され、建物内外の装飾が失われただけでなく、恐らく最大の喪失は、17世紀に設えられたマニエリスム様式の祭壇やヘルブルト家の人々の墓所が破壊され失われたことでしょう。それでも、ひと目でゴシック様式とわかる16世紀の教会堂外壁とやや壊れている15世紀の鐘楼(壊れた内部に入らずとも鐘が鳴らせるようロープが付けられている)、防衛用の土塁が現存します。

教会脇の学校も、古くからあるようです。建物が違いますが、昔の写真にも校舎が写っています。バス停のある中心部には公園があり(かつて市庁舎があった場所と思われます)、その向かいにシュヴェイクの像が立っています。彼はヤロスラフ・ハシェク(Jaroslav Hašek, 1883–1923)の小説『善良なる兵士シュヴェイク』の主人公で、彼の冒険はフェルシュティンの町から始まりました。彼はここから北上し、ドブローメィリにも行きましたので、あちらにも記念碑が立っています。どうも、この地方の《地元の名士》のようですね。

スケーリウカのシュヴェイクの記念碑。『兵士シュヴェイクの冒険』の始まりの地を記念している。碑銘に、「ここ、かつてのフェーリシュティンにて、勇敢なる兵士ヨゼフ・シュヴェイクはチェコの作家ヤロスラフ・ハシェクの思し召しにより友軍の捕虜となりにけり」とある。
ドブローメィリのシュヴェイクの記念碑。背後が見える透かし彫りのおもしろい作り。碑銘は「ドブローメィリに来られてシュヴェイクはほんとについていた」

かつてはシナゴーグもあったそうですが、現存しません。この地方のユダヤ人は、第2次世界大戦時にナチスの迫害を受けました。ドブローメィリの丘の上のユダヤ人墓地跡には、彼らの墓石を固めて作った記念碑があります。

スケーリウカのバス停。脇にヘルブルトの家紋とウクライナ語で「フェーリシュティン」、ハシェクのフレーズ「すべての道はかのフェルシュティンへ通ずべし」、待合室内にはコサックのことわざ「ドニプロー川流るる限り、ウクライナは不滅なり」などが書いてある。花模様は、ボーイコ地方の花柄の刺繍をやや思わせる。

【テルナーワ】

スケーリウカからドブローメィリに向かうと、その手前にテルナーワ村(Тернава)があります。この村についてはきちんとした資料を持っておりませんが、ウィキペディアによると、1374年に文献上に初めて現れるとのことです。ドブローメィリの山城は、この村から登ると早いです。村の墓地のあるところを右に曲がり、畑を抜けると城山へ行かれます。

村は、道路沿いに線上に発展した典型的なウクライナの農村であると言えます。家々に果樹があります。その道路は、バスの通る街道に交わります。街道の反対側はまた別の村になります。

村の一軒の家の前に、記念碑の十字架が立っていました。銘板には、「ここにウクライナ蜂起軍の勇士たち、ヤロスラーウ・ウォイテーチュコ(Ярослав Войтечко)、ヤロスラーウ・ラビネーツィ(Ярослав Лабінець)、メィハーイロ・クラソータ(Михайло Красота)斃る。栄えあれウクライナに、英雄に栄えあれ」とあります。家で聞けば詳しくわかったかと思いますが、ウォイテーチュコ氏はここで1948年2月26日に行われたソ連内務省(軍隊を持っている)との戦闘で戦死したようです。

テルナーワ村の民家の前に建てられたウクライナ蜂起軍の記念碑

ウクライナ蜂起軍というのは、数多く作られたウクライナの独立運動組織のなかでも最も力のあった組織の一つで、ウクライナ独立の敵と最も激しく戦った軍事組織でした。ウクライナがソ連とナチス・ドイツとに侵攻・占領を受けていた1942年に組織され、ウクライナ全土で活動しました(東部や南部でも組織されました)。第二次世界大戦中はソ連、ドイツ、ドイツと協力関係にあったポーランド人組織と戦い、戦後はソ連とその衛星国となったポーランドと戦いました。その活動は地元の住民によって支えられており、特に西部の山岳部では村人に混じりながら山林に潜んで効果的なゲリラ戦を展開しました。これに手を焼いたソ連とポーランドは、ウクライナ蜂起軍の根となっていたウクライナ人社会を根絶することを考案し、非戦闘員のウクライナ系住民の強制移住を行いました。この民族浄化政策が、「ヴィスワ作戦」(Akcja „Wisła”, Операція «Вісла»)です。

ドブローメィリ地方はこの作戦により最も大きな被害を受けた地域の一つであるボーイコ地方に含まれていることは、先月少し書きました。ウクライナ人コミュニティーが滅ぼされ、支援を失い孤立したウクライナ蜂起軍は徐々に衰えていき、1950年代半ばには組織的な武力闘争を放棄せざるを余儀なくされました。

テルナーワ村の戦いは、1947年春に開始されたヴィスワ作戦の翌年に、作戦対象の中心地域で行われた戦闘の一つであったということになります。記念碑の十字架は、恐らく、若者たちの無残な死を哀れに思った住民が追悼して建てたのだと思います。

【参考リンクほか】

Добромиль // Замки і храми України [https://castles.com.ua/dobromyl.html] (最終閲覧日:原稿作成日、以下同じ)。

Скелівка // Там само [https://castles.com.ua/skeliwka.html].

Давній Фельштин костел святого Мартина і не тільки [https://risu.org.ua/ua/relig_tourism/krayeznavstvo_digest/70334/].

Мацюк О. Замки і фортеці Західної України. Львів: Центр Європи, 2005. C. 83.

11月 活動日誌

2019年11月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【今月のリヴィウ大学】

学内外にたくさんのイベントがあった先月から打って変わり、今月はごく普通の授業期間でした。我々は日本語の勉強に勤しみましたが、特にここで申し上げるほどの目新しいこともないので、今回はリヴィウ近在の町についてお話したいと思います。

【ボーイコ地方のドブローメィリ】
今回取り上げるのは、GJOのありますリヴィウ大学東洋学科のロマーン・ハマダー先生(Роман Романович Гамада, 1961–2017)の故郷、ドブローメィリ(Добромиль)です。先生は残念なことに亡くなってしまいましたが、ペルシア文学の翻訳を数多く残されました。

さて、リヴィウより西南西、ポーランドとの国境に程近い山地にドブローメィリ市はあります。周囲には、ラーディチ山(Радич)をはじめ、山がぽこぽこ立っています。リヴィウからは、サーンビル(Самбір)経由の鉄道かバスで、片道3~4時間くらいで行かれます。

この辺りから現在のポーランド共和国領に跨る一帯はボーイコ地方(Бойківщина)と呼ばれ、ボーイコ語というウクライナ語の方言を話すボーイコ人(ウクライナ人を構成する下位グループ)が暮らしています(ドブローメィリはシャーン川上流方言の地域とも重なる)。この地方は、イワーン・フランコーの故郷でもあります。ボーイコ人は、ポーランドとソ連の強制移住政策(ヴィスワ作戦)による迫害を受けました。現在、サーンビル駅前広場には、強制移住させられた人々の記念碑が立っています。

【ドブローメィリとヘルブルト家】

ドブローメィリは、1374年に初めてその名が史料に現れます。この年、オポレ公ヴワディスワフ(Władysław Opolczyk)により、ヴィールワ川(Вирва)とストルウヤージャ川(Стрв’яжа)流域の諸村とともにヴェストファーレン系士族ヘルブルト家に与えられました。

当初は村でしたが、1497年には王の許可によって町となり、モラヴィア、ハンガリー、シレジアからも商人が集まりました。製塩業によって栄え、1566年にはリヴィウ城代スタニスワフ・ヘルブルト(Stanisław Herburt, 1524–1584)の働きかけにより、国王からマクデブルク法(自由都市の特権)が下賜され都市となりました。今日でも、自由都市のランドマーク、立派な市庁舎が中央広場に立っています。

ドブローメィリ市庁舎。自治権を有する自由都市であったことの象徴。

ところで、市から南の修道僧山(Чернеча гора)とのあいだにはフチョーク(Гучок)という村がありましたが(現在は市に併合)、地元の伝承によると、その辺りは湿っていて滝があり、その音(フチュフチュ)から名付けられたが、あまりに田舎っぽい名前なので都市になるときその名は選ばれなかったのだそうです。

1531年には、アンジェイ・ヘルブルト(Andrzej Herburt)により町に初めてカトリックの教会堂、主変容教会が建てられました。現在でも活動しています。日曜昼前に行くと中に入れると思いますが、天井の装飾が独特です。

主変容教会(正面)。赤い十字架がおしゃれ。裏手に鐘楼がある
主変容教会の天井の装飾。壁に聖人画が並んでいる。ヘラールド神父の好意で撮影。

この教会が立つまで、ドブローメィリのカトリック教徒たちはヘルブルト家の本領、フェルシュティン(Fulsztyn, Felsztyn, Фельштин)の聖マルティヌス教会まで通っていました。今ですとバスで30分程するので、当時徒歩で通うのは一苦労だったことでしょう。

フェルシュティンは今はスケーリウカ村(Скелівка)といいますが(バス停には旧名も書いてある)、ヘルブルト家の教会と鐘楼、防衛用の土塁が残っています。以前は教会内部にマニエリスム様式の立派な聖壇がありましたが、第一次世界大戦時にロシア軍によって破壊されました。この地方でロシア軍は猛威を振るいました。

【ドブローメィリ城】

1450年頃、リヴィウ主鷹正ミコワイ・ヘルブルト(Mikołaj Herburt, 1447以降没)は町から4キロメートル南方のスリパー山、すなわち盲山(Сліпа гора)に防衛拠点となる木造の城を築きました。しかし、この城は1497年のタタールの襲撃で焼け落ちました。

1566年には、上述のスタニスワフ・ヘルブルトが石と煉瓦造りのルネサンス式城郭への改築に着手しました。このときの城郭は城壁や塔の一部が現存し、今日リヴィウ州で最も高い場所(海抜560メートル)にそびえる城としても知られています。暖かい時期には、ハイキング客や観光客、バーベキューをしたい人で賑わうようです。盲山へは、ドブローメィリから聖オヌーフリイ修道院経由で大豆畑を抜けていくか、隣のテルナーワ村(Тернава)から登ります。

聖オヌーフリイ修道院。

ドブローメィリのまちなかには、「下の城」と呼ばれるもう一つの城がありました。こちらは1521年の史料が初出です。今日、その跡地は林野庁の敷地になっているようですが、城館を囲んでいた石積みの壁が残っていて、保存のために屋根が設置されています。その脇で廃墟と化しつつあった武器庫(兵器廠)は、今年から2021年までの3カ年計画で復元工事が始められていました。

山頂の「上の城」は詰の城として、「下の城」は平時の住居として使用されていたと考えられます。これは、リヴィウにあった「上の城」、「下の城」と同様の仕組みです。

林を抜けるとドブローメィリ城。入り口の塔(バスタイ)。

【ウクライナのルネサンス人】

ドブローメィリが最も栄えたのは、ヤン・シュチェンスヌィ・ヘルブルト(Jan Szczęsny [Feliks] Herburt, 1567–1616)の時代であったと言えるでしょう。西欧に学んだこのルネサンス文化人は、ザモシチ学院開設で中心的役割を担った一人でしたが、自らを「ルーシ人」(ウクライナ人のこと)と呼び、ルーシ人の権利を守るために戦った人物として知られています。

彼は、このような言葉を残しています。

「私も妻もその血を継ぐ高貴なるルーシの民が苦難に遭うとき、私は権利に教わった通り、神の助けとともに立つであろう。〔…〕権利の如何なる侵害に対しても我が力と生命を惜しまぬつもりであり、いわんや、かような偉大にして高貴なる民の側にそれを懸けるに遅れは取らぬ、我が血を分けた民は、今や権利を奪われているのだ。」

自らの民に対する誇りと信頼は、彼一人にあらず、この時代のウクライナの文化人に少なからず見られます。しかし、本来ドイツ系であるはずのヘルブルトが自らをウクライナと一体化させているのは、特に興味深く思われます。

社会の繁栄のためには教育と学問が不可欠であると考えていた彼は、ルーシ人の学識と情報発信力を高めるため、高名な印刷技師ヤン・シェリガ(Jan Szeliga, 1636没)を招いてドブローメィリ印刷所を開きました。場所は、現在の行政区画では隣のボネーヴィチ村(Боневичі)になります(近年、記念碑が建てられました)。

彼の妻は、かつてウクライナの文化の発信地を作ったオストロージケィイ公の分家、ザスラーウシケィイ公家から嫁いできた正教徒のイェレィザヴェータ公女(Єлизавета Янушівна Заславська, 1618没)で、ドブローメィリ印刷所の紋「ヘルブルトの三柱」(„Kolumny Herburtowskie”)に、ヘルブルトの紋と並んでザスラーウシケィイ公の家紋――オストロージケィイ公の家紋と同じ――があることは、この印刷所がその精神を継承するシンボルでしょう。印刷所のモットーは、「真実と仕事」(„Prawda a praca”)でした(「真実」は「正義」、「仕事」は「作品」とも翻訳可能)。そこでは、ルーシ人の著述家スタニスラーウ・オリホーウシケィイ(Станіслав Оріховський, 1513–66)の『ポーランド年代記』(“Annales Polonici ab excessu Divi Sigismundi Primi”)やヤン・ドウゴシュ(Jan Długosz, 1415–1480)の『栄えあるポーランド王国の年代記或いは編年史』(“Annales seu cronicae incliti Regni Poloniae”)が初めて出版されるなど、後世に大きな影響を与えた書物が幾つも印刷されました。

夫妻はまた、都市と「上の城」とのあいだの修道僧山麓に聖オヌーフリイ修道院を開きました。ここは後世、ウクライナ・ギリシア=カトリック教会の府主教となるアンドレーイ・シェプティーツィケィイ(Андрей [Шептицький], 1865–1944)が修道生活を始めた場所として知られます。

ヤン・シュチェンスヌィの舌鋒は、ルーシにポーランド化を押し付けようとしていた国王ズィグムント3世ヴァザ(Zygmunt III Waza, 1566–1632, 在位1587–1632)と、彼を育てたイエズス会に向けられました。『ルーシの民を巡る思案』(„Zdanie o narodzie Ruskim”, 1613)では、ルネサンス流のパラドックスの論法を使って公然と国王を批判します。

「私は知っている、地方議会で彼らに望みを持たせ、全国議会で笑い者にする。地方議会で約束し、全国議会でふっと吹き飛ばす。地方議会で同胞と呼び、全国議会で背教者と呼ぶ。〔…〕どう考えてもとんと合点がいかぬ。なぜなら、ルーシにルーシ人あるなかれとは、有り得べからざることであり、有り得べしとするならば、サーンビルの脇に海ありて、グダィンスクの脇にベシュチャーディの山々あれと欲するようなものだからである。〔…〕誰かポーランドにポーランド人あるなかれと欲したらどうか? 笑止! 有り得べからざることぞ。それは、たとえポーランド語を話すとも、ポーランドの法も慣習も忘却しているのだ。」

彼は、ウクライナ語で歌も詠みました。それは次のようなものです。

Pastusze, pastusze,

Liubliu tie do dusze,

A sczo mene boli,

Skazu ty do woli.

Czeredoiku maiesz,

Riadit iei nie znaiesz:

Tobie z neiu licho,

Iei z tobu nie tycho.

Bywał tu didoiko,

Mił się choroszeiko;

Wołki się boiały

Czeredu miiały.

Da scoz nam czynity?

Terpity, terpity,

Z Bohem się nie bity.

牧人よ、牧人よ、/ Shepherd, Shepherd

我れ汝(な)を心に思う、/ I think of you,

我れを苛むことを、/ To torment you,

汝れに有様(ありよう)に聞かせよう。/ I will let you be.

汝れ家畜を持てど、/You have livestock,

調和(あや)なすことままならず。/ Harmony does not remain.

汝れ家畜と災禍あり、/ You have livestock and calamity,

家畜汝れと寛ぎなし。/ Livestock without ease.

老人(おいびと)ここにありけり、/ The old man is here,

つつがなく暮らしにけり。/ Living in good health.

狼どもは怖気づき、/ The wolves became scared,

家畜を避けて通りけり。/ Passing by and avoiding the livestock.

されど我らにいかがはせん? / But how about us?

耐えて、耐えて、/ Endure, endure

神と争うことなかれ。/ Do not fight with god.

ここでは、「老王」のあだ名で知られたズィグムント1世(Zygmunt I Stary, 1467–1548, 在位1507–1548)と、今上のズィグムント3世が対比され、後者が揶揄されています。狼はイエズス会でしょうか。この時代の文化人は真の意味を隠匿したり、ダブルミーニングを用いることを好んでいましたので、謎解きをしてみて下さい。

ヤン・シュチェンスヌィは親戚のミコワイ・ゼブジドフスキ(Mikołaj Zebrzydowski, 1553–1620)らと謀って武器を取って国王と戦い、そのため、彼の印刷所は閉鎖を命じられ、出版物も押収、莫大な借財だけが残りました。

彼の息子の代で家系は絶え、ドブローメィリはコニェツポルスキ家の所領となりました。

【参考リンクほか】

Добромиль // Замки і храми України [https://castles.com.ua/dobromyl.html] (最終閲覧日:原稿作成日、以下同じ)。

Скелівка // Там само [https://castles.com.ua/skeliwka.html].

Українська поезія XVII століття (перша половина) / упоряд., вступ. ст. та прим. В. В. Яременка; редкол.: І. Ф. Драч та ін. Київ: Рад. письменник, 1988. С. 43. [http://irbis-nbuv.gov.ua/cgi-bin/ua/elib.exe?Z21ID=&I21DBN=UKRLIB&P21DBN=UKRLIB&S21STN=1&S21REF=10&S21FMT=online_book&C21COM=S&S21CNR=20&S21P01=0&S21P02=0&S21P03=FF=&S21STR=ukr0002048]. (1つ目の引用元)

Herburt J. S. Zdanie o narodzie Ruskim // Lipiński W. Z dziejów Ukrainy. Księga pamiątkowa ku czci Włodzimierza Antonowicza, Paulina Święcickiego i Tadeusza Rylskiego. Kijów, 1912. S. 92–97. (2つ目の引用元はS. 92–93、S. 80–92に解説)

Возняк М. Українські пісні в польських виданнях XVII ст. [Електронна копія]: (відбитка з ”Записок Наукового Товариства імені Шевченка”, т. CLC). Львів, 1937. С. 4. [https://elib.nlu.org.ua/object.html?id=3277]. (歌の引用元)

Długosz J. Historia Polonica Ioannis Długossi […] In Tres Tomos Digesta Autoritate et Sumptibus Herbulti Dobromilski edita. [T. 1]. Dobromili, 1615. [https://www.dbc.wroc.pl/dlibra/doccontent?id=8014&from=FBC]. (ドブローメィリ版『ドウゴシュの年代記』。ドブローメィリ印刷所の紋あり)

Пагутяк Г. Український вірш із ХVІІ століття. Слово Просвіти. 23. Київ, 2013. С. 13.

10月 活動日誌

2019年10月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

9月末に本学留学生も日本に戻り、そのあとリヴィウは一時的に気温が零下になるなど寒くなりました。その後10月の半分程は天気もよく暖かい日が続きましたが、月末までにまた寒くなりました。木々の葉っぱも色づいて散り、東京の感覚ではすっかり冬めいてきました。

さて、10月は、日本関係の行事が幾つもありました。

【作家・辻原登さんの講演会】

10月9日、日本から作家の辻原登さんが来宇し、各地を廻るなか、リヴィウ国立大学でも講演会を開いて下さいました。当日は日本語の学生と先生を中心に大教室一杯の聴衆が集まりました。

辻原さんは若い頃からゴーゴリの作品に魅せられており、今回の初めてのウクライナ訪問をとても楽しみにしていたとのことで、リヴィウののち、キエフ(キーウ)やゴーゴリの故郷ポルターワへもいらっしゃるとのことでした。

また、『ドン・キホーテ』と『源氏物語』とを非常に高く評価しており、前者は小説のあらゆる可能性を内包しているので、学生の皆さんも読むようにと仰りました(日本語の学生ですので、『源氏物語』も当然お勧めされました)。また、『ドン・キホーテ』と『源氏物語』の融合からおもしろい小説が生まれるのではないか、と示唆されました。

聴衆からは活発に質問が出されました。作家になった動機について尋ねられた辻原さんは、小説を書く動機は作家にとっては不明なもので、恋愛のようなものだとお答えになりました。また、文学とは「~のために」書かれるものではないのだ、ということも仰りました。

物語舞台に外国が現れる作品がしばしばあるのは、物語が(登場人物が)日本という枠に留まることができないからであり、自由に躍動するための空間が必要であるからだとのことでした。また、作品背景が歴史上のある時代であったりするのは、千年前の人間が何をどう考え愛し合っていたのかを考えるのがおもしろいからであり、また、ヨーロッパ的絶対時間を超えたいとの考えがあるからだと述べられました。

小説は基本的にファンタジーであるが、ファンタジーを支えるのは磨き抜かれた文章の力であり、文章そのものが正確であることが大事である。その意味で、「完璧な嘘」をつきたい、とも仰りました。

また、折しも即位礼の直前の訪問でしたのでそういった話題にも触れましたが、著作のなかで美智子皇后陛下が皇太子殿下(今上天皇)にお勧めされたのが、大逆事件を扱った小説『許されざる者』であった、というエピソードをお話されました。

リヴィウ大学で日本語専攻があるのは文学部であり、多くの学生が文学に興味を持っているので、非常に興味深く聞くことができたと思います(質問の多さがそれを物語っていたと思います)。残念ながらウクライナでは辻原登作品が入手困難のため(ウクライナ語訳も出ていません)作品を読んだことのある学生がいなかったのですが、作品を読めば講演で聞いたことがより実地に、具体的に腑に落ちるのではないかと思いました。

辻原さんにウクライナが気に入ってもらえたらよいなと思います。

辻原登さん(中央)との記念撮影

【弁論大会】

10月19日、キエフ国立言語大学で第24回日本語弁論大会が開催されました。リヴィウ大学からは3年生のイーンナ・ストクラートナさんが「子供っぽい人」についてのスピーチを携えて参加しました。イーンナさんは、「子供っぽい」というのを「いい加減」とか「気分屋」といった悪い意味で言うのではなく、子供の持つ好奇心や新鮮な感受性、未知のものを怖れない勇気に読み変えていけば、世界はもっと優しく、自由なものとなるのではないか、と訴えました。

夏休み前から練習をしてきましたが、結果は、見事全国4位に入賞しました。9月から10月にかけて目に見えて上達したので、毎日よく練習したのだと思います。また、担任のウリャーナ先生や同級生のみんなが質疑応答の練習に積極的に協力してくれました。入賞おめでとうございます。

弁論大会の記念撮影
スピーチをするイーンナさん

【和太鼓・尺八コンサート】

10月22日、今上天皇陛下の即位の礼に合わせて、日本国大使館が主催する和太鼓と尺八の演奏会がマリーヤ・ザニコヴェーツィカ記念国立アカデミー・ウクライナ・ドラマ劇場(リヴィウ市、レーシャ・ウクライーンカ通り1番地)で催されました。今回の演奏会は、リヴィウ市のみでコンサートが開かれました。コンサートに先立ち、倉井高志大使が全文ウクライナ語でスピーチを述べられ、大変感銘を受けました。

和太鼓奏者・谷口拓也さんと尺八奏者・小濱明人さんが、伝統的な曲目とオリジナル曲を披露して下さいました。力漲る演奏に圧倒されました。また、初めて和楽器を目にする聴衆に対し、楽器の説明もして下さいました。

リヴィウ大学の日本語の学生や先生方も大勢聞きに行きましたので、おもしろかったのではないかと思います。個人的には、田楽の演奏が一番気に入りました。

即位記念の行事が(首都ではなく)リヴィウで開催されたことは、より幅広い多くのウクライナ人が日本文化に触れることができるようにとの配慮からなされたことで、今後ともウクライナ各地でおもしろい行事が広がっていくとよいですね。

10月30日は学園祭のようなチャリティーバザールが開かれました。文学部のブース。

【参考リンク】

「倉井大使夫妻 第24回ウクライナ日本語弁論大会に出席」在ウクライナ日本国大使館ホームページ(原稿作成日閲覧、以下同じ)
https://www.ua.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_001521.html

「倉井大使夫妻 和太鼓・尺八コンサートを開催」同上
https://www.ua.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/00_001524.html

同コンサートに関するリヴィウ市議会の記事
https://city-adm.lviv.ua/news/culture/272015-lviv-pryimav-kontsert-iaponskoi-muzyky-za-uchastiu-inozemnykh-muzykantiv

9月 活動日誌

2019年9月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【サマースクール】

今年も、リヴィウ大学に4名の留学生がやって来て、9月初めから3週間行われる本学留学生のためのサマースクールに参加しました。今年は、佐野智仁さん、田上凛太郎さん、豊島愛子さん、下村莉央さんが参加してくれました。専攻言語は中国語、モンゴル語、ロシア語と、実に多種多彩なメンバーでした。

サマースクールはその主要科目であるウクライナ語の授業のほか、ウクライナの文化史、ウクライナ文学、ウクライナ語の歴史に関する講義が行われました。また、糸巻き人形「モータンカ」作りと、ウクライナの家庭料理の体験教室が催されました。ハレィチナー青少年創作センターの講座の見学もありました。休日には、ウクライナ各地や隣国に旅行したり、市内を散策・観光したりしていたそうです。

滞在の上でのトラブルもあったのですが、最終的には無事に科目を修了することができました。最終日には、文学学部長のスウャトスラーウ・ペィレィプチューク先生から修了証を一人ひとり手渡されました。

リヴィウ大学の日本語専攻の学生も、日本からの留学生との交流を大変喜んでいました。

みんなの糸巻き人形
人形鋭意製作中
修了証を戴いて記念撮影

【本の市場】

毎年恒例の本の市場、第26回ブックフォーラムが9月18~22日に開催されました。主会場は、リヴィウ芸術会館と、隣接するポトツキ館の敷地ですが、市内各所(ホームページによると30箇所)に会場が設けられたとのことです。

このイベントでは、ウクライナ各地と周辺諸国からいろいろな出版社が集まるだけでなく、本を通常販売価格より安く入手できるので、大変大勢の来場者で賑わいます。ウクライナの出版業界もインターネットなどに押されて苦境にあると思いますが(事実、図書館は利用者の減少などを理由に営業時間が短縮されています)、本好きな人はそれでもまだ多いように見えます。

また、児童書(絵本など)が年々充実し、絵柄もどんどんかわいくなってきているのに気づきました(かわいいというのは主観ですが)。また、リヴィウという土地柄もあるのか、かつてはウクライナのどこでもよく見られたソ連的(ロシア的とでも言うのでしょうか)絵柄が見られなくなったように思われました。児童書にはかなり大きなスペースが割かれており、児童書専門の出版社も幾つかあるようでした。ウクライナ人(大人)は自分では本を読まないが、子供のためには本を買う、という話もあります。

ブックフォーラム_ポトツキ館敷地の出店

【参考リンク】

第26回ブックフォーラムのホームページ(2019年9月30日閲覧)
https://bookforum.ua/forum-vydavtsiv/

8月 活動日誌

2019年8月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【リヴィウ大学近所の様子】

リヴィウ市には、ルーシ王国時代の城下町(元レィーノク)、その後中世から近世にかけて作られた市街地(レィーノク)、その周辺に作られた近代のオーストリア時代や20世紀前半のポーランド時代の町並みがあります。リヴィウ大学は、レィーノクのある旧市街から自由大通り(かつてのポールトワ川)を跨いで西側に作られたオーストリア時代の一角にあります。観光客の多くは旧市街から大学の辺りを巡っていて、大学より北には行かないので、今回はそちらを少し紹介します。

大学の北を東西に走るホロドーツィカ通りをやや西に行ったところに、聖アンナ教会があります。16世紀に建てられ、その後焼失しますが再建と改築を繰り返して現在に至ります。ソ連時代には家具屋にされていましたが、1992年にウクライナ・ギリシア=カトリック教会の教会堂となりました。

その近くには、昨年100周年を迎えた11月決起(2018年11月の日誌参照)のために建てられた記念碑、「11月蜂起英雄の碑」(Пам’ятник Героям Листопадового чину)があります。ライオンが盆踊りをしているように見えますが、これはリヴィウの紋章(リヴィウ市章および西ウクライナ人民共和国の国章)を立体化したものです。もう一つの手の形の記念碑(11月の日誌参照)の方はこの失敗した決起の怨念が籠もっているような造形でしたが、こちらはより愛嬌があるように思われます。裏側から見ると、普通絶対に見られない「紋章の裏側」が見られますね。足元には、イワーン・フランコーの『ふかき淵より。讃歌』(«De profundis. Гімн», 1880)または『永久の革命家』(«Вічний революціонер»)と呼ばれる詩の一節「慟哭せず、獲得する」(«Не ридать, а добувати»)がレリーフされています。このフレーズは、西ウクライナ人民共和国の成立に貢献したウクライナ・シーチ銃兵隊の円形章にスローガンとして用いられていたことから、記念碑に記されました。また、小さな人物像のレリーフもありますが、それは1918年11月1日に市庁舎にウクライナ国旗を掲揚したグループの一人、ステパーン・パニキーウシケィイ(Степан Паньківський, 1899–1919)の肖像であるとのことです。

11月決起英雄の碑

大学から聖アンナ教会に向かう途中に、赤レンガの建物があります。元は聖アンナ教会の付属学校だったようですが、現在はリヴィウ法科ギムナジウムとなっています。
その脇の、作曲家メィコーラ・レオントーヴィチ(Микола Леонтович, 1877–1921)の名が付いている通りに入ると、行き詰まりに独特の緑瓦の屋根を持つ塔が見えてきます。よく見ると、塔には「ダヴィデの星」の装飾があるのがわかります。これは、現在は公営第三市立診療病院の産科(ヤーキウ・ラポポールト通り8番)として使われていますが、元はユダヤ人のための病院として建てられました。1899年の設計で、ネオムーア様式(本当のムーア様式を模した、市民社会の建築様式)となっています。当時、オリエント風の建築がブームでしたが、リヴィウでは大変珍しいです。設計者は、4月に紹介しましたイワーン・レヴィーンシケィイ(Іван Левинський, 1851–1919)です。

公営第三市立診療病院

病院を左に曲がると、公園になっている丘が見えてきます。一見のどかですが、その名は刑場山(Гора Страт)です。18世紀には、ポーランドやユダヤ人、並びにロシア帝国に対するウクライナの独立運動を起こしたハイダマーカたち(Гайдамаки)がここで処刑されました。オーストリア帝国時代には、ポーランドのロシア、オーストリア、プロイセンからの独立を目指すクラクフ蜂起(1846年)を起こしたポーランド民主団(Towarzystwo Demokratyczne Polskie)団員が処刑されました。現在も、処刑されたテオフィル・ヴィシニョフスキ(Teofil Wiśniowski, 1805/06–1947)とユゼフ・カプシチンスキ(Józef Kapuściński, 1818–47)の追悼碑が立っています。

丘の脇のクレパーリウシカ通りをさらに北に行くと、リヴィウ名物のビール工場があったり、市民プールがあったりします。

【参考リンク】

Франко І. De profundis. Гімн. (2019年9月5日閲覧)
https://i-franko.name/uk/verses/zvershyninyzyn/gimn.html

11月蜂起英雄の碑を製作した彫刻家のインタビュー記事
https://wz.lviv.ua/news/382479-ne-treba-shukaty-putina-tam-de-ioho-nemaie

7月 活動日誌

2019年7月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

今回は留学について紹介をします。

【留学プログラムの概要】

本学とリヴィウ大学との交換留学制度は2017年より始まり、本学からはすでに7名がリヴィウ大学に留学しています。リヴィウ大学が本学の留学生のために提供してくれる留学プログラムの名前は、「ウクライナ語及び文化との邂逅」(«Знайомство з українською мовою та культурою»)となっています。本年9月に3回目の留学生4名が来てくれることになっています。

本学における募集は、まず約1年間(9月~6月ないし7月頃まで)の長期留学の募集が行われ、希望者がいない場合は短期留学(9月第1月曜~第3金曜)の募集が行われています。長期留学は1名、短期留学は3名まで学費が免除されますが、それ以上の希望者も有償で留学できます。参考までに、短期留学の学費は例年ですと4万円程度でした(支払いは現地通貨であり、金額には変更が生じる可能性があります)。

一方、リヴィウ大学からは毎年1名、本学へ長期留学生が派遣されています。もしかしたら、皆さんのなかに友達になった人もいるかも知れません。

※ここで紹介する情報は基本的に過去の実施に基づくものであり、毎年若干状況が異なる等、必ずしも将来の実施内容に合致するかどうかは保証できかねます。あくまで留学のイメージをつかむための参考として下さい。

【短期留学期間・カリキュラム】

例年、9月の平日3週間に設定されています。2019年度は9月2日(月)~20日(金)となっています。曜日によって決まるため、年によって日付は変わります。

通常、午前中にウクライナ語の授業2コマ、午後はその他の科目や体験教室が行われます。時間割については、昨年度の留学生に配布された時間割を例として掲載します(時間割は敢えてウクライナ語で作成されているので、解読してみて下さい)。

土日は休みです。日程はある程度融通が利きます(要相談)。休みを利用してほかの町に旅行したりすることもできます。これまでの留学生は、キーウ(キエフ)に行ったり、オデーサ(オデッサ)に行ったりしていたようです。リヴィウ近在の日帰り旅行もおすすめです。

【短期留学で学べること】

例年、ウクライナ語(授業は毎日)、ウクライナの歴史、ウクライナ語の歴史、ウクライナの民俗学(口承文学)、ウクライナの文学の授業が設定されてきました。また、これまで体験教室として、ウクライナ料理教室、紐編人形作り、カルチャーセンター、市街地の見学(学生または教員による案内)などが実施されています。

なお、講師の先生は原則としてボランティアで教えて下さっていることもあり、また施設の都合・天候等もあり、年によっては様々な事情によって科目やプログラム内容に変更があり得ます。ご了承下さい。

【滞在について】

大学の寮が提供されます。施設は年によって異なる場合があります。

現地では、ウクライナ語のほか、若者のなかには英語のできる人も少なくありません。それ以外に、ロシア語やポーランド語のできる人もいます。戦争で逃げてきた人がいることもあり、ロシア語人口はやや増えたように思われます。また、リヴィウ大学には日本語専攻があるので、日本語のできる学生がたくさんいます。ぜひ友達になって下さい。

食事については、昼食は学食が安価に利用できます。市内には随所にスーパー、コンビニ、日用品や食料品、衣料品店などがあります。ファミレスやファーストフード店もあります。観光都市ですので、短期滞在のために必要なものはたいてい入手可能です。現地で入手できないような「こだわりのもの」は持参した方がよいですが、それ以外はあまり心配はいらないと思います。

市内交通は、電気交通(市電、トロリーバス)、路線バスがあります。寮から大学への交通手段は、寮の施設によって異なってくるため(施設は市内のあちこちにあります)、毎年施設が決まってからご案内しています。リヴィウ大学の先生方が毎年できる限り条件のよい施設を提供してもらえるよう寮の管轄部署等と交渉して下さっていますが、必ずしも理想的な素晴らしい条件の施設を提供できるとは限りませんので、「寮暮らしも留学の勉強のうち」と思ってご了承いただければ幸いです。

街の治安は悪くありませんが、車内のスリには厳重にご注意下さい。特に、財布やスマートフォンは狙われやすいです。そういったものは、できるだけ車内や人混みでは出さない方がよいでしょう。

戦争に関しましては、例えば前線近くの都市マリウーポリまで、リヴィウからは寝台急行列車で2晩かかる距離にあります。今どき世界のどこにいても完全に安全という場所はないと思いますが、リヴィウは少なくともこれまでのところ他のヨーロッパ諸国と比べても特に危険な雰囲気は感じられないと思います。

本学からの留学生は大変歓迎されていますので、皆さんもぜひ留学を考えてみて下さい!

(参考)

2018年度時間割
ウクライナ語授業の様子(2017年度)
人形作りの体験教室の成果(2018年度)
第8寮(2019年度に利用が予定されている寮)

4月 活動日誌

2019年4月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【イワーン・レヴィーンシケィイ。衝動】

建築の写真展、「イワーン・レヴィーンシケィイ。衝動」展(«Іван Левинський. Імпульс», キュレーター:パウロー・フディーモウ氏)があったので、会場の火薬塔まで見学に行きました(入場料50 UAH、無料開放日あり)。

19世紀末と言いますと、ヨーロッパを破壊と建設の狂騒が覆った時代で、市壁が取り払われるとともに前近代の建造物が取り壊され、市民階級によって新しい建築物が次々に造られたのでしたが、その変化著しいウィーンを都とするオーストリア帝国に属した西ウクライナもまたその渦中にありました。イワーン・レヴィーンシケィイ(Іван Левинський, 1851–1919)は、この時代に活躍したウクライナ人の建築家です。今年がこの建築家の没後100年に当たることを記念し、展覧会が催されました。この人物はハレィチナー(ガリツィア)地方の建築企業家として工房を主宰したことで特に知られており、1881年の工房設立から1910年代にかけてリヴィウ市内だけで数百件の建築に携わりました。今日でも、リヴィウでは彼の設計または施工による物件をいくつも見ることができます。

残念ながら筆者は教養がないので彼の建築の特徴とその意義についてきちんと説明することができないのですが、展覧会の解説を元に、表面的になりますが説明を試みたいと思います。

イワーン・レヴィーンシケィイは、カルパティア山脈沿いの小都市、ドレィーナ(Долина, 現イワーノ=フランキーウシク州の市)に生まれました。学業を続けるためリヴィウに移住し、1874年に帝立王立技術学士院(アカデミア。帝立王立はオーストリア皇帝とハンガリー王のこと。のち高等工科学校、今日のリヴィウ国立工科大学)を卒業しました。折しもヨーロッパでは歴史主義と民族主義が開花した時代で、レヴィーンシケィイの建築も自民族の文化とその歴史を見直すという観点からその影響を濃く受けたものとなりました。同時に、ウィーン分離派(ゼツェシオン)の新しい建築潮流の影響も受けております(そもそもリヴィウ市街にウィーンの街並みと似た部分のあるのは、分離派の活動による面も少なからずあります)。分離派以前の19世紀建築のいかめしいデザインに対し、彼の建築には荘厳さとは別の洒脱な装飾が施され、いかにもアール・ヌーヴォー調の柔らかく有機的なデザインが特徴で、建物全体にかわいらしさや親しみを感じられると思います。

大規模事業としては、市立大劇場(1897–1901, 今日のリヴィウ国立歌劇場)、リヴィウ駅新駅舎(1902–1904, 今日の本駅舎)、地方財団の建てた病院群の建設に携わりました。20世紀初頭にはウクライナ人や団体からの発注が相次ぎました。その中でも特に代表作として知られるのが保険会社「ドニステール」のビル(1905–06, 現在の公営第一病院)で、カルパティア山脈のフツール地方の意匠を取り入れたデザインが光ります。ルーシ教育協会の寄宿舎、メィコーラ・レィーセンコ記念音楽協会の建物も彼の工房によるものです。一大事業となるはずだったウクライナ劇場の建築は、ポーランド人団体の反対もあって実現せず設計図のみを残しました。映画館も数多く建設しましたが(1990年代までリヴィウには無数の映画館がありました)、そのうちの一つ「サン・リヴァル」は今日でも営業を続けていて(現在の名称は「コペルニクス」)、ウクライナで現役最古の映画館となっています(なお、先月見たところ、修繕工事を行っていて一時営業を休止しているようでした)。ほかに、集合住宅や個人向け邸宅も多く手掛けました。

宗教界との繋がりもありした。ウクライナ・ギリシア=カトリック教会の府主教アンドレーイ(シェプティーツィケィイ)宛の手紙が複数残されており、府主教に対し、ウクライナの愛国者、ウクライナの庇護者としてウクライナの学生へ支援を賜るよう求めたりしています。仕事の上でも、府主教館や聖オヌーフリイ修道院(昨年8月の記事に写真を掲載しました)の修復事業、当時はウクライナ人の町であったペレーメィシュリ(現ポーランド共和国、プシェムィシル市)の神学校(セミナリオ)建設などを請け負っています。

1885年10月には、レヴィーンシケィイの工房は建築資材を製造する工場(こうば)を開設し、その後30年にわたり、建築ラッシュのリヴィウへ多種多様な建材を提供しました。

高等工科学校教授でもあったレヴィーンシケィイは、その実用建築学科長を務めました。彼は、最も費用対効果の高い設計が最も合理的な設計であるという信念を持っていました。経済性と論理性の面から実用性を追求することに彼の関心はあり、居住者にとっての内部空間の快適性を重視すべきだと考えていました。

企業家にして教養ある技術エリートである彼は、ハレィチナーのウクライナ人社会の名士として、協会「プラーツャ」(「仕事、作品」の意味)も設立しました。

しかし、建設の時代は過ぎ、破壊の時代が再来します。第一次世界大戦が始まり、息子のステパーン(Степан Левинський, 1897–1946)にはオーストリア軍への召集が掛かりました。彼は戦場で健康を害するものの生還し、のち東洋学者として知られることになります。彼についてはいずれ日本でも紹介されるでしょう。戦中、リヴィウはロシア軍によって占領され、ウクライナ人社会と社会的著名人らは大きな圧迫を受けます。レヴィーンシケィイの工房も家宅捜索を受け、閉鎖命令が下されました。レヴィーンシケィイは、ほかの企業人や銀行家ら名士とともにロシア軍の人質に取られました。

1918年3月、旧ロシア帝国領であった(1917年11月以降ウクライナ人民共和国首都)キーウ(キエフ)からプラハ経由でリヴィウへ帰還したレヴィーンシケィイは工房を再開しようとします。彼は、職人たちに安い食事を提供して燃料も援助しました。

同年11月22日、ウクライナ軍とポーランド軍の戦闘の末リヴィウはポーランド軍によって占領されますが、ポーランド政権への忠誠を誓う書類にサインするよう迫られたレヴィーンシケィイはこれを拒否し、その結果、教職を失います。こうした不幸が重なった結果、健康状態は悪化し、1919年7月4日、永眠しました。

展覧会では、レヴィーンシケィイの生涯と、その背景となったウクライナ及びヨーロッパ諸国の社会状況が並行して解説され、彼を取り巻く世界を立体的に知ることができるよう工夫されていました。現存する建物の美しい写真のほか、設計図や手紙なども展示されていました。また、映像展示や彼の書斎の際限展示、磁器コレクションの展示もありました。

今日、人々の無関心と無法、経済事情などにより、レヴィーンシケィイの建築は劣化と崩壊が進んでいます。展覧会開催者の意図の一つは、人々に彼の建築を再認識してもらい、その保全に関心を持ってもらうことであるとのことでした。彼の代表作である旧「ドニステール」社屋は、ちょうど修復工事中でした(足場で覆われて建物が見えません)。

ウクライナ人劇場の建築模型(1901年、紙製)
展示の様子。中央は写真を元にした書斎の復元

【参考資料】

展覧会場内写真撮影は受付に許可を得ました。

展覧会ホームページ [https://www.facebook.com/events/рік-івана-левинського/відкриття-виставки-іван-левинський-імпульс/907681699623295/] (2019年4月1日閲覧).

キュレーターによる紹介記事 [http://yagallery.com/exhibitions/ivan-levinskij-impuls] (同上).

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