2018年度 活動日誌

3月 活動日誌

2019年3月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【クリミア関連の催し】

3月19日、文学部において、クリミア関係の催しがありました。ドキュメンタリー映画『クリミアを超えて』(«Більше, ніж Крим», 2018)の上映と、サフィナル・ジェミーリェワ(Сафінар Джемілєва)さんの講演です。クリミア・タタール人であるジェミーリェワさんは、同じくクリミア・タタール人の活動家で法律家、ウクライナ最高会議(国会)の現職代議士(2014以降)であり、クリミア人民会議(メジュリス)初代議長も務めた(1991–2013)ムスタファ・ジェミレウ/ムスタファー・ジェミーリェウさん(Mustafa Cemilev, Мустафа Джемілєв, 1943生)のご夫人で、ご自身もクリミア・タタール婦人連盟長を務めています。催しにはほかに、イスマイル・ガスプラル記念地政学研究所所長ナリマン・ウスターイェウさん(Наріман Устаєв)、ドキュメンタリーの脚本家フリナラ・ベキーロワさん(Гульнара Бекірова)が参加されました(各位のご氏名は本来クリミア・タタール語名で表記するのが最善と思いますが、筆者が同言語に詳しくないため、便宜上ウクライナ語名で表しています)。

ドキュメンタリーは、在ウクライナ・アメリカ合衆国大使館の資金援助を受けたプロジェクト「著名なクリミア・タタール人」(«Видатні кримські татари»)によって作成されました。今回は作品から2部が上映されました。

上映会の様子
サフィナル・ジェミーリェワさんとペィレィプチューク文学部長

【クリミアの言語学者】

前半は、20世紀初頭に活躍したクリミア・タタール人のテュルク学者で言語学者のベキル・チョバンザデ氏(Bekir Çobanzade, Бекір Чобан-заде, 1893–1937)について、その時代背景を交えながら紹介しました。この人物は、トルコ(当時はオスマン帝国)のイスタンブル大学とハンガリー(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)のパーズマーニ・ペーテル大学(現エトヴェシュ・ロラーンド大学、通称ブダペシュト大学)で学位を取得した、当時としては最も高い教養を持ったクリミア・タタール人の一人でした。ブダペシュト大学およびスイスのローザンヌ大学で教鞭を執りました(のち教授)。1921年にクリミア自治ソヴィエト共和国の樹立が宣言されると、その中央執行委員会の委員に選出されました。1922年からクリミア大学(現タウリダ国立大学。1918年、ウクライナ国政府によりシンフェローポリ市に開かれた大学)の東洋学科で教授として働き、1924年には招聘を受けてアゼルバイジャンに移住し、バクー大学東洋学部長として、テュルク語方言学、比較テュルク学、アゼルバイジャン語及び文学教授法などを教授しました。

その研究生活のなかで、特に1303年頃のクマン語の古文書である『クマン文書』(“Codex Cumanicus”)、突厥文字(オルホン文字)や古ウイグル語の書物に取り組み、テュルク学の発展に大いに寄与しました。1925年にバクーで開催された第1回テュルク学大会に参加し、新テュルク語アルファベット委員会でも活動しました。

1928年、ソ連において多様な意見への弾圧が強化されると、彼もまた迫害を受けるようになりました。民族主義思想(汎テュルク主義)のプロパガンダ煽動者として非難されたチョバンザデ氏は、ウズベキスタンに移住しました。政治的理由から故郷クリミアへ帰ることができなかった彼は、尽きせぬ望郷の念を詩に表しました。

学者としての大きな業績にも拘らず(むしろそれゆえに)、1937年、キスロヴォーツク(現ロシア連邦)でソ連当局によって逮捕されました。逮捕理由は、国民党(「ミッリイ・フィルカ」、“Milliy Fırqa”)を始めとするいくつかの民族主義的組織への参加と、汎テュルク主義宣伝の咎でした。控訴権のない裁判で死刑判決が下り、同年10月13日に処刑されました。

【クリミアの志士】

後半は、今日のクリミア・タタール人のリーダーであるジェミーリェウ氏の半生を記録したドキュメンタリーが上映されました。第二次世界大戦中の1944年5月18日、対独協力の嫌疑によってクリミア半島(当時ソ連領)のクリミア・タタール人が中央アジアへ追放させられたことは周知の事件ですが、幼少のジェミーリェウ氏も家族とともに家畜車に載せられてウズベキスタンに移住させられました。そのため、故郷への帰還は子供時代から氏の夢となりました。

クリミア・タタール人の大学進学が禁止されていたため、ジェミーリェウ氏は16歳でタシュケント航空機工場に就職します。ここで1960年代、「クリミア・タタール青年組合」に参加しました。ここから、氏は当局に目をつけられます。大学を退学させられ、軍に送られるなど迫害を受けながらも活動をやめなかった氏は、何度も逮捕・投獄を経験しました。その中で、抗議活動として303日間の断食も断行しました(口をこじ開けての強制摂取により断食は終わりました)。当時の抵抗活動について、氏の盟友であるメィロスラーウ・マレィノーヴィチ氏(Мирослав Маринович, 1949生、ウクライナ・ヘルシンキ・グループ創設者)は、マハトマ・ガンディーの活動に比して高く評価しています(映画中のインタビューでそう語っています)。

なお、1983年11月の投獄の際の罪状には、北方領土を巡る日本の立場を支持する声明(ラジオ録音)をNHKに対して送ったことも挙げられています。(今日、ロシア連邦によるクリミア併合とソ連邦による千島列島併合とを同列に論ずる発想はウクライナで珍しくなくなっていますが、1980年代にそうした発想を表したことは先駆的であったと思われます。)

一方、将来の夫人となるサフィナルさんがジェミーリェウ氏の活動を知って獄中の彼に手紙を送ったことから、やがて二人の交際が始まりました。投獄と次の投獄のあいだの釈放期間のほかは、獄中の文通によって二人の交際は続けられました。聞いたところ、検閲によって没収された手紙も少なくなかったとのことです。

ウクライナが独立してソ連が崩壊すると、クリミアでは1917年に開催されて以来となるクリミア・タタール民族会議、クルルタイが開かれました。(今回の催しでは、第1回クルルタイ100週年の記念硬貨がジェミーリェワさんから学部長に贈呈されました。)

ソ連がなくなったお蔭で故郷に帰ることができたジェミーリェウ氏でしたが、2014年のロシア連邦によるクリミア併合後、ロシアによって再びクリミアへの入境を禁止されており、自宅へ帰れない状態となっております。氏は写真では穏やかなご老人のように見えますが、その壮絶な生涯からは静寂のうちに怒りのマグマを溜めた不撓不屈の闘士であることがわかります。

2014年以降、多くのクリミア・タタール人が逮捕されて収容所に送られたり、行方不明になったり、暗殺されたりしているほか、一般人宅に対する家宅捜査も度々行われています。ジェミーリェワ夫人は、「今日、私たちのクリミアは恐怖と涙、苦しみの地となってしまいました。息をすることも、歩くことも、生活することもままならない空間になってしまったのです。なぜ私たちが皆さんのところへ映画を見せに来たか。それは、同じことがここで繰り返されないようにするためです」、「自由なウクライナとともに自由なクリミアがあるのです」と語りました。

ロシアによるクリミア併合は、ロシア人にとってはお祭りですが、クリミア・タタール人にとってはソ連による支配の再来にほかならないでしょう。

【まとめ】

ペィレィプチューク文学部長もご挨拶で述べられましたが、ロシアによるクリミア併合という現在の事件を眼の前にして、強制移住を始めとするクリミア・タタール人に対して過去ならびに今日まで行われてきた弾圧が、ウクライナ人にとっていよいよ現実味のあるテーマとなってきていると思われます。迫害され故郷を追われるという共通の経験によって、ウクライナ人とクリミア・タタール人は一つに結びつくのです。ただ、その一方で、クリミアに関する問題に興味のなさそうな候補が選挙で人気を集めるなど、やはりクリミアは他人事としか思っていない国民も少なくないのかなという気もします(尤も、だからこそこのような啓蒙的ドキュメンタリーが制作される意義があるのだとも言えます)。

歴史的なことを言えば、ウクライナとクリミア・タタール人の関係は宗教の違いもあり、必ずしも友好的なものではなかったのも事実です。かつてクリミア汗(ハン)の下、強大な国家を築いたクリミア・タタール人は、年中行事のようにウクライナの地(及びポーランド、リトアニア、ロシアなども)を侵略し、人狩りを行って人身売買をしたり(イタリアやオスマン帝国に輸出した)、身代金を取ったりして経済を成り立たせていました(クリミア汗国による人狩りについては、ロシアとの関係についてですが、松木栄三『ロシアと黒海・地中海世界――人と文化の交流史』風行社、2018年、123–153頁が詳しいです)。一方でクリミア汗国はウクライナの同盟者であったことも一度ならずあり、なかでもウクライナ独立の英雄ボフダーン・フメリネィーツィケィイ将軍がクリミア汗国の高官トハイ・ベイと盟友であったことはよく知られています。しかし、どちらかと言えば、ウクライナにとってクリミアは敵国であった時期の方が長かったと言えます。トハイ・ベイが死するや、クリミア汗がフメリネィーツィケィイを裏切りそのため彼の独立闘争が頓挫したことも忘れられてはいません。特に16、17世紀のウクライナ人の歴史的生活において、クリミア汗国との一進一退の攻防はその重要な部分を占めたと言えます。ウクライナの諸侯やコサックの武将の多くがクリミア相手の合戦で名を上げた一方、多くの名将がその戦場で命を散らしました。他方、クリミア汗国に抗する力のなかったモスクワ国家(ロシア)は17世紀末ないし18世紀まで年貢(ポミンキ、即ち「贈り物」と呼ばれる貢税)を収めたり身代金を払ったりして凌いでいましたが、18世紀までに防衛戦を構築してタタールの侵攻を阻止するとともに、対クリミア・タタール戦闘に長けたウクライナ・コサックを味方に引き入れることにより攻勢に転じ、1783年にはいよいよクリミア汗国を滅亡に追い込みます(しばしば誤謬がありますが、ロシアがウクライナをクリミア汗国の侵略から救ってやったというわけではありません)。

積年のクリミア・タタール人との戦いや虜囚、裏切りについては多くの民謡や文学で繰り返し描かれており、そのため、ウクライナ人の中ではこれまでクリミア・タタール人に対する同情心がやや薄かったのではないかという気もします。しかし、今日、ウスターイェウ所長が述べられた通り、彼らクリミア・タタール人は「クリミア・タタール人に起源を持つウクライナ人であり、ウクライナ国民である」のです。国民に一等も二等もありませんから、民族的ウクライナ人のウクライナ国民と同等の幸福をクリミア・タタール系ウクライナ人にも保障する義務がウクライナ国家にはあるはずであり、ウクライナがそれを実行するのか否か、ウクライナ国民一人ひとりに問われていると考えるべきでしょう。

左から、ジェミーリェワさん、ウスターイェウさん、ベキーロワさん

【参考資料】

本稿のうち、催しに関する説明は以下2つのリヴィウ大学ホームページの記述を参考に作成しました(2019年4月1日閲覧)。歴史問題に関する記述は違います。

«Більше, ніж Крим»: відбулася презентація документальних фільмів про відомих кримських татар (大学サイト) [http://www.lnu.edu.ua/bil-she-nizh-krym-vidbulasia-prezentatsiia-dokumental-nykh-fil-miv-pro-vidomykh-kryms-kykh-tatar/].

Неймовірні історії про видатних кримських татар: презентація проекту «Більше, ніж Крим» (文学部サイト) [http://philology.lnu.edu.ua/news/neymovirni-istorii-pro-vydatnykh-kryms-kykh-tatar-prezentatsiia-proektu-bil-she-nizh-krym].

クリミア・タタール民族会議「クルルタイ」開催:何が話され、何が決められたか(クルルタイの活動の近況を伝える通信社「ウクルインフォールム」の記事) [https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/2580314-kurimiatataru-min-zu-hui-yi-kururutai-kai-cui-hega-huasare-hega-juemeraretaka.html].

2月 活動日誌

2019年2月28日
GJOコーディネーター 原 真咲

【リヴィウ市の電気交通】

リヴィウ市内の公共交通は、大きく分けて、バス交通と電気交通に分けられます。これ以外に、ウクライナ鉄道の中距離列車も市内の輸送の一端を担っていますが、停車場の数と運行本数の少なさから推測するに、市内公共輸送におけるその役割は限定的であり、前二者の担う役割が大きいと断言できるでしょう。

このうち、電気交通を担っているのが、リヴィウ公共企業「リヴィウ電気交通」(「リヴィウエレクトロトラーンス」)です。同社は、その名の通り、市街電車(路面電車)と無軌条電車(トロリーバス)という、二種類の電気交通路線を運行しています。

リヴィウ市内には、有限責任会社「エレクトローン輸送」(「エレクトロントラーンス」、親企業の名から「エレクトローン」と略称されるのが普通)や株式会社「リヴィウバス工場」(略称LAZ、ラーズ)といった輸送車両メーカーがあるのですが、リヴィウ市が地元産業育成をあまり重視していないおかげで、国内外の様々なメーカーの車両を見ることができます。

【リヴィウ電気交通の特殊車両たち】

さて、今回は初めから特殊で突然ですが、リヴィウ電気交通社の保有する特殊車両を一部、紹介したいと思います。なお、今回は文量の関係で事業用車のみで、保存車両は除外します。

【ウクライナ版ササラ電車】

1枚目の写真は、函館や札幌の方はお察しがつくかもしれませんが、北国名物「ササラ電車」です。SKh-2型(СХ-2)除雪車です。前のブラシ状の部分を回転させて除雪を行います。モーター付きで自走します。

型式のアルファベットは、「ハールキウ製除雪車」(Снігоочисник Харківський)の略号です。1952年から1963年のあいだに26両以上製造されました。写真のS-002(С-002)号車の製造年は少し調べたのですがよくわかりませんでしたが(工場番号は12)、リヴィウ電気交通社が所有する同型車3両のうち、S-003号車は1954年製とのことです。

SKh-2型雪かき車S-002号車

【砂まき電車】

写真2、3枚目は、通常の路面電車を改造した砂撒き車(Піскопосипальний вагон)です。砂撒き車というのは、その名の通り、軌道上に砂を撒くための専用車両です。なんでそんなことをするのかと言いますと、車輪とレールは金属同士で粘着性が低い(滑りやすい)上に、路面電車の軌道上には落ち葉や街のゴミなど滑りやすい障害物が落ちていることがあり、車輪が空転しかねないので、砂を撒いて滑り止めにするのだと思います。

この005号車の種車は、以前リヴィウ市電で旅客輸送に使用していたタトラT4SU型(Tatra T4SU)電車です。同型はチェコスロヴァキアの「ČKDタトラ」社製の路面電車で、現在では旅客輸送用としてはリヴィウ市電から引退しています。本車は1976年に製造されリヴィウ市電の848号車として旅客運用されたのち、2002年から砂撒き車として運用されているそうです。

運転台の後ろの客室部分をすっぱり切り取って、砂撒き装置を搭載しています。構造上、ホッパ車とも言えるでしょう。ときどき見かけますので、町中を元気に走り回っているようですが、どう見ても車体が思いっきり歪んでますね(笑)砂の重みのせいか、フレームごと歪んでいるようにさえ見えます。

町中がやたら砂埃に満ちているのはお前のせいだったのか、と思ったり思わなかったり(多分彼のせいではありません)。

タトラT4SU型電車改造の砂撒き車005号車(ピザームチェ駅付近、2018年)
後部がホッパ車構造になっています。

【車両修理所の貨物電車】

4枚目は、ホロドーツィカ通りの第1車庫(Трамвайне депо № 1)にある車両修理所(Вагоноремонтна майстерня)の貨物電車(Вантажний ВРМ)です。これも旅客用の電車からの改造車で、種車はゴータT2-62型(Gotha T2-62)電車です。東ドイツの有名な車両メーカー、「ゴータ車両製造」の路面電車です。

写真の001号車(旧457号車)は1963年に製造され、1983年までリヴィウ市電で旅客輸送に用いられました。本来は連接車でした(相方はゴータB2-62型の557号車で、457-557列車を編成していました)。ゴータ製の車両は少数、事業用や保存車両としてリヴィウ市電に残存しています。

写真の001号車は、バックで第1車庫に戻ろうとしています(逃げられました!)。横を追い越そうとしているのは、リヴィウ電気交通社のシュコダ14Tr02/6型(Škoda 14Tr02/6)無軌条電車(トロリーバス)です。538号車は、2016~17年頃リヴィウで近代化改修(アコモ改善)されてすっかり綺麗になりました。

ゴータT2-62型電車改造の貨物車001号車とシュコダ14Tr02/6型電車538号車(ホロドーツィカ通り、2018年)

【職用車】

今回の最後は、タトラT4SU型電車改造の職用車(Службовий вагон)です。006号車は1977年製で、2011年にT4型の旅客運用撤退まで通常の路面電車として運用されました(旧850号車)。原型を留めていて、ときどき町中を一人で走っています(現在旅客運用に就いているのはみんな車両を連結した連接車で、「一人」ではないです)。

ですが、写真のときはパンタグラフが上がっていないことからもわかるように、このときは自走していませんでした。なぜか、前のクラーズ(KrAZ)に牽引されています。これは第1車庫から出てリヴィウ駅や市街地へ向かう軌道上なのですが、何か作業をしていたのか、故障したのか、この車両が道を塞いでいたので後ろが大渋滞で、いろんな路面電車が行列してパレード状態になっていました。利用者は電車が来なくて大変だったことでしょう。このあと、クラーズに引っ張られて駅の方に曲がっていきました。

町中でときどきクラーズに引っ張られて行く路面電車やトロリーバスを見かけますが、トラックが電車を散歩させているみたいで見ていてどことなく微笑ましいです。なお、クラーズはウクライナ製の大型トラックで新旧ありますが、いずれも電車を引っ張れるくらい大型です(写真は新で、KrAZ-6322かその派生型)。

KrAZに牽引されるタトラT4SU型電車改造の事業用車両006号車(ホロドーツィカ通り、2018年)

【参考資料】
Lvivelectrotrans – Львівське комунальне підприємство ‘Львівелектротранс’ [http://www.lvivelectrotrans.com.ua/].
Харьков транспортный. Трамвай. Подвижной состав. Снегоочистители [http://gortransport.kharkov.ua/ps_models/96/] (2019年3月1日閲覧、以下同じ).
Історія на колесах або Дні відкритих дверей у трамвайному депо №1 (1. 6. 2015) [photo-lviv.in.ua/istoriya-na-kolesah-abo-dni-vidkrytyh-dverej-u-tramvajnomu-depo-1/].
Вагон № C-002 // Львівський електротранспорт[http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=727].
Поїзд № 457-557 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon.php?id_train=116].
Вагон № 005 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=9].
Вагон № 006 // Львівський електротранспорт [http://www.lvivtrans.net/tram_ps_vagon_single.php?id=10].
Львів, трамвайний вагон № С-002 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/73060/].
Львів, трамвайний вагон № 001 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/67762/].
Львів, трамвайний вагон № 005 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/18638/].
Львів, трамвайний вагон № 006 // Міський електротранспорт [http://transphoto.ru/vehicle/23999/].

11月 活動日誌

2018年11月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【独立100周年行事】

ウクライナは、今年で独立100周年になります。しかし、その道程は平坦ではなく、諸外国との戦争により独立を維持できなかったことは周知のとおりです。今月は、ウクライナ人の独立戦争のなかの象徴的な事件の一つである「11月決起」(Листопадовий чин)の100周年記念行事として、リヴィウ大学から聖ユール大聖堂に至る坂道(11月決起通り)にある旧ゴウホフスキ伯邸前にリヴィウ州政府によって建てられた記念碑の除幕式が催されました(州議会広報)。式典では、ウクライナ・シーチ銃士隊(Українські січові стрільці, УСС)の「銃士の歌」(Стрілецькі пісні)が演奏されるなどしました(GJO撮影)。リヴィウ大学の学生たちは、独立戦争の戦没者を埋葬したヤーニウ墓地へお参りしました。

【1918年、11月決起】

1918年1月22日(当時使用していたユリウス暦では1月9日)に、キエフを首都とするウクライナ人民共和国(国民共和国、民族共和国とも)で独立が宣言されました。

他方、オーストリア=ハンガリー帝国を構成するガリツィア・ロドメリア(ガリーツィエン・ロドメーリエン、ハレィチナー・ウォロディーメィリヤ)王国首府リヴィウでは、1918年10月18~19日、帝国議会、ハレィチナー議会、ブコヴィーナ議会の議員、各地、各政党、宗教界、学生、各種団体の代表者ら総勢約500名がウクライナ国民会議(Українська Національна Рада)を設立し、ハレィチナー(Галичина)、ブコヴィーナ(Буковина)、ザカルパーッテャ(Закарпаття)を領域とするウクライナ国家樹立を採択しました。10月21日には、イェウヘーン・ペトルシェーヴィチ(Євген Омелянович Петрушевич, 1863–1940)議長(大統領)がオーストリア政府からの承認を得るためウィーンに向かいました。

一方、10月28日にはクラクフにてポーランド精算委員会が組織されます。彼らはリヴィウへ兵を送って11月2~3日深夜に蜂起を行い、ハレィチナーをポーランド国家へ編入せんとする計画を立てていました。この計画が明るみに出ると、10月31日、ウクライナ国民会議とウクライナ総軍委員会から組織された代表団はガリーツィエン総督カール・ゲオルク・フイン伯爵(Karl Georg Huyn, 1857–1938)に抗議しハレィチナーのウクライナ人への引き渡しを要求するも、拒絶されました。ウクライナ・シーチ銃士軍団出身のドメィトロー・ヴィトーウシケィイ(Дмитро Дмитрович Вітовський, 1887–1919)中央軍事委員会代表はポーランド軍の侵攻の前に先手を打つべきであると主張、国民会議リヴィウ代表コースチ・レヴィーツィケィイ(Кость Антонович Левицький, 1859–1941)は蜂起を決議します。こうして1918年11月1日未明4時、ウクライナ人勢力による「11月決起」が開始されました。

ハレィチナー軍(のちウクライナ・ハレィチナー軍、Українська Галицька армія, УГА)は速やかに市庁舎、総督府庁舎、議事堂(現在のリヴィウ大学本校舎)、警察署、電話局、ラジオ局、郵便局、鉄道駅、飛行場、要塞、軍施設、監獄など戦略地点を抑え、午前7時にはリヴィウの無血掌握が宣言されます。ウクライナ勢はまた、ハレィチナー(今日のリヴィウ州、テルノーピリ州、イワーノ=フランキーウシク州、現ポーランド領の一部)の諸都市も押さえます。同日昼、フイン総督はオーストリア帝国の連邦化を決めた皇帝カール1世の11月16日付宣旨に基づき、ハレィチナーの全権をウクライナ国民会議へ委譲しました。

ウクライナ国民会議は、シャーン川(サン川)を国境とすること、リヴィウにおけるポーランド系及びユダヤ系住民の文化的自治を提案しますが、ポーランド人は拒否します。

11月1日深夜、ポーランド人武装勢力による蜂起が開始されます。ポーランド人義勇兵「ルヴフの若鷲」(“Orlęta lwowskie”)はリヴィウ駅を含む市西側を掌握、以降半月、東側のウクライナ軍と激しい市街戦が展開されます。現在の11月決起通りも両陣営の対峙した最前線の一つで、ゴウホフスキ伯邸も戦闘で大きな損傷を受けたと言います。

【リヴィウを巡る戦い】

ポーランド軍に続々と増援が送られてくるのに対し、ハレィチナー軍への増援は緩慢でした。7~8日、フェルディナント兵舎(現ホロドーツィカ通り40番地)で激しい戦闘が生じます(市議会はここに記念碑を建てました。(市議会広報)。ところで、1992年からペトルシェーヴィチ広場に記念碑設置予定地が設けられているのですが、なぜか今回無視されています)。

11月9日にはレヴィーツィケィイを首相とする政府が作られ、国号が「西ウクライナ人民共和国」(Західно-українська Народня Република, ЗНУР)と定められます。

高城にウクライナ軍の榴弾砲が据えられると、これを撃破すべくポーランド軍は航空戦力を投入します。イワーン・フランコーの息子ペトロー(Петро Іванович Франко, 1890–1941)は、機関銃中隊を率いて高城防衛に参加しました。キエフのウクライナ国政府は第3オデーサ航空師団を派遣し、リヴィウ近郊のクラスネーにハレィチナー軍航空隊が組織されます。

11月13日には、ウクライナ国民会議において「旧オーストリア=ハンガリー帝国ウクライナ人地域の国家的独立性に係る臨時基本法」が採択され、オーストリアの民族学者カール・フォン・チェルニヒ(Carl von Czörnig, 1804–1889)の著した『オーストリア帝国民族誌図』(“Ethnographische Karte der österreichischen Monarchie”, 1855)におけるウクライナ民族の歴史的居住地域に基づき、国境線が明文化されます。

18~20日の休戦期間にポーランド軍は鉄道輸送を用いた部隊再編に成功し、航空戦力、砲兵、装甲列車を含む1万人規模の兵力によってリヴィウ包囲を完成させます。21日に戦闘が再開されたとき、ウクライナ軍は自らの1.5倍に膨れ上がった強大な敵を目の当たりにしました。ウクライナ軍は必死の抵抗を試みますが、22日、進退窮まったウクライナ軍司令官フナート・ステファーニウ大佐は退却を命じます。入城したポーランド軍は住民の虐殺(ポグロム)を行い、23日に略奪中止命令が出されるまでの3日間で、ユダヤ系住民50~150名、ウクライナ系住民270名が利敵行為を働いたとして殺害されたとされます。

リヴィウを巡る戦いで、ウクライナ軍は戦死者250名、負傷者約500名、ポーランド軍は戦死者277名、負傷者910名を出しました。今日、激戦地の近く、レィチャーキウ墓地に双方の戦没者の慰霊施設があります。

西ウクライナ人民共和国及びウクライナ・ハレィチナー軍英雄碑除幕式の様子

10月 活動日誌

2018年10月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【日本語弁論大会】

今年で23回目となる日本語弁論大会は、10月21日(日)にオレーシ・ホンチャール記念ドニプロー国立大学(ドニプロー市)で開催されました。一昨年前からウクライナでは1年毎に首都と地方とで交互に会場を移して開催するということになっており、今年は初めてドニプロー市で開催されました(なお、地方実施の初回はリヴィウ大学で行われ、そのときちょうどリヴィウにいて審査員を頼まれましたから、緊張したのを覚えています)。

今大会へ、リヴィウ大学からは4年生のアナスターシヤ(ナースチャ)・ルホワーさんが出場しました。ウクライナ日本語教師会の作成したホームページがありますので、リンクを貼ります(https://www.facebook.com/groups/2163036270651746/)。

ナースチャさんは、「LGBT+は社会の一部です」という題で発表を行いました。これは、ウクライナや世界における性的マイノリティーと社会との関わりについてのスピーチで、5分間という限られた持ち時間の中に、概念の説明に始まり、できるだけ多くの例と自分の意見をしっかり詰め込むことができたと思います。ナースチャさんは昨年も弁論大会に出場しましたが、この1年間で眼を見張るほど日本語力が伸びました。スピーチの内容もより深いものとなりました。

原稿の執筆や修正から、音読の練習、ほかの学生たちや先生の前でのリハーサルと、担任のオーリャ先生や学科長のオレスタ先生のご協力もいただきながら一生懸命取り組んできましたが、その結果、全国4位という立派な成績を残すことができました。おめでとうございます。

本人の感想では、本番は頭が真っ白になってしまって何も覚えていないとのことでしたが、日本語での作文や執筆に際して改めて考えたこと、本番のために練習したことからはきっと、意識的にも無意識的にも何か得たものがあったはずだと思います。

リヴィウ大学には日本語の勉強に大変熱心に取り組んでいる真面目な学生が何人もいますので、その将来が楽しみだと思います。

【リヴィウ大学のイベント】

リヴィウ大学では10月4日から6日かけて、ウクライナ文学科創設170周年を記念する国際学術会議「ウクライナの文献学:学派、人物、問題」(Міжнародна наукової конференція «Українська філологія: школи, постаті, проблеми»)が開催されました。学会には12のセクションが設けられました。ところで、こちらは文学部長に見つかってしまい、ぜひ発表して下さいということになってしまったので、どうにかこうにか発表の準備を行って当日に臨みました。イワーン・ネチューイ=レヴィーツィケィイというウクライナの作家の小説について発表を書きました。第4セクション「古代及び古典文学」のセクションが割り当てられました。司会の先生の一人はオストリーフ(オストローフ)からいらしていて、ほかにキエフからの先生もいましたが、さすがにリヴィウからの参加者が多かったです。テーマは様々でしたが、古代から近世(18世紀まで)の古い文学と、近代(19世紀)の古典文学とが半々くらいでした。

学会2日目の最後に、大学ホールでコンサートが行われました。芸術文化学部の合唱団によるウクライナ民謡の演奏、18世紀ウクライナの哲人フレィホーリイ・スコウォロダーの詩を基にした出し物、カルパティア地方の伝統的なかなり激しい踊り、モダンダンスなどが披露されました。そのあと晩餐会があったのですが、ちょうど風邪を引いていて具合が悪かったので退散しました。残念!

最終日にはリヴィウ大学の研究所まで遠足をしたそうです。

ウクライナの大きな学会に参加すると、コンサートが見られたりいろいろなイベントが催されるのでおもしろいですね。日本の学会ではあまりそういう企画はないような気がします。

9月 活動日誌

2018年9月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【サマースクール】

夏休みが終わり、新学期が始まりました。9月は、東京外国語大学から留学生がやって来ます。今年は、2年生の丸島莉子さん、重光美可子さん、井谷彩美さん、4年生の腰塚尚子さんが3週間のサマースクールに参加しました。

サマースクールでは、大学ではウクライナ語の授業のほか、文化や歴史に関する講義、糸巻き人形「モータンカ」作りの体験教室が行われました。市内のレストランで行われたウクライナ料理教室では、きのこスープとデルネィー(じゃがいもから作るお好み焼き風の料理)を作りました。ハレィチナー青少年創作センターのいろいろな教室の見学もありました。リヴィウ大学の先生方と一緒に、フジコ・ヘミングさんのコンサートを聴きに行ったりもしました。

【日本大使館の説明会】

在ウクライナ日本国大使館からお客様がありました。

リヴィウ大学の学生向けに、日本の文化や風土に関する講演と、日本への国費留学のための試験についての説明が行われました。学生たちは、入学間もない1年生から積極的に参加していました。

講演は、「和魂洋才」の話や、ウクライナと日本との比較、特に「ウクライナはキエフからドニプローまで移動しても1つもトンネルがないが、日本だったらこれほどの距離を移動してトンネルがないなんてことはありえない」という話が印象的でした(※ドニプローはウクライナ南部の大都市で、キエフからの道のりは約600kmです)。

試験は倍率も高く狭き門だと思いますが、狭くともこのような道が開けているのはすばらしいことだと思います(ウクライナへの国費留学プログラムは??)。ぜひがんばって勉強してチャレンジしてもらいたいと思います。

(イベントにつきましては、在ウクライナ日本国大使館のフェイスブックにも掲載されています。)

【冬です!】

ちょうど留学生の帰国日から寒くなり、東京の冬のような気候になってしまいました。これから寒かったり暖かかったりを繰り返しながら本格的な冬になっていきます。

8月 活動日誌

2018年8月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【夏休み】

夏休みで大学は話題がないので、今月も近くの町の様子を話したいと思います。

【オストロージケィイ公】

今月は近世ウクライナの支配者、オストロージケィイ公(Князі Острозькі)を紹介します。

オストロージケィイ公は、ウクライナ北西部の町オストローフ(Острог, 現リーウネ州の市)を本貫とする公の一族でした。祖先はキエフ大公たち、そして初代ルーシ王ダネィーロ・ロマーノヴィチとされます。ダネィーロ王はリヴィウの建設者です。家伝によれば、このダネィーロ王こそは初代オストローフ公ダネィーロ・オストロージケィイその人でした(今日の研究ではダネィーロ公はダネィーロ王の孫とされます)。ポーランド=リトアニア共和国最大の大名として君臨し、正教とウクライナ文化の庇護者としてウクライナ社会の発展に大いに貢献しました。しかし、1620年に断絶しました。遺産は分家のザスラーウシケィイ公(Князі Заславські)が継承しましたが、こちらも1682年に断絶、一門は絶えました。

【リヴィウ】

ワセィーリ・コステャンティーン・オストロージケィイ公(Василь Костянтин Острозький, 1526/27–1608)は、オストローフに大学(神学校)や印刷所を開いたことで知られます。リヴィウ大学の博物館は、このオストロージケィイ公らによって継承されたビザンツの東方文化と、イエズス会らによって齎された西欧文化の結実点として本学を位置づけています。

ワセィーリ・コステャンティーン公が寄進したリヴィウの聖オヌーフリイ修道院の教会は今年、ちょうど建立500週年を迎えています。彼の下で最初の全訳聖書を出版したイワーン・フェードロウ(フョードロフ)もリヴィウに居住し、市民が中心になって作ったリヴィウ就寝兄弟団で翻訳や出版活動に携わりました。

これ以外にも、リヴィウにはザスラーウシケィイ公の教会があります。ワセィーリ・ステファーネィク記念国立学術図書館の敷地はかつてその所領で、彼らの寄進した履足(履靴)カルメル会聖アグネス教会・修道院が現在書庫として利用されています。跣足カルメル会教会・修道院(現在の聖大将軍ミカエル教会)建立にも寄進しています。彼らはまた合同教会(今日のウクライナ・ギリシア=カトリック教会)の庇護者として多くの支援を行いました。

【スタレー・セロー】

オストロージケィイ公は、今日のリヴィウ州にもいくつかの領地を持っていました。なかでもリヴィウ郊外にあるスタレー・セロー村(Старе Село)の城、スタレー・セロー城(Старосільський замок)は一門の最盛期である16世紀末に建てられた城塞で、リヴィウ州最大の面積(2ヘクタール)を誇ります。「黄金の蹄鉄」にも含められる場合があります。

城は、ワセィーリ・コステャンティーン公の代、1584から1589年にかけて普請されました。イタリアから招いた建築家アンウローシイ・プレィヘィーリネィイ(ワベレネ・ヌトクラウス)によってルネサンス式城郭として設計されました。1642年にはウラディスラーウ・ドミニーク・ザスラーウシケィイ公(Владислав Домінік на Острозі Заславський, 1616–56)による改築を受けます。1648年に叛乱コサックの攻撃を受けて一度陥落しますが、ドミニーク公はこの城をさらに改築し、マニエリスムとバロックの様式美を取り入れた壮麗で堅固な城に仕上げました。彼はこの城を居城とし、ここで没しました。2度目の改築以降、城はコサックの攻撃にも、クリミア汗国やオスマン帝国の襲撃にも持ち堪えました。ドミニーク公はコサックとの決戦で大敗北を喫したポーランド軍の大将で、専ら「羽根枕」という嘲った渾名で知られているのですが、必ずしも軍事的無才ではなかったのかもしれません。

今日残るのは、城壁と塔のみですが、三角形または五角形といわれる平面形を持つ稜堡式城郭の特徴と、近世ウクライナ西部で流行した渦巻文様の装飾などを見ることができます。

スタレー・セロー城の城壁とバロック・マニエリスム風装飾のある主塔

【ドゥーブノ】

ワセィーリ・コステャンティーン公の子ヤーヌシュ・オストロージケィイ公(Януш Васильович Острозький, 1554–1620)は、父の代に繰り返し起こった財産を巡るお家騒動に鑑み、1609年、財産分与を禁じた「オストローフ限嗣相続領」(Острозька ординація)を作ります。その首都となったのが、ドゥーブノ(Дубно, 現リーウネ州の市)でした。

彼は、祖父の築いた石造りの城を改築し、深い水濠と高い土塁を持つ堅固な稜堡式城郭に仕立てました。主郭は三角形の一角を川によって切り取られたような変則的な平面形をしています。同時代の教会や修道院、ザスラーウシケィイ公時代の城門も現存します。

この城が最も有名になったのは、ゴーゴリの時代小説『タラース・ブーリバ』でしょう。この作品の中で、ドゥーブノ城はクライマックスの決戦の場に選ばれます。タラースの息子アンドリーイが恋をする傾国の令嬢はハーリシュカ・オストロージカ公女(Гальшка Острозька)、その父「コーヴノ(カウナス)守護」(Воевода ковенский)は「キエフ守護」(Воєвода київський)だったワセィーリ・コステャンティーン公がモデルとされます。

【行き方】

聖オヌーフリイ修道院は、ダネィーロ王時代の中心地、旧レィーノク広場(Старий Ринок)からさらに10分ほど北に行った、鉄道の線路沿いに立っています。城山の麓です。市電6号線または徒歩で行かれます。国立学術図書館はリヴィウ大学の近所です。

スタレー・セロー城は、ウクライナ鉄道のスタレー・セロー駅のすぐ前にあります。リヴィウ駅近郊駅舎(Приміський вокзал станції Львів)に発着するホードリウ(Ходорів)行き普通列車で1時間弱です。

ドゥーブノはリヴィウから急行列車で1時間強の距離にありますが、列車もバスもほとんど走っていないため日帰りが困難です。夕方の列車で出て1泊し、翌日14時21分の終電で帰ることになるでしょう。城は鉄道駅から離れた市街地にあり、路線バスで行かれます。

リヴィウの聖オヌーフリイ修道院教会。500周年のポスターがある
イークワ川から望んだドゥーブノ城

【参考文献・サイト / References】
Дзярнович О., Рагаускене Р., Тесленко І., Черкас Б. Князі Острозькі. Київ: Балтія-Друк, 2015.
Гаврилюк І. Владислав Домінік Заславський (1616–1656 рр.): магнат, політик, воєначальник // Спеціальні історичні дисципліни: питання теорії та методики. Збірка наукових праць / Відп. ред. Г. В. Боряк; Упорядники: В. В. Томазов, І. К. Хромова. Київ: НАН України, Інститут історії України, 2013. Число 22–23. С. 83–110.
Мацюк О. Я. Замки і фортеці Західної України. Мандрівки історичні. Львів: Центр Європи, 2013. С. 17–22.
Палков Т. Західна Україна. Частина II. Львів: Ладекс, 2011. С. 35–36.
Яковенко Н. М. Українська шляхта з кінця XІV до середини XVІІ століття. Волинь і Центральна Україна. Видання друге, переглянуте і виправлене. Київ: Критика, 2008 (вперше видано 1993).
Войтович Л. В. Княжа доба: портрети еліти. Біла Церква, 2006.
Кралюк П. Таємний вояж Гоголя // Газета «День» [https://day.kyiv.ua/uk/article/ukrayinci-chytayte/tayemnyy-voyazh-gogolya] (2018年8月5日閲覧、以下同じ).

Старе Село // Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/stselo.html].
Дубно//Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/dubno.html], [https://www.castles.com.ua/dubno2.html].

7月 活動日誌

2018年7月31日
GJOコーディネーター 原 真咲

【夏休み】

リヴィウ大学では、7月前半までに実習や卒業式などがあって夏休みとなります。リヴィウ以外の地方から来ている学生も多く、多くが帰省します。新学年は9月から始まります。日本では猛暑とのことですが、今年のリヴィウの7月は雨がちの天気が続きさながら梅雨のようでした。

【黄金の蹄鉄】

今月は夏休みで大学の話題がないので、リヴィウの近くの町の様子を話しましょう。

リヴィウがその中心市となるリヴィウ州には、多くの名所旧跡があります。それらは大きく分けて、自然のものと、歴史遺産があります。後者のなかでも、「リヴィウ州の黄金の蹄鉄」(Золота підкова Львівщини)と名付けられた観光ルートがあります。今月はそのうち、第二次ウィーン包囲で活躍したヤン3世ソビェスキ(Jan III Sobieski, Ян III Собеський, 1629–96)の居城として名高いゾーロチウ城(Золочівський замок)をご紹介したいと思います。

【ゾーロチウ】

ゾーロチウ市(Золочів)は、リヴィウ市の東66 kmの距離にある、人口約2万4千人の都市です。この地には、遅くとも12世紀にはラデーチェまたはラーデチェ(Радече)という古代ルーシの都市が存在しました。ゾーロチウの名が初めて文献上に現れるのは、15世紀前半のことです。1523年には、都市自治権を保証するマクデブルク法が下賜されました。

ゾーロチウが飛躍的な発展を遂げたのは、大名ソビェスキ家(Sobiescy herbu Janina)がこの町の所有者となった1552年から1740年までの時代でした。ソビェスキ家はポーランドとウクライナの国境に地帯であるルブリン地方から来た一族であるとされていますが、元々は正教徒のルーシ人(ウクライナ人)でソブコー(Собко)という姓であったのを、現世利益のためにカトリックへ改宗、姓もポーランド化してソビェスキと称したと、18世紀初頭のウクライナの年代記には書かれています(Лѣтопись событій Самоила Величка // Лѣтопись событій въ Юго-Западной Россіи в XVII вѣкѣ. Т. 3. Киевъ, 1855. С. 375; 現代語訳Величко С. В. Літопис. Т. 2. Пер. з книжної української мови, комент. В. О. Шевчука; Відп. ред. О. В. Мишанич. Київ: Дніпро, 1991. С. 519 [http://litopys.org.ua/velichko/vel54.htm])。この説の信憑性は不明ですが、いずれにしてもウクライナ人にとってウクライナとの強い結びつきを感じる一族であったことは確かでしょう。

今日ある城を築いたのは、ヤン3世の父ヤクプ・ソビェスキ(Jakub Sobieski, 1588–1646)です。1634年、彼はイタリアから建築家を招き、それまでの古い木造の城の場所に新たにルネサンス式の城を築きました。ヤン・ソビェスキはさらに城を増築しました。

18世紀末、ポーランド=リトアニア共和国の滅亡に伴い、ゾーロチウはオーストリア帝国内のガリツィア・ロドメリア王国の都市となりました。オーストリア帝国が崩壊すると、ウクライナ・ポーランド戦争に勝利したポーランド共和国の領土となりました。1941年、赤軍が侵攻し、町を占領しました。城は秘密警察(NKVD)の監獄として用いられました。収監された人々は殺害され、遺体は窓から破棄されました。ドイツ軍が入城した際、生存者は一人もいなかったとのことです。彼らは、ユダヤ人に遺体の処理をさせました。集められた649人の遺体のうち、遺族によって身元が判明したのは40人足らずでした。その後、ユダヤ人は殺害されました。ドイツの敗戦とウクライナの独立運動の失敗により、ゾーロチウにはソ連の支配が戻りました。ソ連崩壊により、今日のウクライナ、リヴィウ州の地区政令指定都市となりました。

【ゾーロチウ城】

ゾーロチウの高台に築かれた城は、普請当時先端のルネサンス式築城術をもって造られた稜堡式城郭です。4つの矢尻型の稜堡を持つ石垣に囲われた正方形の基本構造を持つ四稜郭として造営されました。稜堡の上にはさらに盛り土があり、かなりの高さの防御壁となっています。城の周囲にめぐらされた土塁と濠も現存します。かつては都市全体も防御構造となっていました。

実際に見る城の規模は意外と大きく、数あるリヴィウ州の城郭の中でも屈指のものであることがわかります。ソ連時代にはかつての貴族文化は全否定され、城はひどく荒廃しましたが、ウクライナの独立後に発掘調査と修復作業が行われ、今日では宮殿を中心にかなり綺麗な状態に復元されています。一方、城の裏手の外側の石垣などにはまだ崩れかかった箇所があり、それも却って時の流れを感じられて趣があると言えるでしょう。

城内には御主殿(かつての住居)と唐風御殿(別荘)という2つの宮殿があります。唐風御殿は、ヤン・ソビェスキが愛妻のために建てたものですが、当時のヨーロッパ貴族の流行(シノワズリ)に合わせて作られました。いずれも博物館として公開されており、御主殿では王家の生活が見られ、唐風御殿では日本や中国、東南アジアやエジプトなど、東方世界の文化が展示されています。ただし、一族本来のコレクションはポーランドに持ち去られていて、現在展示されているのはリヴィウ美術館から提供されたものであるとのことです。日本のものでは根付の展示が特に強調されていますが(ウクライナでは根付に対する関心が高いものと思われます)、日本刀や置物、歌川国貞の浮世絵、源頼政の鵺退治を描いた蒔絵なども展示されていました。学芸員の話によると、リヴィウ大学の中国語の学生らによって御殿でお茶会が開かれることがあるそうです。

搦手の稜堡と石垣
稜堡の上から望む唐風御殿(左)と御主殿
復元模型
王座の間

【行き方】

ゾーロチウは、リヴィウからテルノーピリ経由でキエフに向かう鉄道路線上にあります。リヴィウから列車で1時間~1時間半ほどです。バスでも行かれますが、途中の村や町の様子を見たいなど特段の理由がなければ(バスは一面のひまわり畑の真ん中を走り抜けますので、それは感動的です)、なるべく鉄道の方がよいでしょう。鉄道の駅名は、ほかに同名の駅があるためズローチウ駅(Злочів)となっています。これは、ポーランド語の名前ズウォチュフ(Złoczów)から来ていると思われます。

駅は、お城まで徒歩20分以上、市街地まで30分以上南にあります。時間によっては、市街地にあるバス駅行きの路線バスが走っています(運賃は2018年8月現在5 UAH)。駅前のタクシーを利用してもよいでしょう。徒歩の場合は、駅からまっすぐ北に行って(駅舎は北口にあります)、途中の幹線道路(自動車道M09号線)で右折します。北に向かう次の道(マルキヤーン・シャシュケーヴィチ通り)を左折しますと、すぐに綺麗な木造教会と池が見られます。公園脇を抜け中心部に近づくに連れ、歩道は綺麗にインターロッキングが施され、花壇や植木のある大変素敵な住宅街になります(少し多磨の辺りの住宅街に似ています)。なかには戦前の住居もあります(地元の人の話によると、ポーランド統治時代の赤いレンガの家)。小さい公園に突き当たって右折しますと、左手に学校があります。突き当たってレストラン兼お土産物屋の脇をまっすぐ坂を上がると、お城の入り口につきます。まっすぐ行かずに右折して南に向かう車道の坂を上がりますと、城郭の裏手に抜けられます。石垣や濠が見たい場合は、こちらに行きましょう。しかし、裏口からは入城できません。

市街地はお城よりさらに北ですが、古い教会がいくつかあります。リヴィウからのバスが発着するゾーロチウ-1バス駅は市街地にあります。バス駅を出て左折、広場のある南の方へ道なりに進みますと、自ずとそのレストラン兼お土産物屋のところに出ます。

現在のダイヤですと、リヴィウを昼頃の急行列車で出て、夕方17:45発の普通列車で帰ってくると鉄道で無理なく日帰り旅行ができます。リヴィウから行くのには最も難易度の低い観光地の一つですので、足を伸ばしてみるとよいかもしれません。

【参考文献・サイト】
Мацюк О. Я. Замки і фортеці Західної України. Мандрівки історичні. Львів: Центр Європи, 2013. С. 30–33.
Палков Т. Західна Україна. Частина II. Львів: Ладекс, 2011. С. 17–21.
Олейнікова Т., Галас Т., Муц Т. Китайський палац у комплексі музею-заповідника «Золочівський замок». Львів: Світ, 2007.
Золочів // Замки і храми України [https://www.castles.com.ua/zolocow.html] (2018年8月5日閲覧、以下同じ).
Історія Золочева // Мандруємо Україною [https://ukrmandry.com.ua/index.php?id=357].
Історія Золочева: легенди та маловідомі факти (郷土史家による解説) // Золочів.нет [https://zolochiv.net/istoriya-zolocheva-lehendy-ta-malovidomi-fakty/].

6月 活動日誌

2018年6月30日
GJOコーディネーター 原 真咲

【2017年度が終わり】

コーディネーターは5月は一時帰国していたため、ひと月飛んでの更新です。

さて、学年が9月から始まるウクライナでは、今の時期が一学年の終わりに当たります。

5月から6月にかけて、諸々の試験が実施されました。以前にも説明しましたが、試験はザーリク(Залік)と呼ばれる合否判定のみの試験と、イースペィト(Іспит)と呼ばれる優良可3段階およびA~Eの5段階(前者は国内向け評価、後者は外国向けに換算した評価。左記以外に、不合格に当たる「不可」と「F」評価がある)がつけられる試験との2種類に分かれます。本試験で不合格となり、追試でも合格しない場合は退学処分となります。留年という制度はなく、退学になるのは厳しいように思いますが、逆に言うと、向いていないコースを延々と続けさせるよりは、早いうちに進路の変更を促す方が親切である、という考え方があるようです。

学生にとって恐らく最もシビアな問題は、成績が悪いと国からの奨学金がすぐに打ち切られる、ということかもしれません。成績をつける期間になると、テストができなかった学生の保護者から教師へ電話がかかってくるのが恒例になっているようです。大抵は手遅れなので、どうにもなりません。賄賂は固く禁止されています。

学士4年生の卒業試験は4科目で、学外の先生を審査委員長に行われます。本年は、ルハーンシク大学の先生が審査委員長を務めて下さいました。ルハーンシク大学は、ルハーンシクがロシア軍に占領されているため、同州のスタロビーリシクに疎開しています。しかし、所謂「LNR政府」の禁止によってルハーンシクから転出することができず(同政府によると、「若者は共和国を守るためにウクライナのファシストと戦うべきだ」とのこと)、ルハーンシクに留まって通信教育で授業を受けている学生が少なくないとのことでした。修士課程の学生の卒業審査は、論文審査のみです。

試験期間がすみますと、6月末から7月初頭にかけては実習が実施されます。授業の延長のようなことをする場合もありますし、バスで名所旧跡を巡る社会科見学のようなことをする場合もあります。コーディネーターは、3年生の児童文学の講読の実習に少し参加しました。

試験が終わると、試験で疲れた学生たちはすっかり夏休み気分になって、学生の多くが実家に帰ってしまいます。ところで、リヴィウ大学は地元以外から来ている学生がとても多く、この前の授業のときに1年生に出身を聞いたのですが、そのとき来ていた学生のほとんどがリヴィウ以外の町から来た人でした。リヴィウの近くの町や、ウクライナ中部、遠くはドネーツィクから来ているという学生もいました。

4月 活動日誌

2018年5月1日
GJOコーディネーター 原 真咲

【新学期】
1年生は、3月から、教科書の勉強のほかに、日本語の文字の書き方のおさらいをしています。日本語の文字は上から下へ、左から右へ書くのが基本と思いますが、ウクライナ語は下から上に書く場合も少なくなく、左右の動きも多様で、また文字の最後も下に向かって止める・払うより次の文字に滑らかに繋げるため上に向かって払うことが少なくないのですが、その影響か、ウクライナの学生の日本語の文字の書き方も下から上、右から左になってしまうことが多々あります。例えば、「う」や「え」の点を後から打ったり、「は」の最後の右の部分が、下に向かわず上に向かってぐにゅんと曲げて払ってしまう癖のある人も少なくありません(尤も、我々も横書きで早く書くとそうなることがあるようですが)。

学生たちは漢字が難しいと思っていることが多いですが、ひらがなもなかなか難しいのではないでしょうか。「とめ・はね・はらい」を明確に区別しつつ、堂々として流麗な曲線を引かなければなりません。これは難易度が高いです。そこで、自分も特に字が上手なわけではありませんが、日本語の文字の書き方の基礎練習として、ひらがなのおさらいに取り組みました。練習を真面目にやった学生は、見違えるほど字が綺麗になったと思います。今後は、ひらがなのおさらいをしつつ、カタカナの練習にも取り組みたいと思います。

ウクライナでは、日本語に関してもヨーロッパ的な教育方針が重視されていて、読み書きより会話に重きが置かれているように感じます(尤も、日本から入手している日本語教材も多くが会話重視、話し言葉優先のように思いますが。もちろん、教材によりますし、カリキュラム上どの教科書を選択するか、ということにも左右されます)。ヨーロッパ語は文字が大体同じなので書くより会話が重視されるのはわかるのですが、日本語でそうすると、「読めるが話せない」の日本人の逆のパターンになりまして、相当自由に話せるのに読み書きが今ひとつということになりがちです。書いた文字がオリジナルすぎて判読できない、読解力がないなどの問題です。読む方は一朝一夕には向上しませんが、書く方は比較的短期間で向上するようなので、今後の著しい改善が期待できると思います。ウクライナで現在、日本語関係の仕事があるとすれば(ほとんどないのですが)、翻訳の仕事ではないかと思います。企業関係の翻訳や、輸入品(工業製品など)の仕様書、取扱説明書の翻訳があるようです。とすると、会話以上に読み書きの能力が問われるのではないでしょうか。

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